大団円
じわりと汗の引いていく感触に、黒田官兵衛は夏の終わりを感じていた。既に鳴く蜩の声も松木の間を抜ける微風に浚われて、散り散りに絶えていく夕、八代又助と禰子の二人が小さな竹篭を提げて、蓬莱庵の縁側に寝そべる官兵衛の前に現れた。
「なんだい、そりゃあ」
「変な蝶をね、見つけたんだよ」
禰子が竹篭の中から、黒い羽に白い筋を透かした蝶を優しく摘まんで出すと官兵衛の方に向ける。
「おっと、そりゃお前、菊千代が逃げた時に井戸から飛んでった虫だろう?」
「そこなんだが官兵衛。どうやらな、あの井戸の辺りでどうにもこの虫が大量発生してるんだよ。菊千代がそれを知ってたのかどうかは解らないが、井戸の中で羽化したコイツらが一斉に飛び立つのを見計らって、井戸の抜け道を通っていったんだろう」
又助の言葉を聞きながら、官兵衛は禰子から蝶を優しく受け取る。手の甲に止まったその蝶は、ゆらゆらと黒い翅を動かした後、ジッと止まる。
「ふむ。それで禰子、あの後菊千代の事、何か解ったか?」
「うーん、美嚢の方で似たような人を見たっていう噂はあるけど」
「美嚢といえば、別所家の三木城下だ。小寺から見りゃ、ばっちり敵国だぜ」
「って事は、やっぱり菊千代君って乱波だったの?」
「だろうな。さんざっぱら俺らに話した因縁とやらも、作り話だろうよ。結局それで、俺らを煙に巻いて去っていったって訳だ。そして町ノ坪が死に、小寺と黒田の関係悪化を狙う、ってのが向こうさんの考えか?」
「だがまぁ、小寺の方からは特に何も言われてないな」
「とりあえずはな。黒田は滅多矢鱈に裏切らねぇ、次は合戦ででも忠節を尽くせば認めてくれるさ。いや、それよりも城の抜け道を知られたのが痛いな、これは改築するしかないかぁ?」
そう言って官兵衛が笑うと、手の甲の黒い蝶も翅を大きく開いてみせる。
「そうそう、それから新右衛門君が官ちゃんの側に仕えたいってさ」
「へぇ、そうかい。ま、事件に巻き込んじまったのは悪いからな、それくらい構わないさ」
官兵衛が顔を禰子の方に動かした時、夕凪を終えた強い風がちょうど吹き、それに乗って手の甲にある黒い蝶は、ひらりと空へと舞い飛んだ。その様子に官兵衛は以前に見た、菊千代の黒髪を思い出した。
この虫がジャコウアゲハと言う名で、その身に毒を持っている蝶だという事をこの場の三人は知らない。また後年、この虫が大発生した折、その蛹が後ろ手に縛られ、吊るされた人間の姿に見えた事から、かつてこの地で責め殺された女中の名を取って、お菊虫と呼ばれるようになる事も、知らぬのである。
「ぬ、そういえばお蝶さんが謝りたい事があるとか言っていたな」
「へぇ、そうかい」
「なんでも、大切な皿を割ってしまったんだと」
「ま、事件に巻き込んじまったのは……、悪いからな。それくらい構わないさ」
一枚、二枚、三枚、四枚……。井戸より聞こえる声は無かれども、姫路城の台所で割った皿を数える、お蝶の声が聞こえた気がした。
<了>