第4話:休日のエンカウント。あるいは、一瞬だけ信じてしまった魔法。
土曜日の午前十時。
俺は、駅ビルの待ち合わせスポットである巨大な時計塔の下で、十五分前から立ち尽くしていた。
(……冷静になれ、佐藤湊。これは『デート』ではない。これは昨日の非礼に対する『出頭』だ。あるいは、公衆の面前で俺のファッションセンスを嘲笑し、精神的優位を確定させるための『検品作業』に過ぎない)
今日の俺は、自分なりに最大限の努力をした。といっても、無難な紺色のチノパンに、アイロンをかけた白シャツ、その上にチャコールグレーのカーディガンを羽織っただけだ。
下手にオシャレを意識して「あいつ、一軍女子と遊ぶからって張り切ってるw」と思われるのが一番恐ろしかった。目立たず、騒がず、石ころのように。それが俺のモットーだ。
周囲には、キラキラしたカップルや家族連れが溢れている。彼らの放つ多幸感に当てられ、俺の精神ゲージはすでに半分ほど削られていた。
その時だった。
「おーい! 佐藤くーん! こっちこっち!」
人混みを割って、弾けるような声が響いた。
視線を向けると、そこには言葉を失うような光景があった。
瀬戸結衣が、走ってくる。
学校の制服姿も破壊力抜群だったが、今日の彼女は反則だった。
透け感のある白いブラウスに、淡いブルーのデニムのミニスカート。肩からは小さなレザーのバッグを下げ、髪はハーフアップにまとめられている。
(……えっ。……誰だ、あれ。……いや、瀬戸さんだ。わかってる。わかってるが……可愛すぎないか?)
俺の脳内セキュリティが、かつてない音量でサイレンを鳴らし始めた。
『警告。対象のビジュアルが許容範囲を逸脱。これは高度な幻惑魔法、あるいは精神汚染攻撃である。直ちに視線を逸らせ』
「お待たせ! 結構早く来たつもりだったんだけど、佐藤くんの方が早かったね」
「……いえ、今来たところです。……あと、その」
「ん? なに?」
「……いえ、別に」
(……言えるか! 『今日の服、すごく似合ってますね』
なんて、死んでも言えるか! そんなこと言った瞬間に、『え、佐藤くん、もしかして私のこと女として見てる? キモっw』って返されるに決まってる!)
俺は必死にポーカーフェイスを維持し、冷たい事務連絡のように告げた。
「……それで、今日はどこへ行くんですか。処刑場……じゃなくて、目的地は」
「あはは、処刑場って何。……今日はね、あっち! 最近できた大型の雑貨&ホビーショップに行きたいんだ。佐藤くん、ああいうの好きでしょ?」
結衣はそう言って、当然のように俺の手首を掴んだ。
「ちょ、瀬戸さん! 引っ張らないでください。あと、手! 手が!」
「いいじゃん、迷子になっちゃうし。ほら、行くよ!」
駅ビルのコンコースを、金髪の美少女に手を引かれて歩く陰キャ男子。
すれ違う男たちの視線が痛い。「なんであんな奴が」という無言の罵倒が背中に刺さる。
(……これだ。これだよ。衆人環視の中での公開羞恥プレイ。これが彼女の狙いか。俺を嫉妬の的にすることで、間接的に社会から抹殺しようとしている……!)
しかし、到着したホビーショップで、俺の予想は再び裏切られた。
そこは、アニメグッズから最新のガジェットまでが揃う、俺にとっての天国(楽園)のような場所だった。
「わあ、すごい! 見て佐藤くん、これ昨日言ってたアニメのフィギュアじゃない?」
「……! これは、先行販売の限定モデル……! なぜここに……」
「私、SNSで入荷情報チェックしてたんだ。佐藤くん、これ欲しがってたでしょ?」
結衣は、棚の奥にある商品を指差して微笑んだ。
彼女は、俺がぼそっと呟いた趣味の話を、すべて覚えていたのだ。
(……おかしい。おかしすぎる。なぜ、一軍ギャルが陰キャの趣味のためにここまでリサーチする? まさか、このフィギュアの中に盗聴器が仕込まれているのか? それとも、俺がこれを買った瞬間に店員が『おめでとうございます! 本日一万人目の勘違いオタクさんです!』と鐘を鳴らすのか?)
疑念は尽きない。だが、結衣は楽しそうに店内を回り、俺のオタク知識に対しても「へぇー、それってどういう意味?」「このキャラ、佐藤くんに似てて可愛い!」と、真剣に耳を傾けてくれる。
気づけば、俺は夢中で喋っていた。
誰にも理解されないと思っていた自分の世界を、彼女は否定せず、それどころか面白がって受け入れてくれている。
そんな時間が、心地よくないはずがなかった。
買い物を終え、夕暮れ時の展望テラスへ移動した。
オレンジ色の空が、街を優しく染めている。
「……今日は、ありがとうございました。その、楽しかったです」
「うん! 私もすごく楽しかったよ。……佐藤くん、まだ私のこと、疑ってる?」
不意に、結衣が真剣なトーンで切り出してきた。
彼女はテラスの手すりに寄りかかり、遠くを見つめている。
「……正直に言えば、まだ100パーセント信じたわけじゃありません。……いつ、君が笑い出すか、そればかり考えてしまいます」
「そっか。……やっぱり、中学の時のこと、忘れられないんだね」
結衣が、俺の方を向いた。
夕日に照らされた彼女の瞳が、少しだけ潤んでいるように見えた。
「ねえ、佐藤くん。私はね、自分の好きなものを『好き』って言える佐藤くんが、すごく羨ましいんだよ」
「……羨ましい?」
「私、ギャルのグループにいるけど、本当は流行りの服よりも、古い映画とかの方が好きなんだ。でも、それを言うと『ノリ悪い』って言われそうで、ずっと隠してた。……でも、佐藤くんは違った。バカにされても、自分の好きなものを大事にしてた」
結衣が、一歩、俺に近づく。
「だから、拾ったキーホルダーを届けた時。佐藤くんがそれを宝物みたいに抱きしめたのを見て……あ、この人なら、本当の私を見せても大丈夫かもって、そう思ったんだよ」
彼女の告白は、俺の胸の奥にある、最も硬い氷の塊を溶かしていくようだった。
(……なんだ、これは。……これは、演技なのか? こんなに切なくて、こんなに熱い『嘘』が、この世にあるのか?)
結衣は、俺の目を見て、まっすぐに続けた。
「陰キャとか、ギャルとか、そんなのどうでもいい。……私は、佐藤湊っていう一人の男の子が、もっと知りたい。……これ、まだ罰ゲームだと思う?」
返事ができなかった。
心臓の音が、耳元まで響いている。
もしここで「信じる」と言ってしまったら、俺のこれまでの「防衛本能」はすべて崩壊する。
また、あの時みたいに傷つくかもしれない。
けれど。
「……瀬戸、さん」
「ん?」
「……今日のジュース、奢らせてください。……お礼、したいので」
それが、俺にできる精一杯の答えだった。
結衣は一瞬驚いたように目を見開き、やがて、今日一番の、最高に輝く笑顔を見せた。
「あはは! やった! じゃあ、一番高いやつ頼んじゃおっかな!」
――陰キャに優しいギャルなんて、絶対に存在しない。
俺は今でも、自分にそう言い聞かせている。
けれど、自販機の前で「どれにしようかなー」とはしゃぐ彼女の背中を見ながら。
俺の右手の指先は、確かに、新しい世界の扉に触れていた。




