第3話:放課後という名の処刑場。あるいは、優しすぎる毒薬。
放課後のファミレス。そこは、俺にとっての『魔王城』だった。
ドリンクバーの機械から響くシュワシュワという音、女子高生たちの高い笑い声、そしてポテトの揚がる匂い。そのすべてが、俺の「陰キャ細胞」を激しく攻撃してくる。
「ねえ、佐藤くん。この数学の公式、マジで意味不明なんだけど。これ何? 宇宙の呪文か何か?」
目の前で、結愛がネイルの長い指で教科書を突っついている。
俺の左右を固めるのは、結衣と、その取り巻きのギャルたち。……地獄だ。ここが地獄の一丁目か。
(……落ち着け、佐藤。これは試験だ。俺が隙を見せた瞬間に、こいつらはカバンから生卵を取り出して俺の頭にぶつける算段かもしれない。あるいは、このポテトに超強力な下剤を仕込んで、俺がトイレに駆け込む姿を撮影する気だ)
俺は極限まで視野を広く保ち、テーブルの周囲360度を警戒しながら、極めて低い声で答えた。
「……それは二次関数の基本です。宇宙の呪文ではなく、ただの計算式です。ここに、この数字を代入すれば……」
「おー! 解けた! あんた、教え方うまっ! 結衣、あんたの言った通りだわ。この眼鏡、意外とデキるじゃん」
結愛がパチンと指を鳴らした。その瞬間、他のギャルたちも「すごーい!」「佐藤くん、天才?」と一斉に囃し立てる。
(……きた。褒め殺しだ。過剰な称賛によって俺の自己肯定感を無駄に肥大化させ、その後で『……とか言って、マジで信じてんの?w』と谷底へ突き落とす。古典的だが最も精神を削る手口だ。乗るな、絶対に乗るなよ俺……!)
「……別に、普通です。教科書を読めば誰でもわかります」
「もー、佐藤くんってば、すぐそうやって謙遜するんだから。かっこいいよ、今の教え方!」
結衣が隣で、ひょいと俺の顔を覗き込んできた。
距離が近い。あまりにも近い。彼女の肩が俺の腕に触れるたび、そこから高圧電流が流れているような錯覚に陥る。
「……瀬戸さん。近いです。パーソナルスペースを侵さないでください」
「えー、減るもんじゃないし、いいじゃん! それよりさ、次これ教えてよ」
結衣が差し出してきたのは、数学ではなく、何かの雑誌だった。
そこには「今、女子高生に大人気の映えスポット」という特集が組まれていた。
「勉強じゃないんですか?」
「息抜きも大事でしょ? ここ、今度の土日に行かない? 佐藤くんの家から近いんでしょ?」
一瞬、思考が停止した。
土日。休日。……デート? いや、違う。これは『召喚』だ。
休日に俺を呼び出し、オシャレな場所でわざとダサい服を着た俺を連れ回し、知人と遭遇させて「見て、これ私の新しいペットw」と紹介する……。
「……断ります。土日は、撮り溜めたアニメの消化と、部屋の掃除と、……とにかく多忙なんです」
「えー! 掃除なんていつでもできるじゃん。……あ、もしかして、私と二人だと緊張しちゃう感じ?」
結衣が悪戯っぽく笑いながら、さらに距離を詰めてくる。
俺の心臓はドラムロールのように激しく打ち鳴らされた。
限界だった。
恐怖と、混乱と、そして心の奥底に隠していた「期待したくない」という切実な願いが、ついに決壊した。
「……いい加減にしてください!」
俺の声が、少しだけ大きく店内に響いた。
結愛たちが一瞬、驚いたように手を止める。結衣の笑顔も、ぴたりと固まった。
「……何が目的か知りませんが、もうやめてください。勉強を教えろと言うから来たんです。なのに、次は休日? 次は遊び? ……どうせ全部、後で笑うためのフリなんでしょ?」
「佐藤くん……?」
「瀬戸さんみたいな人が、僕みたいな奴に本気で構うわけがない。中学の時もそうだった。みんなそうだったんだ。優しくして、期待させて、最後は『鏡見なよ』って、そう言って動画を撮るんだ。……君も、そのつもりなんだろ!?」
叫んでしまった。
自分でも驚くほど、声が震えていた。
中学時代の、あの地獄のような放課後の記憶。カーテンの裏から響く笑い声。冷え切った美咲の瞳。それらが今、結衣の姿に重なって見えていた。
店内が、一瞬だけ静まり返る。
結愛が「はぁ? あんた、何言って……」と立ち上がろうとした。
だが、それを結衣が手で制した。
結衣は、黙っていた。
俯いた彼女の顔は、長い前髪に隠れて見えない。
(……ほら、図星だ。怒ったか? それとも、『あーあ、バレちゃったw』と笑い出すのか?)
俺は最悪の結末を覚悟して、カバンを掴んだ。今すぐここから逃げ出すために。
だが。
「……ひどいよ」
聞こえてきたのは、笑い声でも罵倒でもなかった。
ポツリと、地面に染み込むような、小さな声。
「……瀬戸、さん?」
「ひどいよ、佐藤くん。……私は、そんなこと一度も考えたことないのに」
結衣がゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「私が、昨日……佐藤くんの家に行ったのも。今日も、こうやって友達に紹介したのも……全部、佐藤くんと本当の友達になりたかったからだよ。……私のこと、そんなに信じられない?」
その涙を見て、俺の脳内セキュリティ・システムは完全にクラッシュした。
ありえない。
ギャルが、陰キャの暴言に傷ついて泣く?
これは演技か? 泣き真似をして、周囲の客の同情を買い、俺を「女の子を泣かせた最悪の男」に仕立て上げる高度な戦術か?
……いいえ。
俺の深層心理が、それを否定した。
目の前の結衣から放たれているのは、嘘や悪意といった冷たいものではなかった。
それは、ただ純粋に「傷ついた」という、痛々しいまでの熱量だった。
「……ごめん。佐藤。結衣、今日のために、あんたが喜ぶと思ってその雑誌、昨日からずっとチェックしてたんだよ」
結愛が、珍しく真剣なトーンで言った。
「……え?」
「あんたがオタクなのも、卑屈なのも勝手だけどさ。結衣の『本気』まで否定すんなよ。……こいつ、あんたの限定キーホルダー拾った時から、ずっとあんたの話しかしてないんだから」
俺は、机の上に置かれた雑誌に目を落とした。
よく見ると、ページの端が折られている。そこには小さな付箋で『佐藤くんが好きそうなデザイン!』と書き込みがあった。
……演技?
いや、演技でここまでやる奴が、この世にいるだろうか。
俺を嘲笑うためだけに、わざわざ嫌いな勉強を共にし、雑誌を読み込み、付箋を貼る?
(……ありえない。……でも。もしこれが、罠じゃないとしたら?)
俺は、自分がどれほど傲慢だったかに気づき、血の気が引いた。
「ギャルは悪だ」「自分は被害者だ」という盾に隠れて、目の前の少女が差し出してくれていた手を、泥靴で踏みにじっていたのは、俺の方ではないのか。
「……す、みません」
「……」
「瀬戸さん……その、ごめんなさい。僕、……自分が、どうかしてました。……信じるのが、怖くて。……勝手に、君を、中学の時の奴らと一緒に……」
結衣は鼻をすすり、俺の顔をじっと見た。
そして、乱暴に涙を拭うと、むぎゅっと俺の腕を掴んだ。
「……今の、謝罪。100点満点中、15点」
「えっ」
「全然足りない。私の心を傷つけた罪は重いんだからね。……だから、土日の外出、絶対。強制参加。いい?」
結衣の瞳には、まだ涙の跡があった。
けれど、その奥には、いつもの眩しいほどの「光」が戻っていた。
「……はい。……行かせて、いただきます」
「よし! 言ったね? 逃げたら、結愛たちと一緒に佐藤くんの家までデモ行進しに行くから!」
「……それだけは勘弁してください」
結愛たちが「あはは! デモ行進いいじゃん!」「プラカード作らなきゃ」と笑い出す。
陰キャに優しいギャルなんて、絶対に存在しない。
俺は今でも、心のどこかでそう思っている。
……けれど。
少なくとも、目の前で「あー、佐藤くんのせいで化粧崩れたー! 直してくる!」と騒いでいるこの少女だけは。
このバグだらけの世界に現れた、唯一の「例外」なのかもしれないと。
俺は初めて、毒入りかもしれないポテトを、自らの意志で口に運んだ。
それは、驚くほど温かくて、しょっぱかった。




