第2話:外堀から埋めるのは、兵法か恋の駆け引きか
翌朝、俺は絶望と共に目を覚ました。
昨日の出来事は夢ではなかった。学校の屋上の踊り場という、俺にとっての聖域を侵され、あまつさえ一軍ギャルの瀬戸結衣と肩を並べてジュースを飲むという、前世でどんな大罪を犯せば受けるのか分からないレベルの拷問を受けたのだ。
「……今日は風邪を引いたことにしよう」
そう呟いて布団を被り直そうとしたが、スマホの通知がそれを許さなかった。
設定した覚えのない、あるいはどこで教えたのかも記憶にないメッセージアプリの通知音が、けたたましく鳴り響く。
『おはよ! 佐藤くん、ちゃんと起きたー? 教室で待ってるからね!(星のスタンプ)』
送り主は、言うまでもなく瀬戸結衣だ。
俺は戦慄した。なぜIDを知っている。いや、クラスの緊急連絡網か? それとも彼女ならハッキングくらい朝飯前なのか。
いずれにせよ、これは「逃がさない」という死刑宣告に等しい。俺は重い体を引きずり、死地へと向かう兵士のような心地で登校した。
教室のドアを開ける。
刹那、クラスの視線が俺に突き刺さる……ような気がした。自意識過剰かもしれないが、明らかに昨日までとは「空気」が違う。
そして、その中心に彼女はいた。
「あ! 佐藤くん、おはよー!」
結衣が席を立ち、真っ直ぐに俺へと駆け寄ってくる。
その瞬間、教室のざわめきが一瞬だけ止まり、そして再び、より大きな波となって広がった。
「……おはようございます、瀬戸さん」
「ねえ、昨日貸してくれた本、一晩で読んじゃった! すごい面白かったよ、特にあの、主人公が最後に見せる不器用な優しさとかさ、誰かさんにそっくりだね?」
結衣は屈託のない笑顔で、俺が昨日「これ以上構われないための供物」として渡した文庫本を返してきた。
誰かさんにそっくり。
その言葉が意味するところを察したクラスの連中が、「え、貸し借りしてんの?」「マジで?」とヒソヒソと囁き合う。
(……これだ。これだよ。結衣さんの『包囲網』だ)
俺の脳内セキュリティが警報を鳴らす。
彼女はわざと、クラス全員に聞こえるような声で親密さをアピールしている。こうして「佐藤は瀬戸のお気に入り」という既成事実を作り上げ、俺を逃げ場のない孤島へと追い込もうとしているのだ。
これがギャルの兵法――「外堀を埋める」というやつか。恐ろしい、恐ろしすぎる。
「……瀬戸さん、声が大きいです。あと、その本は別に返さなくていいって言ったはずじゃ」
「えー、だって感想言いたかったんだもん。あ、そうだ! 今日の昼休み、結愛たちも佐藤くんと話したいって言ってるんだけど、いいかな?」
結愛。
その名前を聞いた瞬間、俺の心臓は停止しかけた。
結衣の親友にして、このクラスの女子カーストのナンバーツー。派手なネイルに、少し吊り上がった強気な瞳。俺のような陰キャにとっては、視線が合っただけで石化してしまうメドゥーサのような存在だ。
「……断ります。死んでも嫌です」
「そんなこと言わないでよー。ほら、結愛! 佐藤くん来たよ!」
結衣が後ろを向いて手を振る。
すると、教室の後方でスマホをいじっていた「本物のギャル軍団」が、こちらにゾロゾロと移動してきた。
地響きが聞こえる。いや、これは俺の膝が震えている音だ。
「へぇー、あんたが佐藤? 結衣が最近ずっと『佐藤くんがさー』ってうるさいから、どんな奴かと思えば……」
結愛が、値踏みするように俺を上から下まで眺める。
その隣にいる他の女子たちも、クスクスと笑いながら俺を見ている。
(きた……! 始まった。品評会だ。ここで俺の挙動不審な態度を笑いものにして、SNSの裏垢に『結衣の新しいペット、マジで挙動不審で草w』とか書き込むんだろ!)
俺は必死に呼吸を整え、石像のように固まった。
だが、結愛の口から出た言葉は、俺の予想とは180度異なるものだった。
「あんた、この前のテスト、学年5位だったんだって? 結衣が自慢してたよ。ねえ、今度あたしたちにも勉強教えてよ。こいつ、マジで赤点回避しなきゃヤバいんだよね」
結愛が結衣の頭を小突く。
「もー、結愛! それは言わない約束じゃん!」と結衣が頬を膨らませる。
「……勉強、ですか?」
「そう。あたしたち、放課後はスタバかカラオケしか行かないからさ、たまには真面目に図書室とか行こうかなーって。……どう、ダメ?」
結愛が少しだけ茶目っ気のある笑みを浮かべる。
普通なら、ここで「はい、喜んで!」と答えるのが正解だろう。一軍女子たちに囲まれて勉強会なんて、青春ラブコメの最高潮ではないか。
だが、俺は違う。俺の「疑心暗鬼」は、この程度の餌では釣られない。
(……待て。これは高度なトラップだ。図書室に呼び出しておいて、俺が必死に勉強を教えている姿を隠し撮りし、『陰キャがイキって一軍に勉強教えてるなうw』というタイトルで拡散する気だ。……あるいは、俺の貴重な時間を奪って自分たちは遊び呆け、テスト当日に俺にカンニングを強要する計画か!?)
考えれば考えるほど、恐ろしい。ギャルの思考回路は、俺のような凡人には到底理解できない深淵なのだ。
「……僕、放課後は急ぎの用事があるので。アニメの、その、録画の消化とか」
「何それ、後回しにできるじゃん。あんた、結衣に恥かかせたいわけ?」
結愛のトーンが少し低くなる。
ひっ、と短い悲鳴が漏れそうになる。怒らせた。ついに本性を現したか。
「結愛、ダメだよ、佐藤くん困ってるじゃん。……ごめんね、佐藤くん。無理にとは言わないけど、もし気が向いたら……ね?」
結衣がフォローに入れる。
その申し訳なさそうな、それでいてどこか期待を含んだ瞳。
(……この顔だ。この『健気なヒロイン』の演技に、俺は昨日から何度騙されそうになった? 落ち着け佐藤。彼女たちの目的は、俺をこのコミュニティに引きずり込み、徹底的に恥をかかせて、最後はゴミのように捨てることなんだ。中学の時の美咲と同じ、いや、それ以上に巧妙な手口だ!)
「……失礼します」
俺は逃げるように、予鈴が鳴る前に席に戻った。
背中越しに、「あーあ、逃げちゃった。結衣、あんた本当にあいつでいいの?」という結愛の声が聞こえた気がした。
授業中、俺はひたすら自分に言い聞かせていた。
これは全部、夢だ。あるいは、誰かが書いた質の悪い脚本だ。
あんなキラキラした女子たちが、俺みたいな、趣味に生きるだけの陰キャに興味を持つはずがない。
だが、昼休みになれば結衣がまたやってきたし、放課後になれば、校門のところで彼女たちが待っていた。
「佐藤くーん! 一緒に帰ろ!」
校門の近く、一番目立つ場所で結衣が大きく手を振っている。
隣には結愛と、さらに別のグループの男子たちまでいる。
俺は、校舎の陰に身を隠した。
(……全滅だ。校門が封鎖されている。これはもう、籠城するしかないのか? それとも、裏門から脱走するか?)
俺が絶望に打ちひしがれていると、背後からスッと人影が現れた。
「……そんなに怖い?」
結衣だった。
いつの間に。彼女は、俺が裏をかこうとすることを見越して、先回りしていたのだ。
「瀬戸、さん……」
「佐藤くん。私、嘘はついてないよ。結愛たちも、本当に佐藤くんのこと『面白い奴』って思ってるだけ。……ねえ、一回だけでいいから、信じてみてよ」
夕日に照らされた彼女の横顔は、教室で見せる天真爛漫なものとは少し違っていた。
少しだけ大人びていて、そして、ひりひりするほど真剣だった。
「…………」
俺の脳内のセキュリティ・システムが、初めてエラーを起こした。
この感情はなんだ。
疑っている。100パーセント、これは罠だと確信しているはずなのに。
彼女の瞳の奥にある、わずかな「寂しさ」に触れたような気がして、俺の胸の奥がチクリと痛んだ。
(……バカか、俺は。これは演技だ。最強のオスカー級の演技なんだ。ここで絆されたら、俺の人生は終わる……!)
「……一回、だけですよ。……ただし、途中で怪しいと思ったら、僕は光の速さで逃げますから」
「……! うん! 約束!」
結衣の顔に、パッと花が咲いたような笑顔が戻る。
彼女は迷いなく、俺の手首を掴んだ。
「じゃあ行こ! 結愛たち、待たせると怖いからさ!」
「ちょ、引っ張らないでください! 目立つ、目立ちますって!」
夕暮れの校門へと、俺は連行されていく。
一軍ギャルたちという、俺にとっての天敵が待ち構える場所へ。
陰キャに優しいギャルなんて、絶対に存在しない。
その信念は、まだ俺の中に強固に残っている。
……けれど。
掴まれた手首の熱だけが、どうしても「嘘」だとは思えなかった。
それが、俺の戦いの第2章の幕開けだった。




