最終章 廻っているのか廻らされているのか
寸借魔のあたしが、お金に代わって話してあげている。
電子マネーが幅を利かせるようになって出し入れの建付けが変わっても、ヒトがお金と縁をもってからの模様替えのいろいろで、お金がひとの掌から掌へと渡り歩いていくのはこれからも変わらない。増えたり減ったりの都度事に睨めっこするのもいれば、頓着しない代わりに自分の掌でしたことを忘れ一喜一憂してるのが世の大半なのは変わらない。
死んでしまって俯瞰するようになった後でも、自分の脳みそを見たくないように、お金の半分は自分の中のことだから、いいこともわるいことも目の前に迫ってきたらどうしたってまともじゃいられない。うしろめたさだって付きまとってきちゃう。それは承知と分かっているのに一髪千鈞のお金そのものを生業に立ち回ってる輩たちは、100年前までの支那の後宮に住んでた宦官たちと同んなじで、お金をものとして100パーセント扱わなきゃいけないから、先に煩悩を切り取ってから始めなきゃいけないアンビバレント。
その点、あたしはそのどちらとも違う。
生業ではないから値踏みなどしない。近づいてきて呉れるどのお金にも、「よう、お来し。まずは草鞋をぬいでゆっくりしておくれ」と、すすぎ水を汲んで灰燼塵芥で汚れた足元に差し出す。お金ならどのお金でもどこをどうしてあたしの掌に辿り着いたかは、泥のついた火照った足を漱いでいけばおのずと沁みてくるから、お金の方でもあたしのそんなのをわかってくれて、そんなに長いも出来ない一宿一飯もわかってくれて、同衾が湧いてくる。
このときが好き。一番好き。
これはほかの誰にも分からない。あたしの掌になったお金に聞いてもらうしかない。あたしとの同衾に嫌な顔したお金、いっこもなかったもの。
お金は旅人、あたしは宿屋
お泊り出来るお部屋は三つしかない小さな宿屋だけど、前を通る旅人は、中からじぃーと見つめるあたしの目力を感じて、今夜泊まるのは此処と決めてくれる。
ねだらなくたって、夜伽の居心地に惹かれてお金たちは、いつだってどんなときだって、あたしの濯ぎにぽんぽん入ってくるの。




