破局
秋が深まり、木の葉が色づき始めた。会社に向かう和樹はコートの襟を立てた。
彼は新卒で入った会社を今年の三月いっぱいで辞め、四月から今の職場で働き始めていた。彼は最初の職場で上手くいかなかったのは周りのせいと思っていた。
和樹には協調性というものがなかった。中学時代のいじめの後、彼は他人と共に何かをすることを避け、それが習慣化し自然になっていた。そんな人が会社という環境で活躍できるはずがない。同僚は付き合いにくい彼を避けた。上司は電話を取ろうとせず、他部署どころか自部署の同僚とも馴染めない彼を見放した。彼は学歴が下の彼らを見下した。自分は引く手あまたなのだと思った。
ところが彼は転職に失敗した。有名大学の新卒というカードを切ってしまったので、低い方へと転落したのだった。賃金は上がらず、労働環境が劣悪になった。サービス残業とやらを強制された。
以前いじめる側だった彼は、今度はいじめられる側に回った。上司ばかりか、歳が同じ同僚からも怒鳴られ、たまに飲み会などがあっても自然に省かれた。女性社員からは、暗くて不気味で感じ悪いと陰口を叩かれた。先輩社員からは、自分から仕事を取りに行けないならばおれたちの後片付けをしろとばかりに、大量の雑用を押し付けられた。出張していた社員も、彼だけにはお土産を配らなかった。彼はまったく窮地に陥った。
そんな彼が救われるのは紗也といる時だけだった。彼は彼女の上に立つことができた。会社で嫌なことがあると、心のバランスを保つため、彼女にいっそうきつく当たった。
二人は毎週会っていた。忙しい和樹に合わせ、平日の夜遅くに外食することが多かった。始めのころは洒落たレストランなどを選んだが、金銭的な余裕がなくなってくると居酒屋チェーン、さらには牛丼チェーンへと落ちていった。どんな店でも和樹は必ず奢ろうとした。それが彼なりの矜持だったのだろう。
紗也はかなり迷惑していた。会社から自宅に帰りやっと一息つけたところでスマホが振動する。恐る恐るチェックすると和樹。今すぐ彼の家の近くのファミレスに来てくれ。紗也は洗ったばかりの髪をドライヤーで乾かしながらため息をつく。和樹には彼女の都合を考える余裕がなかった。
翌朝まで営業しているファミレスの窓際の席で、和樹は紗也が来るまでビール一杯で粘っていた。急いでやってきた彼女を「遅かったじゃないか」と責め、何か注文しろよとタブレットを押し付ける。彼女は食べてきたばかりと遠慮し、カフェインが入っていないドリンクだけを注文する。それが終わると、和樹が待ってましたとばかりに話の口を切る。
彼は一方的に職場の愚痴を言った。紗也は上の空で、適当に相槌を打ちながら、外の景色を眺める。コンビニや飲食店などはどこもまだ営業中だ。こんな時間に働かされるサービス業の人は大変だ。でも彼らは日中より多めの時給をもらっているし、客が少ないぶん楽でもある。それに比べて私はどうだ。明日の仕事に備えて寝ないとなのに、終わらない彼氏の愚痴を聞かされている……。
「ちょっと、聞いてるのか」
「ええ。もちろん」
「じゃあなんの話してたのか言ってみろよ」
「その、先輩から嫌味を言われたんだっけ?」
「それはお前のことだろ。自分のことしか考えてないんだな」
紗也は奥歯を噛み締め、ぐっとこらえた。今では別れるよう説得を試みた明莉が完全に正しかったことが分かる。和樹は紗也を自分のために利用しているだけなのだ。
別れるきっかけを作ったのは和樹だった。彼は自ら墓穴を掘り、事後もそのことに気づけなかった。
珍しく土日が休みになった彼は、たまにはゆっくり紗也と過ごそうと思った。彼らは他の若者と同じく、昼前にショッピングモールを訪れたが、どちらも買い物などなかったので、早めのランチを終えると外に出た。
「これからどこに行こうか」と、和樹が独り言のようにいった。
「そうねえ、どうしよっか」
「たまにはきみんちに行ってみたいな」
「えぇ?」
これは彼にとって最も金を節約できるやり方だった。彼女の家で過ごすならば、料理ぐらいは彼女が出してくれるだろう。ただそれだけでは悪いので、駅前のスーパーで少し高いワインと、ストロング系チューハイを購入した。
駅から二十分も歩くと、築三十年弱の古アパートが見えてきた。和樹は大学生のころに何度か来たことがあるが、社会人になってから来るのは初めてだった。
「いい加減引っ越したらどうだ?」
「でもずっと住んでいるから、この辺りが気に入っているの」
首都郊外の並木道に近く、この季節は銀杏のありがたくない匂いが漂うが、見る分には美しかった。道沿いにはコンビニや飲食店も揃っていて便利だ。自転車を漕げば紅葉の見事な山もある。首都なのに自然豊かで、紗也にとっては離れがたい環境だ。
ワンルームの部屋のドアを開ける前、和樹はこう聞いた。
「今もあいつら出るのか?」
「ええ、時どき。でもまだ日中だから大丈夫よ」
和樹が来るとは思わなかったから、部屋はまだ掃除されてなく、雑然としていた。和樹は買った酒を冷蔵庫に入れようとしたが、やはり整理されていないので、ワインがはみ出しドアが閉まりにくかった。
「相変わらずだらしないな」
時間はまだ三時過ぎだった。いくら彼氏と彼女の関係であっても間が持たなかった。とりあえずテレビをつけてみるが見たい番組はなく、かと言って和樹がいたのでは好きな動画も集中して見れない。
「お掃除してもいいかしら」
「好きにしろよ」
和樹はスマホをいじりながら彼女が掃除する様子を眺めていたが、我慢できなくなり口出しをした。
「それはそっち、あれはあっちに片付ければいいだろ。掃除機をかける前にテレビ台や窓枠のほこりを拭き取っておくんだぞ。ほら、冷蔵庫のすき間に何か落ちてるじゃないか、だからゴキブリが湧くんだ……」
和樹の下手な指図のせいで、掃除はいつもより時間がかかり、しかもそれほど綺麗にならなかった。
五時になり、そろそろ夕飯の心配をするべきだった。
「夜メシはどうする?」
「さぁ、どうしよっか」
「食材はあるんだろう。なんか作れよ」
そう言われ、紗也は冷蔵庫を開いた。いつ買ったのか分からない野菜、賞味期限が少し切れている卵、ドレッシングなどの大量の調味料。肉がなく、何を作ればいいか分からない。
「カレーぐらい作れるだろ? 肉とカレールーを買ってこいよ」
言われた通り買ってくると、
「なんで鶏肉なんだよ、普通カレーは豚肉だろ?」
紗也は台所と洋室の間のカーテンを閉め、料理を始めた。また和樹から作り方についてあれこれ言われればたまらない。カレーを煮込む間、彼女はついでに買っておいた酒のつまみと惣菜を、酒と一緒にテーブルに並べた。
「お、気が利くね。サンキュー」
やっと上機嫌になったかと思いきや、ワインオープナーがないことに気づいた。紗也はまたスーパーに向かいながら、自分は何をしているのだろうと思った。
彼女がやっと戻ってくると、和樹はチューハイを飲みながらスマホをいじっていた。眉間にしわを寄せ、蚊を追い払うような手付きで画面をスクロールさせ、物凄いスピードで文字を入力している。彼女がぼーっと突っ立っていることに気づき、「なに?」と不機嫌そうに聞いた。
「わたし開け方知らないの」
「ちっ、しょうがねえなあ」
ワイングラスがなく、普通のコップに注ぎ、乾杯をした。しかし和樹はすぐスマホに、架空の世界に戻っていった。
せっかく二人きりなのにしばらく会話がなかった。昔の紗也ならばそれが物足りなく感じただろうが、今はこのほうがむしろありがたい。ところが空きっ腹にチューハイを流し込み酔ってきた和樹は、SNSで崇高な独り言をつぶやくことが困難になり、ついにスマホを手放した。
「しかし静かだな」
「そうね」
紗也から話題を提供することはなくなっていた。自分のことを話しても、和樹が聞く耳を持たないからだ。だからいつも彼の話になる。会社がクソであること、周囲がバカばっかりであること、仕事がつまらなく給料が安いこと。消極的な内容で、紗也は気が滅入った。
「ねぇ、私と一緒にいて、楽しい?」と彼女は聞いた。意外な質問だったようで、和樹は言葉を失った。
「私と一緒だと、何か得することはある?」と、彼女は彼が分かりやすいと思われる言葉に変換して聞いた。
和樹は彼女の利用価値を認めていたが、それを口にすれば自分の弱みをさらすことになる。
「いや、べつに。得してるのはお前のほうだろ」
「わ、私が?」
「そうだよ。忙しいのに会ってやってるし、いつも外ではおれがおごってやってるし、それに……」
「私がそれを頼んだの?」
「拒んでないだろう」
「なんで拒まないか分かる?」
「いや」
「あなたのためよ。あなたには話し相手が必要だから、不満のはけ口がないと追い込まれてしまうから……」
「まさかおれを憐れんでいるのか?」
「……そうよ」
和樹は無言で紗也の頬を叩いた。それは男にショックを与え、女を鞭撻した。
「ついに手を上げたわね」
「お前が挑発するから」
「いつまでもおとなしく受け手に回っていると思っていい気になるんじゃないわよ」
紗也の積もり積もった怒りが爆発した。彼女はコップのワインをぐいと飲み干し、クッションの上で正座になると、彼の欠点を理路整然と、箇条書きするように数え上げていった。彼という人間、人格を全否定した。クッションから立ち上がり、彼を虫けらのように見下し、足蹴にし、馬乗りになり、利き手を何度も横に往復させた。
「あんたが、あんたごときが、この私がいなくて、一人きりで生きていけると思ったら大間違いよ、社会をなめるんじゃないわよ」
和樹は負け犬のように弱り切り、彼女に殴られ続けた。二人の従来の関係が崩壊し、上下が逆転した。
紗也は殴りながら叫び続ける。過去にあった嫌なこと、今の生活の不満など、一つ残さずぜんぶこの弱い男にぶちまけた。彼女はいつの間にか自分の手のひらが湿り気を帯びていることに気づいた。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい」と、和樹は泣きながら許しを請うのだった。
酔いが覚めた紗也は、自分がしでかしたことに驚き、ぞっとした。自分にあんな攻撃的な一面があったとは。しかしそれも束の間だった。なぜか和樹が反省し、自分を責めないのだから、結果オーライではないか。
もはや彼らが交際を続ける意義はなかった。特にどちらから宣言することもなく、二人は切れた。翌週の平日、紗也はSNSで明莉にメッセージを送り、土日にあったことをざっと説明し、別れたと報告した。紗也の長いメッセージに対して、明莉はガッツポーズの絵文字一つを返した。