人としての矜持
大型台風がまたもや嫌がらせのように列島をなぞり、道草を食いながらのろのろと過ぎていき、残暑を払った。朝晩が涼しくなり、空気がカラッとし、本格的に秋が到来した。
スポーツの秋といわれるが、運動をしないにしても活動的になる人が多かった。詩乃は明莉に話していたように今シーズン初のソロキャンプを満喫し、次は一緒に行くことも約束していた。キャンプを張り、原始時代の苦労を味わう道楽を持たない光梨は、謙次と首都に遊びに行くか、一人で家から遠くないショッピングモールに買い物に行った。
週明け、光梨は珍しく普段より少し早めに出社した。彼女は謙次、乃々香、瑠海をつかまえ、昨日あったことを語った。
「あの佐々木さんが、すっごいイケメンと一緒にいたのよ!」
「嘘でしょ? 人違いじゃない?」と乃々香。
「本当よ! にこにこして、時どき顔を赤くしていたわ」
ちょうど明莉が事務所に入ってきた。いつもと同じ暗い顔、うつむき加減で。
「ちょっと佐々木さん、あんな素敵な彼氏がいただなんて、隅に置けないわね。意外とやることはやってるのね」と、光梨が嫌味を言った。明莉はきょとんとし、首を傾げる。
「わたし昨日見たのよ。手をつないで歩いてたでしょう」
「でも、あの人は彼氏じゃないの」
「じゃあどういう関係?」
「……」
「ちぇっ、もったいぶっちゃって」
部長が始業のベルと同時に事務所に入った。光梨は、わざわざ話しかけてやったのにつまらない反応しかできない明莉に腹を立てた。明莉はパソコンがゆっくり立ち上がるのを待ちながら、昨日のことを思い出した。
日曜日の午前、明莉は珍しくちょっとだけおしゃれをして外に出た。すっきりした秋晴れで、ノースリーブであれば歩いても汗をかかない気温だった。最寄り駅からはショッピングモールに向かうバスが出ていた。彼女はつり革を手にしながら微笑み、車が行き交う駅前の大通りを眺めた。
日曜日のショッピングモールは人で溢れ返っていた。首都近郊から都心に通う家族連れの姿が多く、アニメキャラの子供用カートを押しながら店を見て回る。若い男女はドリンクを片手にシネコンに向かう。エスカレーター付近のベンチには年配者が座る。一人で身軽な明莉は、人々の間隙を縫うようにし、目的地を目指す。
その男性は外にある噴水の近くに立っていた。明莉に気づくと、彼は手を振り「久しぶり!」と声をかけた。
「ゆうくん?」
「ずいぶん変わっただろう」
「ええ。いいほうに」
何年も会っていない勇気は本当に変わっていた。髪を黄色く染め、耳にピアスをし、大人になったからか小さな顔の彫りが深くなっていた。しかし声、雰囲気、仕草は昔のままだったので、明莉がよそよそしくなることはなかった。
「元気そうね。外では順調にやれてる?」
「それがさ、やっぱり前科者には厳しくて、なかなか条件のいい仕事が見つからないんだ。まぁそれよりも、今日はせっかくだから一緒に楽しもうぜ」
彼女たちは一階の端の店から見ていった。実際に何か買いたい物があるのではなく、歩きながら話をするためだ。勇気は眼鏡店の前で足を止めた。
「それ、伊達メガネだろう?」
「うん」
女性物の洋服屋の前に来ると、勇気は明莉に「欲しい服ないの?」と聞いた。
「あんまり」
「相変わらず女っ気がないな。付き合っている男はいないのか」
「うん」
「世の男は目がないな。おれの妹はこんなにかわいいのに」
明莉は他の誰よりも、勇気にそう言われたことが嬉しかった。
「私なんかより、ゆうくんはどうなの?」
「おれか? 仕事で女の顔なんか見飽きているから、プライベートで女と付き合う気になれないな」
それだけで明莉は勇気がどんな仕事をしているか察した。
「明莉は今どんな仕事してるんだっけ?」
「本当は社長秘書として入社したんだけど、使い物にならないからって、別に新しい人を雇われたの。今は資料作りとか目立たないことをしてる」
「それでいいんじゃないの、明莉は良くも悪くも地味なんだから。無理に人並みに振る舞おうとしないで、自分の得意な所を伸ばしていければ」
勇気は決して明莉を否定しようとしない。伊達メガネだって本当は気に入らないはずなのに。思えば彼は昔からそうだった。彼女と仲良くなろうとし、美味しいお菓子も、見たいテレビ番組もぜんぶ彼女に譲った。彼女は最初は警戒していたが、徐々に彼を受け入れ、やがて彼に友情を抱くようになった。
久しぶりの再会で、雑談だけでも時間があっという間に過ぎていった。歩き疲れた二人は食事することにした。ちょうど昼時で、どの店も行列ができていた。カフェのチェーン店だけは人が少なく閑散としていた。込み入った話をするにはちょうどいい環境だ。彼らはカウンターで軽食にドリンクがつくランチセットを注文し、それを受け取ると、外のテラス席に出た。
彼らはオーニングが作る日陰の中から、噴水の周りでアイスを食べる若者や、小さな公園で遊ぶ子供を見ながら、思い出話をした。二人とも嫌なことは慎重に避けていたが、完全に避けきれるはずがなかった。
「それで、親父はその後、きみにちょっかいを出してないんだろう?」
「ええ。あれから一度も会ってないわ」
「それなら安心した。お義母さんとは上手くやってるか?」
「あんまり。たった一人の肉親なのにぜんぜん気が合わなくて」
明莉は前回、母の恵美に会いに行った時のことを話した。
「一人だけ勝手に幸せになってて、正直いい気持ちはしなかった。お母さんは過去をなかったことにしてるけど、ゆうくんの罪は帳消しされないし、私だって未だに過去を引きずっている」
「おれもそうだ。忘れようとして忘れられるものではない。今でも目をつぶるとあの日のことを思い出し、新たに殺意が沸き起こってくる。本当に徹底的に更生できるのかと不安になる。また同じような状況になれば同じことをやっちまうんじゃないかと」
二人は口を閉じた。このオーニングの下のスペースだけが別世界のように静かで、まるで時間が止まったかのようだ。勇気が「食べようぜ」と促すと、その時間がようやくゆっくり動き出した。しばらく放置していたからか、サンドイッチがパサパサし、喉に詰まりそうになった。
「実はおれ、今ホストやってるんだ。見れば分かるよな。稼ぎは悪くないんだけど、ここでくすぶるよりは、知り合いを頼り若いうちに途上国に行こうと思う。金持ちのヒモになればけっこう贅沢に暮らせるそうだ」
「そんな無計画に途上国なんて心配ね。現地で病気になったらどうするの? 生活習慣が合わないかもしれないよ。治安も悪いし。それに……」
「でもこの国はおれを受け入れてくれないんだ。ここにおれの居場所はないんだ」
居場所か、そんなもの私たちにあった試しはなかった、と明莉は思う。
「私たちは別に悪くないのにね」
「おれだって本当はヒモになんかなりたくない。まともな一人の人間として認められ、働きたい。それができないならばせめて社会に復讐したい。おれをのけ者にする連中が会社や家族やローンに縛られ苦しんでいる間、おれは楽して大金を稼ぎ人生を謳歌する。それがおれの人としての最低限の矜持だ」
その言葉は明莉の胸を打った。彼女は今の生活に慣れ、惰性で生き、誇りを忘れていたのだった。
ついに話が尽きた。明莉が最も信頼するこの人も、彼女の人生から消え去ろうとしている。彼女は彼との別れを惜しんだ。
「それで、いつになるの?」
「まだ分からないけど、なるべく早くしようと思ってる」
「きっと見送りに行くから連絡して。また勝手にいなくなるなんて許さないんだから」