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分かり合う

 工場内の建物の輪郭がぼやけるほどの暑さだった。

 明莉だけに限らず、社員のほとんどが顔を下に向け、敷地内を歩く。建物の窓ガラスが太陽光をギラギラ反射するからだ。やっとのことで事務棟に入ると、今度は軽いめまいに襲われる。急に暗くなるからだ。明莉は一階の事務所に向かい、詩乃は二階の社長室に向かう。詩乃はふらつきながら階段をゆっくり上がる。まだ他の社員ほど、ここの環境に慣れていなかった。

 榊原社長はすでに一人で仕事を始めていた。彼は毎日、誰よりも早めに出社する。この工場にいられるのもあとわずか、終わりを意識し名残惜しくなってきたところだ。詩乃は控えめにノックし、部屋に入ると大きな声であいさつし、社長と今日のスケジュールを確認する。午前中は品質管理部の担当者から報告を受ける以外に予定はなく、時間にやや余裕がありそうだ。榊原はどちらかと言えば無口だが、やはり上機嫌なせいか、詩乃に話しかけてみようと思った。

「きみが来てくれて本当に助かっている。前の子は正直、使い物にならなかったからね」

 彼は詩乃を立てる意味でそう言ったのだろうが、彼女には冷たく聞こえた。

「どうして最初に佐々木さんを雇ったのですか?」

「うむ、実は……」

 コンコン、ガチャッ、し、失礼します!

 かなり緊張しているな、と榊原は明莉を見ながら思った。しかし彼は良い方に解釈した。若々しくフレッシュで、緊張するほど真面目で、このチャンスを重視している。それにやる気に満ち溢れた顔をしている。

 明莉は希望を持っていた。彼女にとっては初の転職で、今度こそ上手くいく、普通の、あるいはそれ以上の社会人になれるはずと思っていた。彼女はこの面接に意欲的に挑んだ。自己紹介を終え緊張がほぐれると、社長からの質問にもよどみなく答えることができた。よく通る声で、社長のような世代の男性にはそれが好印象だった。彼女は最後にこう言った。

「私は立派な秘書になりたいです。どうぞよろしくお願いいたします!」

「今の彼女とはまるで別人だった。若ければおかしな癖がなく、飲み込みが早く、すぐに仕事に慣れてくれるだろうと期待していたんだが」

「でも社長、立派な秘書になると言わずなりたいって言ったのは、教育を受け成長したいという意味だったのではないでしょうか」

「ううむ、そうだったかもな」

 詩乃は社長室を出て、人の少ない二階の廊下を歩き、自分の過去を振り返った。幼いころに両親が離婚し母に引き取られたが、父からの財産分与や養育費などがあったので、比較的裕福な暮らしだった。彼女は、明莉はきっと自分ほど恵まれなかったのだろうと思った。彼女には匂いでそれが何となく分かり、だから最初から明莉のことが気がかりで、密かに同情していた。

 彼女は部の自分の席に座ると、隣の明莉にこう言った。

「社長からちょっと叱られちゃった」

「?」

「議事録が今ひとつだ、佐々木さんの文章をよく見習えって」

「社長がそんなことを?」

「よかったら佐々木さんが今作っている資料を見せてもらえないかしら」

 明莉は詩乃からやさしくされ、ややありがた迷惑だった。彼女はこういう時にどう反応していいか分からなかった。

 詩乃は構わず、自分の椅子を明莉の方に近づけ、パソコンを覗き込む。それは菅野部長から指示され作っている、社長に提出する報告書だった。確かに一分の隙も無駄もなく、要点がまとまっており、読み手にとって必要な情報だけを効率よく読み取れる。図やグラフも適切な場所に配置され、簡潔ですっきりしている。

「すっごい、私にはこんな文章書けそうにないわ」

 明莉の席の後ろに続々と人が集まった。詩乃ほどではなくても、「本当だ」と驚く人が多かった。明莉は恥ずかしくて顔が真っ赤になった。

 ただ、文章の良し悪しを判断できない光梨の反応だけは別だった。

「ふーん、私にはちっとも分からないけど。だいたい文章なんて上手でも地味よね。桜井さんみたいに流暢に通訳する方がよっぽどかっこいいと思うけど」

「私は文章はどちらかというと苦手だから、佐々木さんが羨ましいわ」

 他の社員が自分の席に戻っても、詩乃は明莉に話しかけ続けた。いつも生返事するだけの明莉は、珍しく「桜井さんも叱られることがあるんですか」と聞き返した。

「もちろんよ。今だってそうだし、前の会社に入社したばかりのころなんて特にね。佐々木さんん、今日は私と一緒に食事しない? 話したいことがいっぱいあるの!」

 明莉はじんと来た。彼女にとって真夏の太陽のように眩しすぎた詩乃が、少しだけ親しみやすい存在になった。もしかするとこの人は自分の気持ちを理解してくれるかもと思った。

「は、はい。後でよろしくお願いします」

 明莉が誰かと食堂で一緒に食べるのは久しぶりだった。入社後、まだ駄目社員として認識されていなかった彼女は、課長などから食事を誘われることがあった。完全に孤立してから約半年後、彼女は自分の代わりに来た社員から好意を示されたのだった。

 二人はテーブルを挟んで座った。先に言った通り、詩乃には話したいことが沢山あり、一方的に自分語りをした。

「私、中学生のころ家庭でいろいろあって、精神的に参っていたの。登校拒否になりかけたんだけど、同級生が私を支えてくれたし、先生も親身になり相談に乗ってくれた。それで時間はかかったけど、少しずつ立ち直って、大学に上がってからもいい友達に恵まれ、本来の自分に戻ることができた。そこで海外留学のチャンスが巡ってきたの。環境が変わり、母国語ではなく外国語で話をすると、過去から解放され自由になれた。帰国後はすぐに就活で、最初の職場に就職した。大企業だから社員教育が厳しく辛かったけれど、そのお陰で基礎が固まり、能力がついた。いま振り返ってみると、やっぱり私はラッキーだったのかなって」

 詩乃は一気に語り終えると、特に明莉の反応を伺わず、ましてや「あなたはどうだったの?」などとは聞かなかった。しかし詩乃の気持ちは明莉に伝わった。明莉は、詩乃は自分側の人間、なりたかった自分であることに気づいた。明莉は詩乃を信頼し、彼女に傾倒した。

 世の中の学校と会社は一週間ほどのお盆休みに入った。休みに浮かれている人々と違い、実家訪問などの予定がない明莉は、スーパーの店員の態度が普段と異なることに気づいた。全体的に暗い雰囲気で、ある店員は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。明莉はその顔が意味することを知っていた。職場にいる時の自分のようだと思った。社会の中にいるからこそ、社会から見放されていることをいっそう意識している顔。彼女はこんな人たちのため、自分のために、できるだけ他人に自分の都合や感情を押し付けないようにしようと思った。

 お盆明け。明莉と詩乃の関係には、周囲が気づくほど大きな変化が生じた。

 彼女たちは最寄り駅を出たところで偶然合流した。明莉は日傘を目深に差していたが、詩乃から声をかけられると、その暗い影の中からそっと顔を覗かせた。

「おはよう。お盆休みは何をしていたの?」

「いえ、べつに何も」

「そうよねぇ。私も、お墓参りも親戚まわりもなかったし、なによりこの暑さだから、家でじっとしてたわ」

「お友達とは会わなかったんですか?」

「友達は結婚しちゃった人が多くて、みんな何かしら家の用事があるから、会ってもらえなかった。でもいいのよ、一人でも十分楽しいから」

「そうですよね。桜井さんはどんな趣味が?」

「ソロキャンプ。今から秋が楽しみね。佐々木さんも試してみない?」

「えっ、私が……」

「女一人だと何かと不安なのよ。お願い、ここは私を助けると思って」

「……分かりました。ぜひご一緒します!」

 工場に着くまでの十五分で、二人の間にわずかに残されていたわだかまりが消えた。連休明けというのに彼女たちは楽しそうだった。暗い事務棟に入っても彼女たちの顔から輝きは失われなかった。二人は自然に声をかけ合い、何気ない素振りからも、心が通じ合っていることが分かった。

 始業時間になり、詩乃が社長の用事で出ると、明莉はまた無表情になった。職場では、彼女の笑顔は詩乃にだけ向けられた。

 その日の午後、部長たちが会議で出払い、事務所内に倦怠感が漂った。やや高めに温度設定されている古いエアコンが、時々思い出したように生ぬるい風を送り、社員たちの眠気を誘う。急いでやるべき仕事を持たない者の多くがうつらうつらしていたが、光梨だけは妙に頭が冴えていた。彼女は明莉の席からやや離れた所に謙次、乃々香、瑠海を集め、明莉を顎で指しながら、「ちょっと、さっきのあれ、見た?」と聞いた。乃々香が真っ先に反応した。

「ええ。桜井さんにおだてられて、いい気になっているみたいね」

「自分の後釜にしっぽを振ってまでも会社に居座ろうなんてあざといし、人として下劣よね」

 謙次は光梨と乃々香の悪口を聞きながら、そんなことはないと否定していた。あれほど内向きで暗い明莉が自ら詩乃に話しかけ、取り入ろうとするはずがない。あれは詩乃のほうからやさしく配慮してあげているのだ。詩乃は繊細で気が利く人であり、それが分からない光梨は鈍感で無神経だ。あらゆる面で光梨よりも魅力的な詩乃を見ていると、彼の心はますます光梨から離れていった。

 謙次はルックスがいいが、実は奥手で、光梨が初の交際相手だった。最初に引いたのがいい手役だと勘違いした。詩乃は彼の蒙を啓いたのだった。

 同じように、吾郎と仁も雄馬を誘い、明莉の変貌ぶりについて話をしていた。

「おれ、さっき出社する途中で、初めて佐々木さんの笑顔を見たぜ」と吾郎が言った。

「どうだった?」と仁。

「本当に佐々木さんかって思うほど美人だった。意外と明るい雰囲気でびっくりした。ギャップにやられた。おれ、やばいかも」

「だから言っただろう、笑えば絶対に魅力的だって! 佐々木さんの笑顔か、おれも見たかったなぁ」

「しかしそうなると社長はやっぱりお目が高いな。最初は佐々木さんで、次に桜井さんだ」

「あぁ、あんな美女が社長から手を付けられたかもなんて、考えたくないな!」

 話の内容はますます下品になっていった。真面目な雄馬は聞いていられなくなり、席を立った。彼は同じく席を立った瑠海と同時に事務所を出て、一緒に廊下を歩いた。

「おや、どうしたの?」と雄馬が瑠海に聞いた。瑠海は機嫌が悪そうだった。彼女はその理由を話せる相手がちょうど見つかったことを喜び、こう言った。

「先輩たちが佐々木さんのことあんまりひどく言うから。どうしてあんなに目の敵にするのかしら、そんなことして何か得をするのかしら」

「でもぼくらって子供のころから、明るいほうが積極的で、暗いほうが消極的って教わってきたから、その価値観がまだ残っているんじゃないかな」

 二人は階段の踊り場で立ち止まり、話を続けた。

「害のある明るさのほうが、害のない暗さよりも偉いってこと?」

「そう思っている人けっこう多いと思うよ」

「バカバカしい。私はぜんぜんそう思わない。雄馬くんは?」

「ぼくもぜんぜん。人を落として自分を高めた気になるような人は嫌いだ」

「私も! ところで雄馬くんは、何か用事があって事務所を出たんじゃなかったの?」

「いいや、ぼくも先輩たちの話を聞いていられなくなったんだ」

「どんな話?」

「社長秘書になりたければ枕営業に応じないといけないんだって」

「なにそれ?」

「根拠のない作り話さ。もちろん先輩たちだってそんなことは知ってるんだけど、退屈しのぎにそういう話をしたり、他の女性社員を品評して点数をつけたりする。そんなことができる立場でもないのに」

「私は何点だった?」

「教えない」

「いじわる」

 二人は腹を抱えて笑った。最後に雄馬はこう言った。

「でもぼくがつけるなら百点満点かな」

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