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感情の問題

 和樹は中学時代に本格的な反抗期を迎えた。ただし彼は教師を殴るとかではなく、遠回しなやり方で反抗し、自分の価値をアピールしようとした。

 彼は良くも悪くも言葉が巧みだった。学校というのも不思議な場所で、自分たちの教育の成果を確認するため、生徒に作文させることがある。修学旅行の感想文、文化祭への意気込み、人権問題への個人的な観点などなど。多くの生徒は学校側の狙いが分かっているし、書き直しを強いられるのも面倒なので、おとなしく積極的で肯定的な文章を書くものだが、和樹は違った。彼はことごとく教師の意に反することを書いた。田舎者扱いして首都に修学旅行とはなめてるのか、文化祭は生徒のためではなく教師や保護者を喜ばせるための茶番だ、人権問題なんか学校に抑圧されているおれたちに聞くのかよ、といった調子だった。

 作文など他愛のないことだ。彼は教師の目が届かない所で、ずいぶん前から、言葉によるいじめを行っていた。最初に選んだ標的は彼女だった。なぜか。昔、彼女に好意を寄せていたからだ。

 彼女は運動神経抜群だった。走れば男子より速く、球技では優れた身のこなしで敵を翻弄し、泳げば魚のように無駄のない動きをした。言葉数は多い方ではなかったが、爽やかで活発な雰囲気のおかげで、友達を欠かすことはなかった。彼女を魅力的に感じる男子も少なくなかった。

 ところが小学五年生の冬になり、彼女の名字が変わった。いつも彼女のことを名字で呼んでいた人は話しかけづらくなった。下の名前で呼んでいた人はよそよそしく新しい名字で呼ぶようになった。彼女が急に塞ぎがちになり、人を寄せ付けなくなったからだ。

 五年生にもなればもう彼女に起きたことを想像できるものだ。和樹は彼女に同情した。彼女が立ち直れるよう力を貸すべきだという道徳感情があった。下校途中、彼は彼女をつかまえ、自分から声をかけた。彼女の反応は乏しく、ただ自分のつま先を見ながら「ええ」「大丈夫」「ほっといて」と言うばかりだった。この反応は彼の正義感に冷や水を浴びせた。好意を無碍にされた彼は彼女を憎んだ。いつか必ず思い知らせてやると決意した。

 中学校に上がり、同じクラスになると、彼は実行に移した。もはや彼女に友達はいなく、かつての彼女の活発なイメージを覚えている人も少ないので、いじめは容易だった。彼らには誰かをいじめる需要があり、彼はその音頭を取っただけだった。それにより彼はクラスの裏のリーダーになった。

 彼女へのいじめは執拗に続いた。言葉により一人の弱った女子をどん底に突き落とし、自分の踏み台にした和樹は、他の人間も同じ目にあわせられることを証明した。

 彼は彼女に続くいじめの対象に、手始めにあだ名をつけた。それは教師に聞かれても問題ないが、同じクラスの生徒が聞けば悪意が込められていることが分かる蔑称だった。あだ名が定着するころには、その生徒の地位は彼女と同じ最下層に落ちていた。和樹は得意そうな顔をし、次は誰に、どんなあだ名をつけてやろうかと物色した。クラスの誰もが彼を恐れるようになった。腕っぷしの強いグループ、美人のグループ、学級内の出来事より部活に熱心なグループさえもが、彼の言いなりになった。このバラバラに見える三組を言葉によって統一したのは彼だった。

 しばらくすれば誰もが気づくことだが、いじめはやっている側も疲れるものだ。誰かを本気で憎む、もしくは憎んでいるふりをするのはエネルギーの浪費であり、建設的でも効率的でもない。三組の生徒たちはいい加減うんざりしてきた。力のない彼らは、この倦怠期の打破を和樹に求めた。しかし和樹に次の手はなく、ただ時が流れクラス替えを待つしかなかった。

 中学二年の三学期になり、四月にクラス替えが行われないことが発覚した。三組の生徒たちは絶望した。あと一年以上もこの面々と同じ教室で過ごすことになるとは。望まぬ日々を送る彼らにとって、時の流れは嫌に長く感じられた。やっと三年生になったころには、学級内の空気がよどみ、担任以外の教師が入ってもその異様な雰囲気を感じられるほどになった。

 初めに彼女が脱落した。国語の授業中に教科書を読むよう指名された彼女は、急に大粒の涙を流し泣き出してしまった。

「どうしたのですか?」

「いえ、なんでもないんです」

 次の休み時間、和樹は彼女を責めた。泣いて助けを求めても無駄だ、三組がこんな風になったのはお前のせいだ、みんなに謝れよ。

 翌日、彼女は学校をサボった。さすがに気まずい空気になった。和樹は平気なフリをし、自己弁護し、彼女が悪いのだと決めつけた。

 翌週、彼女がようやく学校に現れた。円形脱毛症になり、後頭部に五百円玉ほどの穴ができていた。みんな沈黙した。和樹はこんな時こそ自分の強さを示すチャンスと無理に自分を励まし、大袈裟に笑った。彼女は泣き、彼も泣いた。どうして誰も笑わないんだよ、おれ一人馬鹿みたいじゃないかよ、この女もただの冗談で泣くなよ……。

 彼女は完全に登校拒否になった。和樹はこの戦果を誇らなかった。一線を越えれば、同級生たちは背くと思った。彼はただ、自分だけのせいではない、みんなでやったのだと強調した。

 クラスが完全に腐敗した。さらに脱落者が数人出た。最も困ったのは担任だが、実体を持たないいじめをどうすることもできなかった。

 悪夢のように長い中学生活が終わりに近づき、ついに卒業式を迎えた。一組と二組では女子を中心に泣く者が出たが、三組は誰一人泣かなかった。皆せいせいしていた。高校生になったら新しい環境でやり直すのだと思っていた。県内一の進学校への入学が決まっている和樹もそうで、心を入れ替え真人間になろうと決めていた。口は災いの元だから、今後は口を慎もうとも。

 高校での彼は目立たない人間だった。中学時代の反動で無口になり、最初の中間試験の成績も今ひとつで、スポーツも苦手だったからだ。彼はこのレベルの高い学校では、自分が何者でもないことに気づいた。若い彼はその現状に耐えられなかった。仕方なく猛勉強した。一年生のうちに体勢を立て直し、テストで上位に入れるようになった。鳴りを潜め、謙虚に勉強を続けた。彼は首都の有名校に進学しよう考えていた。作文ではあんなことを書いたが、首都はやはり都会で魅力的で、文化の中心地でもあり、そこで自分の力を試してみたかった。

 こうして和樹は大学生になった。田舎から来た彼は、洗練されていないファッション、言葉の訛りを笑われた。彼はすぐにそれを訂正したが、持ち前の反抗心が頭をもたげてきた。なんとか都会の連中をぎゃふんと言わせなければ。

 しかしもう彼程度の学力では、成績で注目を集めることはできなかった。それに学校の成績など誰も気にしなかった。半社会人とも呼べる大学生の価値観は多様だった。学校よりもバイト先やボランティアで力を発揮する人、サークル活動に熱を上げる人、同性の友達と遊び異性の友達と寝る人など、みんな別の方を向いていた。何をやっても中途半端、いや、勉強以外は並以下の彼は、自分にあとどんな才能が残されているのだろうかと焦った。今やあの黒歴史である中学時代までもが輝かしかった。

 世の中ではすでにスマートフォンやSNSというものが広く普及していた。和樹はこれにハマってしまった。能力や経験の有無に関わらず誰でも平等に意見を出せ、何よりも言葉の強さが価値を持つ架空の場。彼の負の能力を発揮するにはうってつけの場。

 彼は短文投稿サイトのアカウントを作り、何やら格言めいたことをつぶやき始めた。誰もが気づいていることを自分が真っ先に発見したと勘違いしているような。当然、誰からも注意されなかった。フォロワー数はいつまでも一桁のままだった。

 発信しても反応がないので、他人の発信に目を向けた。芸能人は芸もなく他人が作った創作料理をアップし、投資家は為替と株の値動きに後出しジャンケンのように理由をこじつけ、経営者は専門外のことに適当に口出しして炎上し、政治家はリアルな生活を離れると急に子供に逆戻りし信じられないような暴言を吐く。みんな立派な肩書を持ち、フォロワー数も少なくとも数万人はいる。和樹は彼らのスカスカな中身に驚いた。こんな連中でも有名になれるのになぜおれは、と思った。

 理不尽だという思い込みは敵意を生む。和樹は彼らを攻撃した。ふざけた作文を書いた経験をフル活用した。無知で、生意気で、辛辣だが、ユーモアも忘れない。有名人の投稿にぶらさがる形で、彼は徐々にフォロワー数を増やしていった。彼はさらに、実生活では絶対に会ってもらえないほど社会的立場が上の人々を論破し、自分の勝利を確信した。

 しかし現実生活は厳然としてそこにある。彼はこっちの生活でも常に見下せる人間が欲しかった。ところがバイトを嫌い、SNSという最もローコストな娯楽で気晴らしをしていた和樹には、もう大学三年生になるというのに友達が一人もいなかった。

 紗也は和樹にとって都合のいい女だった。彼がそっけない反応をしても諦めず、粘り強く話しかけてきてくれる。いつも彼から特別な点を見出そうとする。時にはへりくだり、彼を立ててくれる。こいつ、ひょっとしておれのことが好きなのか?

「ええそうよ。私たち付き合わない?」

 どちらも初めてだった。他の異性の味を知らなかった。だから、自分にはこの人しかいないと思い込んだ。

 交際関係が定着し、慣れてくると、和樹は紗也に対してきつくなっていった。下の名を呼び捨てにし、機嫌が悪いと「お前」と呼び、何かと彼女の粗探しをし、八つ当たりもした。紗也はそれをすべて受け入れた。心の中ではかわいそうな人と思っていたが、それを表面に出すことはなかった。

 和樹は他人の前でも紗也を雑に扱うようになった。それを一番我慢できなかったのは明莉だ。大学から地下鉄駅に向かう帰り道、紗也を相手にSNSであったことを長々とグチる和樹に対して、明莉はこう言った。

「和樹くん、今日は何の日だか分かる?」

「今日? なにかあったかな」

 彼はそう言うと、スマホで今日の日付を検索した。明莉はため息をついた。

「紗也の誕生日よ」

「えっ? そうだったのか?」

「どうしてそんなことも知らないの?」

「どうしてって……」和樹は紗也に目を向け、「なんで教えてくれなかったんだ」と彼女のせいのように言った。

「教えなくても知ってると思ってた。私にサプライズでプレゼントを渡してくれるのを期待していたのに」

「ちょっとひどいんじゃない? 彼女のSNSをチェックしてれば、今日が誕生日だって知らせてくれるでしょう?」

「たまたま最近は見てなかったんだ」

「紗也に冷たすぎよ。言葉遣いが荒いだけじゃなくて、彼女のことをなんとも思ってなかったのね。紗也を自分のために利用しようとするだけで」

「おれたちの関係に他人が口を出さないでほしいな」

「明莉、やめてよ」

 明莉は今日が誕生日の紗也のため、それ以上言わなかった。彼女は態度を和らげ、

「とにかく今日ぐらいはやさしくしてあげて」と和樹に言った。

 彼はバイトがなくヒマだったが、夜の時間を潰され、プレゼントの出費を強いられ、気分が悪かった。

 翌月、明莉は紗也と二人で食事中に、和樹と別れるよう説得を試みた。明莉は和樹の短所、紗也と合わない点を列挙し、別れるべき理由を論理的に説明した。紗也は何度もうなずき、明莉が話し終えるとこう言った。

「でもこれは感情の問題だから。どれほど違っていても、私たちは心の中でつながっているの」

 明莉は呆れてしまった。

「それに彼だって時々はやさしくしてくれる。そういう時の彼は本当にいい人で、思いやりがあって、私のことを理解してくれて……。自分の昔のことや家族のことはあんまり話してくれないけど、彼も本当はかわいそうな人なの。今はまだ完全に立ち直れていないけど、根はいい人で、だから私がいい方向に導いてあげたいのよ」

 明莉は説得を諦めた。

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