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心ここにあらず

 梅雨が明け、太陽が押し付けがましく輝き、コンクリートに染み込んでいた雨を蒸発させ、人々の肌から汗を分泌させた。

 毎日こんな天気が続けばうんざりするが、長い雨の後だったので、人々は月曜日にも関わらず元気に出社した。特に本社への栄転が決まっている榊原社長は上機嫌だった。

 彼は最近、順風満帆の日々を送っていた。国内外の情勢が落ち着き、工場の業務が安定し、各種カイゼンとコストカットが進み、純利益が増えた。プライベートではハウスメーカーと契約し、首都郊外でマイホームの建築が始まった。高校三年生の一人娘は成績優秀で、首都の名門校に無事合格すれば、来年四月からは新居で新しい生活を共に送れる。妻との夫婦関係もまずまず良好で、冷めた愛が長続きしていた。彼に愛人はいなかった。

 榊原はにこやかな顔で事務棟の会議室に入った。そこには部長たち、それから業務提携先の外国人三人が集まっていた。社長の席の隣では秘書の桜井詩乃がノートPCを立ち上げ控えていた。

 会議が始まった。榊原はひとまず議論に加わらず、部長たちと外国人たちに話をさせる。だいたいの話は通じるのだが、細かい話になると詩乃が気を利かせて間に入り、通訳をする。榊原はこの秘書にも満足していた。彼女の働きぶりを眺めながら、彼は当初明莉を雇おうとした理由を思い出す。

 それは後継の社長のためだった。榊原自身はこの工場で長く働き、誰よりもここの業務を熟知しているので、秘書の必要などなかった。募集をかけると数人が面接にやってきた。彼はその中から一番若い明莉を選んだ。

 明莉が入社してまもなく、榊原は今日と同じような会議に彼女を出席させ、通訳としての能力を試した。外国語のテストで驚くほどの高得点を叩き出したそうだが、実務経験がなく、また引っ込み思案なため、いきなり見知らぬ部長と外国人の間に立ち、外国語を駆使し双方の円滑なコミュニケーションを図るなど土台無理な話だった。会議後、彼は彼女に「もう分かった、ありがとう」と言い、経営企画部の菅野部長に「彼女のこと、よろしく頼む」と丸投げした。ここを去ることが決まっている榊原は、新人の明莉を自ら育成する気になれなかった。

 その後、明莉に成長の気配は見られなかった。榊原は、これはまずい人間をつかまされたと後悔した。このままでは次の社長が困ってしまう。前の社長がしっかり引き継ぎをしなかったと批判される。今回の失敗経験を活かし、次は即戦力を雇わなければ。

 いつの間にか会議は終わりに近づいていた。榊原は立派に働く詩乃を見ながら、明莉に悪いような気がした。しかし悪いのは、良い待遇なのにやる気を出さない明莉のせいだとも思った。いったい彼女は何を考えて生きているのだろうか。代わりが来たのだからさっさと工場を去ればいいではないか。榊原は、自分の失敗、汚点を見続けるのが嫌だった。明莉が辞めないのは自分へのあてつけのように思えた。

 会議が終わった。榊原は提携先の三人と詩乃を連れ社長室に向かった。部長たちは廊下を社長と反対方向に歩いていった。菅野部長は隣に並んだ調達購買部の梅原部長から話しかけられた。梅原の方が年上で、菅野はこの人が苦手だった。

「今度の子はなかなか良さそうだね」

「ええ、頼りになる社員です」

「ところで前の子はどうなったの?」

「うちの部で働いていますよ」

「まだ辞めてなかったんだ!? それなのに新しい秘書を雇うとは、人件費の無駄遣いもいいところじゃないか」

「そ、そうですね」

「だいたい経営企画部でしっかり育てないから悪いんだ。ちゃんと教育やってる?」

「えぇ、まぁ……」

 教育などまったくやってなかった。そもそも秘書の教育など部の仕事ではない。だがそう言えば社長批判になるので、菅野はこうかばわざるを得なかった。

「彼女は彼女でよく働いていますよ。今は一部の重要な業務を任せています」

 部に戻り自分の席に座ると、菅野は苦々しい思いで明莉に目を向けた。社長付きの秘書で、他に適当な配属先がないから何となく経営企画部に配属させられているだけで、彼女にはその適正も能力もなかった。自分から人に話しかけられないタイプの彼女には、工場の司令塔である部の仕事はまったく不向きだった。菅野は仕方なく、社長が使う資料の収集や作成などを担当させていた。それは本来、詩乃に任せられる仕事だったが、明莉を働かせるため彼女に残した。菅野にとっての明莉は、扱いにくい目障りな部下だった。

 詩乃が部長よりやや遅れて会議から戻ってきた。彼女は集中して一気にデスクワークを終わらせると、ふと手持ち無沙汰になった。とりあえず社長からの用事はなく、部長から頼まれている仕事もない。こういう時こそ日ごろ疎遠になっている部内の同僚と交流しなければ。

 彼女はまず、自分のせいで辛い立場になった隣の席の明莉に話しかける。

「佐々木さんは週末に何をしていたの?」

 明莉は恐る恐る顔を上げ、詩乃の存在が眩しすぎたのか、何度もまばたきをした。

「えっと、特に何も……」

 自分のことなど放っておいて欲しいという彼女の素振りを見れば、大抵の人は言葉のキャッチボールが成立しないと悟り、諦めるのだが、詩乃は粘り強かった。

「お出かけとか、趣味とか、本当に何も?」

「え、ええ」

「じゃあずっと家でごろごろしてたんだ。私と同じね」

「さ、桜井さんが?」

「目覚ましをかけず好きなだけ寝て、朝ご飯をお昼に食べて、せめて今日中に洗濯とお掃除を済ませようと思うんだけど結局やらず、ベッドに寝転がってスマホをいじっているともう夕方で、買い物に行くのも面倒だから残り物を適当に食べて、夜遅くまで映画や動画を見る。日曜日は家事と買い出しだけで一日が終わっちゃう。もっとしゃきっとして趣味を充実させないとと思うんだけど、駄目ね」

 会社でキラキラしている詩乃のプライベートがそんなにだらしないとは、明莉には意外だった。それは光梨も同じで、「うそうそ! 本当は彼氏とデートしてたんでしょう?」と聞く。近くの男性社員が聞き耳を立てるなか、詩乃はこう言った。

「ううん。私は今、付き合っている人がいないの」

「きっと素敵な男性と何人も付き合った事があるんでしょう?」

「そんなことないわ。私ぜんぜんモテないの」

「みんな高嶺の花だって勝手に諦めるんでしょうね。桜井さんは美人で、仕事もできて、明るい雰囲気で、性格も良さそうだし」と、光梨は明莉に当てつけて言った。

 詩乃はそれも柔らかく全否定し、また明莉に何か話しかけようとしたが、光梨から邪魔された。

「ねぇ桜井さん、よかったら今日のランチ一緒にどう? 私もっと桜井さんのことを知りたいの」

「ええ、喜んで」

 昼休みのベルが工場内に響き渡った。光梨は彼氏の久保田謙次に車を運転させ、詩乃を工場から遠くないイタリアンレストランに連れて行った。平日の昼なので客が少なく、並ばずに入れた。三人の同僚は店の奥、衝立で仕切られた席に座った。彼らは同じランチを注文し、前菜のサラダを食べながら話をする。

「桜井さんって外国語が得意だそうだけど、ひょっとして帰国子女?」

「いいえ。大学時代に留学していただけよ」

「そうだったんだ。実は私、帰国子女なの」

 それから光梨はしばらく自分のことを話した。

 彼女は父の仕事の都合で、物心ついた時から海外で暮らしていた。彼女は難解な母国語よりも先に外国語を習得した。裕福な家庭で何不自由ない生活を送っていた。それなのにやはり父の仕事の都合で母国に戻ることになった。彼女は母国の私立の高校に進学した。母国語が下手で、外国人風に大袈裟に身振り手振りを加えるため、同級生から馬鹿にされた。だが彼女も黙っていなかった。帰国子女だからといってなめられないよう強い態度をとり、敵を退け仲間を作り、一カ月もしないうちにクラスの中心人物になった。

 パスタが届いた。ざっと自己紹介を終えた光梨は、スプーンとフォークを使い麺をくるくる巻きつつ、本題に入る。

「うちの会社は人材を少しも大切にしないのよ。そもそも社内に私みたいな秘書兼通訳に最適な社員がいるのに、わざわざ外から人を雇おうだなんて。それも桜井さんみたいに有能な人ならばこっちだって納得できるけど、最初に来たのはあの佐々木さんだったから腹が立つわけ」

 黙ってうなずきながら話を聞いていたが、謙次は頭の中で別のことを考えていた。彼は彼女との付き合いが長く、彼女のことをだいたい理解していた。確かに海外暮らしが長いから、日常会話レベルの外国語はペラペラで発音もネイティブ並みだが、仕事の込み入った話は不得手だ。しかも母国語の基礎がガタガタな彼女は文書の作成ができず、外国語からの翻訳となるとまったく歯が立たない。だから最初から秘書候補にならなかったのだ。

 光梨はさらに明莉の悪口を続ける。パスタの渦がだんだん大きくなる。

「そりゃあ仕事ができないのはしょうがないわよ。やってみるまでは分からないこともあるでしょう。でも代わりに桜井さんを雇われ、不合格の烙印を押されながらも、会社に残り続ける神経が理解できないのよ。奮起する様子もないし。私はああいう、強くなろうと努力しない、向上心のない無能な人が大嫌いなの」

 食後のアイスコーヒーとデザートが届いた。光梨は新しく来た秘書相手に自分の不満を訴えせいせいしたのか、コーヒーを大きく一口飲みほっと一息つく。光梨がデザートに取り掛かると、聞き手に回っていた詩乃が口を開いた。

「でも、佐々木さんもいろいろ運が悪かったのかも。誰もが順調に人生を歩めるわけじゃないし。それに彼女がまったく努力しなかったとも思えないの。あの有名な大学で学費免除の特待生だったそうじゃない。誰よりも必死に勉強したはずなんだから、向上心がない、無能だと決めつけるのは言い過ぎじゃないかしら」

 思わぬ反論に光梨は言葉を失った。他の人ならば、彼女は反論を受け入れず、激しく相手を攻撃するところだが、自分より格上と認めている詩乃の言うことならば黙るしかない。

 一方、謙次は詩乃の言葉に同意し、思わず何度もうなずいた。繊細で、相手の立場を思いやれる詩乃は好ましかった。彼は目を輝かせ、詩乃に熱い視線を送った。光梨はそれにすぐ注意した。ちょうど何かに当たりたかったところなので、小声で「なにじろじろ見てるのよ」と言い、謙次の太ももをつねった。謙次は光梨と詩乃を比べ、本当に有能で素敵な女性とは後者であると痛感した。

 暑く外出したがらないので、社員食堂は大賑わいだった。同じ部の乃々香、瑠海、吾郎、仁、雄馬の五人は同じテーブルの席に座り、同じAランチとBランチを食べ、遠くの席で他部署の職員の中に紛れ込み一人ぽつんと食事をする明莉を見ながら噂話をしていた。

「また一人で食べてるね、彼女」と仁。

「たまには誘ってあげたらどうですか?」と雄馬。

「負のオーラがむんむん出てるから無理だな」と吾郎。

「本当はおれたちだって誘いたいんだよ。寂しそうだし、彼女のことを知りたいし」と仁。

「ひょっとして佐々木さんと付き合いたいの?」と乃々香。

「おれはぜんぜんOKだよ。彼女募集中だし」

「あんな暗い人のどこがいいの?」

「暗いってことはそれだけ手つかずってことだ」

「仁はいかもの食いだなぁ。ああいうタイプ、おれはパスだな」

「そうよそうよ。話がつまらなそうだし、あんな景気の悪い顔で隣にいられるだけでもうんざりするわ」

「でも会社の外では案外普通の人かもしれませんよ」と瑠海。

「そうそう。親しい人の前では笑顔かも」と雄馬。

 乃々香と吾郎は、瑠海と雄馬の婉曲的な反論に興味を示さず、明莉の批評を続けた。瑠海と雄馬は、乃々香や吾郎のような仕事が平凡でルックスも並み以下な先輩たちが、明莉についてどうこう言うのは思い上がりではないかと感じた。

「……でも美人なのは間違いないよな?」と仁。

 乃々香は何かを言いかけたが、雄馬ばかりか吾郎まで同意したので、仕方なく言葉を飲み込んだ。

「愛想よくしていれば男もほっとかないだろうに。いったい何を考えて生きてるのかね?」と吾郎。

 明莉は黙々と箸を使い料理を口に運んでいた。彼女の心は会社になく、過去を回想していた。彼女は、知り合った時から和樹が気に入らなかったのはなぜか、紗也に彼と付き合わないよう説得しようとしたのはなぜかと考えていた。彼女の記憶はさらに昔に遡り、中学時代でぴたりと止まった。忘れようとしているおぼろげな過去。その霧のカーテンの向こう側には、和樹に似た男子の姿があった。

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