犠牲になるのは根暗なほう
梅雨は春や秋よりも長い。
次の土曜日も雨だった。明莉は脱水し終わった洗濯物を部屋干しし、月曜日までに乾くことを願いつつ、昼過ぎに安アパートを出た。
数日前、母から珍しくSNSで連絡が入った。再婚相手を紹介したいから、ぜひ家まで遊びに来てほしいと。
明莉はまったく気乗りしなかった。休日に外出するだけでも億劫で、しかも楽しい予定とは言い難い。彼女は最寄り駅に行き、工場とは反対に向かう電車に乗った。
平日とは異なり、休日の乗客の表情はさまざまだった。仕事に向かう人は平日よりも重苦しい顔をし、勉強や労働から解放された人々は明るい顔をしている。両者の対比が激しすぎ、明莉は軽いめまいに襲われる。今日の彼女はそのどちら側にも属していなかった。
訪問先は都心からやや離れた郊外の新築一戸建てだった。カーポートには高級車が一台停まっている。玄関に「野村」という表札とドアホンを見つけ、ボタンを押す。答えが返ってくる前に、家の奥から犬の鳴き声と足音が近づいてくる。
「どちら様ですか?」と、母の声がドアホンから聞こえてくる。
「あ、明莉です」と、明莉が硬くなって答える。
母がドアを開けると、ゴールデンレトリバーが黒くきれいな目に好奇心をたたえ、来訪者を見上げる。母と娘は犬を挟み挨拶する。
「明莉ちゃん、よく来たわね。どうぞどうぞ」
「お、お邪魔します」
明莉は母と共にリビングに入った。この家の主はソファーから立ち上がり、明莉に握手を求めた。主の手は乾燥しているが温かかった。
「はじめまして。野村正継と申します」
「は、はじめまして、明莉です」
主は自らお茶を淹れ、茶菓子を出してくれた。彼は礼儀として、明莉と日常会話を試みたが、彼女がしゃべらないので一方的な自己紹介になった。
野村正継は元経営者で、裸一貫で創業に成功したが、家庭を犠牲にしてしまった。今は後進に道を譲り隠居生活を送っている。明莉の母、恵美とは近くのフィットネスクラブで出会った。プールと温泉付きの会費が高いクラブなので会員の平均年齢が高かった。その中で、恵美はひときわ輝いていた。五十代に見えないほど若々しく、いつも有酸素運動やグループレッスンに励み、良いスタイルと肌ツヤを保っていた。マットスペースでストレッチ中、正継は思い切って恵美に話しかけた。彼らは意気投合し、利益も一致した。男は、自分より若い女性を伴侶に余生を楽しみたかった。女は、自分を経済的に支えてくれる男性を求めていた。
大人の打算で二人は急接近した。クラブでの交流、外での交際を重ね、無理なく上手にやっていけることを確認すると、あっさりベッドインし男女の関係になった。正継はこの人生で最後の住処を購入した。隠居生活は想像以上に退屈なので犬を購入した。犬の世話をしていると、誰かの役に立っているという、生の実感を得られるのだった。
明莉は握手した時から正継が苦手だった。元経営者と聞き、職場の社長と同じタイプの人間だと決めつけた。
ざっと自己紹介を終えると、正継はお茶を飲みながら恵美と話をした。言葉数は決して多くないが、仲睦まじく、一言一言に感情が込もっている。この男女は肉体的にも精神的にも補い合い、まったく満足しているようだった。完成した幸福を見せつけられ、明莉は居心地が悪かった。
「ワン、ワンワン!」
「おっと散歩の時間だな」
小雨が降っているので、正継は犬に大きなレインコートを着せてやり、自分は傘を持ち外に出た。ドアがガチャッと音をたてて閉まると、恵美は「まったく世話の焼ける子なのよ」と言った。
「彼の印象はどう?」
「いい人そうね。お母さんにはぴったりじゃない?」
「そうでしょう。下手くそだけど、料理も作ってくれるのよ」
それも金持ちの道楽の一つだろう。仕事で家庭を顧みず家族を捨て、今になり自分だけ人生を楽しもうとしている。そこだけを見ればいい人に違いない。母はいいとこ取りをしているのだ。
明莉はしばらく恵美からのろけ話を聞かされた。冷めた茶が余計に渋くなった。無理にでも口を開かないと、舌が前歯の裏に粘り付いて取れなくなりそうだ。
「じゃあ今度の結婚は上手くいきそうね」
「もちろんよ。三度目の正直ってやつかしら」
つまり一度目と二度目は失敗だったということだ。一度目の結婚で生まれた明莉は失敗作だということだ。だが、一度目の失敗の原因は夫婦のどちらにあったのだろうか。
恵美は自分の言葉の残酷さにも気づかず話を続ける。その内容はもう、明莉の耳に入ってこなかった。彼女は実の父のことを思い出していた。
とは言え、彼女は父の顔さえもほとんど記憶になかった。記憶というよりも感覚的に父という存在を覚えていると言う方が適切かもしれない。
なぜか分からないが、明莉はあの日、父と二人きりだった。場所は自宅。今いるこんな綺麗な家ではなく、雨漏りもする古い賃貸住宅だ。時間は夕方だったはず。父が晩酌のつまみにスナック菓子を食べていたからだ。いつもと同じ、エビのように細長く反ったあの菓子。明莉は父におねだりをし、何本か分けてもらう。父はいつもよりやさしい。調子に乗って、あぐらをかいた父の足の上に乗り、絵本を読んでもらう。父は酒臭い息を吐きながら、ひらがなばかりでかえって読みにくい絵本を、つっかえながら真面目に読む。明莉を抱き暑くなってきたので、パジャマの襟を緩める。父の匂いとぬくもりが懐から溢れ出し、明莉の小さな体をすっぽり包む。読んでいるうちに父の声がだんだん小さくなる。どうしたのと聞くと、父は黙って菓子を数本とり、明莉の口に押し込む。それは涙のような塩辛い味がした。
「明莉ちゃん、どうしたの?」
「えっ? べ、べつになにも……」
「ちょっと疲れてるんじゃない? 仕事は大丈夫なの?」
「ええ。なんとか働いているわ」
「仕事で何か悩みがあったらお義父さんに相談しなさい」
長い散歩で、正継はまだ帰ってきそうにない。挨拶をせずに去るのは悪いが、そろそろ頃合いだ。明莉がソファーから立ち上がろうとすると、恵美はずっと話そうとしていたことを、急に思い出したように口にした。
「ところであの子とは最近会ってる?」
「?」
「勇気くんのこと。もうずいぶん前に出てきたはずよ」
「まだ会っていない。そのころは大学に通っていて離れてたから。それにもう私たちが一緒になる場所なんてないし、連絡先だって分からないから……」
「実はちょっと前、彼の方から私に電話があったの。私の番号だけは知ってたみたい」
「そうだったの」
「それで、私なんかに用事はなくて、あなたに会いたいんですって。でもあなたの気持ちが分からないから黙ってたけど、その代わりに彼の連絡先は知っているの」
「ぜひ教えてちょうだい」
明莉は電車の中で勇気のことを思い出していた。この世でただ一人、心が通い合う男性のことを。いったいどうして今まで彼のことを忘れていられたのだろう。あんなことがあっても二人の間の絆が断ち切られるはずがないのに。忘れていたのは、その方が都合がいいからか。明莉は自分の卑怯さに呆れ、必ず連絡しようと思った。
土日はあっという間に過ぎるが、それは平日もまた然りだ。明莉は次の土曜日に楽しい予定を入れていた。
長い長い梅雨も終わりに近づいてきた。曇り空は最後の抵抗を示そうとするが、あちらを立てればこちらが立たずで、どこかから必ず晴れ間がのぞいた。太陽が勢力を増し、雲をかき消すのも時間の問題だ。
明莉は久しぶりに傘を差さず外に出た。自分のすべてをさらけ出しているような、公共の空間と一体化しているような違和感があり、落ち着かなかった。早くも梅雨が恋しかった。
彼女は都心の駅前のカフェで鈴木紗也と再会した。彼女たちには積もる話があり、メニューを見て注文するのも忘れるほどだった。
大学を卒業しもう三年以上になるが、二人は今も昔と変わらぬ良い関係を維持していた。大体の人は就職すると、新しい人と知り合い、新しい環境に慣れ、徐々に昔の友達を遠ざけるものだが、彼女たちにそんなことはなかった。二人とも心を会社に置いていなかったからだ。彼女たちの心の拠り所はまだ、最後の青春時代と、そのころに作った親友にあった。
「うっそぉ、会社に新しい秘書を雇われたですって!?」
「じ、実はそうなの」明莉は紗也の反応の激しさに驚かされた。
「それってただのイジメじゃない? あんまりよ!」
「私がちゃんと働けていないせいよ。会社は悪くないわ」
「明莉はいつも自分のせいにするんだから。たまには文句を言ってみなさいよ」
明莉には誰かに不満をぶちまけストレスを発散するという習慣がなかった。幼いころにその相手がいなかったからだ。大学でやっと親友ができても、彼女は不満を胸の奥にしまい込み、ゆっくり消化するという手段を取った。彼女は卒業後、睡眠時間が増えた。職場で嫌なことがあると、それを早く忘れる必要があるためか、不自然な睡魔に襲われるのだった。
注文した飲み物が届いた。蒸し暑いため、グラスはすでに汗びっしょりで、コルクコースターを湿らせた。紗也はアイスコーヒーを一口飲むと、「実は私も会社で嫌なことがあって……」と切り出した。
「同じ部署の男の先輩によく嫌味を言われるの」
「えっ、どんな?」
「仕事がとってもゆっくりなんだね、丁寧なのはいいけど、もうちょっとテキパキやってもいいんじゃないかな、とか。こないだ一緒に食事した時も、食べるのもゆっくりなんだ、本当に一口で三十回も噛んでいるんじゃない、だからそんなに痩せているのか、とか」
「へえ、たしかにちょっと感じ悪いわね」
「そうなのよ。放っておいてくれればいいのに、ちょっと手が空くと私にちょっかいを出してくるの。べつに迷惑をかけているわけでもないのに」
「ひょっとしてその人って、紗也のことが気になるんじゃない?」
「ちょっとやめてよ。声も聞きたくないぐらいなんだから」
「紗也に彼氏がいることは知ってるの?」
「誰かから聞いて知ってるみたい。鈴木さんが付き合ってるなんて意外だ、なんて言ってたから」
紗也は得意そうだった。それは根暗な女だからってなめるなという負けん気と、こっちにはもう彼氏がいるんだぞという誇りからだった。ところが彼女の表情はすぐ、手にしたグラスのように曇った。
「和樹くんとは最近どう?」
「どうってことないわ。現状維持ってところ」
良い現状とは言えない様子だった。それを維持するため、紗也はどれほどの苦労を強いられているのだろうか。
「本音を言うとね、もう私は冷めちゃって、彼から心が離れていくばかりなの。でも彼がまだ私を必要としている。私が態度に出すと、ものすごく傷つき、荒れるの」
「彼のために自分を犠牲にしてどうするの? それで傷つくのは紗也のほうじゃない。彼のことよりも自分をもっと大切にしないと」
「私は痛みに耐えられる、でも彼は耐えられない。脆く繊細な人だから」
「だからって良くなりもしない関係をずるずる続けても意味ないし、傷も大きく、深くなる一方よ。早いうちに別れたほうがお互いのためよ」
「明莉はいつも私に別れるように説得するのね」
「最初から私の言うことを聞いておけば今みたいなことにはならなかったのに」
「でもそうしていれば、彼との辛く楽しい思い出はなかった」
「辛く楽しい?」
「そう。甘さと酸っぱさが引き立て合うような。もっとも最近は酸っぱいばかりだけど」




