折り合いをつけて
桜の開花は例年より遅めだった。桜の名所で職場のお花見が催された。若手社員がシートと寝袋を運び、泊まり込みで場所を確保した。翌日、やはり先に若い社員が集まり、会場のセッティングをした。昼前に年配の社員が到着し、その中で一番偉い人が乾杯の音頭を取り、酒を飲み始めた。部下は絶えず上司のプラスチックコップや紙皿に気を配った。上司はまめまめしく働く部下に満足しながら、酒の席だからと、セクハラやパワハラまがいのことを口にした。言われた部下が最後まで残り後片付けをした。それでも、桜の名所の地面には無数の花びらとゴミが散らばった。
明莉や紗也のようなタイプの人間にとって、それは地獄絵図に他ならない。彼らと彼女たちとでは、同じ花より団子であっても、団子の食べ方が違った。
彼女たちはやはり、プライベートな空間が確保されているカフェを好んだ。五十年近くの歴史を持つカフェの店先には樹齢の古い大きな桜があり、店の内外から美しい花を観賞できた。彼女たちは自分の楽しみ、趣味に、無理やり他人を巻き込もうとしなかった。他人を使役するなどもってのほかだった。
二人とも春らしく上機嫌だった。紗也はなんと、職場の先輩と交際を始めていた。
「それって前に、よく嫌味を言われるって言ってた人のこと?」
「そうなの。たまたま他の人が来られなくなって二人きりで食事をしたら、意外といい人で。仕事についていろいろ言われたんだけど、他の人がいる時と違って、真剣でやさしい調子になったの。本当は私のことを気にかけてくれていたって分かって、ありがとうございますってお礼を言うと、彼ったら照れて赤くなって……。で、私の仕事の悩みの相談相手になってもらい、次第にプライベートのことも話すようになって、付き合っていた人と別れたって言って、それで……」
「おめでとう。紗也は年上の頼れる男の人のほうが合うんじゃないかしら」
「私もそう思うの。彼がリードしてデートの予定とかも立ててくれるし、私は彼の気遣いの一つ一つに感謝し声に出して表現するから、とっても調和して無理なく付き合えているわ」
明莉は、紗也の今回の恋愛は成功しそうだと思った。
「ところで明莉は浮いた話ないの?」
「浮いた話って、仕事を辞めて人付き合いがますます減るのに、あるわけないでしょ」
「それはそうだけど、フリーランスの集まりやセミナーに参加すれば、自然と気の合う同業者と知り合えるんじゃない?」
「それよりもまずは経済的に自立しないと。自分の生き方を模索して、確立しないと。男なんて二の次三の次よ」
紗也に彼氏ができたことで、今後は彼女と会うことも減るかもしれない。順調にゴールインすれば紗也に子供ができ、自分と会う余裕などなくなるかもしれない。そう考えると明莉は少し虚しくなった。虚しさを払拭するには行動が必要だった。
彼女は重い腰を上げ、仕事を探し始めた。先立つものがなければ何もできない。産業翻訳の仕事を探し、複数の翻訳会社からトライアルを受け、合格したが、依頼はなかなか入らなかった。入ったとしても大抵は納期が極端に短く、連日徹夜で作業するため、健康を損ねるほどだった。半年もしないうちに、こんな生活は続けられない、常に気が抜けず、会社にいた時よりも不自由なほどだと分かった。
そんな時に詩乃がいい仕事を紹介してくれた。ある産業新聞(電子版)の海外ニュース欄に掲載する記事の翻訳で、平日に一定量の原稿をもらえた。フリーランスにとって、生活も収入も精神も安定する最もありがたい仕事だった。明莉は詩乃がもたらしてくれたこのチャンスをしっかりつかんだ。
フリーランスとしてやっていく目処が立った。この仕事を毎日続ければ実力がつき、キャリアを形成でき、次の仕事を探しやすくなるだろう。
最初はそう思い喜んでいたが、徐々に虚しくなってきた。誰かが作った記事を翻訳するだけの創造性ゼロの作業。読者からの直接的な反響の欠如。価値を創出し社会に寄与できないもどかしさ。
この虚無感は数カ月で払拭できた。自分を受け入れようとしない社会との関わりを完全に断つことができてせいせいしたほどだった。彼女が今の暮らしに満足できないのは、同じことの繰り返しで、変化が乏しいからだった。
落ち着いてしまう前に彼女は旅に出た。憧れのノマドワーカーになる道を模索するために。
初めに、ビザなしで十五日滞在できる国に渡った。ノートPCでインターネットが利用できるホテルやカフェなどで仕事をしつつ、毎日変わる滞在先の周辺で美味しい店、地元の人しか知らない観光名所などを巡った。
どんな生活であっても慣れないうちは不自由を覚えるものだが、明莉はこの二週間で新しい生活をする上での心身の支障を乗り越え、リズムを整えることができた。帰国して間もなく、次の旅行を計画した。
彼女には、仕事と生活の場を主体的に選べる生き方がこの上なく魅力的に思えた。誰かのためではなく自分の快楽を最重視し、そこから幸福感や達成感を得る日々。組織や地域のコミュニティに所属しないため不安定ではあるが、責任がなくストレスフリーな立場。
彼女は伊達メガネをケースにしまい、アパートのポストに溜まっていたダイレクトメールを自治体指定の有料ゴミ袋に詰め、ポストに養生テープを貼って封をし、ゴミステーションにゴミ袋を捨ててから、トランクを引きつつ最寄り駅に向かった。自分にもようやく運が回ってきたと天に感謝しながら。