一矢報いる
二月上旬の平日。明莉は有給休暇をとり、空港に来ていた。
空港に来るとわくわくするものだ。ここはさまざまな非日常へと出発するさまざまな人が行き交う場所だ。肌の色、使う言語、国籍の異なる人たちがこの国の他の場所にはないカオスな空間を作る。そんな彼らにこの国の文化の種を世界に撒いてもらうため、ターミナルビルの中には高級なお菓子やちょっとした小物を売る土産店が並ぶ。この国の名物料理の中から好きなものを選べるフードコート、飛行機を待ちながら休憩できるカフェ、地球の裏側に向かう長旅に備え汗を流し体を洗える温泉。交通機関というよりは商業施設、観光地のようで、ここそのものがすでに非日常化している。
初めて空港に来た明莉は圧倒された。今まで限られた範囲と価値観の中で生きてきた彼女には刺激が強すぎた。彼女にはまだここの秩序が見えず、自由奔放ぶりばかりが目立った。賑やかな団体客、寡黙だが誰よりもリラックスした様子の旅人、スーツ姿なのに昼からアルコールを飲む人々、お土産をたくさん購入しご満悦の中年女性。ここにいるとなぜか自分も大胆になれそうな、何でもできそうな気がしてくるから不思議だ。
「すみません。ちょっと道を尋ねたいのですが」
振り向くと、そこには背の高い外国人男性が立っていた。彼女も初めて来たので分かるはずがなく、外国語で丁寧に分からないことを伝えた。男性も本当に道を聞きたかったわけではなく、明莉に雑談を試みた。彼の話術が巧みなので、彼女もつい釣り込まれ、長話をしてしまった。
「やあ、お待たせ」
勇気が現れると、男性は慌てて明莉に別れのあいさつをし、搭乗手続きとは違う方向に歩いていった。
「あれはナンパだな。おれが来るのがあと少し遅れてたら、お持ち帰りされてるところだったぞ」
男性からアプローチされるのは生まれて初めてだった。明莉は当惑したが、悪い気はしなかった。
勇気はすでに搭乗手続きを終え、手荷物を預けていたので、身軽だった。彼らは人の少ない静かなカフェに入った。値段が外の倍近くするホットコーヒーを飲み、ゆっくり昔話をした。
明莉を最初に守ってくれたのは勇気であり、勇気に初めて肉親の情を持たせてくれたのは明莉だった。そんなことを振り返った。
彼らは過去よりも未来について多く語った。明莉は以前、途上国に渡ろうとする勇気をあまり理解できなかったが、空港の開放的な雰囲気に浸るとそれも悪くない、この国の常識ばかりに縛られるべきではないと思い直した。詩乃から指摘された、今の自分に合わない場所で頑張り続けることの危険性を考えるとなおさらだった。
「私もね、会社を辞めて再出発しようと思うの」
「会社で何かあったのか?」
「会社のせいじゃない、私がおかしいのかも。普通の人ならば社会に出て、一人では生きていけないことに気づくらしいけど、私は一人じゃないと生きていけないことに気づいちゃったの」
「きみは昔からそうだったよ。自分の部屋であんなに上手に歌をうたうから、おれにも聞かせてくれって頼んでも照れて、人に見られてたら上手にうたえないって。きっときみは一人じゃないと本来の力を発揮できないタイプなんだ」
「逆に言うと、一人ならばできることがある、こんな私にも可能性が残されているってこと。そう考えるとなんとかなりそうな気がしてきたの。ほら、あれ」と彼女は言いながら、カフェの外を歩くバックパッカーを指差した。
「定職がなくても一人で自由に気楽に生きている人もいる。私にできないはずがないわ」
「やる気があるみたいで安心した。きみもまだ若い、今からでも十分飛べるはずだ。おっとそろそろ時間だ」
二人はカフェを出て、保安検査場に向かった。いよいよ最後の別れの時。勇気は昔のように明莉の手を握った。手のぬくもりだけで口にできない気持ちを伝え合う。なるべくゆっくり歩いたつもりだが、もう検査場の外にたどり着いてしまった。他の乗客は時間を気にしながら早歩きでその中に入っていく。勇気ももたもたしていられない。
「ゆうくん、向こうでも元気にやってね」
「明莉こそ。おれは大丈夫だけど、きみのことが心配だから、たまには連絡するよ」
明莉は展望デッキに立ち、勇気が乗る白い飛行機が青空に吸い込まれていき、やがて消え去るのを見守った。別れは寂しいが、最後に話ができてよかった。遠く離れていても連絡できるし、心はずっとつながったままだ。
「さて、今度は私の番ね」
その翌週、明莉は菅野部長と空いている会議室で話をし、辞表を提出した。部長は内心喜んだが、わざと厳かな顔を作り、「きみに向いている仕事を与えられなくて申し訳なかった」などと言い、「次の仕事は決まっているのかね?」と心配するふりをした。
「いいえ。でもなんとかなると思います」
昼休みを挟み、午後にはもう明莉の辞職が噂になっていた。部内がこれほど色めき立ったのは、明莉の代わりになる社長秘書の面接以来、初めてだった。詩乃を除く全員が、おめでたいことがあったかのようにウキウキしていた。特に光梨は喜色満面で、勝利宣言するかのように、「ついに辞めるんですってねえ」と明莉に聞いた。
「え、ええ、はい」
「じゃあぜひ送別会を開きましょう!」
光梨は自ら幹事を務め、会場を押さえ、部内から人を集めた。光梨がやや強引に誘ったから、また明莉がここを辞めて何をするつもりなのか気になるから、集まりが良かった。詩乃、光梨、乃々香、吾郎、仁、瑠海、雄馬が参加することになった。
三月になり、榊原社長がついに本社への転勤を正式発表した。代わりに本社から来る次期社長も決まった。その人は榊原社長よりも若く、首都の家族の元を離れ単身赴任になるという。
来月の人事異動に伴う社内体制の変化を控え、職員たちが目に見えて慌ただしくなってきたが、明莉はどこ吹く風だった。彼女は彼女で忙しかった。仕事中に人目を盗み、産業翻訳に役立ちそうな資料を集め、さらに専門用語の対訳リストを作った。彼女はフリーランスの翻訳家を目指していた。外国語と文章が得意で、工場で働き一定の知識があるから、産業翻訳は彼女にうってつけの仕事と思われた。
送別会は三月中旬に開かれた。部内の歳の近い同僚が職場以外で集まるのは初めてなので、みな新鮮な気分だった。金曜日の夕方、参加者全員が定時退社し、徒歩で駅前に向かった。遠足中の小学生のように仲睦まじい様子だった。
光梨は創作和食ダイニングの、ちょうど八人が座れる広い和室を予約していた。若者同士ではあるが、さすがに明莉が奥の真ん中の席に座った。掘りごたつに自由に足を伸ばすと、店員が手際よく生ビールを運んできた。
「じゃ、じゃあえっと、佐々木さんの成功を祈って、乾杯!」と、光梨がぎこちなく音頭を取った。
送別会ではあっても、いつも顔を突き合わせている同僚と外で酒を飲むのが珍しいので、ついつい関係ない話に花を咲かせてしまうものだ。明莉の右隣に座った詩乃を除く全員が明莉のことなどほったらかしにした。
光梨と乃々香は普段めったに話すことのない吾郎や仁と話し込んだ。キラキラ女子、冴えない男子と共通点が少ないが、だからこそ意外性があり、面白かった。
「うっそ吾郎くんネコちゃん飼ってるの? わたし猫カフェ大好きなの!」と光梨。
「うん。三毛猫で、あんみつっていうんだ。SNSで写真投稿してるからぜひフォローしてよ」と吾郎。
「乃々香ちゃんってブラジリアン柔術を習いに首都に通ってるの?」と仁。
「ええ。もう丸二年になるけど、やればやるほど奥が深くて楽しいわ。仁くんも柔道やってたなら一緒に行きましょうよ」と乃々香。
瑠海と雄馬の後輩二人は勝手にいちゃつき、スマホを見せっこし、料理を撮影し、大げさに「おいしい」と褒め称えている。詩乃は真剣な顔で、これから独立しようとしている明莉に助言を与えている。こんな状況がしばらく続いた。
コース料理も半分が過ぎ、詩乃と明莉以外はいい具合に酔ってきた。個室に若者の元気な声がこだまする。無礼講になり、光梨と乃々香の女性陣から仁と吾郎の男性陣にきつい質問が飛ぶ。男性陣もお返しにとばかりに際どい質問を飛ばす。光梨が席替えを提案し、明莉の左隣に座る。
席替えが終わり、また本格的に騒ぎ出す前に、少しだけ間が空いた。光梨は明莉の存在を思い出し、
「それで、会社を辞めた後にどうするつもり?」と聞いた。
「あの、独立して翻訳家になろうかと」
「フリーランスになるの!? 仕事は貰えそう?」
「いえ、まだこれから探すところなので……」
「これから!? それってかなり甘くない?」
「そ、そうでしょうか」
「フリーランスはそもそも不安定だし、会社にいても自分から仕事を取りに行けないような人じゃあ、きっと失敗するわよ」
「やっぱりなんだかんだ言って会社員が一番堅実よね。急に首を切られることもないし、毎日一定量の仕事をもらえるし」と、乃々香が同意した。
光梨がさらに何かを言う前に、スマホをいじっていた吾郎が「ほらこれ……」と、絶妙のタイミングで愛猫の写真を披露した。
「あらかわいい!」
どうせもう会社を辞めて、自分の人生から消えるのだと思うと、明莉は光梨のことがまったく気にならなかった。彼女には自分をかばい反論しようとする詩乃を止める余裕さえあった。
光梨たちはすぐに明莉のことなど忘れ、ベタベタする後輩二人をからかい、ゲラゲラ笑った。宴の盛り上がりはピークに達しようとしていた。
その一方で、詩乃と明莉は比較的小さな声で話をした。詩乃はせっかく仲良くなった明莉との別れを惜しみ、今後も友人関係を続けようと言った。明莉も「暖かくなったらまたソロキャンプに行きましょう」と応じた。
明莉の「ソロキャンプ」という単語だけを辛うじて聞き取った光梨は、「佐々木さん、ソロキャンプなんかやってるの?」と聞いた。
「は、はい」
光梨はその趣味を全否定した。あれは友達のいない根暗な人間が仕方なく考え出したものだ。一人で山に入り一人用のコンロで肉を焼き一人寂しく酒を飲み、一人寝袋に包まれ蚊に刺され眠れぬ夜を過ごし、一人で黙々と後片付けをし帰ってくるという面倒くさく惨めな趣味だ。
「もう最後だから言わせてもらうけど」と光梨は言い、明莉の肩に手を回しもたれかかり、酒くさい息を吐いた。
「佐々木さん、あなたの人生はもう終わっているわよ、確実に」
詩乃が怒って立ち上がる前に、明莉は光梨の手を払い、彼女を真正面から見据えながら、こう言った。
「きたねぇ手で触るなこのゲス野郎」
光梨は全身をビクンと震わせ、肩を落としうつむいた。明莉の声が確かな殺意を帯びていたので、場が凍りついた。謙次と別れた傷が未だ癒えず、酒で痛みを紛らわすしかないほど弱りきっていた光梨は、格下だと思っていた明莉から命の安全を脅かされると、恥も外聞もなく泣き出すのだった。
こうして送別会はお開きとなった。駅に向かう途中、詩乃は明莉に「どうしてあんなことを言ったの?」と聞いた。
「自然と口をついて出たんです。でももう二度とあんなことは言わないと思います」と答える明莉の顔は晴れ晴れとしていた。