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社会不適合者

 年末年始は何かと忙しい人が多いが、明莉のように職場から頼りにされない、私生活でも親戚づきあいのない人は、世の中から忘れ去られたかのように放置されるものだ。明莉は家の近くにある老人ホームの入口のクリスマスツリーが門松に置き換えられるのを見て、スーパーで半額以下になっている黒豆や数の子を購入して、初めて健康で文化的な最低限度の生活を送るのだった。

 正月を寂しく過ごしたのは明莉だけではなく、光梨もそうだった。去年は自慢の彼氏を実家に連れ帰り、親戚一同に紹介してやり、結婚をほのめかしていたので、今年はその彼氏の不在が余計に目立った。彼女は親戚を前にし気丈に振る舞い、もっと素敵な男性が見つかったから次は必ず紹介すると約束した。もちろん両親は騙されない。彼女は実家で、窮屈で惨めな思いをした。

 ゴールデンウィーク明けと違い、正月明けの職場の雰囲気はそれほど悪くないものだ。お屠蘇気分が抜けきらず、本格的に仕事を始めようとしてもあと一日か二日でまた土日の連休になるので、まだ自宅のこたつに入っているような心地よい倦怠感が漂うからだ。

 だが明莉たちの工場、とりわけ経営企画部の空気は張り詰めていた。良くも悪くもムードメーカーと言える光梨が不機嫌で、それが周囲に伝染するからだ。しかも場を和ませることが得意な詩乃はインフルエンザに感染し自宅待機を余儀なくされていた。部長さえ事務所にいなければ、光梨は乃々香や瑠海を相手に飽きもせず、謙次に当てつけるように男の悪口を言っていたことだろう。

 明莉は詩乃がいなくて落ち込んでいた。詩乃がいてくれるからこそ会社に通えるのだった。当初外敵と思われた詩乃はいつしか明莉の心の支えになっていた。それが一時的に失われたことで情緒が不安定になり、涙をこらえるのに必死だった。

 昼休み。部のほぼ全員が食堂を利用した。連休中に美味いものを食べすぎたせいで外食する気になれず、食堂の安く地味なメニューがありがたかったからだ。

 光梨は謙次とではなく乃々香と、謙次は光梨とではなく吾郎や仁と、瑠海と雄馬は先輩たちとではなく二人きりで食事をした。明莉はいつものように部の同僚から離れた、端の席に座った。光梨は乃々香を相手に、正月休み中にあったことを勢い込んで話そうとしたが、はっと息を飲んだ。榊原社長が食堂に入ってきたからだ。

 社長が食堂を利用するのは珍しいことではない。取引先の人をもてなしたり、部長たちと食べながら話をすることもあるからだが、今日の社長はなぜか一人ぼっちだった。

 光梨だけでなく他の社員も異変に気づいた。彼らは社長が平社員のように食券を持ちカウンターの前に並び、注文した定食のお盆を持ちながら、空いている席を探しきょろきょろするのを目にしながら、自分の近くには来ないでくれと念じた。それも束の間で、今度はあそこだけには座らないでくれと強く念じた。

 観葉植物に近い端の席、ちょうど明莉の対面だけが空いていた。

 社長が食堂に入り、彼女に接近していることに気づいていないのは、うつむいて黙々と食べている彼女だけだった。しかし彼女は自分の前に立った人の胸元にちらと目を向けただけで、社長だと分かった。人と目を合わせられない彼女は、社長の近くにいることができた数日間、いつも彼の胸元ばかりを見ていたからだ。

 彼女は平然と食事を続けるが、常に周囲に漂わせている負のオーラに一種特殊な怨念を込めた。それは対面にいる社長ばかりか、周りではらはらしながら見守っている社員にも感じられるほどだった。椅子に腰を下ろしたばかりの社長は、下を向き前髪と眼鏡の奥で目を爛々と光らせているのが明莉と気づくと、ふと感電したように狼狽え立ち上がり、何やらぶつくさ言いながら別の席に移っていった。

「へえ、やるじゃないの」と光梨が感心して言った。

 食堂を出た明莉は女子トイレに直行した。そこはこの工場で唯一、一人になれるスペースだった。ドアを閉めると、彼女は壁に寄りかかり、「勝った、勝った!」と小声で叫びながら、痛々しい笑みを浮かべた。この工場の主、一人の成功者に勝ったんだ! 目をつぶると、まぶたの裏に赤いシミが現れ、大きくなり、広がっていった。まるで心の未だ癒えぬ傷から吹き出した血のように。こんなことがうれしい、こんなことでしか復讐できないとは、いよいよ私も終わりか。彼女の目から熱い涙が溢れ出した。ずっとなんとかなると思っていた、でもさっきので分かった、私は正真正銘の掛け値なしの社会不適合者なんだ。

 土日の間、彼女は自宅の布団にくるまり、じっと痛みに耐えた。前述したように、悩みを人に相談せず自分で無理に消化するのが彼女のやり方だったが、今回ばかりはそれが通用しなかった。目を閉じても眠れず、かと言って起きて目を開けても頭が冴えず、何も手につかない。仕方なくめったに飲まない酒を購入し一人で飲んだ。酒は最初、感覚を麻痺させず、研ぎ澄ました。もっと飲みその段階を通り越すと、今度は過去にあったことが走馬灯のように脳内を駆け巡った。彼女は思わず、「ア゛ァアアー」「クソッ」と奇声を発し、「バカバカ」と叫び自分にビンタをした。泥酔すると、眠りながら目覚めているような状態になった。夢と現実、過去と現在の区別がつかなくなった。夢であって欲しい現実、現実であって欲しい夢、過去に葬り去りたい現在、現在にしつこく蘇る過去。

 月曜日、明莉は午前四時過ぎに目を覚ました。外はまだ真っ暗で、新聞を配るバイクの音しか聞こえない。電気をつけた彼女は自分の部屋の散らかり具合に驚かされた。鏡に映る顔はげっそりし、まるで蘇生したばかりのように血の気がない。いったい何があったのだろう、そうだ、酒を飲み荒れたのだった。

 二日酔いで胃もたれし、何も食べないまま、いつもの時間に外に出た。雪こそ降らないが、冬本番で冷え込みが厳しい。どんよりとした鈍色の空。足元でゴリゴリと音をたてる霜柱。ベランダに干しっぱなしで凍っているタオル。寒さにつんとくる鼻。暖気中の車。隔離施設にでも送り込まれるような暗い顔をした小学生の列。早足で黙々と駅に向かう会社員。駅構内の人の波に乗りつつ出口に向かう人々。駅から吐き出され大きく肩を回す中年男性。

 こんな朝をあと何回、何年続けるのだろうか。すでに何年も続けている人はまだ正気を保っているのだろうか。これを異常と感じる私のほうが異常なのだろうか。

 事務所に入ると、病み上がりで出社したばかりの詩乃の周りに人が集まっていた。みな心配そうに、「もう大丈夫なの?」と気遣っている。だが彼らは明莉の姿を見ると言葉を飲んだ。彼女が明らかに病んでいるのだが、今まで彼女にやさしく声をかけたことが一度もないからだ。

「佐々木さん顔色悪いよ、大丈夫?」と、詩乃だけがためらわず聞いた。

「ええ、なんとか。桜井さんこそ無理しないでくださいね」

 詩乃はその言葉を信じなかった。自分が休んでいる間に何かあったのではと疑った。そこで彼女は、あまり話しかけたい相手ではないが、光梨に聞いてみることにした。光梨は先週食堂であったことを語った。

「佐々木さん伊達に長く陰キャをやってないわね。あの社長がタジタジだったわ」

 それであれほど変わり果ててしまったのだろうか。詩乃はますますおかしいと思い、明莉を飲みに誘おうとした。

「お、お酒は勘弁してください。しばらくは見るのも嫌です」

「ははぁ、さては二日酔いね。安心した。じゃあ体調がよくなったら一緒に食事しましょう」

 彼女たちは金曜日の退勤後に駅前のファミレスで食事した。長話をするならファミレスほど便利な場所はない。席が広く、居酒屋より静かで、料理が安く、飲もうと思えばアルコール類もある。

「とりあえず一杯やらない?」

「禁酒するって決めたんですけど……」

「あら、お酒に合う前菜がたくさん! どれにしようかなー」

「……やっぱりちょっとだけ」

 ちょっとだけも、積もり積もればけっこうな量で、二人でデカンタワインを飲み干してしまった。一週間の勤務の疲れもあり、二人はだいぶ出来上がってきた。さっきまで薄暗いと思われた照明がまぶしくなり、頭上でハエ取り紙のように揺らめいている。メインディッシュを頼む前に、詩乃は冗談口調でこう聞いた。

「社長を追い払っちゃったんですって?」

「ど、どうしてそれを?」

「みんなに見られてたみたい。佐々木さんは知らなかったでしょうけど」

 詩乃はタブレットのメニューを見ながら、「ねぇ、なにがあったの? 二日酔いになるほど飲むなんて」と、さり気なく聞いた。明莉はついに我慢できず涙を流した。詩乃は明莉の対面から隣に移り、そっと肩を抱き寄せ、「大変だったね」と言った。

「わたし、わたしもうダメなんです、もうこの世では生きていけないんです」

 明莉は主に、例の社長との件があった後の自分の心境を話した。詩乃は耳を傾け、真剣にうなずいた。

「率直に言わせてもらうと、佐々木さんは確かに普通の人じゃないわ。でもそれは悪いことじゃない。佐々木さんの良さが認められない環境が悪いのよ。だから無理に普通の生き方や、自分に合わない場所に合わせようとしないで、自分の居場所を探しに行けばいいじゃない」

「私にはこの社会で今まで一度も居場所なんてありませんでした」

「じゃあ社会からリタイアすれば? 他人事だと思って無責任なことを言うわけじゃないのよ。私から見れば、佐々木さんが会社で働き続けようとするほうがよっぽど危険で無謀よ」

「私は一人で生きていったほうが現実的……」

「そう。フリーランスになって独立したら?」

「でも私にできることなんか」

「きっとあるわよ。少なくとも私は知っている。よく考えてみてちょうだい」

 明莉はどんなに職場が嫌いでも、思い切って辞めることは考えていなかった。会社に依存し生きていくしかないと思いこんでいた。ところがこんな自分にも自活する可能性があるという。彼女は心理的に少しだけ余裕ができた。いつでもこっちから辞めてやれるのだと思うと、同僚たちからどれほど陰口を叩かれようとも堂々としていられた。

 今この会社にいるうちに学べることを学んでしまおう。そう決めた彼女は少しだけ仕事に意欲を出し、自発的に部長に仕事をもらいに行った。それを見た光梨は彼女に、「四月から新しい社長が来るから焦ってきた?」と聞いた。明莉はいつものように「いえ、べつに」と答えたが、余裕のある笑みを浮かべていた。

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