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光と影

 異例の朝会が開かれることは皆の想定内だった。

 季節は梅雨真っ盛りの六月下旬。万物が湿り気を帯び、身も心も重くなりがちな時期だが、一部の社員はウキウキで出社した。佐久間光梨は事務所で同僚と談笑し、これから起きることを待ちわびる。数分後、菅野部長が見慣れぬ女性社員を連れ事務所に入った。二人は部長の席の近くに、窓を後ろにして並び立つ。窓の外はどんよりとした曇り空で、小雨が窓を打ちパラパラと音をたて、部長の声を聞き取りにくくする。外は夕方のように暗いが、節電の取り組みのせいで事務所内がもっと暗いため、部長の隣に立つ女性社員の顔がはっきり見えない。しかし部長の挨拶が終わり、その女性が半分だけついている電気の下に進み出て、はきはきした声で自己紹介を始めると、その顔がたちまち輝きを帯びるのだった。

「はじめまして。本日付けで社長秘書兼通訳として入社した桜井詩乃です。一日も早く仕事に慣れ、戦力になれるよう頑張りますので、ご指導のほどよろしくお願いいたします」

 事務所内がざわめき、湿気で濃くなった空気が歪む。一番目立つのは光梨の高く大きな声だった。

「社長秘書ですって!? たしかもういたはずじゃあ……」

 彼女はそう言うと、デスクの列を挟み隣に立っていた佐々木明莉に目を向ける。明莉に変わった様子はなく、いつものようにただそこに立っている。

「よく平気でいられるわね。私ならば、穴があったら入りたいぐらいだわ」と、光梨は隣の課の乃々香に言った。

「私だったら仕事休んじゃうかも」と、乃々香も同意した。

 彼らの事務棟は、首都近郊に位置する大手家電メーカーの工場内にあった。周辺は低く広い建物と灰色が支配する工業団地で、各社の工場や研究所が碁盤目状に配置されている。四季による景観の変化が乏しく、灰色の濃淡が変わる程度だ。団地で働く従業員たちは、決められた時間に働くために、自宅と職場の間を定期的に行ったり来たりする生活を送る。毎日同じことを馬鹿の一つ覚えのように繰り返す。それが企業の利益と効率を最大化させるからだ。

 だから彼らの生活はワンパターンになりがちだ。そんな日々に変化をもたらすちょっとした出来事は誰からもありがたがられた。

「わが経営企画課にようこそ」

 吉田課長は部長に代わり、改めて詩乃のことを課の社員に紹介した。詩乃は一人ひとりに丁寧に挨拶したが、明莉に声をかける時にはさすがに戸惑いを覚えた。

「あっ、あなたが佐々木明莉さんね。よろしくお願いします」

「は、はい……」

 挨拶を終えると、詩乃は自分の席に落ち着かず、自発的に社長室に向かった。その後ろ姿を見ながら、光梨は皆に聞こえる声でこう言った。

「今度の人は頼りになりそうね」

 詩乃が一度も課に戻らないまま昼の休憩時間になった。団地の外にある国道沿いの飲食店に徒歩で向かうか、車で遠くまで食べに行く人もいるが、ほとんどの職員と作業員は工場内の社員食堂を利用する。佐々木明莉もそうで、食堂で適当に食べ終えると事務所に戻り、始業時間の一時になるまで本を読む。やがて佐久間光梨も、同期の乃々香、後輩の瑠海と共に戻り、窓際で立ち話をする。

「本当は動揺しているくせに、無理して本なんか読んじゃって」と光梨。

「内容なんかちっとも頭に入らないんじゃないかしら」と乃々香。

「きっと辛いでしょうね」と瑠海。

「自業自得よ。それに辛くても、図々しくこの職場にしがみついている間は、私たちよりいい給料をもらえるんだし」

「社長秘書としてね。ぜんぜん秘書の仕事ができていないくせに」

「ところで先輩……」

 瑠海は話題を変えようとした。彼女は明莉がさっきからページを一度もめくっていないことに気づいていた。

 一時になったが詩乃はやはり姿を見せなかった。部長もいないので、社長が会議を開いているのだろう。そのため部内は弛緩し、いつもより無駄話が多かった。光梨は隣の課に行き、久保田謙次とイチャイチャする。彼女はこのイケメンを彼氏にできたことが誇らしく、周囲に自分たちの関係を見せつけたがっていた。彼女はこの彼氏を相手にする時も、光梨の悪口を言うことを忘れなかった。謙次は強気な光梨を頼もしく思うも、明莉に同情し、こう言った。

「会社もいっそのことクビにすればいいのに。こんな生殺しにしたらかわいそうだし、彼女の将来のためにもならないよ」

「きっと、クビにしないでって裏で社長にお願いしているのよ。ああ見えてなかなかしたたかなところがあるから」

「まさか。そんなことができれば、もっと秘書としてちゃんと働けているはずだよ」

 その通りなのだが、光梨はこう反論されてあまりいい気持ちではなかった。彼女は彼氏に百パーセントの同意を求めていたのだった。

 謙次と同じ課の同僚、吾郎と仁はゲーム感覚で女性社員を評価することを退屈しのぎにしていた。

「経営企画課の三人の女性社員、どう思う?」と吾郎。

「新しく来た桜井さんは、明るくやさしい感じでいいんじゃない?」と仁。

「そうそう。明るいといっても、勝ち気な佐久間さんとは印象が違うようだ」

「それに桜井さんはスレンダーで、佐久間さんは小柄だ」

「スタイルは優劣つけがたいけど、ルックスは桜井さんのほうが上かな」

「桜井さんが八十点、佐久間さんが七十五点ってとこか」

 吾郎と仁は、近くを通りがかった後輩の雄馬も、このしょうもない趣味に引きずり込もうとした。

「雄馬は三人の中で誰が一番美人だと思う?」と吾郎。

「タイプは違いますが、みんなきれいなんじゃないですか」

「つまり佐々木さんも美人だってことか?」と仁。

「ええ。おれはそう思っています」

 雄馬にそう言われ、吾郎と仁は改めて明莉を観察し、評価する。

「言われてみれば確かに。メガネを取ったら意外といけるかも」と吾郎。

「暗いから目立たないけど、薄幸の美女って感じだ」と仁。

「それによく見ると胸が一番大きいみたいだ。背も高いし、スタイルはトップだな」と吾郎。

 雄馬はそこから先の会話には加わらなかった。

「ところで今回の桜井さんはどうするかな?」と仁。

「例の枕営業のことか」と吾郎。

「そうそう。佐々木さんが冷遇されているのは、社長の誘いに応じなかったからって噂じゃないか。気が弱そうに見えて意外と骨があるんだな」

「でも桜井さんは即戦力っぽいし、それに榊原社長はもうすぐ本社に栄転するって話だし、なんもないんじゃない?」

 話を聞きながら、雄馬は枕営業など根も葉もない噂だと否定した。家庭も地位もある社長がそんなリスクを冒すのは割に合わない。雄馬は、デマは社長にも女性秘書にも失礼だと思った。

 雨がまた強くなってきた。雲が午前よりも黒くなり、時おり「ゴロゴロ」と音を立てる。音は徐々に近づき、頻繁になる。ついに紫色の雷が黒い雲に亀裂を入れる。「バリバリ」という物凄い音の雷が数回落ちると、雨脚が弱まり、急に静かになる。

「ねえ、佐々木さん」

 うつむいている明莉は肩をぴくりと動かしたが、顔を上げようとしない。誰かから話しかけられることなどめったにないからだ。

「ちょっと無視しないでよ」

 それは対面に座る光梨だった。さっきまでは雷にわざとらしく悲鳴をあげ、自慢の彼氏に甘えていたはずだが、いつの間に戻ってきたのだろうか。

「桜井さんのことどう思う?」

「いえ、その、べつに……」

「入社初日から社長にべったりよ。秘書のあるべき姿って感じね」

「え、ええ」

「彼女の働きぶりを見ていて何も思わないの?」

「……」

「負けていられない、私も頑張らなくちゃとか」

「わ、私は、でも……」

「あぁもう見ていてイライラする!」

「で、ですから、私のことは放っておいてください」

「言われなくてもそうするわよ!」

 五時を回り、部長と詩乃がやっと事務所に戻ってきた。二人とも朗らかな顔をしているので会議はうまくいったのだろう。部長は自分の席に座りメールをチェックし、デスクの書類に目を通し、判子を押す。詩乃はノートPCを使い議事録を仕上げる。そうするうちに退勤時間の五時半が近づいてくる。職員たちはそわそわし始める。彼らは時計の長い針が「6」を指し示すまで、上司から何も言いつけられないことを願いつつ、パソコンで何か作業をしているふりをする。一日で最も無意義だが、公と私を分ける緩衝地帯となる時間。

 ついに終業のベルが鳴った。じっと耐えていた職員たちは、椅子のバネの力を利用し立ち上がると、緊張の面持ちで続々と事務所を後にする。彼らの今日はこれから始まるのだ。家族との憩い、友達や仲間との交流、独身者の密かな楽しみが彼らを待っている。職場に一分一秒たりとも長く留まる理由はない。

 詩乃は立ち上がった同僚たちをまったく気に留めずデスクワークに没頭する。部長も去りゆく部下たちを驚かせないよう大人しく座っている。

 事務所を出て廊下を渡るとき、光梨が乃々香と瑠海を捕まえこう言った。

「桜井さん初日から残業よ。できる人は違うわね」

「あれならば私たちよりお給料をもらっていても文句はないわ」と乃々香。

「頑張りますね。尊敬しちゃう」と瑠海。

 光梨はわざと乃々香と瑠海を横に並べ、後ろを歩く明莉の道をふさぎ、できるだけ長々と嫌味を言った。

 職員たちは傘を手にし事務棟を出た。車がある人は駐車場へ、ない人はバス停や駅へ。工場を離れるほど人の密度が下がり、バラけてくる。明莉はやっと一人になれた。

 彼女は黒の大きな傘を目深にかざし、自分だけの空間を作り、大きくため息をつく。彼女は決してこの季節が嫌いではない。人々がゆううつになり、少しは静かになってくれるはずだから。

 駅を目指し一人とぼとぼ歩く明莉は、桜井詩乃のことばかりを考えていた。彼女にとって詩乃は眩しすぎる太陽のようだった。彼女は詩乃に自分との共通点をまったく見いだせなかった。自分とは間逆な人間が職場で受け、活躍しているという事実は、彼女の存在意義を否定した。

 こんなはずではなかった、と彼女は思う。たった数年で希望はなぜ潰えてしまったのだろうか。

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