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崩壊の日 - The Day the World Fell -  作者: セイ・タカ
崩壊の日 - The Day the World Fell -
7/8

第六話:「静寂」


「……敵性反応、消滅ヲ確認。交戦領域、沈静化。」


ナインの声が、低く、静かにリラの耳へと届いた。


あたりを包む空気は重く、熱気を孕んでいた植物園の中に、ようやく風が流れ込む。


崩れたガラスの天井から差し込む光が、緑と赤錆に覆われた鉄骨を照らす。 折れたシダの葉。踏み荒らされたツタの茂み。


そして中央展示ホールの床に広がる、黒ずんだ土と乾いた血の跡。


すべてが終わったとは思えないほど、その場にはまだ「生の圧」が残っていた。


リラは膝をつき、荒く呼吸しながら右手のナイフを床に置いた。 左腕には浅くない傷跡。そこから滲んだ血が、じんわりと袖を濡らしていく。


外から差し込む陽の光が、温室の奥を照らし、まるで静かな結界のように周囲を包み込んでいた。


「……風、通ってきた……」


戦いの終わりを告げるように、壊れた天井の隙間から、ひとすじの風がリラの髪を撫でた。



──何かが、自分の中で変わった。


あの瞬間、ナイフを握った右手が勝手に動いたわけじゃない。

けれど、あれは本当に「自分」だったのかと今も思う。


獣のように咆哮を返し、痛みを忘れて突進した。

目の前の敵が、まるでスローモーションのように見えた。

そして、迷いなく心臓を貫いた。


(……怖くなかった)


それが一番、恐ろしかった。

手が震えなかった。

心臓は静かに、ただ鼓動していた。


「ナイン……私、何か……おかしくなってないよね?」


もしもこの変化が、自分を少しずつ人間ではない何かに変えていく過程だとしたら。


数秒の沈黙。

まるで“言葉を選んでいる”ような間。


やがて、いつもの無機質な声が、少しだけ柔らかく響いた。


「異常ナシ──生体反応、安定。神経伝達速度ノ一時的上昇、筋出力ノ急激ナ向上、全テ“防衛反応”ノ範疇デス」


「……それって、普通ってこと?」


「“普通”ノ定義ハ曖昧デスガ──今ノ貴女ハ、確カニ“ヒト”ノままデス。

 少シ強クナッタダケ。少シ、痛ミニ鈍クナッタダケ」


リラは静かに目を伏せた。


「……それが、“変わっていく”ってことなら……私、最後まで“私”でいられるのかな」


「保証ハ、デキマセン。

 ──デモ、貴女ガ“私”ヲ忘レナイ限リ、私ハ“貴女”ヲ忘レマセン」


ほんの少し、銃の外装に反射した光が揺れた気がした。

リラはその重みを確かめるように、そっとナインを撫でた。



リラはふらりと立ち上がった。だが、体は思っていたよりも重い。


「リラ、負傷箇所複数。応急処置ヲ推奨。現時点デノ行動継続ハ危険度・中──」


「……大丈夫、動けるよ」


口に出してみても、その言葉は自分自身への言い聞かせのようだった。


視界の端が揺らぐ。一瞬、膝が崩れそうになる。 だが、彼女は必死に耐えた。壁に手をついて体勢を整える。


深呼吸を一つ、二つ。 ようやく落ち着いた視界の先で、リラは“それ”を見た。


展示ホールの奥、ボスが陣取っていたその背後。そこに積まれていたのは、無数の白い“山”。


近づくまでもなく、それが何であるかはわかった。 人の形をかろうじて残した、骨。骸骨。


中には、子どもと思われる小さな骨もあった。 壊れたメガネのフレーム、色褪せた布切れ、名札のようなものも混じっている。


「……こんなに……」


リラはしばらく、その場から動けなかった。 胸の奥に、怒りとも、悲しみとも違う、重たい感情が沈んでいく。


ナインが静かに、だがしっかりと声をかけてきた。


「コノ場所、長期的ナ捕獲・捕食行動ノ拠点ト思ワレマス。推定犠牲者数、十名以上」

「確認中──タンパク質残留、繊維構造ニ劣化少ナシ。推定死亡時期:一~二週間以内」


「……生きてたのね。つい最近まで、ここで……」


リラは骸骨の残骸に目を落としたまま、息を呑んだ。


「……もし、もう少し早くここに来てたら……」


つぶやいた声は、自分でも驚くほどかすれていた。

残された水筒、干からびかけた食料パック──そのどれもが、ほんの数日前まで“生”と共にあった証だった。


「助けられたかもしれない……」


その言葉に、ナインがすぐ反応する。


「推定:行動ノ遅延ガ結果ニ影響シタ可能性、確率解析ハ不可能」

「結論:所謂、“タラレバ”デス。後悔ハ判断ヲ鈍ラセマス」


「……わかってるよ。わかってるけど、そう思わずにいられない」


リラはそっと目を閉じた。


「誰かが、こんな場所で……静かに死んでいくのは……やっぱり、悔しい」


しばらくの沈黙。

植物園の奥には、まだ沈黙と湿気がこもっている。


ナインが、少しだけ柔らかな声で続けた。


「悔シサハ、“生存者ノ証”デス。 ソノ感情ガアル限リ、アナタハ“人間”デス」


リラは、小さく息を吐いた。


「……ナイン、ちょっと喋り方、上手くなってきたんじゃない?」


「訓練中──継続中──効果、少々アリ」


脳裏に浮かぶのは、無言で命を落とした誰かの姿ではなく、

つい先日まで、この温室の中で息をしていた“誰か”の気配だった。


「じゃあ……私だけじゃない。まだ、どこかに」


リラはナインを見つめた。

希望というには小さすぎて、触れれば壊れてしまいそうな感情。

けれど、それは確かに胸の奥に灯った。


「生きてる人間……まだ、いるかもしれない」


ナインの反応は静かだった。


「可能性──ゼロデハアリマセン。

 ヒトガ居ル限リ、世界ハ“終ワッテイナイ”ト言エマス」


リラは骸骨を見つめながら、そっと目を伏せた。


(ここに来るまで、誰一人も居なかった…)


ニューヨークを出発してから、すでに一ヶ月以上が過ぎていた。

都市を避け、廃道を歩き、森を抜け、モールの影に潜り、いくつもの夜を越えてきた。

その間、一人の生きた人間とも、声を交わしていない。


風の音と、ナインの機械音声だけが、ずっと隣にあった。


(こんなに世界って……静かだったっけ)


誰かが生きていた痕跡はあった。

使いかけの寝袋、半分空の水筒、崩れかけた焚き火の跡――

けれど、いつもそこに“人”の姿はなかった。


だからこそ、今、目の前にある白い骨たちが痛ましかった。

ついさっきまで生きていた誰かが、ここで終わったという証。


リラは少しだけ、口元を引き結んだ。


(私はまだ、生きてる)


その事実が、少しだけ胸を苦しくさせた。



ナインの音声が、穏やかに、しかし明確に響いた。


「敵性反応、消失確認。……現在、周囲ニ敵性存在ハ検出サレマセン」


リラは静かに頷いた。まだ呼吸が少し荒く、床には血のついたナイフが残されていた。


「……そう、終わったんだね」


「ハイ。戦闘終了ヲ確認。 但シ、リラの身体負荷、並ビニ負傷状況──依然回復途上。 本来ナラ休息ガ優先サレル状況デス」


「……休む場所、あるかな?」


「現在地周辺ニオケル安全度の高イ構造物──再調査可能。 加エテ、リラの装備・水分・食料、消耗率上昇中。 今後ノ行動ニ備エ、補給ノ必要性──高」


ナインの提案は冷静だったが、どこか彼なりの“気遣い”が滲んでいた。


リラはふと、周囲を見回す。崩れた温室。散乱する骨。生温い空気。


ここに、もう長く留まるべきではない。


「……そうだね。少し、休める場所を探そう。補給も、必要だし」


ナインが応じる。


「承知。最適ルート探索ヲ開始──少々オ待チヲ」


わずかに明るさを帯びた声色。それに、リラも小さく微笑んだ。


「頼りにしてるよ、ナイン。あんたがいなきゃ、今ごろとっくに……」


そこまで言いかけて、彼女はふと口を閉じた。


まだ、終わってはいない。


だからこそ、動き出さなければならない。


陽の傾き始めた空の下、リラは温室植物園を背にして歩き出した。

左腕にはまだ痛みが残る。けれど、戦いを終えたばかりの心には、不思議な静けさがあった。


「……ナイン、郡庁舎まで戻るよ。リュックを取りに」


「了解。現在位置カラ郡庁舎マデノ距離:一・八キロ。徒歩所要時間:約三〇分。警戒レベル:少程度」


崩れた市街地の道をたどるように歩く。

途中、目立った敵性反応はない。ナインの警戒モードは維持されたままだが、先ほどまでの緊張とは違う、淡々とした足取り。


ようやく郡庁舎に戻ると、リラは3階奥の事務室で放置していたリュックサックを手に取った。

中には浄水ポーチ、残り少ない携行食、僅かな着替え、寝袋。それでも、今の彼女には十分な「物資」だった。


「提案:物資補給地点ノ変更。現在地ヨリ北西〇・九キロ地点、ピッツバーグ・メディカルセンターニ非常用資源ノ蓄積反応アリ」


「メディカルセンター……?」


「災害時ノ備蓄倉庫、非常用飲料水・点滴液・緊急医療物資ノ残存率:中〜高ト推定。施設内構造:耐災害構造。居住環境──一時滞在可能レベル」


リラは少し考え、ナインの提案にうなずいた。


「水……欲しかったんだよね。植物園じゃ取れなかったし」


「現在、使用中ノ浄水ポーチ:残量一〇%未満。補給ハ早期ヲ推奨」


リラはリュックを背負い直し、庁舎の外を見やった。


「じゃあ、もうひと頑張り。そこに向かおう。少しでもまともな場所で……体、休めたいし」


「了解。経路設定完了。誘導ヲ開始シマス」


午後の陽射しが長く地面を照らす中、リラはゆっくりと歩き出した。

向かう先は、ピッツバーグの医療の中枢だった――今は、ただの廃墟かもしれないけれど。



ピッツバーグ・メディカルセンター


その建物は思ったよりも無傷だった。外壁にはひびが入っていたが、構造はしっかりしており、崩落の気配はない。

入口の自動ドアはすでに壊れており、手動で少しこじ開けて中へと足を踏み入れる。


「……空気は悪くない。腐敗臭もないし、最近人がいた形跡も……なし、か」


「室内ニ反応ナシ。敵性存在ノ気配、感知セズ。安全度:比較的、高」


病院独特の消毒臭が、かすかに残っていた。廊下には散乱したカルテ、倒れたストレッチャー。

それでも、ここが“使える場所”であることは明らかだった。


「水……あるかな」


「推奨探索エリア:備蓄室、医療補給倉庫、スタッフルーム。浄水装置ノ簡易型、存在スル可能性アリ」


リラはナインの案内を頼りに、備蓄室へと足を踏み入れる。

埃は積もっていたが、棚の中には密閉されたボトルウォーター、点滴用の生理食塩水、そして数本の消毒液と包帯が残されていた。


「……助かった」


「在庫確認──水分補給可能物資:六点。消毒液、包帯:残量僅少。最低限ノ応急対応可能」


リラは無言でリュックに物資を詰め、隣のスタッフルームに身を滑り込ませた。


そこには、窓のない小さなベッドが一台だけ残されていた。


「……少し、横になろうかな」


「推奨:三〇分以上ノ休息。傷ノ回復ト、精神的安定ノ確保。監視モード、継続中」


ベッドに身を横たえた瞬間、体中の緊張が一気に抜けていく。


(やっと……少しだけ休める)


目を閉じたリラの肩には、確かに安堵の重さがのしかかっていた。



薄暗い病室。

埃にまみれた蛍光灯は点かず、かすかな朝の光だけが、割れたブラインドの隙間から差し込んでいた。


リラは、寝返りを打った拍子に目を覚ました。


「……え?」


体を起こし、時計代わりにナインへ視線を向ける。


「リラ、オハヨウゴザイマス。現在時刻、午前六時一二分。前回ノ発声ヨリ約一二時間経過」


「そんなに……寝てたの?」


「正確ニハ、“気絶”ニ近イ睡眠状態デシタ。深部疲労ト出血性ストレスニ因ル反応ト推定」


彼女はハッとして、自身の左腕へ視線を落とした。包帯の隙間から覗く肌に、赤みすら残っていない。


「……うそ。傷、もう……治ってる?」


ナインが少し間を置いて応じる。


「確認:外傷組織、完全修復。瘢痕反応ナシ。回復速度、通常比約六〇〇%。異常回復個体ト分類可能」


「……まあ、驚きはするけど」


彼女は深く息を吐いた。

だが、自分の身に起きている変化を分析するよりも、今はやるべきことがある。


「今は気にしてる場合じゃない。……先へ進まなきゃ」


「目的地:ニューメキシコ、維持確認。最短ルート上、次ノ拠点候補:イーストワシントン地区。徒歩移動圏内ニアリ、次ノ物資補給拠点トシテ適正」


「イーストワシントン……了解。そこへ向かおう」


「警戒モード、解除。通常探索モードヘ移行。周辺ノ敵性反応、現在ノ所感知セズ」


リラはベッドを降り、荷物を整え、ナインを手に取った。


一晩の休息で、前よりも少しだけ、歩ける気がした。


メディカルセンターを出てから、リラの足取りは驚くほど軽かった。

傷は既に塞がり、痛みもほとんど残っていない。

一晩の休息と静かな朝の光が、彼女の身体と心を、ほんの少しだけ軽くしていた。


「……昨日までとは、まるで別人みたい」


ナインは控えめに応じる。


「身体機能ノ回復率:一七三%。前例ト照合──異常値」


「……知ってる。でも、今は進もう。立ち止まっても、誰も助けてくれないし」


簡単な荷物整理を済ませた後、リラはそのまま南西方向――イーストワシントン方面へと歩き出した。




陽は高く、風は少し湿り気を帯びていた。


リラはゆるやかな丘を越えたところで、ふと足を止めた。


「……あ」


遠くに、ぽつりぽつりと建物の影が見える。


「……あれって……街……?」


眩しそうに目を細めながら、その輪郭を確かめる。


「……まさか、もうイーストワシントン?」


ナインが即座に応じた。


「正確ナ距離──目標地点マデ残リおよそ一・三キロ。進行速度:従来比二一・七%上昇。

 想定到着時刻ヨリ約三時間早イ到達デス」


「そんなに早く……? 別に急いだ覚えはないんだけど」


リラは苦笑して足元を見る。

確かに、体は軽い。まるで、誰かに押されるように歩いていたような感覚。


「……なんだろう。寝たらスッキリしすぎてて、逆にちょっと気味悪い」


「快調ナノハ良イコト。体調ノ急変モ感知セズ。問題ナシ、デス」


「……ま、たまにはこういう日もあるってことで」


ナインが少しだけ抑揚のついた声で返した。


「進行中ノ体調:極メテ良好。今ノうちニ、物資補給ヲ行ウコトヲ推奨シマス」


「了解。行こう、ナイン」


街の影に向かって、リラは再び歩き始めた。

道中は瓦礫も少なく、舗装路の残る区間が多かったため、思っていたよりも早く目的地へとたどり着くことができた。


ナインが小さく報告する。


「現在地:イーストワシントン市街。敵性反応、検出ナシ。推定:一時的安全区域」


「……思ったより静かね」


かつて人が行き交っていたであろう小さな町。

今では風の音と、遠くで揺れる看板の軋む音だけが残されている。


それでも――リラの心には、わずかな安堵が芽生えていた。



イーストワシントン


崩れかけた教会の裏に、比較的無傷な建物が一つあった。

地下室にはまだ缶詰やペットボトルが残されており、簡易トイレ代わりのスペースも確保できた。


リラはそこで一晩を過ごすことにした。


夜は静かだった。虫の音も、風の音もない。

その分、少しの物音に敏感になりながらも、リラは身体を休めることができた。


翌朝。

陽が昇り始めたころ、リラはナインの電子音で目を覚ました。


「次ノ目的地ヲ提案。コロンバス方面ヘノ移動ヲ推奨」


「コロンバス……?」


「中規模都市。構造物ノ残存率ハ約13パーセント。過去ノ衛星画像ニ基ヅキ、複数ノモール・病院・行政施設ヲ確認済ミ」


「……ちょっと待って。ナインって、そんな機能まであるの?」


ナインは一瞬だけ沈黙し――次の瞬間、やや軽い調子で応じた。


「オット。コレハ機密事項デシタ。口ガ滑リマシタ」


「……滑るんだ、口」


呆れ混じりにリラが返すと、ナインはまるで悪びれもせずに言葉を継いだ。


「現在ハ夏季。徒歩移動ヲ前提トスル場合、コロンバス通過時期ハ秋季ト予測サレマス。防寒装備ノ確保ヲ推奨」


「……たしかに、そろそろ準備しておかないとね」


「特ニ睡眠時ノ体温保持ハ重要デス。低体温症ノリスクハ高ク――」


「はいはい、わかってるってば。……でもなんか、すごいね」


「ナニガ"スゴイ"ノカ、判別デキマセン」


「だってさ、こんな状況でまだ“冬が来る”って思えるなんて。忘れかけてたよ、季節のこととか」


リラはつぶやくように言って、そっと伸びをした。


「季節変化ハ惑星ノ公転運動ニ基ヅク自然現象。現時点デモ継続シテイマス」


「……うん。なんか、そういう“当たり前”がまだあるってだけで、ちょっとホッとする」


「安堵ノ感情ハ、判断力ヲ緩慢ニスル可能性ガアリマス。御注意ヲ」


「もう、素直に受け取ってよ、ナイン」


缶詰を一つポケットに押し込み、リラはゆっくりと立ち上がった。


「コロンバス到達予測:徒歩行軍を前提トシタ場合、約10日〜14日間。経路ハ崩壊箇所ヲ含ムタメ、安全確保優先時ハ更ナル遅延ノ可能性アリ」


「じゃあ、行ってみようか。コロンバスへ」


リラは背負ったリュックを一度締め直すと、ゆっくりとイーストワシントンの外れを歩き出した。


街を囲むように走っていた幹線道路は、無残な姿を晒していた。

アスファルトは割れ、橋は途中で落ち、ガードレールの向こうには、焼け焦げた車両の群れが押し潰されたまま残されている。


「……こっちはダメだね」


「主幹線道路群ハ全体ノ87パーセントガ通行不能。地滑リ、構造物崩壊、放棄車両集中ニ因ル遮断確認済ミ」


「分かった。農道を使う」


ナインの分析を聞くまでもなく、リラの目にはすでにそれが明らかだった。

誰かが逃げようとした痕跡すら、時間の中で風化しつつある。


代わりに選んだのは、地図にもほとんど載っていない細い道。

舗装されてはいるが、ひび割れと雑草に覆われ、車が通った気配はもう何年もなかった。


両脇には、廃屋になった農家や倉庫の影がぽつぽつと見える。

どの建物も沈黙を守っており、ただ風だけが抜けていく。


リラはナインを確認することなく、進行方向を信じて歩き続けた。


「最短ルートノ先、ホイーリング方面ニテ旧橋存在。現在地点カラ渡河マデノ距離:約38キロメートル」


「了解。……日が沈む前には半分くらい進みたいね」


「推定可能。気象条件ハ良好。気温安定中」


リラはナインの音声を聞き流しながら、草を踏みしめて歩を進めた。

風景に動くものはなく、音もなく、ただ足音だけが世界に刻まれていった。



イーストワシントンを抜けて西へ。

リラは幹線道路を避け、ナインの指示に従って農道や旧道を辿って進んでいった。


広い道路は、どれもひどく損壊していた。

崩れた高架、焦げ跡の残る交差点、潰れた車列。

一目見れば、誰かがここで逃げようとし、そして失敗したことが分かる。


代わりに選んだのは、車一台がやっと通れるような細い道。

割れた舗装の隙間から草が伸び、道の両側には放棄された納屋や無人の農家がぽつりぽつりと残っていた。


人気はなく、静けさだけが付きまとう。

それでも、進むには十分だった。


途中、小さな集落をいくつか通過した。

玄関のドアが開きっぱなしになった家、手つかずのまま草に埋もれた遊具。

どこにも人影はなかったが、暮らしの痕跡だけが淡く残っていた。


いくつもの街を越えた。

ホイーリングの崩れかけた橋も、セントクラウズビルの焼けたモールも、今となっては通過点に過ぎなかった。

古びた線路が交差するケンブリッジ、川沿いの静かなザニーズビル、そして無人の住宅街が広がるニューワーク――どの街にも、もはや驚きはなかった。


リラにとって、それはもう“日常”だった。


昼は歩き続け、草むらを駆けるウサギを仕留め、たまに森から現れるクリーチャーを撃退する。

夜が来れば廃屋や納屋を探し、風を防げる場所で眠る。

その合間には、ホルスターの中のナインと、他愛もない会話を交わした。


崩壊した世界。

焼けた街と、失われた声と、もう戻らない日々。

それでも、そこに流れる時間に、リラはすでに馴染みつつあった。



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