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崩壊の日 - The Day the World Fell -  作者: セイ・タカ
崩壊の日 - The Day the World Fell -
6/8

第五話:「影を追う」


──うっすらと差し込む朝の光に、リラは目を覚ました。


体を少し起こすと、鈍く痛む太ももに手が伸びる。

包帯の下、まだ傷は完全には塞がっていないはずなのに、昨夜ほどの痛みではなかった。


「……ん……」


そっと足を動かす。痛むには痛むが、力が入らないほどではない。


(歩ける……でも……)


傷の感触からして、普通なら動ける状態じゃないと、自分でも分かる。


「……やっぱり、回復……早いよね」


ぽつりと呟いた声に、ナインが応える。


「組織再生速度、平均ニ対シ三・四倍速。治癒促進反応、持続中」


「……普通の人間なら、こんなに早く治らないよね」


「一般的生体データ比較ニヨリ、回復速度異常。要経過観察」


リラは息をついて、ゆっくりと立ち上がった。

まだ、足に負荷はかかるが、歩けないほどではない。


「とりあえず……今日はもう少し、ここで休む」


「了解。警戒モード維持。敵性反応ナシ。現在ノ安全度:中程度、継続中」


リラは壁にもたれ、もう一度目を閉じた。

だが、意識の底にはすでに、次の動きへの緊張が芽生えていた。



寝袋に腰を下ろし、包帯を巻いた太ももをそっとさすった。

数秒の沈黙のあと、ふと顔を上げてナインを見つめる。


「ねえ、ナイン……ここって危ないよね。

 他に、安全そうで……物資も補給できる場所って、ない?」


ナインが一瞬の処理沈黙を置いて、抑揚のない声で返す。


「質問:合理的デス。現地点ハ複数回ノ敵性侵入確認アリ。

 継続滞在ノ危険性、上昇中」


「じゃあ、移動するしかないってことね……」


だが、ナインは続けた。


「ソレモソウデスガ──代替提案:

 敵性個体ノ“住処”ヲ特定シ、先制攻撃ヲ仕掛ケル案、浮上中」


「……は?」


リラは思わず眉をひそめた。


「ちょ、ちょっと待って。それって、こっちから“攻撃する”ってこと?」


「肯定。敵性個体群ハ、明確ナ行動パターンヲ示シ、一定範囲内ニ定着シテイル可能性アリ。

 “次ノ襲撃”ヲ待ツノデハナク、“脅威ノ根”ヲ断ツコトニヨリ、以後ノ安全性確保ガ見込マレマス」


リラは言葉を失った。

防戦ではなく、攻勢。


確かに理屈は分かる。けれど、それはあまりにも――。


「すごく物騒なこと言うのね」


「模倣思考回路、学習済ミ。“最善ノ選択”ハ、必ズシモ“安全”ト一致シマセン」


リラは深いため息をついた。


「……わかった。でも、いきなり突っ込むなんて真似はしないからね。まずは情報収集から」


「了解。探索モード:準備完了。目標、“ヤツラノ拠点”──発見優先度:高」


リラが立ち上がろうとしたそのとき、ナインが低く、しかしはっきりと告げた。


「補足機能:赤外線反応残留ノ足跡、床面ニ確認。敵性個体ノ移動ルート、追跡可能」


「……足跡?そんなの、もう消えてるでしょ」


「否。赤外線残留反応ハ、最大一二時間持続。加エテ、熱反応ノ微弱残留モスキャン対象」


リラは思わず苦笑した。


「ほんと、便利なんだか怖いんだか……。じゃあ、見せて。」


「検出記録ト赤外線残留センサー解析結果ヨリ推測──  南東方向、距離約一・五キロメートル先、植物密集地帯ヨリ接近」


リラが眉をひそめる。


「植物密集……?」


「該当地域:シェンリーパーク温室植物園。  温度・湿度共ニ高く、群れノ拠点トシテ適正アリ。監視パターン複数確認済ミ」


「……つまり、そこがあいつらの根城ってわけ?」


「可能性、極メテ高イデス。  リラ到着以降、断続的ナ赤外線反応アリ。接近・離脱ヲ繰リ返ス傾向確認」


リラはしばらく何も言わず、窓の外の朝焼けをじっと見つめた。 その目は静かだったが、どこか獣のような緊張が漂っている。


「……見られてたんだ、ずっと」


「正確ニハ、“監視”行動ニ近イ。高知能個体群ニヨル判断ノ可能性有リ」


「……あいつら……ただの獣じゃないね」


リラの問いに、ナインが即座に応じる。


「変異体デス。詳細ハ開示不可デスガ、チンパンジー型ノクリーチャーデス。高い身体能力ト協調行動、並外レタ警戒心ガ確認サレマシタ」


「警戒心……」


リラは自分の肩や太ももに残る痛みを思い出し、目を細める。


「……あいつら、ただの獣じゃない。様子を見て、隙を狙って……まるで監視してたみたいだった」


「推測通リデス。赤外線ログ照合ノ結果、リラノ行動経路ノ周辺ニ、同一反応源ガ複数回検出サレテイマス。長期ニ渡ル“監視”行動ノ可能性、極メテ高イ」


「……やっぱり、そうだったんだ」


リラは唇を噛み、静かに視線を落とす。


「まるで“敵”を見張ってるみたいに、ずっと……」


「補足:チンパンジー属ハ、自然下ニオイテ強イ縄張リ意識ヲ持チ、群レ単位デ他者ヲ排除スル傾向アリ。今回ノ変異体群モ、同様ノ本能ニ従ッテ行動シテイル可能性アリマス」


「縄張りね……それが、今のピッツバーグってわけか」


リラは静かに立ち上がり、窓の外に目を向けた。


「やっぱり、このまま待ってるだけじゃ、また来る。怪我してるけど、やられる前に……こっちから行くしかない」


ナインの声が落ち着いた調子で響いた。


「現在、周辺ニ敵性反応ハ検出サレテイマセン。監視個体ノ消失カ、行動ノ一時停止ノ可能性。推奨:本日は休息ヲ優先。損傷ノ回復、戦闘準備ニ適スル時間デス」


「……少し休んでから、ってこと?」


リラはナインを見つめながら、ゆっくりと立ち上がった。


「でも、それってあいつらがまた動き出すまで待つってことよね」


ナインがわずかに間を置いて返す。


「ソウ解釈スルコトモ可能デス。現時点デハ、無理ナ行動ハ――」


「ナイン」


リラはぴたりと声を止めた。


「……やるなら、今だと思うの」


その目は静かに、けれど確かに燃えていた。


「こっちの場所もバレてる。これ以上、待ってたら……また夜、同じことが起きるかもしれない。だったら、今のうちに……こっちから行くべき」


「……理由:戦術的有利、及ビ心理的プレッシャー解消、ト判断」


「それもあるけど……一番は、怖いの。夜、じっとしてるのが。あいつらがどこから来るのか、何をしてくるのか……待ってる間の方が、ずっと恐ろしい」


ナインは数秒の沈黙のあと、静かに応じた。


「了解……リラ。提案:短時間ノ休息ノ後、シェンリーパーク方面ヘ偵察開始。強襲時ノルート、遮蔽物ノ確認ヲ優先シマス」


「うん。それでいこう」


窓の外には、薄曇りの空が広がっていた。 冷たい空気の中、リラは深く息を吸い、足元のナインを見下ろす。


「今度は、こっちの番。ね、ナイン」



リラは庁舎内の薄暗い一室で、壁に背を預けながら目を閉じていた。

右足の痛みはまだ残っていたが、動けないほどではない。

一時間ほどの休息を取り、簡単な食事で少しだけ体力を回復していた。


「……もう行ける。ナイン、準備は?」


「状態確認──リラの身体機能、戦闘時ノ七一%回復。行動ハ可能ト判断シマス」


リラはゆっくりと立ち上がると、足を軽く踏みしめて感覚を確かめた。

傷はまだ完全に塞がっていない。それでも、動ける。それだけで十分だった。


外の光は強く、崩れた窓から昼の日差しが差し込んでいる。

空は澄んでいて、雲ひとつない。


「……昼か。攻めるなら、今が一番いい時間かもね」


「現在ノ時間帯ニテ、敵性反応ハ薄。外敵行動率:推定四一%低下。 目的地マデノ移動ハ、日中ノ方ガ安全ト推測」


「なら行こう。やるべきことは決まってる。あのチンパンジーの巣に、先に手を打たなきゃ」


「目的地:シェンリーパーク温室植物園。推定移動時間:徒歩二五分。ルート内ノ障害、最小限。進行ヲ推奨」


リラはナインをホルスターに収め、深呼吸をひとつ。

少しだけ緊張が和らいだ気がした。


「じゃあ、行こうか。あの異様な“視線”の元まで」


「了解──臨戦モード、準備完了。以後、警戒レベル最大」


リラは静かに庁舎を出て、陽の差す崩れた街路へと足を踏み出した。

目指すはシェンリーパーク。

あの変異したチンパンジーたちの根城。


行くしかない。

怖くても、痛くても、それでも前に進まなければ。

自分の意思で…。




ピッツバーグの街は、無残なまでに変わり果てていた。

割れたアスファルト、埃をかぶった車の残骸、錆びついた標識が風に揺れている。


リラはナインをホルスターに収めたまま、瓦礫を避けるようにして歩いていた。

その背後にある群庁舎は、もう静寂の中に沈んでいた。


「……ここも、1ヵ月前までは賑やかだったんだよね」


「正確ナ記録:人口三〇万以上、学術都市トシテ栄エ、文化施設多数存在」


「……今じゃ、何もないけどね」


通りを抜け、遠くにモノンガヒラ川が見えてくる。

昼の陽射しが川面に反射して、まばゆいほどの光を返していたが、流れる水は瓦礫や破片に濁っていた。


通りを歩きながら、ふとリラは視線の端に“動き”を捉えた。


――屋根の上。


一瞬の揺らぎ。

細い影が、こちらを見下ろしている。


「ナイン、あれ……見えた?」


「確認済ミ。対象ハ、チンパンジー型変異体ト推定。単独行動、監視行動ノ可能性、高」


「こっちを見てた……」


リラは立ち止まりかけたが、すぐに歩調を戻した。


「……見て見ぬふり……」


「判断:賢明。誘導行動ノ場合、後方カラ接近スル可能性モアリ。警戒ヲ継続」


屋根の上のチンパンジーは、リラたちが動じないのを確認すると、音もなく背後へ消えていった。


リラは視線だけでその逃げる方向を追う。


そして数分後。


辿り着いたのは、シェンリーパークの外周だった。


高くそびえる鉄柵の一部が倒れており、木々が鬱蒼と茂る様子が中から覗いている。


「……ここね」


「追跡対象ノ変異体、同地点ニ接近中。行動パターン一致。侵入前ニ排除スルコトヲ推奨」


「――任せて」


リラは身を屈め、倒れた鉄柵の影に隠れるようにして銃を構える。


数秒後、先ほど屋根の上にいたチンパンジーがパーク外周の草陰から姿を見せた。

周囲の様子を伺いながら、フェンスの穴へと身体を滑り込ませようとする――


「……今!」


「標的補足──射撃ッ!」


バシュッ──!


青白い閃光が風を裂き、クリーチャーの胸を貫いた。


断末魔も上げられぬまま、それは土に還る。


リラは一歩、足を進めた。


「ここで間違いなさそうね…」


「反応:消失。シェンリーパーク内部ニ、複数個体ノ存在ノ可能性、非常ニ高イデス」


鉄柵の向こうには、朽ちかけた温室のガラス屋根が光を受けて鈍く反射していた。


そこが、“あのチンパンジーたち”の巣――リラは、覚悟を込めて息をひとつ吐いた。


鉄柵の隙間をくぐり抜け、リラは静かにシェンリーパークの敷地内へと足を踏み入れた。


一歩ごとに、靴の裏が落ち葉やガラスの破片を踏みしめ、微かな音を立てる。


風が通るたび、枝葉の擦れる音が耳に触れた。 だが、その自然の音が、なぜか異様に不気味に感じられる。


「……静かね」


「音響解析中……周辺ノ動物反応、皆無。推測:クリーチャー化済個体ニヨル、排他的占拠」


石畳にヒビが走った遊歩道を、リラは慎重に進んでいた。


倒れたベンチ、割れた街灯、朽ちかけた案内板。 草に埋もれた歩道の先に、かつての穏やかな時間があった面影は、もうどこにもない。


「……ここ、公園だったのよね」


リラは足を止め、ふとつぶやいた。


「正確ニハ、“シェンリーパーク”──ピッツバーグ最大ノ都市公園。温室、博物館、遊歩道、池……面積:四五〇エーカー」


「今じゃ、ただの廃墟って感じね」


周囲に人気はない。 だが、空気は妙に張り詰めていた。風に揺れる木々の葉音すら、警告のように響く。


「敵性反応:現在ナシ。監視行動ノ気配、消失中」


「……潜んでるってことよね。わざと姿を見せないのも、それはそれで怖い」


リラは手をホルスターに添え、ナインを静かに握りしめた。


森が深くなるにつれ、気温がわずかに下がる。 陽の光も木々に遮られ、視界が陰る。


湖が見えてきた。


古びたフェンス越しに、木々の間から静かにその水面が姿を現す。

パンサーホロー湖――その名に似合わず、いまは誰一人いない、鏡のように静かな湖だ。


「……ここが、湖?」


「確認:パンサーホロー湖。旧名所ノ一ツ。周囲ニ遊歩道アリ。現在、動体反応ナシ」


濁った水面には、折れた枝やゴミが浮いている。

かつて人々がベンチに座り、穏やかな午後を楽しんだであろう景色も、今は風の音と鳥の鳴き声さえ消えていた。


「綺麗……ってほどじゃないけど、なんだか落ち着く」


「警告:落チ着キ過ギモ注意。コノ静ケサノ先ニハ、異常ナ気配ガ在リマス」


リラは頷いた。

湖の奥には、うっすらと温室の屋根が見える。ガラス張りのドームは光を受けて、鈍く光を反射していた。


「ナイン……見える?」


「ハイ。植物園構造物ノ一部ヲ確認。手前ノ湖ヲ越エ、遊歩道ヲ直進スルコトデ接近可能。……但シ」


「……何かいるの?」


「敵性反応:複数。移動ハナシ。距離、およそ七〇メートル──周囲ヨリ、監視中ト推定」


「……やっぱり。来るって、バレてるのね」


「敵対意思、強。周囲ヲ囲マレツツアル状況デス。……オソラク、奥ニ“群レノ中心”ガ」


リラは深呼吸し、ホルスターからナインをそっと取り出した。

冷たい銃身の感触が、鼓動を一瞬だけ静めてくれる。


「わかってる。だったら……そこへ、まっすぐ行くだけよ」


湖は静かだった。

けれど、その向こうには、嵐が待っている。


やがて、彼女の前に、目的地が姿を現した。


ガラス張りの半円形ドーム。 それが、シェンリーパーク温室植物園――かつて緑で満たされていたはずの場所だった。


今は天井のガラスの一部が割れ、内部の植物は野生化して生い茂っている。 蔦が壁を這い、朽ちた案内板には文字がかすれて読めない。


「……ここが、あいつらの巣……」


静かすぎる空気。

だけど、その奥に潜む気配は、はっきりと伝わってくる。


「……たぶん、もうバレてるよね。数はどのくらい?」


声が小さくなる。

右足の痛みはまだ完全には引いていない。

今、正面からぶつかって勝てるかどうか――不安が喉を締めつけた。


「戦力評価──敵性個体:四体、行動反応:警戒状態。 但シ、コチラノ単発攻撃力ハ彼ラノ防御能力ヲ上回リマス」


「……つまり?」


「数的優位ハ敵ニアリマスガ、戦闘効率ヲ加味スレバ、戦力差:五分ト推定。 不安要素ニ非ズ。リラ、現時点デ勝算アリ」


リラは一瞬、目を伏せて、それから小さく息を吐いた。


「……そう、だね。ナインがそう言うなら、信じるよ」


「感情支援モード、稼働中。ユーザー不安軽減ヲ目的トシタ言語選出──成功率:七六%」


「もう、それ言わないで。せっかくちょっと元気出たのに」


それでも、リラの顔にはわずかに笑みが戻っていた。

「周囲ノ温度:通常ヨリ高メ。内部ニ生命反応:複数検出。動体反応:四」


「予想通り……中にいるのね」


リラは、少し息を整える。 重くなった足取りを一歩、また一歩と進めながら――ナインに囁くように言った。


「ここからは、慎重に行くわよ」


「了解。臨戦モード、継続──反応ヲ検知次第、即時通達ヲ」


植物に包まれた廃墟へ。 リラは、銃を片手に、ゆっくりと足を踏み入れた。


足を踏み入れた瞬間、リラの鼻をついたのは、湿った土と腐敗しかけた植物の匂いだった。


崩れかけた鉄骨のアーチ。 ひび割れたガラス天井からは、斜めに陽が差し込み、細かな埃が光の中に舞っている。


「……ここ、本当に植物園だったの……?」


その声に、ナインが応じた。


「正式名称:“熱帯植物展示エリア”──崩壊ニ伴ウメンテナンス停止。湿度、温度、共ニ上昇傾向」


温室内は、まだジャングルとは言えないが、明らかに制御を失っていた。


地面はかつての整備された通路の形をかすかに残しつつも、雑草や蔓植物が割れ目から這い出ている。 元々植えられていた熱帯性の植物たちは、制御を失って自由に伸び始めていた。


大きく広がった葉が通路を覆い、視界を遮る。 温室特有の湿気がまとわりつき、汗ばむ肌にじっとりと貼りつく感覚。


展示エリアの壁には、かつての案内板や解説パネルが傾いて立っていた。 英語とスペイン語で書かれた説明文は、湿気でふやけてほとんど読めなくなっている。


通路の奥、かすかに見える朽ちかけた木製のベンチ。 その近くには、ガラス片が散らばっており、リラは足元に気をつけながら慎重に歩を進めた。


「足元注意。滑リ止メ効果:低下中。転倒時ノ負傷率--二七%上昇」


「……なんかもう、植物園っていうより“罠だらけの森”って感じ」


ナインの返答はなかった。 代わりに、わずかに警戒音を鳴らし、背後の気配をスキャンし続けている。


頭上を見上げれば、天井の割れ目から伸びたツタが、まるで誰かの首を絞める準備でもしているかのように、静かに揺れていた。


そして、その静寂の中。


――かすかな、足音。


リラの足が止まる。


振り返っても、そこには誰もいない。


けれど、ナインが低く告げる。


「敵性反応:三体。距離 一八メートル圏内。 行動:待機・追尾──監視中ト判断」


「……見られてるのは、わかってる。姿を見せないのも作戦ってわけね」


息を呑みながら、リラは再び前を向く。 その視線の先には、温室の中心部──曇ったガラスドームの影が、ゆっくりと姿を現しつつあった。


重く、乾いた空気が肌にまとわりつきながら、彼女は一歩、二歩と進む 。 一瞬ごとに、背筋を冷やす何かが、首筋を撫でるようだった。




リラは静かに足を運んでいた。

足元のツタを踏まないように、音を立てずに。


頭上には、割れたガラス越しの陽光がまだらに差し込み、

湿った空気に溶けるように揺れていた。


「……空気が、変わってきた」


言葉にしなくてもわかる。

呼吸のひとつひとつが重くなり、鼓動が耳の奥で響く。


ナインの声が、かすれるように届いた。


「周囲ノ音──減少中。  鳥類、昆虫ノ気配──途絶。静寂率上昇──八五%」


「生き物が、ここを避けてるってこと……?」


「推定:当該エリアヲ“縄張リ”ト認識スル強力個体ノ影響」


(……ここが、あいつらの“中心”)


湿度は高く、空気はどこか粘つくようにまとわりつく。

まるで、この一帯の空間そのものが「拒絶」しているかのようだった。


周囲には無数の蔓植物、折れた観葉樹、土に飲み込まれた案内板。

足元にはひっそりと枯れた蘭の鉢植えが転がり、その茎は異常なまでに伸びていた。


そして──


その先に、かすかに開けた空間の気配。


光が褪せ、温室の中央にあたる部分、展示ホールがすぐそこにある。


「ナイン……何か、いる?」


「強反応 ── 前方ニ、一体。 行動:静止中。視線追尾ヲ確認。ソノ他、周囲ニ熱源三体」


リラは立ち止まり、息を殺すように木陰から様子を窺う。

その先にあるのは、沈黙と支配の領域。


ここまでの道のりとは明らかに空気が違う。

“何か”がここを拠点として、周囲のすべてをコントロールしている。


リラはゆっくりと、ナインを握りなおした。

その金属の感触は、今まで以上に“武器”としての存在感を放っていた。


「ここが……本当の境界線。越えたら、戻れないかもしれない」


だが、足は止まらない。


一歩、また一歩と、

リラは“ボスのいる展示ホール”へと足を踏み入れていく。




リラがたどり着いたその場所は、かつて「熱帯植物特別展示ホール」と呼ばれていた。


天井は高く、ドーム状の構造は割れたガラスの隙間から白い陽光をまだらに落としている。

だがその光景は、美しいとは言えなかった。


中心にあるはずの展示台は倒れ、土と枯葉にまみれた床には、黒ずんだ染みがいくつもある。

それが「血痕」だと、リラは直感で理解した。


「……何か、いる……」


ナインが低い警戒音とともに囁く。


「中央圏──強力ナ熱源反応一体。静止中。行動ナシ。 他ノ個体ト異ナリ、体表温度──顕著ニ高」


リラは息を呑む。

それは“ただのチンパンジー”ではない。

何かが、違う。


それはまるで──


この場所を“玉座”とする支配者のように、

中央に、静かに、座っていた。


割れた展示台の上。

かつて、蘭の鉢植えが並べられていた場所に。

──「それ」はいた。


毛並みは黒く、肩幅は広く、背丈は他のチンパンジーの倍近い。

筋肉は肥大化し、片目は潰れ、皮膚の一部はただれていた。


異常に肥大した上腕と、片目に刻まれた深い傷跡。


体には、他の個体にはない“銀色の首輪”のようなものがはめられていた。

それはエイリアン由来の遺物か、それとも人間の管理下にあった名残か――。


「……群レノリーダー。推定:知能レベル、顕著ニ高イ。  他ノ個体ノ行動ハ、当該個体ノ命令ノ可能性アリ」


(こいつが……群れのリーダー……)


その生き物は、微動だにせず、リラを見つめていた。


眼光がある。

野生動物のそれではなく、もっと“人間に近い”、

あるいは“人間よりも冷たい”……そんな目だった。


しばらくの間、ホールには沈黙だけが流れていた。


けれどその“静寂”は、

今にも崩れ落ちる緊張の糸のように、限界ギリギリで保たれていた。



展示ホール。

かつては来場者の目を楽しませていたガラスドームの中心。


今は、光が届かぬ鬱蒼とした緑の檻。

土に還った植物と、異常なまでに成長した蔓が絡まり合い、中央にはぽっかりと空いた空間があった。


「……ナンダ……エサ……」

「……ジブンカラ……キタノカ……?」

その声音は、どこか“嬉しそう”ですらあった。


リラは、反射的に一歩後退した。

リラの背筋が凍る。

それは、確かに“言葉”だった。


「……しゃべった……?」


「音声解析中……該当単語:人間ノ言語ヲ模倣シタ痕跡。明瞭度、五〇%以下」


チンパンジーのボスは、喉の奥から搾り出すように、さらに言葉を続けた。

「……ワレノ……テシタ……コロシタ……」

「オマエ……テキ……」


ガリッ――。

その牙が、まるで笑うように剥き出しになる。


「ココハ……ワレノ……トチ……」

「ニンゲンハ……モウ……イラナイ……」


その背後、根に埋もれるようにして積み重なっていた“何か”があった。

よく見ると――人間の骸骨だった。


折れた骨、砕かれた頭蓋。

それらは、まるで“見せつける”ように置かれていた。


リラは思わず、一歩後ずさった。


「……これは、もう……ただの“変異”じゃない……」


「知能反応ノ異常ナ発達──遺伝的要素ノ影響カ、他個体トノ融合カ不明。 但シ、敵意明確。対話ノ余地──ナシ」


ボスは、喉を鳴らして嗤うように一歩、前に出る。

その背後の木陰から、また別のチンパンジー型変異体が現れ、取り囲むように動き始めていた。


リラはナインを構え、深く息を吸い込む。


「……やるしかないみたいね」



ボスの黒ずんだ手が、ゆっくりと持ち上がる。

その指先は、人間のように器用で――けれど、そこにあるのは本能だけの“意志”。


「テキ……エサ……コロス……」


その言葉と共に、背後の蔦が揺れる。

そこから、3体のクリーチャーが現れた。

いずれも、ボスよりひと回り小柄な変異体――群れの護衛。


「ボス個体ヲ含ム。全体戦力:高。推定脅威度:コレマデノ戦闘ノ弐倍以上」


「ちょっと、荷が重いわね……でも、やるしかない」


次の瞬間――


「グギャアアアアア!!」


咆哮。

温室の天井に響き渡る、異様に長い――そしてどこか言葉を孕んだ声。

その瞬間、背後の茂みと左右のガラスの影から、三体の護衛が飛び出した。


「来マス──三方向ヨリ、高速接近ッ!」


ナインの警告がリラの耳を突くように響く。

視界が揺れる。飛び跳ねるように襲いかかってくる三体の変異体。

床を蹴り、梁を伝い、空間を縦横無尽に駆け抜ける。


「っ……速い!」


まるで作戦が組まれていたかのような動き。

一点集中ではなく、同時多発的な“斜め上”からの奇襲。

その狙いは明確だった――


(囲んで、潰す気だ!)


「ナイン!!」


「右上ロックオン撃チマス!」


バシュッ!!


エネルギー弾が一体の胸を貫く。

その肉体は弾かれるように吹き飛び、土となって床に崩れた。


「残リ弐体」


「どこっ…!?」


次の一体が、床を滑るように突進し、リラの足元へ飛び込む。

足を払う動き――!


「くっ……!」


リラは倒れ込みながらも咄嗟にナイフを抜き、刃を振るう。

切っ先が怪物の肩口を裂くと、凄まじい悲鳴が返る。


「ギャアアアアッ!!」


そこに ―― 三体目が飛びかかってきた!


リラが即座に反応し三体目を撃ち抜いた。


バシュッ!


閃光。

二体目と三体目がほぼ同時に吹き飛び、遅れて崩れ落ちるように土へと還る。


「……っ、ハァ……ハァ……っ」


リラは荒く息をつきながら、ナインを見下ろした。


「……残りは……」


ナインの声が低く響く。


「ボス個体、接近中。動作変化アリ。高出力ノ筋力反応──突撃行動、来マス……!」


――次の瞬間。


展示ホールの鉄梁が揺れた。


リラが顔を上げた時、巨大な影が天井から跳躍していた。


「真上ッ!!」


「来いっての……!」


彼女は銃を構えながら、後ろへと転がる。

照準がボスの中心を捉えた、その一瞬――


「ナイン、最大出力で!!」


「了解、最大モード──発射ッ!」


バシュウウウッ!!


青白い閃光が咆哮と共に空を裂いた。

だが――


「ッ――!? かわした……!」


ボスは空中でその巨体をねじり、信じられない動きで弾道を外した。

重力すら無視するかのように一回転し、鉄骨の梁に着地する。


「……ナイン、残弾は!?」


「確認中──現在ノ出力状況ニテ、通常射撃:弐発。最大出力:壱発。以後、チャージ必要」


「…外せないってことね」


リラはナインを握る手に力を込めた。

汗がグリップに滲み、鼓動が手の中からも伝わる。


その時だった。

梁の上に立つボスが、わずかに顔を傾け、不気味な笑みを浮かべた。


「……オマエ、ウツ ヘタ」


牙を剥き出しにしながら、低く、ねばつくような声で――


「ニンゲン……ジュウ、ミナレタ」


その声には、嘲りとも警告ともつかない何かが混ざっていた。


ナインの冷静な声が重なる。


「警告:敵個体、射線認識アリ。銃撃ノ弾道特性ヲ理解、回避行動ニ応用シテイル可能性」


「……学習してるってこと……?」


鉄梁の上で、ボスが再び動いた。

大きく身体をかがめる。――再度の跳躍。


リラは歯を食いしばりながら、ナインを両手で構えた。


「来るなら……撃ち抜くしかないッ!」


ボスのクリーチャーが空中から急降下する――しかし、リラはその瞬間、撃たなかった。

ギリギリの間合いで身を捻り、横に飛ぶようにして回避する。


「くっ……!」


直後、クリーチャーの着地と同時に、床が“バキィッ”と音を立ててひび割れた。

重量と衝撃を帯びたその跳躍。化け物じみた膂力の証だった。


リラが振り返るより早く、ボスの赤く濁った目がギラリと光る。


「オマエ、ハヤイ……」


それは、敵意と共に、ほんのわずかな賞賛が混じった声音だった。


リラの呼吸が荒くなる中、ナインがすぐに判断を示す。


「提案:通常出力ニテ連続発射ヲ行イマス。初弾ハ意図的ニ外シ、敵ノ動作ヲ誘導──

 二発目ヲ本命トシテ命中率ヲ最大化。照準調整ハ私ニオ任セヲ」


「……そんな芸当、できるの?」


「確率演算──成功率、七七%。十分ト判断」


リラは最近、自分の判断で撃つことが増えてきた。


道中、何度もクリーチャーと対峙し、撃って、撃って、また撃ってきた。

最初は引き金を引くことすら躊躇っていたはずなのに、今では、構える動作に何の迷いもない。


ナインの補助があってこそだが、リラ自身はまだ素人だ。タイミングも、照準も、呼吸も、まだ経験が浅すぎるのだ。


そんな自分では、今目の前にいる“ボス”には勝てないと、直感的に悟っていた。


リラは目を細め、ナインのグリップを握り直し、両手で構えながら、目の前の“敵”を見据えていた。

「OK、任せた!」


「了解──戦術、始動」

「提案:リラ、撃ツ“フリ”ヲシテクダサイ」


「……フリ?」


「対象ハ、リラノ“引キ金ノ指”ノ動キニ反応シテ回避ヲ行ッテイマス。

 複数回ノフェイントヲ通シ、行動パターンヲ抽出可能ト判断」


「……撃たないでってこと?」


「ハイ。但シ──非常ニ危険デス。

 回避ハギリギリデ実施シテクダサイ。接近ヲ許ス事ニナリマス」


リラは一瞬、唾を飲み込んだ。

その判断がどれだけ危険か、本人が一番わかっている。

だが、撃てば“外れる”。

当たらなければ意味がない。

なら、勝つためには――


「……わかった。やってみる」


「解析開始。リラ、指ノ動作ハ自然ニ。

 射撃反応ニ見エル様、ノ動キ──オ願イシマス」


ボスはじりじりと距離を詰めていた。

牙を剥き、腰を落とし、まるで狩る瞬間を待つ獣のよう。


リラは一度、深く息を吸い――

引き金にそっと指をかけ、動かす“演技”をした。


すると――


バシュッ!と飛び出すように、ボスの身体が空を裂く。

その動きに合わせて、リラも体をひねって回避。


「──今の、見た?」


「回避傾向:右側ニ跳躍、着地時ニヒザヲ深ク曲ゲル癖、アリ。

 二回目ヲ──お願いします」


リラは息を吐く。

すでに汗が額を伝っていた。


(……こいつに勝たなきゃ、ここで終わる)


リラは再び構え直す。

深く、静かに息を整え、引き金に触れる指先をわずかに動かした。


「二度目……行くよ」


演技──だが、ギリギリまで“本物”に見えるように。


ボスが反応する。


低く身を沈めたかと思うと、弾丸の軌道を読むように空中で軌道を変え、左右に身をひるがえす。


(やっぱり……読んでる!)


ナインの声がすぐに重なる。


「動作パターン蓄積中。視覚認識カラ指先ノ動キマデノ反応時間:およそ0.43秒」


「そんな細かいの、どうやって……っ!」


「三回目、実施ヲ──ギリギリマデ回避ヲ引キ延バシテクダサイ」


リラは唇を噛んだ。

もう一歩、踏み込んでくる。


――怖い。


太ももの痛みが脈打つ。

けれど、それよりも強く、全身を貫くのは“恐怖”だった。


(やらなきゃ……ここで倒さなきゃ、もう逃げ場なんてない)


三度目のフェイント。


「……ナイン、今度こそ決めるから。合わせて!」


「了解。次回射撃:自動補正モード・起動。照準ズレハ補完シマス──

 開始ノ合図ヲ」


リラは小さく、けれど強く呟いた。


「……今、撃つ!」


その声とともに、引き金を“引こうとする”仕草。


ボスが跳ぶ!


床板が軋み、空気が裂ける音が重なった。


「撃ちマス──!」


バシュッ! バシュッ!


連続で放たれる青白い光。


1発目──わざと外す。


それに反応して右へ跳んだボスの動線に――


2発目が、正確に叩き込まれる。


「ギャァアアアアア!!」


空中で命中したそれは、ボスの左肩を貫き、鉄骨に激突しながら転がるように落ちた。


リラは銃口を下げないまま、息を切らしていた。


「残弾は……?」


「残弾:ゼロ。現在チャージ中──弐拾五%」


「っ……やった、でも……まだ、終わってない……!」



ボスの肩を撃ち抜いた2発目──

それで、終わったはずだった。


だが――まだ、動いていた。


転がった先で、血を流しながらも、ボスは立ち上がってくる。

左肩が潰れたまま、牙を剥いて、低い声を漏らす。


「ニンゲン……!」


ぐらつきながら、左腕は垂れ下がり、肉が裂けた部分から黒ずんだ血が流れている。

それでも、獣の瞳はギラギラとした殺意を手放していなかった。


「ニン……ゲン……コロス……ッ!!」


吠えながら、再び跳躍。

瓦礫を蹴り、鉄骨を踏み、低く、鋭く、一直線に迫る。


「警告:エネルギー残量──ゼロ。発射不可」


間に合わない。


ボスが、もう目の前だった。


その大きな爪が、リラの胸元に迫る――


「っ、ああああああっ!!」


とっさに身を引く。


かろうじて回避するが、腕に鋭い痛みが走る。

避けきれなかった爪が、リラの左腕を裂いた。


「がっ……!」


後ろへ転がる。

痛みが脳を突き抜け、息が詰まる。


(撃てない……もう、撃てない……!?)


リラは必死にナインを握り締めた。


「……ナイン、なにか……方法は……!」


「攻撃不能──チャージ完了マデ、回避ニ集中ヲ」


「くっ…わかってる…」


その瞬間。


リラの目が、わずかに赤く光る。


(ダメだ……ここで終わるわけには……!)


ナインのセンサーが微細な反応を捉える。

脳波の異常上昇、筋出力の急上昇。

覚醒前の兆候だった。


(リラ……!?)


「来なさいよ……これで終わらせるッ!」


静かに呼吸を整えながら、ナインをホルスターへと収めた。


右手でナイフを抜き、最後の反撃のタイミングを計る――


次の瞬間、血の匂いと殺意の渦が、温室の空間を満たす。



左腕に痛みを抱えたまま。それでも、彼女は立っていた。


正面。瓦礫を踏みしめるような重い足音と共に、ボスの姿が浮かび上がる。 左腕には同じく傷。

肩は裂け、動きの鈍ったその腕を庇うようにしながらも、眼光は鈍っていなかった。


(……お互い、同じ場所を傷めてる)


その事実が、不思議な“共鳴”のように感じられた。


咆哮が響いた。


「グアアアアアアアアアッ……!!」


ただの雄叫びではなかった。 それは怒りと本能、そして「最後の闘志」を叫ぶような――そんな音だった。


温室の残響がそれを拾い、リラの胸の奥を揺さぶる。


そして、次の瞬間だった。


リラの身体が、ぐらついた。


(……あれ……)


視界がぐにゃりと揺れた。 脈が――跳ねる。 血流が速くなり、全身が熱を帯びていく。


「ナイン……これ……何?」


ホルスターの中、ナインのランプがちらついた。


「使用者ノ生体反応ニ、異常アリ。神経系、内分泌系、共ニ急激ナ活性化──“変化”ガ発生シテイマス」


(変化……?)


まるで、熱に浮かされたような感覚。 けれど意識ははっきりしていた。 それどころか、すべてが冴えていく。


視界の“重さ”が消える。 空気の“軌跡”が読める。 鼓動の一拍が、やけにゆっくりと聞こえる。


(これ……あの時と、同じ……)


地下鉄で母に触れた瞬間。 本能的な拒絶が、自分の中の何かを“目覚め”させた時の感覚。


あれが今――再び来ている。


「ナイン……今、私……」


「覚醒反応、進行中。  筋出力、反射速度、視覚処理能力──標準比:一四〇%上昇」


リラはゆっくりと姿勢を正し、傷ついた左腕を体の後ろに隠した。


もう、怖くはなかった。


(撃てなくても……戦える)


その時、ボスが――咆哮を上げた。


リラは目を細め、わずかに口角を上げた。


「来なさいよ……」



ボスが吼えた。


「グオアアアアアアア……!!」


その叫びは、咆哮というよりも“最期の怒声”に近かった。 リラは瞬時に足を踏み出す。


反射ではない。予測でもない。 その全身が、今この瞬間にだけ研ぎ澄まされた“刃”のように動いていた。


右手には、地下鉄で拾ったKA-BARナイフ。 覚醒した肉体に握られたそれは、まるで一体化したかのように軽かった。


ボスの両脚が床を割る勢いで跳ね上がる。 その動きに呼応するように、リラもまた前へと踏み込んだ。


――空気が震える。


世界が一瞬、静止したかのような錯覚。 互いの身体がぶつかる刹那、咆哮が重なった。


「ッ――!」


「アアアアアアアッ!!」


衝突の瞬間、ボスの爪がリラの肩をかすめた。 だが次の瞬間、リラのナイフが――その胸を、真正面から貫いていた。


めり込む肉。 骨を裂く感触。 そして、指先に伝わる“確かな核心”。


リラの腕が、最後の力で押し込んだ。 ナイフの刃は、迷いなく心臓を穿った。


ボスの目が、見開かれる。 そして――


「グ……ァ……」


その巨体が、スローモーションのようにぐらりと傾き、 ひとつ、深い息のような音と共に、崩れ落ちた。


ドサッ……


植物園の床を揺らすような音。 血は流れず、肉体は静かに土へと還り始める。


リラは息を殺しながら、ナイフを手にしたまま立ち尽くしていた。 その身体は震えていたが――それは恐怖ではなかった。


「……終わった……」


静かに呟いたその声は、温室に反響し、まるで誰かに伝えるように消えていった。


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