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崩壊の日 - The Day the World Fell -  作者: セイ・タカ
崩壊の日 - The Day the World Fell -
5/8

第四話:「影」

夜が明けた。

濁った空に、淡い光が差し込んでくる。


リラは壁にもたれたまま、目を閉じずに座っていた。

浅い呼吸。張りつめた緊張はまだ残っている。


「……結局、一睡もできなかった」

「……でも、あいつら ―― 変異したチンパンジーは、もういないんだよね?」


ナインの小さな発光が反応する。


「敵性反応:現時点デハ検知セズ。周囲カラハ立チ去ッタ様子」


「……ナイン、私たち、ここに留まってて大丈夫かな」


リラは窓の外を一瞥しながら、低く問いかけた。夜が明けても、緊張はまだ胸に残っている。


「状況分析:当庁舎ハ防御性高ク、構造堅牢。避難先トシテノ適性ハ都市圏内ニ於イテ上位五%」


「それって、他にまともな場所がほとんど無いってことよね」


「……概ネ、肯定」


リラはため息をつき、壁に背を預けたまま腕を組んだ。


「……わかってる。だったら、ここをちゃんと“使える場所”に変えるしかない」


彼女はゆっくり立ち上がると、ナインをホルスターに収めた。


「まず、一階の事務所に置いてきた物資、回収しに行く。あそこに寝袋と食料、まだあるはず」


「推奨:移動時ハ警戒維持。敵性反応ノ再接近可能性、ゼロデハアリマセン」


「もちろん。油断する気なんてないよ」


一階の事務室には、夜の間に荒らされた形跡はなかった。

扉をそっと開け、リラは中に目を走らせる。寝袋、携行食、水のボトル、小さなランタン――必要なものは、まだそこにある。


「……急ごう」


手早く荷物をまとめ、背中にリュックを背負う。

ナインは常にリラの手元で警戒モードを維持している。


「敵性反応:ナシ。周囲、静穏」


「……静かすぎるのも、嫌な感じ」


再び階段を使って、庁舎の上階を目指す。

階段の踊り場には崩れた書類棚、割れたガラス、落書きのような血の跡がある。

だが、それでも建物の構造自体はしっかりしている。


「三階。最上階デス。構造上、侵入口少ナク、拠点トシテ有効」


重たい石の階段を上り、リラは三階の廊下をゆっくりと進んだ。

床には書類の束が散乱し、風の抜ける音がどこか遠くから聞こえる。


廊下の突き当たり、古びた銘板がかかった扉を見つけた。


「職員会議室」


内装は埃にまみれ、机や椅子も乱れていたが、部屋自体は広く、扉も頑丈そうだった。

何より、一方向にしか出入口がないという点が、今の状況には心強い。


リラは扉をそっと閉め、すぐそばにあった金属棚を倒して簡易的なバリケードを作った。

机を壁沿いに並べ、窓からは外の様子が少しだけ見える。


「……とりあえず、ここで持ちこたえるしかないか」


ナインが静かに応じた。


「推奨:短期拠点トシテ最適。侵入経路ノ限定、死角ノ少ナサ、逃走ルートノ選定ガ容易」


リラは頷き、小さなため息をついた。

肩の痛みはまだ残っていたが、それでも、しばらくはここが――彼女の砦になる。




廊下の先、一室を選んで扉を開ける。

古びた応接室のような部屋。窓は小さく、扉は金属製。

壊れた机と棚がいくつか残っており、それらを使えば簡易的なバリケードを築けそうだった。


リラは物資を床に置き、すぐに手を動かし始める。

机を倒し、扉の前に立てかけ、割れかけた棚の一部をかませる。


「……こんなもんで、少しはマシになるかな」


「防御性能:六〇%向上。時間稼ギ程度ニハ充分」


「なら、いい」


ひとまずの備えを終えたリラは、壁際に寝袋を広げ、ナインを傍らに置いて腰を下ろす。


「……ナイン、しばらく休ませて。少しだけでも、目を閉じたい」


「了解。監視モード継続。異常発生時、即時報告シマス」


リラはホルスターに手を添え、ナインの存在を確かめるように目を閉じた。

今はまだ眠れない。でも、少しでも体を休めなければ、次はない。


廃墟の静寂のなかで、ナインの蒼銀の光だけが淡く点滅を続けていた――。




‐数時間後‐



重たいまぶたがゆっくりと持ち上がり、天井のひび割れが視界に映る。

リラは寝袋の中で体を少し動かし、深く息をついた。

冷たい空気が肺に入り込み、眠気の残る思考がゆっくりと現実に戻っていく。


「ん……どのくらい…寝てたかな…?」


問いかける声は掠れていた。


掠れた声で呟くと、腰のホルスターの中から柔らかく光が滲む。

人工的でありながらどこか有機的でもある、青白い粒子のような光 ―― ナインが応答の兆しを見せた。


「正確ナ睡眠時間:一時間五十六分。現在時刻:推定〇九三四。

 お目覚メ、良好ト推定。……軽食ヲ推奨。消費カロリー、高。」


「……二時間か……そんなに寝たんだ」


体はまだ少し重たい。けれど、昨夜の疲労感に比べれば、雲泥の差だった。

肩の痛みも幾分か和らいでいて、行動に支障はない。


リラはナインをホルスターに収め直し、リュックの中から保存していた燻製の鹿肉を取り出した。

数日前、ナインの指示を受けながら解体し、簡易的に燻して保存しておいたもの。


「……まあ、味は期待しないけどね」


ぶつぶつ呟きながら、小さく裂いた肉を口に運ぶ。

硬く、噛み応えのある肉から、ほのかに煙の香りと野生の味が広がる。


「咀嚼動作、正常。摂取効率:良好。

 なお、本食材ニ含マレル成分ハ、次ノ行動ヘノ出力ニ適応シマス」


「……だから感想いらないってば」


小さく笑って、もう一切れ口に放り込む。

不意に、窓の外へと目をやった。


曇天。崩れた都市。

変わらない風景、けれど、それでも「今日」が始まっている。


(……ちゃんと、生きてる)


そんな言葉が、ふと頭をよぎる。


リラは残った燻製肉を丁寧に包み直し、再び荷物にしまった。

少しずつでも、前へ進む。それが今できる、唯一のことだった。



リラが簡単な食事を終え、荷物を整理していると──

ナインが、ふとした間を置いて声を発した。


「監視ログ:更新完了。チンパンジー型変異体ノ行動、異常パターンヲ観測。」


「……異常パターン? どんなの?」


「通常、個体行動ガ基本。但シ本集団ハ明確ナ“隊列行動”アリ。

 目的ナキ徘徊デハナク、“目標”ヲ持ッタ行動ト推測。」


リラは背筋に微かな寒気を覚えた。


「目標って……私を、狙ってるってこと?」


「可能性:高。更ニ注目スベキ点ハ“待機”ノ傾向。

 過去ニ観測サレタ変異体ト比較シ、“奇襲”ヤ“陽動”ノ兆候ガ濃厚」


「つまり……あいつら、待ってるってこと……?」


「ハイ。建物内部ノ構造ヲ把握シ、逃走経路ヲ潰シ、“狩場”トシテノ準備ヲ進行中ト推定」


リラは、思わず唇を噛んだ。


(……群れで、仕掛けてくるつもりか)


ただの獣じゃない。

“知性”がある。いや、“狡猾さ”か。


「……このままここにいたら、包囲される?」


「一定時間以内ニ再侵入スル可能性:七二%。

 推奨:防衛準備カ、先制行動ノ選択ヲ」


リラは銃を見つめ、ナインをそっと手に取った。


「……だったら、準備しておかないとね」

「ねえ、ナイン。今まで聞かなかったけど……あんた、何発撃てるの?」


ナインは一瞬の沈黙の後、静かに答えた。


「基礎仕様:地球人製S&W M19ヲ模倣シ、設計サレマシタ。

 見タ目ハ六連装式回転リボルバー、弾倉ハ非実体。エネルギー供給方式:外部充電+太陽光吸収式」


「……ってことは、見た目だけ“銃”って感じなのね」


「正確ニハ、心理安定ノ為ノ演出要素。使用者ノ“実弾感覚”ヲ模倣。」


「……じゃあ、本当は弾なんか入ってないってこと?」


「正解。シリンダーハ回転シマスガ、装填口ナシ。

 構造上ノ演出、使用者ノ心理安定ヲ目的トシタ設計」


リラは小さく笑い、肩をすくめる。


「つまり、“気分”ってことね……リアルなごっこ遊びみたい」


ナインは淡々と続けた。


「通常出力時:最大六発連続射撃可能。全弾使用時、日中(太陽光下)チャージ完了マデ五分程度。夜間:内部バッテリー使用ニヨリチャージ完了マデ約一時間。」


「……じゃあ、撃ち切ったらしばらく無防備になるってこと?」


「正確ニハ“再チャージ待機時間”発生。尚、単発使用時ハ逐次充電可能。最大出力時ノ射撃:三発連続ガ限界。以後、冷却時間ヲ要ス。」


リラはナインを持ち直しながら、目を細めた。


「制限、けっこう多いのね。でも……あんたがいなかったら、とっくに終わってた」


「性能限界ハ存在シマスガ、“致命的状況回避”ノ補助ハ可。故障率、現在ノ環境下ニオイテ弐%未満。稼働率安定中。」


「頼もしいこと言うじゃない……。でも、本当にお願いね。あんたにしか頼れないんだから」


「リョウカイ。リラノ信頼ニ、全力デ応エマス。」



リラはナインを両手で包み込むように見つめた。

けれど、その心には小さな不安があった。


──この銃は、完璧じゃない。


ナインは、地球人製のS&W M19を模倣したエネルギー銃。

最大出力では3発、通常出力でも6発が限界。

撃ち尽くせば、日中の太陽光下で約5分間のチャージが必要となる。

夜間の場合、その時間はおよそ1時間にまで延びる。


それは戦場において、**致命的な“空白”**を生み出しかねない制限だった。


数秒で決着がつくような接近戦で、“たった数分”の回復待機は、

そのまま“死”を意味することすらある。


たった数分でも、状況によっては命取りになる。

けれど、それを完全に理解しているわけではない。

ただ、どこかで“そういう気がする”だけ――。


まだ17歳。

戦場の経験など、ほとんどない。


それでも、何度かの戦いを経て、リラの中には

「この光がいつまでも頼れるとは限らない」という、

漠然とした危機感が、じわりと根を張り始めていた。


ナインは確かに強力だ。

だが、それは限られた瞬間だけ放てる光に過ぎない。

その光が消えた後――何が待っているのかは、まだわからない。



「……不安定ナ状況ニオケル最大ノ脅威ハ、“予期セヌ沈黙”デス」


リラは目を細め、ナインを見つめ直した。


「……それって、自分のこと?」


「可能性:含マレマス。私モ、完全デハアリマセンカラ」


ナインの言葉は、妙に優しく、けれど機械的だった。


その瞬間、リラは肩の違和感を思い出した。 小さな痛み。けれど、それは今や――


(……傷、まだ……あんなだったよね?)

リラはナインを見下ろしたまま、自分の肩に手を当てた。


(……おかしい)


昨日の戦闘で、クリーチャーの爪がかすっただけ――そう言い聞かせていたけれど、実際にはそれなりに深い裂傷だった。

傷口は数センチにわたり、当初は血がにじみ、腕を動かすたびに鋭い痛みが走っていた。


けれど今――


袖をめくって確認すると、そこにはほとんど塞がった皮膚があった。

赤みはわずかに残っているものの、もう血は滲んでいない。

あれほどの傷が、たった一日で、ここまで回復するものだろうか。


(……こんなに早く治るなんて、変だよ)


不安が、胸の奥をざわつかせる。


「ナイン……」

ぼそりと呟くと、すぐに機械音声が返ってくる。


「外傷反応:確認済ミ。回復速度ハ標準値範囲内ニ収マッテイマス。異常ナシ」


「……それ、本当に“人間の標準”で言ってる?」


「参考データ:一部範囲外。補足:個体差ノ可能性アリ」


リラはナインの無機質な声を聞きながら、わずかに眉をひそめた。


(やっぱり……何か、おかしい)


自分の体が、少しずつ“何か”に変わりつつある――そんな感覚が、薄く、しかし確実に胸の中に残っていた。


リラは立ち上がり、窓の外――まだ陽の高い空を見上げた。


「……ねえ、ナイン。あいつら……また来ると思う?」


「可能性:高。敵性個体ハ一度ノ失敗デ諦メル傾向ナシ。加エテ、知能アリ。再襲来ノ際ハ、時刻・手段共ニ変化ノ可能性アリ」


「……時間帯の予測は?」


「推定:夕刻。前回ト同様、光量ノ減少時刻ヲ選択スル可能性アリ。  暗所ニ強イ種族ノ傾向、戦闘優位時刻ヲ選定スル確率:六四%」


「じゃあ……日が落ちるまでが勝負か」


「推奨:防衛準備、強化。行動限界マデニ、最上階ヘノ物資搬入完了ヲ」


リラは大きく息を吐いて、視線をナインに戻した。


「……ほんと、休む暇ないよね」


「機能上、ワタシハ休憩不要デス。ダカラ、使用者ハ一時間ダケデモ横ニ……」


「遠慮しとく。今は……気が抜けない」


リラの視線は、再び扉の向こう――戦いの予感に満ちた階下へと向けられていた。




静寂――それは、予測できない恐怖を孕んでいた。

敵が姿を見せない時間ほど、疑念と不安は胸の奥で膨らんでいく。


これまでの旅でリラは、何度も危機に直面してきた。

けれど――こうして建物の中に潜みながら、じっと“次の襲撃”を待つという状況は、今回が初めてだった。


閉じた扉の向こうに、何がいるのか。

どの瞬間に牙を剥くのか。

そういった曖昧な緊張が、神経を少しずつ削っていく。


このまま、ただ座って待っているわけにはいかない。

次に来る“何か”のために、動かなければ――。




リラは床に座り込み、簡素な布を敷いた上にリュックを広げた。

その中から、包んでおいた鹿の燻製肉を取り出し、かじりつく。

少し硬い――けれど、保存性もあって、なにより安心できる味だった。


ナインは沈黙を守ったまま、室内の空気を読むように静かだった。

外は次第にオレンジ色から深い藍色へと変わりつつあり、窓の外の影が濃くなる。


リラは壁にもたれながら、つぶやく。

「……夕方って、こんなに静かだったっけ。……その分、余計に怖いよね……」


その静寂を破ったのは、ナインの落ち着いた報告だった。


「敵性反応、検出。郡庁舎外部、北側通路ニテ複数ノ動体反応アリ。距離、およそ五〇メートル。数、六体。」


リラはゆっくりと燻製肉を置き、目を細めた。


「……昨日より増えてる……。」


声には苛立ちよりも、呆れに近い疲れが混じっていた。

けれど、立ち上がるその動きに、迷いはなかった。


「警戒モード、最高レベルへ移行。待機シ、侵入行動ヲ監視中」


ナインの報告が続く中、リラはホルスターからそっとナインを抜き取り、冷たい金属を手の中に収めた。


夕暮れの影が、じわじわと庁舎の中へ忍び寄ってくる。

そして、その影と共に、また“夜”が始まろうとしていた。


「──侵入反応。階段ニテ動体接近中……距離、およそ三〇メートル──急速接近。」


ナインの声が室内に響いた瞬間、空気が張りつめた。


リラは立ち上がり、深く息を吐いて扉の方を睨む。


「……来た……」


「補足報告:対象個体、視覚・聴覚・嗅覚、全感覚ノ感度上昇確認。通常ノチンパンジー個体ヲ大幅ニ上回ル反応速度。」


ナインの声は淡々としているが、その内容は恐ろしく冷徹だった。


次の瞬間、廊下の奥で響く不気味な音――それは「走る音」などではなかった。


獣が壁を蹴り、床を這い、天井さえ利用するような、四肢全てを使って突進してくる、異様な移動音。 何かが“重く、速く、異常な勢い”で迫っている。


「三体──連携行動、確認」


バリケード代わりに積んだキャビネットが、一瞬で吹き飛ばされる。 その先から、黒い影が跳ねるように飛び出してきた。


「侵入ヲ確認。第一波──交戦開始」


「ナイン、お願い!」


「了解──撃ちマス」


バシュッ──バシュッ──バシュッ!!


三連射。

ナインが閃光を立てて撃ち放ったエネルギー弾が、跳びかかってきた3体のクリーチャーを次々に撃ち抜いた。


ギィアアアアッ……!


壁に激突しながら崩れ落ちたそれらの肉塊は、叫びもろとも粉々に崩れ、灰のような土へと還っていく。


リラはすぐさま弾数を確認――3発。

もう、あと3発しか残っていない。


だが、その猶予すら与えられなかった。


「──第二波、接近中」


床が軋み、何かが這いずる音とともに、次の3体が扉の残骸を押しのけて現れた。


その姿は、もはや“チンパンジー”と呼ぶには異様すぎた。

毛並みは抜け落ち、皮膚が裂けたような箇所からは筋肉がむき出し。

片手には錆びた鉄パイプを握りしめている。


ギラついた目が、迷いなくリラに向けられる。


人間のような“敵意”を含んだ、あまりに知的な殺意。


「来る……っ!」


リラは息を呑み、ナインを構えて後退する。 心臓が鳴っているのか、外の足音なのか、もう区別がつかない。


扉の向こうで、3体が獣のように唸りながら、寸分の隙もなく迫ってくる――。


「ギイイイイッ!!」


鉄パイプを手にした1体目が、低く濁った声を上げながら突進してくる。


リラは即座に構え、ナインへと叫んだ。


「ナイン!」


バシュッ!!


青白い光が咆哮を貫き、鉄パイプを握った異形のクリーチャーの胸に突き刺さる。 その体はのけぞり、パイプを放り出して後方へ吹き飛ばされた。


だが――それは“陽動”だった。


「っ……!?」


吹き飛ぶ1体目の“陰”に隠れるように、もう1体のクリーチャーが影の中から飛び出してくる。 まるで“盾”を使うような動き。


「リラ、回避ヲ──!」


「間に合わなっ……!」


ザクリッ


鋭い爪が太ももに突き刺さる感覚。 骨の近くをなぞるように裂かれ、焼けつく痛みが一瞬で体中を駆け巡った。


「ッ、あああっ……!」


リラは叫び、バランスを失って床に倒れ込む。 視界が揺れ、息が荒くなる。


「損傷確認。外傷──中度。出血アリ。歩行能力:大幅低下」


床に倒れたまま、リラはナインを構えて吠えるように叫ぶ。

「っ……ナイン、撃って!!」


「標的補足――」


バシュッ!


弾丸が放たれ、クリーチャーの額を貫く。

絶叫もなく、異形のそれは土となって崩れた。


部屋には、再び沈黙が戻る。

ただ、リラの荒い息と、床にポタポタと落ちる血の音だけが響いていた。


「……っ、くそ……こんな……っ」


リラは震える手で太ももを押さえ、壁にもたれながら、じっと痛みに耐える。


(……まだいる。あと一体……)


ナインを握る手に、じっと汗が滲む。


「ナイン、残弾は?」


「確認──残弾:一発。エネルギーチャージ未完。現在出力:通常モード」


「……撃てるのね」


「ハイ。ただし――次ノ射撃後、チャージ完了マデ最低五分ノ空白ガ発生」


(……ミスは許されないってことか)


リラは痛む足を引きずりながら、部屋の隅へと移動する。 死角の少ない壁際。扉を正面に見据える位置。 今なら――どこから来ても反応できる。


――カツン。


小さな金属音。


扉の外から、小さく、そして確実な音が届く。 わざと、こちらに聞かせるように――。


「敵性反応:一体、距離約三メートル。行動──停滞中。

 意図的ナ威嚇行動ト推測。高知能個体ノ可能性アリ」


「……狙ってるのね。私の動揺を」


リラは無言で息を整えた。 痛みが意識を濁す。それでも目は、鋭さを失っていない。


(来い……来るなら、今……)


――その時だった。


「急接近、確認!」


バンッ!!


金属棚が吹き飛び、クリーチャーが飛び込んでくる。


その手に、鉄パイプ。


「来なさいよっ!!」


リラが構えたその瞬間――


シュッ!!


鉄パイプが、一直線に投擲される!


「くっ……!」


リラは身を翻すが、パイプの先端が右手をかすめる。


「っ……!」


ナインが弾かれ、床に転がった。


「ナイン!」


「位置確認--機能正常--」


反射的にクリーチャーへと視線を向ける――そこに、すでに迫る影。


「来る……!」


距離ゼロ。


咄嗟に、リラは左手で腰のナイフを抜いた。


「うあああっ!!」


がむしゃらに突き出す。 刃が、クリーチャーの喉元に突き刺さる。


「グギィィアアアッ!!」


獣じみた悲鳴。 それでも倒れず、なお向かってくる。


リラは地面に転がったナインを手探りで掴み――


「ナイン!!」


「照準補正──完了!」


バシュッ!!


至近距離。


閃光と爆音。


数センチ先、クリーチャーの顔面が一瞬で崩れ、 肉塊はそのまま霧のように土へと還っていった。


「……っ、はぁ、はぁ……っ!」


全身が震えていた。 焼け焦げた血の匂い、汗のにじむグリップ。


—-沈黙—-


ただリラの、震える呼吸と、出血した太ももだけが現実を示していた。


「敵性反応──消失。戦闘終了」


「っ……ふぅ……っ……」


リラはゆっくりとナインを握り直し、ぐったりと壁にもたれた。


「……ありがと……ナイン……」


「応答:任務遂行成功。現在、再充電中」


室内には、ようやく安堵の空気が戻ってきた。

それは、命を懸けた戦いを超えた者だけが得られる、わずかな静寂だった――。



「リラ、損傷確認ヲ……」


「……ふぅ……動ける……なんとか、ね」


壁に背を預け、リラは深く息を吐いた。 だが、その声には明らかに力がなかった。


ナインの音声がわずかに震えを含んで響く。


「出血量……予想ヲ上回リ中。太モモ筋断裂ノ可能性……早急ナ止血処置ヲ推奨」


「わかってる……後で……。今は……ひとまず……」


「後回シ、非推奨。貧血症状、発生確率六三%。

 意識ノ混濁、歩行機能ノ低下──リラ、お願いデス。自己判断ハ危険」


「わかってる……ってば……」


リラの声が、急激に小さくなる。


視界が揺れる。

ナインを握った手が、力なく膝の上に落ちた。


「リラ……? リラ、応答ヲ……」


リラは答えなかった。


ナインが一度だけ、沈んだ電子音を発する。


「使用者ノ意識レベル、急激低下。仮眠状態──推定、失神中」


銃口の先にわずかに光が灯る。


「周囲ノ警戒レベル、最大値ニ設定。自動攻撃機能──静音モードデ作動中。

 ……保護対象、休息ヲ優先」


人工音声は淡々としていながら、どこか祈るような響きを含んでいた。


静寂が、再び部屋を包む。


月明かりの差し込む部屋の中、血と煙の匂いがわずかに漂う。

その中心で、リラはナインを胸元に抱いたまま、意識を手放していた。



--暗闇—-



浮かび上がるように、柔らかな光がひとすじ差し込んでくる。


リラは気づけば、自宅のリビングにいた。


窓の外は快晴。

薄いカーテンの隙間から差し込む朝の陽射しが、床にまだらな光を描いている。

キッチンでは、トースターの「カシャン」という音が鳴った。


「……リラ、早く起きなさい。朝よ」


その声に振り向くと、そこにはママの姿があった。

エプロンを巻き、フライパンを手に朝食を作っている。

髪は後ろでゆるくまとめられ、背中はどこか安心感に満ちていた。


「もう……五分だけ……」

リラは思わず口を突いて出た言葉に、自分で驚いた。


(あれ……? これ、いつの……)


でも、細かい違和感はすぐに消えた。

なにしろ、目の前に「パパ」もいたのだから。


いつものように、ネクタイを中途半端に締めたまま、コーヒーを飲んでいる。

ソファに腰掛けて、新聞を片手に顔をあげて――にこりと笑った。


「よっ、寝坊姫。今日も戦いの日だな?」


「……戦い?」


思わず聞き返すと、パパはウインクして、トーストを片手に差し出してきた。


「ほら、冷める前に食え」


それは――

きっと、リラが**“崩壊の前”**に、何気なく過ごしていた朝。

何度もあった、はずの朝。


それなのに。


(あれ……この感じ……知らないはずなのに……)


ふと、背後で何かが“ブン”と唸る音がした。

振り向けば、リビングの窓の外に、青白い円盤状の飛行物体が浮かんでいた。

ゆっくりと回転し、無音のまま都市の上空を滑っていく。


「パパ……ママ……それ……」


しかし、彼らは答えなかった。

ふたりとも、それを見つめたまま、動かない。


「どうして……なにも言わないの?」


リラが近づこうとした、その瞬間。


世界が、音もなくヒビ割れ始めた。


床に、壁に、空に。

まるでガラス細工のように、日常がパリン……と音を立てて、崩れていく。


パパが振り返った。

笑っていた顔に、何か言いたそうな気配だけが残る。


けれど、言葉は――届かなかった。

リラの手が伸びたその先で、彼らの姿も、光も、音も――すべてが白く、遠ざかっていく。


(行かないで……)


声は、出なかった。


──その時だった。


「リラ」


耳の奥で、声が響いた。

懐かしくもあり、でも、どこか違う。


「リラ……応答ヲ……確認シテ……」


その声は、少しずつ音を取り戻していく。

電子的で、けれどどこか温かい。


「リラ……体温低下アリ。意識レベル──回復傾向」


ナイン……


夢の景色が、音もなく遠ざかっていく。

ゆっくりと、白いノイズに呑まれていく。


「……っ、……あ……っ!」


意識が、急激に現実へと引き戻される。


まるで火箸を押し当てられたかのような鋭い痛みが、右太ももを突き刺していた。

夢の中で微笑んでいた両親の姿が、白いノイズの向こうへと消えていく。


リラは息を詰め、薄く開いた目をゆっくりと動かした。

冷えた床。崩れた書類。ナインを抱えたままの自分の手。


(……ここは……ああ……そうだった……)


身体をほんの少し動かしただけで、右足から鋭い痛みが再び走る。

思わず顔をしかめ、歯を食いしばった。


「う、っ……まだ、動け……ない……っ」


ズキズキと脈打つような感覚。

出血はもう止まりかけている――それでも、傷は深く、動かすたびに強烈な痺れを伴っていた。


その時、すぐそばからナインの声が落ちてきた。


「意識回復確認。お帰リナサイ、リラ。

 体温:微低下。脈拍:安定傾向。出血:止血済ミ。痛覚信号:強度中」


「……ただいま……ナイン」


搾り出すような声で呟き、リラは体を起こそうとしたが、すぐに断念する。


「……っつ……まだ、無理か……」


「無理ハ禁物。患部ノ炎症反応ヲ避ケル為、今ハ静養ガ優先デス」

「十分ナ水分補給ト、栄養摂取ガ推奨サレマス。……燻製肉ノ残量:少量アリ」


「……気が利くわね……ほんと、あんたってば……」


少しだけ笑った――けれど、目元には疲労の色が濃い。


それでも、生きている。

ナインと共に、生き延びている。


窓の外はまだ夜だった。

だが、その暗闇の奥に、確かな静寂と“束の間の平穏”があった。



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