第三話:「乾いた街」
一ヶ月が過ぎていた。
モールを出てから、リラはひたすら歩き続けていた。
崩れた道路、朽ちた標識、草に覆われた鉄道跡。
夜は冷え込み、風の音に怯える日もあった。だが、それでも歩いた。
時には、ナインと共に川沿いを進んだ。
喉が渇けば、煮沸して川の水を飲んだ。
火はナインの照射モードを使えば、薪に点火できた。
最初は戸惑いながらだったが、慣れてくれば、火の扱いも手馴れていった。
そして何より---狩り。
ある朝、木陰から鹿が顔を覗かせた。
リラは息を殺し、ナインを構えた。
木陰に身を潜めながら、遠くの鹿に視線を定めた。
ナインのセンサーが距離を正確に読み取る。「前方四十弐.七メートル先デス」
「……いける?」
「精密照準、完了済ミ。命中率九十七%」
リラは息を整え、ゆっくりとトリガーに指をかけた。
「獲物ノ気配、四〇メートル先。風向キ良好。撃ツナラ、今デス。」
バシュッ。
閃光が走り、鹿がその場に崩れ落ちた。
撃ったあと、リラは立ち尽くしていた。震える指。胸の鼓動。
「命ヲ奪ッタ実感ガ、時間差デ来ルノハ正常ナ反応デス。異常デハアリマセン。」
リラはただ、黙って頷いた。
その後、ナインの指示に従って解体作業が始まった。
皮を剥ぎ、肉を分け、不要な部分を土に埋める。
「筋肉部位ヲ残シ、腸管ハ可及的速ヤカニ除去。菌ノ繁殖ヲ防グ為、内部ハ十分ナ煮沸処理ガ推奨サレマス。」
「……あんた、ほんと何でも知ってるのね」
「一応、ネヴェリス製デスノデ」
リラはそのとき、自分がすでに“この生活”に順応しつつあることに気づいた。
死を恐れていた頃とは違う。
今の彼女は、生きるために引き金を引き、生きるために食べていた。
焚き火の煙がゆっくりと立ち上る。
川のそば、岩陰に張った簡易な布と木の枠。
その上には、数切れの鹿肉が吊るされていた。
ナインの音声が、いつものように冷静に響く。
「温度、適正範囲内。燻製処理、順調ニ進行中。内部水分ハ残存25%。仕上ガリマデ、約6時間。」
「……そんな細かく教えてくれなくていいのに」
リラは、焚き火を見つめながら小さく笑った。
肉を切り、塩をすり込み、風通しのいい場所を選んで火を起こす。
その一連の作業を、ナインのナビに従ってやってみたのだ。
「少し焦げた方が、香ばしくて好きかも」
「香バシサノ好ミハ個人差アリ。リラノ味覚記録ニ反映済ミ」
「……記録しないでって言ったでしょ」
火に照らされるリラの表情は、かすかに柔らかく見えた。
「……で、ネヴェリスって、どんな星なの?」
「地球ト類似シタ環境──酸素大気圏、液体水、適度ナ重力圏内ニ位置スル居住可能惑星。」
「ふーん……じゃあ、自然が多いとか?」
「該当:ハイ。特異点:惑星全土ヲ覆ウ大規模森林帯。“ユグドラシル”ト呼称サレル巨木群ガ存在。」
「ユグドラシル? 神話っぽい名前……」
「命名者:不明。名称ハ地球神話トノ一致ガ見ラレルガ、起源関係性ハ未確定。」
「……ねえナイン。どうして地球を襲ったの?」
「質問:機密事項。回答権限ナシ。」
「権限ないって……。だったら、あんたの“推測”でもいい。何か理由があるんでしょ?」
「推測:文明維持ノため、何カシラノ必要性アリ。詳細ハ不明。」
「“必要性”って何よ。私たちを殺すことが、そんなに必要なの?」
「殺戮目的トハ記録ナシ。行動ノ結果ハ副次的現象ノ可能性。」
「副次的……?ふざけてるの? 街を壊して、人を殺して、それが“副次的”なわけ?」
「本体目的ノ一部トハ断定デキズ。行動ハ広域的・長期的計画ノ一環。」
「……計画って、何? それが知りたいの。どうして、あんな風に……!」
「該当情報:開示制限アリ。オ答エデキマセン。」
「またそれ……!」
「……」
「“地球を襲った理由は知らない”、でも“計画の一環”だったって言った。それじゃ、その“計画”って何なのよ?」
「データベース照合中……該当ノ計画情報、記録存在ス。アクセス制限レベル:C6、ナインに開示権限ナシ。」
「……っ、それって、機密ってことでしょ。結局何も教えてくれないじゃない!」
「“教エラレナイ”ト、“教エタクナイ”ハ、別物デス。」
「でもあんた、聞かれても困らないようなことはベラベラ喋るくせに、肝心なとこだけ“答えられません”で逃げるの?」
「ユニット構造上、優先度ノ高イ情報ホド、制限ガ厳重ニ設定サレテイマス。」
「誰がその優先度を決めたの?」
「製造母体:ネヴェリス。運用規格、及ビ倫理基準ニ基ヅク設定。」
「倫理? これが“倫理”? 人を殺して、都市を壊して……それが?」
「“倫理”ノ定義ハ文明圏ニヨリ異ナリマス。」
「……もう、いいよ」
リラは黙ったまま、しばらくナインを見つめていた。
その目には、怒りも戸惑いも入り混じっている。けれど、それを言葉にする気力はもうなかった。
小さくそう吐き捨てると、リラは寝袋に体を沈めた。
背中を向けて、膝を抱えるように丸まる。
「……おやすみ」
感情を押し殺すように、かすれた声だけが残った。
ナインは数秒の沈黙のあと、静かに呟いた。
「了解。音声出力:休止……」
──朝。
かすかな光が割れた窓の隙間から差し込む。埃を帯びた光線が、静かな空間をゆっくりと照らしていた。
寝袋の中で、リラがゆっくりと目を開ける。
「……ん、う……」
背中が少し痛い。昨夜は怒りのまま寝袋に潜り込んだせいで、変な体勢のまま眠ってしまったようだ。
そのとき、小さく電子音が鳴る。
「……おはヨウゴザイマス、リラ」
ナインの声は、昨日よりも少しだけ、落ち着いたトーンだった。
「睡眠中、異常ナシ。周辺ノ敵意反応モ現時点デ検出セズ」
リラは無言のまま寝袋から体を起こし、髪をかき上げる。
ナインは、少し間をおいてから続けた。
「……昨日ノ応答、ユーザー心理ニ配慮ヲ欠イテイタ可能性アリ。情報提供ノ不完全性、並ビニ感情的影響ニ対シ、謝罪シマス」
「……」
リラはしばらく黙っていたが、やがて小さくため息をついた。
「……あんたが謝るの、ちょっと意外」
「改善ノ可能性ガアル限リ、修正ハ継続スベキデス。貴女ガ継続的ナ使用者デアル限リ」
「……ふふ、言い回しが固いんだよ、ほんと」
リラは微笑みのような表情を浮かべながら、立ち上がり、肩にかけたリュックを整えた。
「でも……ありがとう。気にしてくれたなら、もういいよ」
「感謝。以後、会話内容ニ更ナル配慮ヲ試ミマス」
それから数日。
乾いた風が、舗装の割れたアスファルトを吹き抜けていく。
視界の先に、崩れた都市のシルエットが見え始めていた。
リラは丘の上で立ち止まり、ゆっくりと目を細めた。
「……ピッツバーグ、か」
一ヶ月以上、歩き続けてきた旅路。
この都市は、ニューメキシコへの通過点のひとつ。
すでに廃墟と化していたが、建物の規模から見ても、補給物資が見つかる可能性は高い。
ただし、危険も比例して増える。
「ナイン、状況は?」
「敵意反応、周辺三〇メートル圏内ニナシ。
但シ、断続的ニ過去ノ戦闘痕跡アリ。
補足:本区域ハ、クリーチャー密度中程度ゾーンニ分類サレマス」
「……油断はできないってことね」
これまでの道中、リラは何度もあの異形の怪物と遭遇してきた。
人間のような形をしているのに、明らかに違う“何か”。
最初の一体を見たときの恐怖は、今も記憶に焼きついている。
けれど今では、引き金を引くことに――少しずつ慣れてきてしまっている自分がいる。
(あれは……人間が、変わってしまったもの。)
そう思いたくなかった。
でも、撃たなければ自分がやられる――それが現実だった。
「……ここで何か、補給できればいいけど」
リラは、静かにモールの方向を見やった。
ナインが、淡々と応じる。
「最寄リノ大型店舗、探索候補ニ登録済ミ。
経路ハ確保済ミ。補給物資ノ回収率ハ……約一四%」
「……低っ」
それでも、行くしかない。
銃を握り直しながら、リラはゆっくりと歩き出した。
リラは廃墟となった街の入口へと歩を進めた。
瓦礫の隙間から伸びる雑草、崩れかけた看板、そして――剥き出しの鉄骨が風に軋んでいる。
かつては賑やかだったはずの都市が、今ではまるで“誰にも選ばれなかった舞台”のようだった。
リラは、ふと自分の姿に意識を向ける。
(……この一ヶ月で、ずいぶん変わったな)
腰にはホルスター。拾い物のくせに妙に体に馴染むそれは、ナインを収めるために最適化されているように思えた。
体には、崩れた廃屋で見つけた黒のタクティカルベスト。
胸ポケットには浄水用の小さなフィルターと、非常用の携行食。
腰の脇には、地下鉄で拾ったKA-BARナイフがしっかりと収められていた。
弾薬こそ不要だが、それでもこの装備には確かな実用性があった。
今の自分は、ただの高校生ではない。
「……似合わないよね、こういうの」
そう呟いた声は、風に消えた――が、ナインはしっかり聞き取っていた。
「似合ウ/似合ワナイ ノ基準、該当ナシ。
但シ、現装備ニヨリ生存率四八%向上。評価スベキ変化」
「……あんた、本当、遠慮ないよね」
リラが小さくため息をつくと、ナインがわずかにトーンを変えた機械音声で応じた。
「配慮機能、開発段階ニテ中止。オモニ開発者ノ性格ガ原因ト推測サレマス。 副作用:ツイ冗談ヲ言イタクナル仕様」
「冗談のセンス、もうちょっとどうにかならない?」
「御期待ニ添エズ、遺憾。……デモ、慣レレバ悪クナイデスヨ?」
思わず小さく笑ってしまった。
リラは手元のリュックを確認する。
包んだ燻製肉が数枚、革製の袋に詰められていた。ナインの光線で火起こしをした結果、煙も少なく済んだのは幸いだった。
水筒には川で汲んだ水。煮沸済みとはいえ、そう長くは保たない。
「食料も水も、まだあるけど……この先が分からないからね。補給できるならしておきたい」
「周辺ニ、廃棄状態ノショッピングモール存在。内部状況不明。物資残存率……一〇%」
「……10%、ね。さっきより低いわね…。望みは薄いけど、ゼロじゃないってことか」
「加エテ、過去三〇時間以内ニ侵入痕跡アリ。扉ノ擦レ跡、足跡、移動痕──解析完了」
リラはハッと目を上げた。
「……誰か、いたってこと?」
「高確率デ生存者ノ痕跡ト判断。敵性カ友好カハ不明──接触時要警戒」
リラは無意識にナイフに手をかけた。
同時に、ナインを収めたホルスターにも軽く触れる。
「生きてる人間が……いるかもしれない」
胸の奥で、希望と不安がせめぎ合う。
「……行こう。気をつけてね、ナイン」
「承知シマシタ、リラ。足音軽ク、呼吸ハ自然ニ。万一ノ際ハ……発砲準備完了」
「冗談でも、脅しでもなくなるかもしれないから……頼りにしてるよ」
そう呟いて、リラはゆっくりと歩き出した。
目指すのは、瓦礫の向こうに沈黙するモールの影だった。
リラがモール周辺の裏通りを進んでいるとき、不意にナインが警告を発する。
「警告。複数ノ敵意反応、高速接近中。距離――三〇メートル未満」
「……また来たの?」
草むらがざわつく音――それは、普通の足音じゃなかった。
四足で地面を駆けるような、異様なリズム。しかも複数体。
「チンパンジー……?」
だが、それは“元”チンパンジーだった。
骨格が歪み、瞳は赤く濁り、牙は異常なほど肥大している。
ただの動物ではない。“感染”している。
まるで意思を持つかのように、リラを追い詰めるような動き。
リラは咄嗟にホルスターからナインを引き抜いた。
「ナイン!」
「オートモード、起動 ―― 目標、三体、順次処理ヲ開始」
バシュッ!
一体目の肩口を貫いた光弾が土煙を上げ、動きが止まる。
だが、残る二体が物陰を使いながら素早く接近してくる。
「……っ!」
リラは身を低くして、廃車の影に飛び込む。
すぐ近くで、ガシャンッと金属音――クリーチャー化したチンパンジーの爪が自動販売機を叩き壊していた。
「囲んでくる気……?」
「行動パターン、協調性ヲ伴ウ。戦術的連携、低レベルナガラ観測サレマシタ」
「……マジで勘弁して」
リラは深呼吸し、意を決して身を乗り出す。
「ナイン、左側、照準固定!」
「了解。発射タイミング、三、二……」
バシュッ!
爆ぜる光。
その隙に、リラは左手でKA-BARナイフを抜き、最後の一体へと踏み込む。
――動きが速い。
しかし、一瞬の躊躇もなく、ナイフを振るう。
その瞬間、クリーチャーの鋭く変異した爪が、リラの肩をかすめた。
「っ……!」
布が裂け、鈍い痛みが肩を走る。
だがリラは顔を歪めながらも止まらない。
そのまま力任せにナイフを突き立てた。
獣のような咆哮と共に、ねじれた肉体が倒れ、数秒後に土へと還っていく。
「……ふぅ……」
リラはその場に膝をついた。
肩から血がにじみ、タクティカルベストの肩口が赤く染まり始めていた。
「小型個体三体、消滅確認。残存反応ナシ。現地点、短時間ダケ安全ト判定」
「ったく……チンパンジーがこれとか、もう動物園は地獄だったろうね……」
「……っ、いて」
リラは肩をかすめた傷口に手を当てた。服が少し裂け、うっすらと血が滲んでいる。
クリーチャー ―― 変異したチンパンジーの鋭い爪が、ほんのわずかにかすっただけ。
それでも、ひりつくような痛みがじんじんと広がる。
「損傷検知。リラ、外傷アリ。負傷状況:軽度。生命活動ニ影響ナシ、デスガ――」
ナインの声が、やや早口になる。どこか慌てた調子だ。
「大丈夫デスカ……?」
「……あんた、機械のくせに心配しすぎ」
「AI感情模倣機能、稼働中。使用者ノ損傷ニ対スル反応ハ仕様通リデス」
「仕様って言えば済むと思ってるでしょ……」
リラはため息をつきつつ、ナインを軽く撫でた。
「現在地カラ八五〇メートル圏内ニ、アレゲニー郡庁舎ヲ確認。構造物ハ石造リ、外的干渉ニ対スル防御性能、高。」
「……そこ、入れる?」
「侵入可能ト推定。安全度:周辺エリアト比較シ、高。推奨:一時避難、休息、処置ノ実施」
「わかった。ちょっと、落ち着ける場所が欲しかったのよ……行こ」
リラは再び銃をホルスターに収め、荒れた道路を見やりながら歩き出す。
その足取りは少しだけ慎重に、だが迷いはなかった。
ピッツバーグの空は、灰色の雲が低く垂れ込め、日差しはほとんど地表まで届いていなかった。
リラは肩の痛みに顔をしかめながら、ナインの示す方角へと進む。
廃墟と化した街並みの中、巨大な石造りの建物が現れる。
黒く煤けた壁面には、弾痕と崩落の痕が生々しく残っている。
それでも、その堂々とした佇まいには、まだ“何か”が残っていた。
「……あれが、アレゲニー郡庁舎?」
古びた石造りの外壁。高いアーチを描いた窓枠。重厚な玄関扉には錆が浮き、時代の重みをそのまま抱えているようだった。
崩れた街並みの中で、異様なほど堂々とした姿を残している。まるでそこだけ、時が止まってしまったかのようだった。
「ここ、庁舎……だったんだよね?」
「ハイ、アレゲニー郡庁舎。建築年:一八八四年。設計:H.H.リチャードソン。構造:花崗岩使用、三階建。防御性能:標準建築物ノ三倍以上。」
「ほんとに何でも知ってるのね……」
塔のような一角が夜空に溶けていくその姿は、まるで要塞だった。
砕けた街の中で、ここだけがまるで「まだ人間のものだ」と言わんばかりの存在感を放っている。
「中に入れそう……?」
「南東側非常口、鍵破損アリ。内部侵入、可能ト推定。構造ノ複雑性ニヨリ、クリーチャーノ追跡率、著シク低下。」
「よし……じゃあ、ここで一晩、休ませてもらおうか」
「該当建物、確認完了。エントランス側ニ破損アリ。侵入経路、確保可能」
リラは庁舎の外壁をぐるりと回り込む。
崩れかけた石段を上り、鉄の扉に手をかけると、軋む音と共に開いた。
内部は薄暗く、ひんやりとした空気が満ちていた。
階段の踊り場、受付カウンター、割れた照明──
それでも、外よりは安全に思える。
「ここで……少し休もう」
一階の奥にある事務室のような空間を見つける。
机がいくつか倒れていたが、窓は狭く、扉はしっかりしている。
リラは物音に気を張りつつ、隅に寝袋を広げ、荷物を解いた。
肩の傷にナインの指示通り、携帯の消毒液をかけ、包帯を巻く。
痛みは引かないが、動けないほどではない。
「……これくらい、どうってことないよね」
ナインがそっと囁くように言う。
「本音:早ク治ルコトヲ願ッテイマス」
「……そういうの、冗談でも言えるようになったんだ?」
「冗談:現在試行中。評価:検討中」
「ふふっ……変なやつ」
疲労が押し寄せてくる。
今夜だけは、少しだけ気を抜いてもいいかもしれない。
外は依然として静かだった。
だが、その静寂の奥には、次の脅威が確実に息を潜めている。
リラはナインを手元に置いたまま、ゆっくりと目を閉じた。
暗闇は、すべてを包み込むように静かだった。
かすかな風が割れた窓の隙間を抜け、床に散った紙くずを揺らす。
どこか遠くで鉄が軋むような音がしたが、それは風のせいか、建物の軋みか――判別できないほど微かなものだった。
――コツ。
何かが、石造りの床を踏みしめた音。
だが、それはあまりに静かで、リラの眠りを妨げるには至らなかった。
――コツ、コツ。
複数の足音。
その音は、まるで“忍び足”のように、意図的に抑えられていた。
月明かりがほとんど差し込まない郡庁舎の廊下に、影が滑り込む。
毛むくじゃらの腕。二足で歩きながらも、時折四足に切り替わる異様な姿勢。
鋭く光る目が、闇の中に浮かぶ。
それは――チンパンジーだった“何か”。
鼻を鳴らしながら、臭いを頼りに前進してくる。
変異によって肥大化した筋肉と、引き裂かれた皮膚の隙間から覗く赤黒い組織。
口元には、人間のものとは思えない牙が生えていた。
五体――。
彼らは群れだった。
扉の前で立ち止まると、一体が床に耳を当てるように伏せた。
しばらくして、かすかな呼吸音を聞き取ったのか、扉に鋭く爪を立てる。
ギィ……ギリ……。
重い扉が、わずかに軋む。
そして、次の瞬間――
「リラ、警告。動体反応接近中。数:五。扉ノ向コウ、侵入ヲ試ミテイマス」
ナインの声が、ピリリとした緊張感と共に響いた。
リラは、飛び起きた。
寝袋を蹴飛ばし、手探りでナインを掴む。
「っ、また……!」
「即時対応ヲ推奨。扉ハ間モナク突破サレル見込み。接近速度:上昇中」
ギギ……バキィィッ!!
扉の蝶番が悲鳴を上げ、板が軋んだ。
リラはすぐに体勢を整え、ホルスターからナインを抜く。
ナインの銃口が自動で敵意反応に向けられ、微かな光が灯る。
「侵入確定。敵意反応:最大。オートモード、起動準備完了」
「……やるしか、ないか……!」
扉の向こうで、唸り声が重なる。
クリーチャーたちは、今まさに牙を剥こうとしていた。
「リラ、来マス!」
ナインの緊迫した声と同時に、扉が爆ぜた。
木片と鉄くずが飛び散る中、先頭のクリーチャーが突進してくる。
かつてはチンパンジーだったそれは、異様に伸びた前肢を振り上げ、リラめがけて跳びかかった。
「――わかってる!」
バシュッ!
閃光が暗闇を裂き、クリーチャーの頭部が爆ぜる。
断末魔すら残さず、肉の塊が崩れ、数秒で土へと還っていく。
その隙に、リラはすかさず荷物を掴んで立ち上がり、扉を蹴って廊下へ飛び出した。
「避難ヲ推奨。二階ヘノ階段、左前方三〇メートル。周囲クリア」
「了解、ナイン!」
リラは身を低くして、郡庁舎の廊下を走る。
その後ろから、乾いた唸り声と共に、残る四体が追ってくる。
ギィィィ……
鉄の爪が床を引き裂き、軋むような音が響く。
廊下の突き当たり、階段の下り口に影が現れる。
ひとつ、ふたつ……それらは確かに“狙って”動いていた。
ただの突進ではない。
明確な“戦術”と“意識”を感じる。
一体が手にしていたのは、錆びついた鉄パイプ。
それを壁に叩きつけ、リラの注意を引こうとするように――
「……こいつら……!」
階段を駆け上がる途中、リラは振り返って銃口を構える。
だがすぐには撃たない。闇の中、動きが読めない。
「敵影、複数。警戒度:最大。奇襲ノ恐レアリ」
「階段上がった先、どこに逃げられる!?」
「右手、窓枠ノ破損箇所有リ。踊場ノ奥ニ補助扉。内部構造ハ未解析」
リラは踊り場まで駆け上がり、銃を片手に背後へと振り返る。
「来るなら、来なさいよ……!」
しかし、影たちは慎重だった。
すぐには姿を見せず、階下で息を潜めている。
天井のひび割れから、月光が微かに差し込む。
それに照らされた廊下の向こう、鈍く光る獣の眼。
鉄パイプがゆっくりと持ち上げられる。
リラはナインを構え、静かに息を整えた。
リラは階段を駆け上がりながら、背中に走る冷たい汗を感じていた。
(……速い。やっぱり“知ってる”動きじゃない)
後ろからは鉄を引きずるような音。
一気に距離を詰めてこない。だが、消えもしない。
階段を上がりきった先――右手の扉を開ける。
軋む音とともに、古い応接室のような空間が現れた。
床は埃にまみれ、壁には古い掲示物が貼られたままだ。
しかし、窓は高く狭く、入口は一つ。身を隠すには悪くない。
リラは素早く中へ滑り込み、扉をそっと閉める。
ナインを膝の上に置き、肩で荒く息をした。
「……ふぅ……ナイン、敵は……?」
「階段踊リ場ニ四体。侵入ノ動キ確認セズ。静止中」
「……来ない、の?」
「ハイ。警戒・待機ノ可能性アリ。敵ノ意図ハ解析中」
リラは耳を澄ませる。
が、扉の向こうに気配はあるのに、物音ひとつ聞こえてこない。
(なんで……?)
普通なら、飛び込んでくる。襲ってくる。
でも、やつらは“そこで待っている”。
(……考えてる? まさか、そんな……)
けれど、それ以外の説明が見当たらなかった。
手はまだ、ナインのグリップを強く握っている。
だけど、引き金にかけた指は震えていた。
「……怖い、わけじゃない……たぶん」
リラはゆっくりと背中を壁に預け、呼吸を整えようとする。
肩の傷が鈍く痛んだ。
「……本当、今日は最悪」
ナインが静かに言った。
「敵意反応、依然トシテ維持中。行動解析:様子見、心理的威圧、待機ノ戦術」
「……チンパンジーって、こんなに賢かったっけ?」
「元来ノ知能指数、高。変異ニヨル思考抑制解除ノ可能性アリ。
行動パターン:無秩序カラ選択型ヘ移行傾向」
「それってつまり、学習してるってことじゃん……」
冷や汗が、額から頬を伝う。
扉の向こうにいるのは、ただの怪物じゃない。
狡猾で、計算していて、なおかつ――自分たちを「観察」している。
(……このまま夜が明けるまで、動かないつもり?)
この静けさが、何よりも不気味だった。
「リラ、警告:休息推奨。現在ノストレス反応、上昇中。休息ハ戦闘能力ヲ維持スル上デ不可欠」
「……わかってる。でも、あんなのがすぐ外にいるのよ?」
「監視モード、維持可能。必要ナ場合、即座ニ起動。……安心ヲ」
リラはナインを見つめ、しばらく何も言わなかった。
(ナインがいなかったら、きっと……私はとっくに壊れてた)
リラは息を吐きながら、そっと背中を壁に預けた。
扉に背を向けるのは怖かった。
だから、正面に構える形で、扉に向き合うようにして腰を下ろす。
床は冷たい。
薄暗い部屋の中で、ナインの青銀の残光が、静かに空間を照らしていた。
「ナイン、警戒モード、維持でお願い」
「了解。警戒モード継続。扉ノ前方一〇メートル以内、異常感知時ニ警告ヲ発動。」
銃声を上げるほどの騒ぎはまだ起こせない。
相手は“群れ”で、まだ完全に襲ってきてはいない ―― 今は、睨み合いの静かな時間だ。
リラはナインを両膝の間に置き、両手でしっかりと握りしめる。
耳を澄ます。遠くで、何かが軋むような音がした。
―― あのチンパンジーたち、まだ下にいるのか、それとも……
想像するだけで、背筋が凍る。
(こんな時、眠れる神経なんて持ってない)
頭を壁に預けながらも、目は冴えたままだった。
ナインの青白い光がわずかに揺れ、低く囁くように言った。
「心拍数、上昇気味。無理ナ覚醒継続ハ疲弊ニ直結。可能ナ限リ、五分間ノマイクロスリープヲ推奨――」
「ムリ、寝ない。寝れないって……こんなの」
「了解。警戒体制強化シ、外部ノ変化ヲ逐一記録シマス。少シデモ、心ノ安定ヲ」
「ありがと、ナイン……」
目を閉じることなく、ただ扉の向こうを見つめる。
何かが近づいてくる音がしたら、すぐに動けるように――。
どれほどの時間が経っただろうか。
濁った静けさのなか、リラは壁にもたれながら、ただ扉を見つめていた。
ナインは手の中でわずかに、かすかに揺れる蒼の輝きを放ちつつ、警戒モードを維持し続けている。
時計もスマホも壊れた今、時間の感覚なんて曖昧だった。
ただ、肩の傷がじわりと痛みを主張し始め、背中にじっとりと汗が滲んでいることで、自分がまだ「ここにいる」と知覚できているにすぎない。
腕は重く、両手はすでに痺れ気味だった。
それでもナインを握る力だけは、絶対に緩めなかった。
呼吸は浅く、意識の奥では常に「次に来るかもしれない」という緊張が鳴り続けていた。
まるで見えない糸で吊られているような、落ちることすら許されない不安定な状態。
眠くはないのに、思考はところどころ白く霞む。
目を逸らせば、きっと次の瞬間に何かが飛び込んでくる――そんな錯覚に囚われながら、ただ、じっと座り続けていた。
ナインの静かな声が、張りつめた空気を少しだけ揺らす。
「リラ。敵性反応、一定時間検知セズ。対象ハ周囲カラ立チ去ッタ可能性、高。」
「但シ、完全排除ハ確認デキズ。継続警戒ヲ推奨。」
リラはほんの少し、肩の力を抜いた。
「……ほんとに、行ったのかな」
「断定ハ不可。デモ、今ハ動キ回ル反応ナシ。安全ノ確率、上昇中」
リラはナインを見下ろし、小さく頷いた。
「なら……もうちょっとだけ、ここにいよう」
そう呟いた声は、疲れと緊張と、わずかな安堵が入り混じっていた。
彼女は再びナインを膝に抱え、背中を壁に預けたまま、薄く乾いた唇を結び、夜の静けさの中に身を沈めた。
その夜、リラは一睡もせず、朝を迎えることになる。