第一話:「脱出」
ニューヨーク・地下鉄構内
---重たい暗闇の中、意識が浮上する。
頭がズキズキと痛む。喉はカラカラに渇き、体は鉛のように重い。
どれくらい眠っていたのか、いや、眠っていたのかさえ分からない。
「……うっ……」
喉の奥からかすれた声が漏れる。
ゆっくりと瞼を開けると、視界はぼやけ、青白い非常灯が点滅していた。
地下鉄の駅。
電車は止まり、あたりにはゴミや瓦礫が散乱している。
電光掲示板はすでに消え、鉄道のレールにはヒビが入り、遠くで水が滴る音が響いていた。
リラはゆっくりと体を起こそうとした……その時。
(……っ!?)
目の前に広がる"それ"を見て、彼女は息を呑んだ。
――土。
まるで何かが溶けた跡のように、灰色の土がそこに広がっていた。
ほんの数時間前まで、人だったものの成れの果て。
その中央に、小さなものが落ちている。
銀色のブレスレット。
見覚えのあるものだった。
「……ママ……?」
リラは恐る恐る、そのブレスレットを拾い上げた。
それは間違いなく、母がいつもつけていたもの。
指先に触れる冷たい金属の感触が、彼女の現実を突きつける。
もう、母はこの世界にはいない。
「…………っ。」
目を閉じ、拳をぎゅっと握りしめる。
何があったのか---彼女の記憶は、まだはっきりしない。
ただ、目の前の土がすべてを物語っていた。
リラは震える手でブレスレットを自分の手首に巻き、しっかりと固定する。
それは、母の形見だった。
「……行かなくちゃ。」
喉の奥からかすれた声が漏れる。
---ここにいてはいけない。
彼女はそう思いながら、ゆっくりと立ち上がった。
足元は不安定で、ふらつきながらも一歩ずつ前へと進む。
周囲には変わり果てた世界が広がっている。
異様な静けさの中、微かに響く液体が滴る音、壊れた電車の軋む音。
遠くの方で、小さな影が蠢いている。
(……何か、いる。)
リラは直感的にそう悟った。
…今は、とにかくここを抜けなきゃ。
彼女は奥の階段へ向かい、地下鉄の出口を目指す---。
瓦礫を乗り越えながら、リラは慎重に出口を探していた。
暗闇の奥で、水滴の音に混じって、何かが蠢く気配がする。
(……何かいる?)
嫌な予感がして、リラは身を潜める。
目を凝らすと、壊れた改札機の向こう、暗闇の中で"それ"がいた。
人間だったもの。
まだ人の形をしている。だが、痩せこけ、皮膚は黒ずみ、関節が不自然にぎこちなく動く。
足を引きずりながら、ゆっくりと進んでいる。
——ずる、ずるっ。
服は破れ、ところどころ肉が露出している。
腕は異様に長く、指先が痙攣するように動いていた。
(……これ、人……なの?)
リラは息を殺して、じっと観察した。
その動きはどこか奇妙だった。まるで、自分の体をどう動かすのか忘れてしまったかのように、ぎこちない。
だが——。
その濁った目が、"ふいに"リラの方を向いた。
「……ぁ、ぁ……」
唇がわずかに動いた。
助けを求めるような、何かを訴えるような、掠れた声。
リラの心臓がドクンと跳ねる。
(……違う。)
"それ"は、確かに言葉を発した。
けれど、それは「人間の声」ではなかった。
低く濁り、湿った響き。
人間だった何かが、言葉の残骸を吐き出しているだけ。
そして——。
「——っ!」
突然、"それ"は異様な速度で首を傾けた。
関節がバキリと鳴り、四肢がぎこちなく動き出す。
まるで、リラを"認識"したかのように。
(見つかった……!)
リラは反射的に後ずさる。
——ガシャッ。
足元の缶が転がる。
その音に反応し、"それ"の動きが一気に加速した。
ぎこちなかった動作が、一瞬にして獲物を狩るものへと変わる。
「っ……!」
リラは弾かれるように背を向け、走り出した。
——ずるっ! ガシャ!
背後で何かが瓦礫を蹴散らす音がする。
(出口……どこかに……!)
必死に走る途中、足元に何かが転がっていた。
黒い持ち手。鋭く光る刃。
KA-BARナイフ。
(……っ、これ……!)
リラはそれを掴み、震える指でしっかりと握った。
まだ、刃は冷えていなかった。
"さっきまで誰かが使っていた"——そんな温もりが残っていた。
けれど、考える暇はない。
背後から、関節のバキバキと軋む音が響く。
リラは振り返らず、ただ出口を目指して走った——。
闇に包まれた地下鉄の駅。
青白い非常灯が時折明滅し、暗闇にぼんやりとした影を落としている。
リラは、瓦礫を踏みしめながら、慎重に進んでいた。
崩れた天井の隙間から、微かに冷たい風が流れ込む。
(出口……どこかに、出口が……)
地下に取り残されたままでは、生き残れない。
酸っぱい鉄の匂いと、どこか腐臭の混じる空気が鼻をつく。
壊れた電車の車両の向こう側、暗闇の奥に非常口のサインが見える。
(あそこ……?)
リラは慎重に足を進めた。
すると——突然、足元の瓦礫が崩れ、小さな音を立てた。
——カラ、カラ……。
静寂の中に響く不吉な音。
リラは息を呑み、周囲を見回した。
——何もいない。
だが、さっきまでの沈黙とは違う、どこか"異質な気配"を感じる。
(早く……行かないと……)
急ぐ気持ちとは裏腹に、足は重い。
喉が渇き、頭の奥が鈍く痛む。
(あそこに、出口があるはず……)
長い間、地下に閉じ込められていた気がする。
だが、今はとにかく外へ出なければ。
薄暗い非常灯の明かりを頼りに、慎重に歩く。
そして、その時——。
ふいに、父のことを思い出した。
パパは無事なのだろうか?
今どこで何をしているのだろうか?
年に数回しか家に帰ってこなかった父。
そのたびに、決まって何かしらのプレゼントを持ってきた。
(お詫びのつもりだったのかな……)
子供のころ、一度だけ聞いたことがある。
「パパは政府にとって重要な仕事をしている」——と。
父が政府の重要な仕事をしていたこと——そして、それを誰にも話してはいけないと言われたこと。
今になって、その言葉の意味を考える。
「パパ、お仕事なにしてるの?」
リビングのソファで、リラは無邪気に父を見上げた。
父——ダニエル・ウォーカーは、新聞を畳みながら微笑んだ。
「ん? そうだな……」
少し考えるような仕草をしてから、穏やかな声で言った。
「パパはね、政府にとって大事な仕事をしているんだよ。」
「大事って?」
「……難しい話だけど、いつか君が大人になったらわかるさ。」
優しく頭を撫でられる。
でも——リラは、その言葉に納得できなかった。
「なんで、そんなにお仕事ばっかりなの?」
「……ごめんな。リラ。」
父は少しだけ寂しそうな顔をした。
「でも、これだけは覚えておいてくれ。」
父の目が、いつになく真剣になる。
「このことは、誰にも話してはいけないよ。」
「え?」
「誰にもだ。約束できるか?」
リラは、よくわからないまま頷いた。
リラはハッと目を開けた。
(パパはどこにいるの?)
(生きてる……よね?)
父が無事なら、会いたい。
母を失った今、唯一残された家族なのだから。
——ドクン。
心臓が強く脈打つ。
「……行かなきゃ。」
母を助けることはできなかった。
けれど、父がまだ生きているなら——。
(そういえば……)
(手紙……。)
数年前、一度だけ、父から手紙をもらったことがある。
「困ったことがあった時に読んでくれ。」
そう言われ、それまでは開けずに取っておくようにと念を押された。
(あの手紙……)
ずっと気になってはいたが、言われた通りに封を開けず、部屋の勉強机の引き出しにしまったままだった。
(家に帰らないと……)
確かめなければならない。
父が何を伝えようとしていたのか——。
その時——。
カラ……カラ……
遠くで、何かが蠢く音がした。
リラはハッとして、暗闇の奥を見つめる。
地下鉄の構内に、微かに漂う異様な気配。
(……誰か、いる?)
鼓動が早まる。
彼女は、息を潜めながら、慎重に非常口へと歩みを進めた——。
瓦礫が散乱する通路の向こう、暗闇の中にかすかに非常灯の光が見える。
そこが出口かもしれない。
(……あそこまで行けば……)
一筋の希望が、心の奥に微かに灯る。
だが、足を動かそうとした瞬間——背中に悪寒が走った。
——ズル、ズル……
かすかな音。
何かが、暗闇の奥で蠢いている。
(……誰かいる……)
喉がひりつく。
息を潜め、ゆっくりと視線を移す。
そこには——影があった。
人の形をしている。
けれど、違う。
その動きは、まるで体の動かし方を忘れてしまったかのようにぎこちなく、関節がバキバキと軋む音がかすかに聞こえた。
皮膚がまだらに黒ずみ、痩せこけた体。
「……ぁ、ぁ……」
——掠れた声が、湿った空気を震わせる。
それは言葉にならない音だった。
けれど、どこか人間の名残を感じさせる。
リラは、息をすることさえ恐れた。
(何……あれ……?)
視線を逸らさず、ゆっくりと後退する。
——ガシャッ。
足元の小さな破片を踏んでしまった。
音が、静寂を切り裂いた。
影が、動く。
——バキバキバキッ!!
異常に長い腕が、ぎこちなく動き、リラの方へ顔を向ける。
(見つかった!?)
胸が高鳴る。
リラはすぐに瓦礫の影へ身を潜めた。
影の動きが、一瞬止まる。
——ズル、ズル……
そのまま、怪物はゆっくりと歩き出した。
(……まだ、こっちに気づいてない?)
喉が渇く。
じっとしていれば、大丈夫かもしれない。
そう思った矢先——。
——カン……カラ……
遠くの鉄くずが崩れ、別の方向で音が鳴った。
影がそちらへ反応する。
——バキッ!
体を奇妙にねじりながら、音のした方へ向かう怪物。
(……今だ。)
リラは慎重に体を低くし、影に紛れるように動いた。
呼吸を殺し、静かに、慎重に。
出口は、あと少し。
(……お願い、気づかないで……!)
緊張で全身が張り詰める。
一歩、一歩。
冷や汗が背中を伝う。
そして——。
非常口の扉が、すぐ目の前に見えた。
(あと少し……!)
だが、背後で、再びあの音がした。
——ズル、ズル……
影が、不規則に動き始める。
リラは、迷わず非常口のドアに手をかけた。
(頼む、開いて……!)
小さな祈りを込めながら、静かに押し開ける。
——ギ……。
音を立てないように慎重に。
その瞬間——怪物が再びこちらを向いた。
——バキバキバキッ!!
異様に長い手が、瓦礫をかき分ける音が響く。
リラは心臓を押さえつけるように、そっとドアを開け、静かに体を滑り込ませた。
ドアを閉める直前、背後から空気を裂くような呻き声が響く。
リラは音を立てないようにドアを閉め、静かに息を吐いた。
(出れた……?)
数秒間、耳を澄ます。
——何も聞こえない。
ようやく、リラはドアから手を離した。
(……地上へ。)
ゆっくりと階段を上がる。
どこかで、遠くに吹き抜ける風の音が聞こえた——。
ニューヨーク・地下鉄非常口
ギ……ギィ……
錆びついたドアが軋む音とともに、リラ・ウォーカーはゆっくりと地上へ足を踏み出した。
まとわりつく湿った地下の空気から解放されたはずなのに、息苦しさは増したように感じる。
そして、一歩踏み出した瞬間、彼女の全身が凍りついた。
——そこにあったのは、かつてのニューヨークではなかった。
崩壊していた。
破壊された都市
空は灰色の雲に覆われ、太陽の光はほとんど届かない。
遠くのビルは崩れ、煙が立ち上る場所もある。
瓦礫と化した街並み。
路面には深い亀裂が走り、放棄された車が何台も積み重なるように衝突している。
そのほとんどが扉を開け放たれたままで、中には誰もいない。
信号機はへし折れ、電線はちぎれ、アスファルトには焦げ跡が点在していた。
まるで戦争があったかのような光景だった。
(……何が、起こったの……?)
リラは、呆然としながら視線を落とした。
すると、足元には黒く変色した土の塊が広がっていた。
拳ほどのものから、人の形に見えなくもないものまで、いくつも。
乾いた泥のような質感で、ところどころに人の影が焼き付いたかのような形跡もある。
(……これは……何……?)
それが何なのか分からなかった。
けれど、本能的に、これがただの瓦礫ではないことを悟る。
そして、そのすぐ先には——。
死が満ちた街…
リラの視線が、崩れた歩道に転がる人々の影を捉えた。
逃げる途中で倒れた者、車のドアに手をかけたまま息絶えた者。
まるで時間が止まったかのように、その場で静止していた。
兵士たちもいた。
バリケードの影、燃えた軍用車の脇、弾薬が散乱する道路の上。
銃を握ったまま、すでに動かない。
防弾ベストが無惨に裂け、ヘルメットが転がり、銃弾の跡が生々しく残る体。
彼らが最後まで戦ったことは明らかだった。
だが、何と戦ったのか——それを示すものは、どこにもなかった。
「……みんな……死んでる……?」
リラの声は、静寂の中に溶けていった。
親が子供を抱きしめたまま息絶えている光景。
スーツ姿の男が、携帯を握ったまま何かを伝えようとしていた跡。
スーパーの自動ドアの前で、助けを求めるように倒れた女性。
どれも、恐怖の表情を浮かべたまま、止まっていた。
戦闘の爪痕と静寂
リラは慎重に歩き出した。
街の中央には、戦車の残骸が横たわる。
その側には、焦げたヘルメットとちぎれた無線機。
戦闘機の片翼が崩れたビルの屋上に突き刺さっている。
だが、乗っていたはずのパイロットの姿はない。
(……ここで、何が……?)
軍が戦った痕跡がありながら、そこにはもう、戦いの続きはなかった。
すべてが終わり、ただ死だけが残された街。
「……誰も、いないの……?」
声を出しても、何も返ってこない。
昨日までは、人々が行き交い、活気に満ちていたはずの街。
それが、一晩でこんな姿になるなんて——。
リラは拳をぎゅっと握る。
(……家に帰らないと。)
この街がどうなったのか、なぜこんなことになったのか。
それを考えるよりも先に、彼女には確かめなければならないことがあった。
父の手紙——。
この荒廃した世界の中で、唯一、自分にとっての「手がかり」がある場所。
リラは震える足を前へ進めた——。
地上へ出たリラ・ウォーカーは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
目の前に広がるのは、死んだ街。
ビルのほとんどは崩れ、道路には瓦礫が散乱し、そこかしこに動かない人々の姿があった。
焼け焦げた車、倒れた標識、放置された軍のバリケード——何もかもが壊れていた。
(……家に、帰らなきゃ……)
喉が渇いていた。
体は重く、足元はふらつく。
それでも、リラは前へと歩き出した。
歩道には、無数の障害物が散乱していた。
倒れた電柱を乗り越え、ひび割れたアスファルトを慎重に進む。
道路には放棄された車が積み重なり、燃え尽きた車両の残骸からはまだ煙が立ち上っていた。
途中、彼女は崩れた看板に目を留める。
『WELCOME TO NEW YORK』
半壊した広告塔にかろうじて残っていたスローガンが、今となっては皮肉にしか見えない。
(……誰も、いない……)
耳を澄ませば、風が吹き抜ける音と、遠くで崩れ落ちる瓦礫の音だけが聞こえる。
人の声はどこにもない。
交差点の中央には、軍用車が放置されていた。
装甲車の側面には無数の弾痕が残り、砲塔はすでに機能していない。
(……ここで戦闘があったんだ……)
周囲には撃ち尽くされたマガジンや薬莢が散らばり、破れた軍のジャケットが風に揺れていた。
倒れた兵士の遺体が、うつ伏せのまま放置されている。
その手は、まるで何かを掴もうとしていたかのように伸ばされていた。
(……戦ったけど、勝てなかった……)
その場を後にし、再び歩き始める。
瓦礫を乗り越え、崩れたビルの隙間を抜け、慎重に進む。
リラの家があるはずの場所にたどり着いたのは、1時間後だった。
アッパーイーストサイドは、かつては静かで裕福な住宅街だった。
だが、今はその面影すらなかった。
塀が崩れ、門がひしゃげた家々。
扉が開け放たれたままの玄関、割れた窓、焦げた壁。
庭に転がるのは、誰かの私物。靴、バッグ、おもちゃ——それらが無造作に散らばっていた。
リラは震える手で、自分の家を探した。
(……ある……?)
もし、家がなかったら?
もし、完全に崩れていたら?
もし、中に入れなかったら?
鼓動が早まる。
震える足を前へ進め、角を曲がった瞬間——。
そこに、リラの家があった。
リラは息を呑んだ。
家は、まだそこにあった。
だが、決して無傷ではなかった。
屋根の一部が崩れ、外壁には大きなひび割れが走っている。
窓ガラスは砕け、カーテンが風に揺れていた。
そして—— 玄関のドアは半開きになっていた。
彼女は立ち止まり、ドアをじっと見つめる。
(……入れる、よね……?)
不安が胸をよぎる。
建物が崩れていたら?
中が瓦礫で埋まっていたら?
もし、もうこの家には戻れなかったら——?
喉が渇く。
ゆっくりと足を踏み出し、慎重に玄関へと近づく。
ドアノブに手をかけ、そっと押してみた。
ギ……ギィ……
鈍い音を立てながら、ドアがゆっくりと開いていく。
(……大丈夫。中に入れる……)
リラは小さく息を吐き、慎重に足を踏み入れた。
玄関を抜けると、室内には静寂が広がっていた。
かつては温かみのあったリビングも、今は冷たく、時間が止まったように静まり返っている。
家具は倒れ、本棚の中身が床に散乱していた。
割れたガラスが光を反射し、まるで凶器のようにそこら中に散らばっている。
リラは慎重に足を進めた。
(……大丈夫。部屋は……まだある。)
そう自分に言い聞かせながら、廊下を進んでいく。
扉の前で立ち止まる。
震える指先でノブを掴み、ゆっくりと回した。
ギィ……
音を立てながら、ドアが開く。
室内に足を踏み入れた瞬間、リラの目に飛び込んできたのは——荒れ果てた自分の部屋だった。
ベッドは乱れ、棚の上のものはすべて床に落ちている。
机の上にはホコリが積もり、カーテンはちぎれたように窓から垂れ下がっていた。
(……ここにあるはず……)
リラは、机の引き出しへと向かった。
震える手で取っ手を引く。
ガタッ……
中の文房具やノートが崩れ落ち、ほこりが舞い上がる。
「……あった。」
引き出しの奥。
そこに、封がされたままの手紙があった。
「……パパ……」
喉の奥から、掠れた声が漏れた。
父は、いつも忙しくて、年に数回しか家に帰ってこなかった。
それが当たり前だった。
(……パパが家にいた日のほうが、少ないかもしれない……)
家に帰ってくるときも、いつもスーツ姿で疲れた顔をしていた。
夕食の時間には間に合わず、リビングでコーヒーを飲みながら資料に目を通していることが多かった。
それでも、夜遅くになると、彼はそっとリラの部屋を覗いていた。
小さな頃、リラはそれに気づいていた。
寝たふりをしながら、そっと目を開けると、父がドアの前に立っている。
「……寝てるか?」
低く、小さな声。
子どもながらに、その声がほんの少し寂しそうに聞こえたことを覚えている。
「……おやすみ」
そう呟いて、彼はドアを静かに閉めた。
翌朝になると、何事もなかったように彼は仕事に出て行った。
——まるで、家族としての時間を持つことさえ許されていないかのように。
(……パパ……)
胸が締め付けられる。
(今は……どこにいるの……?)
その答えを求めるように、リラは封筒の端をつまみ、ゆっくりと破いた。
カサ……
中から、一枚の手紙が落ちる。
震える手で拾い、そっと広げる。
父が残した言葉を、目で追った。
『リラへ
この手紙を読んでいるということは、何か困ったことが起きたんだね。
まず、この手紙を読んでくれてありがとう。
君が今、どこでこれを読んでいるのか、どんな気持ちでいるのか——想像することしかできない。
願わくば、リラが無事でいてくれることを祈るばかりだ。
リラ、君は強い子だ。
どんな状況でも、自分の力で前へ進めると信じている。
だが、それでも時には誰かを頼ることが必要だ。
リラが一人で苦しんでいるなら、それは私の望むことではない。
今、私はニューメキシコにいる。
詳しいことは書けないが、安全な場所にいるから、どうか心配しないでほしい。
私はここで、ある重要な研究に関わっている。
リラには詳しく話せなかったが、以前からずっと続けてきた仕事だ。
世界が不安定になる中で、この研究はますます必要とされている。
それが何のためか——いつかリラが知ることになるかもしれない。
ニュースでは伝えられないことも多いが、これから先、何が起こっても冷静でいることが大切だ。
そして、どんなに大変なことがあっても、決して諦めないでほしい。
ママとリラの健康をいつも願っている。
この手紙を読むことがないのが一番だが、もしリラがこれを読んでいるなら——
どうか、気をつけて。
リラ、君を心から愛している。
どうか無事でいてくれ。
パパより』
リラは、静かに手紙を折りたたんだ。
指先がわずかに震えているのを感じる。
(……ニューメキシコ……)
父が、最後に家に帰ってきたのは、ちょうど半年前のクリスマスだった。
雪が降る夜、暖炉の前でささやかな食事を囲んだ。
パパは相変わらず忙しそうで、長くは滞在しなかった。
「次に帰ってくるのはいつ?」
そう尋ねたとき、彼は少し困ったように笑い、
「できるだけ早く帰るよ」
そう言っていた。
(……でも、帰ってこなかった……)
それから半年。
世界がめちゃくちゃになって、まだ状況も掴めていないのに。
父が生きているのかどうかすら分からない。
この手紙を書いたのは、さらに前。
「ニューメキシコにいる」と書かれていたが、それが今も変わらない保証はどこにもない。
もし行ったとして、そこに父がいなかったら?
もし、もう……亡くなっていたら?
手紙をぎゅっと握りしめる。
(……無駄足になるかもしれない……)
けれど——。
リラには、他に行くあてもなかった。
徐に地図を探すリラ
「アメリカの地図……どこかに……」
手紙を机の上に置き、部屋の中を探し始める。
昔、学校で使った地図がどこかにあったはず。
教科書と一緒に、古い本棚にしまっていた——。
ガタガタと本をかき分ける。
散乱したノートの下、埃をかぶった紙の束。
(……あった!)
リラは一枚の折りたたまれた地図を引っ張り出した。
広げると、少し黄ばんだ紙の上に、アメリカ全土が描かれている。
ニューヨーク——そして、ニューメキシコ。
目を凝らす。
(……遠い……)
予想はしていたが、こうして地図で見ると、改めて絶望的な距離に思えた。
歩いて行くなんて、正気の沙汰じゃない。
でも、行くしかない。
(パパに会えるかもしれない……)
それだけが、リラを突き動かしていた。
リラは、もう一度大きく息を吸い、リュックを引っ張り出した。
(最低限のものだけ……)
慎重に部屋を出て、キッチンへ向かう。
水。
缶詰。
保存のきくクラッカー。
扉が壊れかけた戸棚から、使えそうなものを選び出す。
(少ししかない……)
食料を詰めながら、改めて自分がどれだけ無力かを思い知らされる。
それでも、足りないと嘆いている暇はない。
できるだけ軽く、でも数日間は持つように。
リラは、持てるだけの物資をリュックに詰め、ジッパーを閉じた。
リラは廊下を歩きながら、ふと足を止めた。
父の部屋の前——。
ドアは少しだけ開いている。
半壊した家の中で、ここだけは奇跡的に崩れていなかった。
(……どうしてだろう……)
すぐに出発するつもりだった。
でも、何かに引き寄せられるように、リラはゆっくりとドアを押した。
ギィ……
重たい音とともに、部屋の中が目に入る。
机の上には、埃をかぶったノートと古びたランプ。
壁際には本棚が倒れかけ、床にはバラバラになった資料が散らばっている。
唯一無事だったのは、部屋の隅に置かれた革張りの椅子。
父がいつも座っていた場所——。
リラは無意識に、その椅子の前へと足を運んでいた。
・過去の記憶・
「リラ、ちょっと来てくれ」
ある夜、父に呼ばれて、この部屋に入ったことがある。
まだ小さかった頃のこと。
机には難しそうな資料が広がっていて、父はいつものようにコーヒーを片手にしていた。
「パパ、またお仕事?」
「ああ。でも、ちょっと休憩しようと思ってな」
そう言って、父はリラに椅子を勧めた。
「これ、見てみるか?」
父が指差したのは、開かれた本。
分厚くて、表紙には金色の文字。
リラは興味津々でそれを覗き込んだ。
「難しそう……これ、何の本?」
「宇宙の話さ」
「宇宙?」
父は微笑みながら、ページをめくった。
「人間はね、昔からずっと宇宙のことを知りたがってきたんだ。遠くの星、未知の生命……。でも、答えが見つかることなんて、ほとんどない」
「なんで?」
「分からないことのほうが多いからさ。でも、それを知りたいと思うのが、人間なんだよ」
リラはよく分からないまま、父の横顔をじっと見つめた。
「パパも、分からないことを調べてるの?」
「ああ。分からないことだらけさ。でも、それを知るために僕はここにいる」
「答えが見つかったら、リラにも教えてくれる?」
父は少し笑って、リラの頭を優しく撫でた。
「もちろん。リラにも、いつか話せる日が来るかもしれないな」
(……あのとき……)
リラは、そっと椅子の背に手を触れた。
「答えが見つかったら、リラにも話せる日が来るかもしれない」
父は、何を知ろうとしていたんだろう?
そして、それを話せる日は、本当に来るのだろうか?
(……私は……知りたい……)
手紙には、「ある重要な研究に関わっている」 と書かれていた。
今、父が生きているかどうかは分からない。
でも、もし生きているなら——。
(確かめなきゃ……)
リラはゆっくりと椅子から手を離した。
もう、迷っている時間はない。
リュックを背負い、玄関のドアを開ける。
外の空気は、ひどく冷たく感じた。
どこまでも静まり返った街。
崩れたビル、倒れた標識、焦げた車の残骸——。
(ニューメキシコへ行く……)
そう決めたはずなのに、足はすぐには動かなかった。
あまりに遠い道のり。
そして、たどり着いたとして、父がいなかったら?
それでも、進まなければならない。
(……行こう……)
標識を頼りに、西へ向かって歩き出す。
リラは、標識を頼りに歩き続けた。
ニューメキシコは遥か遠く、どれほど歩けばたどり着けるのかすら分からない。
それでも、前に進むしかなかった。
街は静まり返っている。
かつては人々が行き交い、車のクラクションや話し声が響いていたはずの通り。
今は瓦礫と、壊れた建物の残骸が広がるばかりだった。
ビルの外壁は崩れ落ち、路上にはひび割れたアスファルトが剥がれたまま放置されている。
電柱は倒れ、絡み合った電線がむき出しになっていた。
信号機はすでに機能せず、赤や青のガラスが割れて地面に散乱している。
時折、焦げた車の残骸が現れた。
フロントガラスは砕け、車体は黒く煤けている。
ドアが開きっぱなしのものもあれば、横転しているものもある。
中には、何かに焼かれたように、原型をとどめていないものさえあった。
兵士の姿はない。
生存者の気配もない。
あるのは、無音と、滅びた街の残骸だけ——。