やり直しはあなたのために〜裏切られた妻は復讐する〜
「おめでとうございます。ご懐妊です」
「え?……なんですって?」
医者の言葉を聞き返す。
「妊娠3か月ですね。その症状はつわりでしょう。ああ、血圧がとても高いですねぇ。いけません。絶対安静ですよ」
一か月ほど前から、吐き気が続いている。
「何か悪いものでも、食べたのじゃないかしら?」と医者に診察してもらったのだ。その答えが、妊娠?
「でも……、そんなことってあるのかしら? 診断に間違いはなくて? だって、私と夫の間に、子供なんて……」
──これは白い結婚だ。僕には愛する人がいる。おまえを愛することはない──
初夜の寝室で、夫はそう言って、出て行ったのだ。その後も、夜を共にすることはなかった。
夫には、愛人がいる。私との結婚は、王命によるものだった。
夫と愛人は真実の愛で結ばれており、金の力で妻の座を奪った私は、汚らわしい毒婦なのだそうだ。
新婚初夜に、私は本宅を追い出された。
古い物置小屋で、侯爵夫人としての仕事をするだけの日々。夫に相手にされない、ただの金づる。それが、この家での私の妻としての立場だった。
だから、私が、夫の子を妊娠するはずないのだ。それなのに、医者は、私の手をちょっと触っただけで、こんな診断をしてきた。
「最近、食事の味が変だったから、食あたりではないのかしら?」
そう言ったのに、医者は取っておいた食事を見ることもない。
「なんと、子供ができたのか……」
医者の言葉を聞いて、夫は驚いたように目を見開いた。
澄んだ紫色の瞳。グレイソン侯爵家の色だ。キラキラした金色の髪とともに、貴族的に整った容姿を彩っている。初めて会った時に、その美しさに見惚れた。教会に飾ってある天使像のような麗しい方。政略結婚だけれど、誠心誠意、妻として、この方に尽くそうと思ったのに……。
彼は、私に見向きもしなかった。平民の血をひく成金子爵家の娘は、汚らわしいのだそうだ。
すぐには愛してもらえなくても、少しでも気に入ってもらえるように、努力はした。彼の容姿に、一目ぼれしてしまったから。
でも、今ではもう、かけらほどの愛情も残っていない。
夫は、毎日、愛人と遊んでばかりで、仕事を全くしなかった。全て、夫の弟にやらせていたのだ。侯爵としての評判も、弟の手柄を横取りしていただけだった。
夫に対する感情は、軽蔑と嫌悪に変わっていた。
それにしても、夫は、医者の診断を全く疑ってないみたいに見えるわね。
以前、熱が出た時には、どんなに頼んでも、医者を呼んでもらえなかった。でも、今日は、食事を吐き出しただけで、すぐに医者が駆け付けて来たわね……。
さあ、次は、どうするつもり?
夫の紫色の瞳を見返すと、彼はいきなり私の前に膝をついた。
「すまない! 僕のせいだ!」
私の手を取って謝る。
「あの夜、妊娠したんだね。僕の子を」
「……どういうことですか?」
その手をさりげなく振り払ってから、不審げに眉をひそめる。
彼は紫色の瞳を揺らめかせて、真剣な顔で語り始めた。
「やっぱり、覚えていなかったんだ。実は、僕達は、新年のパーティで、一夜を共にしているんだよ」
夫が言うには、3か月前に侯爵家で開いた新年会で、私と夫が飲んだワインに、媚薬が盛られていたそうだ。
義母の仕業だった。なかなか子供ができないのを心配して、仕組んだらしい。
「強力な媚薬でね。僕たちは、二人きりで部屋に閉じ込められたんだ。君は意識をなくしていたみたいだったけれど、薬のせいで、僕は君と結ばれて……」
「そんなはずは……」
パーティのことは、よく覚えている。
酔っぱらった義母に、「子供はまだか」と絡まれたのだ。
毎晩、愛人と同じベッドで寝ている夫との間に、子供なんてできるわけがない。そう訴えたけれど、聞いてもらえなかった。
「女としての魅力がないおまえが悪い!」
義母はヒステリックにどなって、私にワインをかけた。
その後のことは……。
目覚めたのは、翌日の昼過ぎ。私は、自室のベッドの中にいた。汚れたパーティドレスは脱がされて、裸だった。
「そんな…… 本当ですの? 全く覚えがないのですけど……。その夜、旦那様と一度だけ結ばれて、その結果、妊娠をしたというんですの?」
「ああ、こんなことになってすまない。だが、僕達の子供は、グレイソン侯爵家の跡継ぎになるんだ。こうなったからには、元気な子供を生んでほしい」
「でも……アンナさんは、なんて言うかしら?」
アンナというのは、愛人の名前だ。夫の幼馴染で、男爵家の令嬢だ。今は、私の代わりに侯爵夫人の部屋を使っている。物置小屋に追いやった私に、召使いを差し向けて嫌がらせをするほど、嫉妬深い。
子を身ごもったなどと知られたら、何をしてくるのやら……。
「アンナも分かってくれるよ。君との結婚は、わが家にとって、必要なことだったからね」
多額の借金を抱え、爵位を返上しようとしていた侯爵家を救うために、成金子爵家の娘が、王命によってあてがわれたのだ。
私の親は元平民だ。父には、先見の明があると言われている。未来を予知するかのように、取引で成功し、巨万の富を築き上げて、爵位を買った。そして、災害時には、国に多大な寄付をして、子爵位を賜った。さらには、国王が王太子だった頃、暗殺者を見つけ出して、命を救ったとか。
元平民だけれども、国王の信頼と莫大な財産を持つ我が家は、今では、この国になくてはならない存在になっている。
そんな父は、国王を崇拝している。だから、命じられるままに、愛人のいる男に私を差し出したのだ。
それでも、いちおう保険はかけていた。結婚の契約書には、グレイソン侯爵家とゴールデン子爵家の血をひく子供が、跡継ぎになる場合に限り、援助をする。と記載された。
だから、このまま白い結婚を続ける場合、3年経てば離婚できるはずだった。私に子が生まれないのなら、援助はしない。そういう契約だったから。
でも、それが、妊娠……。
白い結婚を理由に、離婚できなくなったわね。
「とにかく、グレイソン家の跡継ぎが生まれるんだ。めでたいことじゃないか。えーと、なんだっけ、血圧が高いから、安静にしていないといけないんだったよね?」
夫は、にこにこしながら、医者に問いかける。
「はい。流産の危険がありますので、絶対安静ですね。子供が生まれるまでは、ベッドから出てはいけません。外出は絶対に許可できません」
「そうか、じゃあ、お茶会やパーティは、子が生まれるまでは欠席しよう。君は、元気な赤ちゃんを生むために、この部屋から出てはいけないよ。ああ、君の父上の子爵には、僕からも伝えておこう。妊娠したから、しばらく里帰りはできなくなるってね。でも、もしも、子爵が会いに来た場合は……」
「外部の者に会うと、感染症にかかる恐れがあります。お腹の赤子が危険ですので、面会は禁止した方がいいでしょう」
「そうだね。子爵は外国とも商売をしているから、いろんな病気をもらってるかもね。お腹の赤ちゃんにうつされたら大変だ。じゃあ、ここには誰も入って来れないようにしておこう」
夫と医者は、私を監禁する計画を立てている。
赤子が危険? 絶対安静? 確かに、先月から吐き気と頭痛がひどいけれど……。流産の危険があるから、部屋から出られない? 誰にも会うなってこと?
って、この医者は、私の手をちょっと触っただけで、よくもそんな診断ができるわね。脈拍すら診てないじゃない。
「ああ、心配しないでくれ。部屋に籠ってばかりだと、退屈だろうから、書類仕事を持って来させるよ。それで侯爵夫人としての務めを果たしてくれればいい。領地の視察は、僕とアンナで行ってきてあげるよ。侯爵家のためだ。アンナも協力してくれるよ。優しいアンナに感謝するようにね」
そう言い残して、夫と医者は出て行った。ドアに鍵がかかるガチャリという音が響いた。
「ふぅ、やっぱり監禁されたわね」
一人残された部屋で、ため息とともにつぶやく。
この後どうなるのかは、よく知っている。
ドアの前に、3人の騎士が交代で立ち、私が部屋から出ないように見張るのだ。そして、メイドが1日2回、粗末な食事と大量の書類仕事を運んでくる。
妊娠中の妻にする仕打ちではない。
夫は成り上がり者の娘の私を、見下しているのだ。
平民の血など、汚らわしいと。
ドアの前で耳をすませば、夫たちを見送ったメイドと騎士が雑談をしているのが聞こえる。
「本邸の方は、どうされているんだ?」
「アンナ様は、ずっとイライラして、使用人に当たり散らしているわ。だから旦那様が、高級な果物を隣国から取り寄せたみたいよ。それから、大きな宝石も贈ったそうよ」
「こっちとは、えらい違いだな」
「だって、あちらはね、本当に旦那様の子を妊娠中だもの」
本当に、妊娠中。
アンナは、夫の子を妊娠している。
つまりは、そう言うことだ。
私を診察した医者は偽物だ。手をちょっと握っただけで、妊娠の診断ができるなんて、ありえないのだ。
偽の医者に、妻が妊娠したと診断させる。そして、流産の危険があるからと言って、監禁する。面会も禁止する。
全ては、結婚契約書に記載された私と夫の子を誕生させるために仕組まれたこと。
アンナが生む子供を、私が生んだと思わせるための芝居だった。
夫は、真実の愛のために、白い結婚を選んだ。でも、今になって、私に子供が生まれなければ、莫大な借金を返さないといけないことに、ようやく気が付いたのだ。
それでも、汚らわしい平民の血を侯爵家に入れたくない。
だから、愛人との子を私の子だと偽ろうとしているのだ。
ガチャリ
鍵を外す音がして、メイドが入ってくる。
「旦那様から、奥様の家族や友人に、妊娠を報告する手紙を書くように言われております」
メイドの手から、レターセットを受け取る。
そして、言われたまま記入した。
「グレイソン侯爵家の後継者を妊娠中ですので、しばらくの間、お茶会やパーティは欠席します」と。
父と、それから数人の知人に宛てた。
封蝋印を押してから、メイドに手渡す。
代わりに、どっさりと大量の書類仕事を渡された。
侯爵夫人としての仕事の他に、夫の仕事まで紛れ込んでいる。
夫は仕事をせずに、アンナと遊び惚けているのだ。
今までは、夫の弟が仕事を全て引き受けていた。でも、彼は、1か月前に馬車で出かけた際、土砂崩れに巻き込まれて行方不明になってしまった。遺体は見つかっていないのに、夫はすぐに葬儀をあげた。空っぽの棺を墓に埋めたのだ。
「書類は、夕食の時に取りに来ます」
メイドは大量の仕事を置いて、静かに部屋を出て行った。
これからアンナが出産するまでの数か月、私はここで監禁されて、死ぬまで仕事をさせられるのだ。
目を閉じれば、あの頃がよみがえる。
積み上げられた仕事を、たった一人で片付ける合間に、お腹をなでながら、子守唄を歌う日々。
鍵のかかった部屋で、誰とも会えないまま過ごす。
でも、そんな孤独も、お腹の中の赤ちゃんと一緒だと思うと耐えられた。
変な味のする質素な食事も、赤子の栄養のためと言われて、我慢して食べた。
吐き気を我慢して、無理やり飲み込んでも、体はやせ細り、足腰は弱り、立つこともできなくなってしまった。
何かがおかしい。
そう気が付いたのは、ずいぶん後になってからだった。
毎日、少しずつ盛られた毒で、頭が働かなくなっていたのだ。
やがて、ペンも持てなくなるほど弱って、ベッドから起き上がれなくなった。
どうして、それを知っているのかって?
だって、私は一度、それを経験しているもの。
さっきの、夫と医者との会話は、私にとっては、二度目だったのだから。
※※※※※
一度目の時は、本当に妊娠していると信じていたのよ。
医者を疑うなんて、思いもよらなかったの。
体調不良を、つわりのせいだと信じていたの。
吐き気と頭痛、そして、月の物が止まったのは、食事に毒が混ぜられていたから、なんてこと、思いもしなかったの。
ちっとも大きくならないお腹に向って、毎日、優しく話しかけて、子守唄を歌っていたの。
生まれて来る赤ちゃんのために、裕福な侯爵家を受け継がせたいからと、毎日ひたすら書類仕事をしていたの。
騙されていたことに、ようやく気が付いたのは、メイドと見張りの騎士の会話を盗み聞いた時。
「アンナ様は、領地で、無事に赤子を出産されたそうよ」
「じゃあ、こっちの妻はどうするんだ?」
「出産後に感染症にかかって死んで、遺体は領地で火葬したことにするらしいわ。だから、こっちもそろそろ始末しなきゃ」
「そうか。それで、食事に入れる毒の量を増やしているんだな?」
「そうよ。でも、旦那様が戻ってくるまでは、仕事をさせないといけないし、加減が難しいわね」
毒入りの食事で、思考能力が鈍っていたのね。
こんな状態になるまで、気が付かなかったなんて。
愚かな自分を呪いたくなったわ。
もう、いっそのこと、このまま死んでしまいたい。
そう思ったのも、体を蝕んだ毒のせいね。
ああ、もう何もしたくない。
もう、どうでもいい……。
私のお腹が、ぜんぜん大きくならないのは、
赤ちゃんが、いなかったからなのね……。
赤ちゃんは、いない……。
いないのね。
私のおなかの中には、何も入ってないの。
空っぽ。いないんだ。私の赤ちゃん。
ああ。ああぁ。かなしい。つらい。いやだ。いやよ。
ああ、私の赤ちゃん。
いなくなっちゃった。
私も、一緒にいなくなりたい。
もう、生きていたって仕方ない。
ずっと一人ぼっち。
このまま、死んで、消えて……。
でも、……。
このまま死ぬ?
赤ちゃんに、会えないまま……?
いや。
いやよ。
赤ちゃんに会いたいの!
私は、赤ちゃんを生むの。
だって、私の、私だけの家族が欲しいの!
だから、私は、悪魔に魂を売ったのだ。
絶対に、それだけはしないと誓ったのに。
亡くなった母と、約束したのに。
──絶対に力を使ってはダメよ。赤い目の悪魔が、あなたを見つけに来るわ。悪魔に囚われてしまうのよ。お父様のように──
父が、取引で莫大な富を築いたのは、先見の明があったからではない。
父は、未来を知っていたのだ。
父の一族に、昔から伝わる力。
時間を巻き戻る魔法だ。
神の教えに背く、忌まわしい魔法。
一度でも使ってしまえば、赤い目の悪魔に見つかってしまう。
でも、悪魔に魂を売ってしまったとしても……。
たとえ、地獄に落ちることになったとしても……。
もう一度、赤ちゃんに会いたいの。
本当は、いなかった私の赤ちゃんに。
だから、私は、
時間を巻き戻したの。
※※※※※※※※
「おまえに魅力がないのが悪いのよ!」
バシャッ
義母のグラスから、赤いワインが飛び散る。
ドレスの胸元が赤く染まる。
「おまえの努力が足りないのよ! もっと女らしい体になりなさい! その平民臭さを消しなさい! 平民の分際で、侯爵家に嫁いだのだから、子供ぐらい、さっさと産むべきでしょう!」
酔っぱらった義母は、私を罵り続ける。
ああ、戻って来た。
3か月前、侯爵家で開いた新年会だ。
私は、禁忌の魔法を使ったのだ。
この夜、赤ちゃんを妊娠した……と信じ込まされたのだ。
「母上、大声を出してどうしたんです? みんなが見てますよ」
へらへら笑いながら、夫がワイングラスを持って近寄って来た。
彼の腕には、アンナがつかまっていて、私をにらみつけている。
「ああ、ジェイムズ。ひっく、全部、この嫁が悪いのよ。あなたは悪くないわ。っく、こんな平民女と、子供なんて作りたくないわよね。でもね、仕方ないのよ。契約がね、借金が…」
「母上。飲みすぎですよ。ほら、アンナがびっくりしてるじゃないですか」
「お母様。お水を持って来させますわ」
夫の腕からするりと手をのけると、アンナは、長い栗色の髪を揺らしながらメイドを呼びに行った。
「まあ、アンナは良い子ね。でもね、あの子の実家が、うちより貧乏なのが、悪いのよ。それに、たかが男爵家だし。ああ、でも、お金さえあればよかったのよ。平民の嫁よりも、アンナの方が、貴族の血をひいているんだからね」
「はいはい。母上、そうですね。あれ? マーガレット、ドレスが汚れてるじゃないか」
夫は、今気が付いたとでもいうように、ドレスの胸元をハンカチでぬぐっている私に、声をかけた。
「着替えた方がいいよ。でも、その前に、ワインで乾杯しよう。めでたい新年の記念に」
夫の手の中にあるワイングラスを見つめる。濁った赤。
きっと、このワインの中には……。
「ありがとうございます」
お礼を言って、赤いワインを受け取る。
「乾杯だ」
夫は一気にワインをあおった。私は、口をつけるふりをして、こっそりとハンカチにしみ込ませた。夫が私をじっと見ている。だから、ふらつきながら、目を閉じて、床に倒れた。
「マーガレット、どうしたんだい?」
どこか嬉しそうな夫の声が聞こえる。
目をつぶったまま、体の力を抜く。一度目の時と同じように、眠りにつく……ふりをした。
「あら、もう眠ったの? 効き目が強いわね。分量を間違えたかしら?」
アンナの声が聞こえてきた。
「おい! アダム。この女を部屋に連れていけ」
アダム? まさか義弟もこれに関わっていたの?
前髪で顔を隠した猫背の義弟の姿を思い浮かべる。
いつもびくびくして、夫と義母の顔色をうかがっていた義弟。
生まれつき片目が見えなかったことから、貴族に不適格だと言われ、母親に虐待されて育ったそうだ。
でも、彼は、とても頭が良くて、夫の代わりに仕事をしていた。時々、私にお菓子や花を差し入れてくれた。気が弱いけれど、善良で優しい人だと思っていたのに……。
アダムの手が、私にそっと触れるのを感じた。優しくゆっくりと抱きかかえられる。まるで宝物でも運ぶかのように。
そして、そのまま物置小屋に連れ帰られた。人を一人抱えていると思えないほど、しっかりした足取りだった。
ベッドの上にそっと横たえられるまで、私は彼の腕の中で静かに目を閉じて、眠っているふりを続けていた。
目を開けた時には、ドアの前にアダムの後姿が見えた。
「待って、アダム」
部屋を出て行こうとするアダムを呼び止める。
彼は、びくりと大きく震えてから振り向いた。
「お、お、起きていたんですか?」
「そうよ、眠ってなんかないわ。それよりも、ドレスは脱がさなくていいの?」
「え、ええ? ど、どど」
顔を覆うボサボサの前髪のせいで、アダムの表情は見えない。でも、彼がひどく動揺しているのは分かる。
「私が夫と寝たように見せるんでしょう? ドレスを着たままじゃ、子供を作れないわよ」
「ね、寝た?」
「ああ、もう。そう言う計画なんでしょう? 私を薬で眠らせて、この日に妊娠させたみたいに偽るんでしょう? あなたも知ってるんでしょう?」
「し、し、知らない……」
アダムは、勢いよく首を振る。
あら、本当に知らないみたいね。そう。それなら、良かったわ。
「いいわ。じゃあ、ドレスを脱ぐのを手伝って?」
「えっ?」
「早くしてちょうだい。メイドはどうせ来てくれないでしょう? 一人じゃ脱げないのよ。あなたの母親にかけられたワインが気持ち悪いの! さあ、早くしなさい!」
きつい口調で命令すると、アダムはすぐに私に従った。きっと、命令されることに慣れ切っているのだろう。
気弱な義弟は、意外にも器用な手つきで、コルセットのひもをはずしていく。
「そ、それじゃあ、ぼ、ぼくは、こ、これで……」
ひもをほどき終わったら、すぐさまアダムは部屋を出て行こうとした。私はそれを呼び止める。
「まだよ。こっちに来て、私を見て」
「え? ええっ? な、な、何してるんですか」
私は勢いよく下着を脱いだ。
裸を見せられたアダムは、動揺して、顔を背けようとする。
でも、金色の髪の間から、紫色が見えた。
私は急いで、アダムの側に駆け寄り、彼の顔に手をかけた。
「あなたの目、綺麗な紫色。ジェイムズと同じだわ」
アダムの前髪をかき上げた。
片目は眼帯で隠してあるから見えないけれど、もう一方は、綺麗な澄んだ紫色だった。
「ねえ、アダム。私と赤ちゃんを作りましょう」
※※※※※※
3か月前、時を巻き戻った直後の私は、赤ちゃんのことだけを考えていた。
空っぽのお腹にいた赤ちゃんは、きっと綺麗な紫の目をしていたはず。
だから、夫の代わりに、アダムを誘惑したのだ。
それは、とても簡単だった。
だって、アダムはいつも、私を見ていたもの。兄嫁の私をこっそりと見つめていたのを、知っていたのだから。
それでも、こんな不道徳で恥知らずなことができたのは、きっと、飲まされていた毒のせいね。巻き戻ったばかりの私は、頭がおかしくなっていたのだわ。
そうじゃなきゃ、自分から、あんなにもはしたないことをするなんて……。今、思い出しても、恥ずかしいわ。だって、子供を作るために、裸になることは知っていたけれど、まさかあんなことをするなんて……。誰も教えてくれなかったもの……。
トントン、トン
控えめなノックの音がする。
「体調はどうですか?」
顔を出したのは、長い金髪を後ろで結わえて、右目に眼帯をつけた男だ。
「だめよ、アダム。まだ夫がいるわ。彼らが領地に出発するのは、明日よ。あなたは行方不明ってことになっているのに、見つかってしまうわ」
「貴女が心配なんです。大丈夫です。ここには誰も近づかないように、命令しましたから」
アダムはベッドに座り、私の手を取って口づけを落とす。夫と同じ紫色の片目が私を見つめる。夫とは違い、その瞳は愛情にあふれている。
「1日だって貴女と離れたくないんです」
そう言って、また口づけをした。今度は私の唇に。
アダムは、あれからすっかり変わった。
夫の計画を知って、私のために戦うと誓ってくれたのだ。
今まで家族から虐待され、自信を無くして、気弱だった彼は、私のために変わってくれた。
夫と義母の奴隷だった義弟は、もうどこにもいないのだ。
まず手始めに、アダムは、侯爵家の使用人を掌握した。
もともと、彼らの弱みを知っていたらしい。
今までは、それを使って脅迫するなんてこと、善良な彼は考えもしなかったそうだ。でも、私のために、侯爵家を支配下に置いたのだ。
「初めて会った時から、あなたのことが好きでした」
「ああ、夢みたいだ。あなたが僕の腕の中にいるなんて」
「貴女を知ってから、僕は別人に生まれ変わったんです。貴女は僕の全てです。もう放さない」
体を重ねるたびに、アダムは私に思いを伝えてくれる。
愛されている。
赤ちゃんを作るための行為に、夢中になったのは、アダムだけではなかった。
私は、こんなにも愛されている!
私も、アダムの愛に溺れた。
何度も何度も、彼と愛を交わした。
「愛しています」
アダムは、私の栗色の髪に口づけをする。
「吐き気がひどかったの。でも、たった今、治まったわ」
「僕がキスしたから? そうだと嬉しいです」
そう言って、アダムは何度も、私に口づけをくれる。
彼の愛を受け入れながら、私は一度目の時との違いを思い浮かべた。
一度目の時に、アダムは馬車の事故で死んだのだ。
体はねじ曲がり、足は千切れ、顔はつぶれて容貌が分からなくなっていた。棺の中に収められたアダムを見て、義母は欠陥品がいなくなってせいせいした、とでもいうような顔をした。夫は、ひどい状態の遺体から目を背け、悩ましそうな顔をした。おおかた、仕事を誰にさせたらいいんだろうとでも考えていたのだろう。
でも、二度目の今は、アダムは死んでいない。馬車の事故はあったけれど、アダムの遺体は発見されなかった。そのかわりに、義母が死んだ。なぜか、アダムと一緒の馬車に乗っていた義母が、変わり果てた姿で発見された。義母の遺体は、体がねじ曲がり、足は千切れ、顔はつぶれて容貌が変わり果てていた。
夫は、醜いものを見たとでもいうように、義母の遺体から顔を背けた。そして、空っぽのアダムの棺と一緒に、埋葬した。
「食事は食べられますか? 隣国の果物を取り寄せました」
アダムは、果物の皮をむき、甲斐甲斐しく私を世話してくれる。
一度目の時と違って、今の私は健康だ。夫の命令で毒を入れられた食事には、口を付けていない。そのかわりに、アダムから、栄養のある食事が届けられた。
「子爵から伝言です。陛下が、医者を手配してくれるそうです」
「そう。良かった。お父様も、たまには役に立つわね」
夫が連れて来た偽物の医者ではなく、王宮の医官が診てくれるのなら安心ね。まだ平らなお腹をなでる。今度こそは、出会えるわね、私の赤ちゃん。
翌日、夫とアンナは領地に療養に行った。そこで、こっそりと子供を生むらしい。
出産のため、領地で過ごしたが、出産後に、妻は感染症にかかって亡くなってしまう。妻を献身的に看病した侍女のアンナを、子供のために後妻に迎える。
そういうことに、したいらしい。
※※※※※
数か月後。
夫とアンナが、赤ちゃんを連れて帰って来た。その日、侯爵邸には大勢の客が招かれていた。
「なぜ勝手にパーティを開いてるんだ?! 誰が許可した?!」
夫の声が、玄関ホールに響く。
「子供のお披露目パーティですって?! 使用人が勝手に? どういうことなの?!」
アンナのキンキンした声と一緒に、赤ちゃんの泣き声も聞こえる。
「よくもこんな勝手なことを! 執事長はどこだ?!」
「開催を許可したのは、私だよ。ジェイムズどの」
父の低い声が響いた。
「ゴールデン子爵!?」
「館を勝手に使わせてもらって、すまなかったね。だが、孫が生まれたのだ。お祝いをしたいじゃないか。ああ、パーティの費用は全て私が出させてもらったよ」
「あ、あの、子爵。その……マーガレットは、病で……」
しどろもどろな夫の声にかぶせるように、アンナが高い声を出す。
「この子が孫のティティアですわ。かわいいでしょう? グレイソン侯爵家の後継者ですの」
「……ああ、母親にそっくりだな。とりあえず、パーティに参加してくれ。もう客人は集まっている」
「え? でも、私、ドレスに着替えなきゃ」
「……なぜ、侍女が、ドレスに着替える必要があるのかね?」
「子爵殿、パーティを開いてくれたのは、ありがたいですが、帰って来たばかりで、僕は疲れているんです。娘も昼寝が必要ですし」
「その赤子は、侍女にでも面倒を見させておけばいいだろう。特別なお客様を招いているのだ。侯爵だけでも、顔を見せてほしい」
父が強引に夫を連れてくるようだ。様子をうかがっていた私は、柱の後ろからこっそり抜け出して、パーティ会場に戻った。
「マーガレット、どこに行っていたのですか?」
会場に戻ったら、愛する人が待っていた。ほんの少しの離別さえ許さないというように、私を強く抱きしめる。
「アダム。苦しいわ。お化粧を直しに行っていただけよ」
「化粧室に着いていけない自分が憎いです。なぜ、僕は男なんだろう」
「もう、バカなこと言わないで。あなたが男性でよかったのよ。だって、私にすてきな贈り物をくれたじゃない」
「そうですね。貴女とこんなふうに愛をはぐくめるのは、何よりの幸福ですから」
きつい抱擁からようやく解放され、すぐ近くにある彼の顔を眺める。
金色の長い髪は、後ろで一つにくくられている。高い鼻すじに形の良い頬骨。そして、なにより印象的なのは、その顔を彩る紫色の二つの瞳。あら、片方の目は、紫というよりも赤い気がするわ。なんだか、おかしいわ……。
「どうしたのですか? マーガレット」
「ねえ、アダム。あなた、眼帯をつけていなかったかしら?」
「いいえ、目は悪くありませんから、その必要はありませんよ」
「そうだったかしら? それに、赤い目はなんだか……」
何か大事なことを忘れている気がするわ。何かとても大切な……。
───絶対に……してはダメよ。……の……にみつかってしまうわ──
頭の中で、亡くなった母の声が聞こえる。
「マーガレット。大丈夫ですか? また、頭痛がしますか?」
優しいアダムの声に、私は微笑みを浮かべる。
「何でもないわ。何かを忘れている気がしただけよ」
「そうですか。無理をしないでくださいね。まだ体が本調子ではないのですから」
アダムの綺麗な紫と赤の瞳に、じっと見つめられると、頭痛が引いていく。うっとりとして、見つめ返す。
なんだか、どうでもよくなってきたわ。
でも……
パーティ会場の入り口付近が、急に騒がしくなった。
「妻は、本当に、残念でした。産後の弱った体で、感染症にかかってしまったのです。ですが、僕達の娘は無事に生まれることができました。僕は、娘の為に、妻を献身的に看病してくれた侍女を、母親として迎えることにしました」
夫が大声で、客人に向けてしゃべっている声が聞こえて来た。
パーティに招いたのは、父の友人達だ。夫は、子爵の開催したパーティに来たのは、どうせ身分の低い貴族や平民だとでも思って、侮っていたのだろう。
「グレイソン侯爵家の後継者の誕生、おめでとうございます」
「グレイソン家とゴールデン家の未来を背負ったお子様の誕生は、本当に喜ばしいことですな」
「あ、ありがとうございます。シルバー公爵、そ、それに、ディアモン公爵?!」
下級貴族の集まりだと思っていたのに、上級貴族が来ていたと知り、夫は目を見開いてから、嬉しそうに礼を言った。
「まさか、こんな高貴な方々が来てくれるなんて。驚きました。我が子の誕生を、こんなに祝ってもらえるなんて、ありがとうございます」
「なあに、ゴールデン子爵のお孫さんですからな。紫の瞳を継いだ可愛らしいお子さんだ」
「ああ、子爵に似て賢そうだ。将来が楽しみですな」
夫のまわりで、客人たちは、こぞって赤子を褒めているようだ。
「え? いや、紫の瞳は男子にだけ受け継がれるので、娘の瞳は青色ですが……? 賢そう? ええ、まあ、きっと頭がよくて……、え? ええっ?!」
しどろもどろになって、きょろきょろしていた夫は、奥の席に座っている私に気が付いたようだ。
「おまえ! な、なんで! おまえが?!」
わなわなと震えながら、私の方に向って来た。
「ごきげんよう。旦那様」
立ち上がって、ゆっくり礼をすると、夫は、口をパクパク開けて私を見た。
「なんで? おまえ、死んだはずじゃ……、執事から連絡が来たのに、……ま、まさかあいつが裏切ったのか」
私の生存が信じられないとでもいうように、夫は、私に手を伸ばしてくる。
「汚い手で触るな」
パシッ
その手を払いのけたのは、愛するアダムだった。
「久しぶりだね。兄さん」
見覚えのない容姿の男の出現に、夫は、目をすぼめたけれど、兄さんと呼びかけられて、やっと彼が誰なのか気が付いたようだ。
「ひっ、おまえ、まさかアダムか?」
夫が最後に見たアダムは、伸ばした前髪で顔を覆い、背中を曲げてうつむいていた気弱な青年だ。
でも、今は、私を守るために鍛えた筋肉質な体を持つ、紫の瞳の美しい青年に変貌していた。
「なんで! おまえ! 馬車の事故で! 今までどこに?!」
驚きすぎて、夫はゼイゼイと呼吸しながら叫んだ。
そこへ、グラスをカチンと叩く音が響いた。
「皆の者! グレイソン侯爵家の後継者の誕生を、祝おうではないか! 我が友、トーマス・ゴールデンの孫が誕生した! 私が名付け親になったパトリック・グレイソンに、乾杯しよう!」
「乾杯!」「パトリックに!」「グレイソンの後継者に乾杯!」「おめでとう!」
パーティ客が立ち上がって、次々に祝いの言葉を言う。
彼らのグラスは、王冠をかぶった男性が抱く、紫の瞳をした赤子に捧げられた。
「なっ? 国王陛下?! どうしてここに? え? グレイソンの後継者?!」
一緒に立ち上がった夫は、国王が抱える赤子を、目を大きく開いて見た。
国王は、夫の様子を見て、にやりと笑ってから、私達の席に歩いてくる。
「さあ、侯爵夫人、赤子を返そう。人見知りをしない良い子だな」
「すばらしい名前をありがとうございます」
礼を言って、国王の手からパトリックを受け取った。
アダムによく似た紫の瞳の息子は、私を見て、きゃっきゃと声を出して笑った。
「うむ、こうして見ると、口元はトーマスに似ているな。良い顔をしている」
「ありがとうございます。光栄です」
父は、国王に、うっとりとした崇拝の目を向けた。
国王はそんな父の目を見返して、瞳を一瞬赤く光らせてから、満足そうにうなずいた。
──絶対に力を使ってはいけないわ。赤い……につかまってしまうわ──
頭の中で、母の声が聞こえた気がした。
「どうしました? 大丈夫ですか」
ふらつく私をアダムが支えてくれる。
国王と同じ、赤紫色のアダムの右目が、私をじっと見つめている。
魂まで吸い込まれてしまいそうなほど、綺麗に赤く光って……。
「違う! その子は僕の子じゃない! 僕の子は、娘だ。その赤子は、グレイソンの後継者じゃない! どこから連れて来た?!」
夫の叫び声で、我に返った。そうだ、今は、断罪の時。アダムに見とれている場合じゃなかった。
「何を言ってるのかな? パトリックは、確かに娘が生んだ子だよ。出産時に隣の部屋で待機して、生まれてすぐに、産湯を使うのを手伝ったのだから」
国王と見つめ合っていた父は、夫を振り返り、ごみクズでも見るかのように、さげずんだ目を向けた。
「そんな、おかしい、違う! 僕の子じゃない!」
「おかしいのは君の方だよ。娘が君の子を妊娠したと、手紙をくれたじゃないか」
「そ、そうだけれど、妻は、絶対安静だから、領地で療養をして、そこで産んで、それで病気に」
「何を言ってるのかな? 面会制限がかかるほど、体調が悪いという手紙をもらったから、陛下に頼んで、王宮医を遣わしてもらったんだよ」
「へ?」
「すぐに侯爵邸に一緒に行ったけれど、ジェイムズ殿は留守にしていたね」
「え? 子爵がうちに来た? 王宮医と一緒に?」
「そうそう、妊娠の経過は順調で、稀に見る安産だったよ。これも全て、陛下が王宮医を遣わしてくださったおかげです」
「うむ。親友の娘の出産のためだからな。それに、私が命じた結婚だ。無事にグレイソン家とゴールデン家の血をひく後継者が誕生した。めでたいことだ」
「ち、ちが……僕の子じゃ……」
夫は、小声でぶつぶつ言っているが、国王の前では、それ以上発言する勇気がないみたいだ。
「そうだ。パトリックの祝いを、もう一つ増やそう! 皆、よく聞け! パトリックの婚約者を決めたぞ! 先月、生まれたばかりの12番目の王女を降嫁させよう!」
国王が、大声で宣言する。
王女が、パトリックの婚約者になるの?
まだ生まれたばかりなのに?
「ありがたき幸せです! 陛下」
「うむ。これでトーマスと我は親戚だな。我が娘が、おまえの孫に嫁ぐのだ、めでたい、めでたい。さあ、もっと祝い酒を飲もうではないか」
国王は父の肩を抱きよせ、来賓席に一緒に向かう。
ああ、私の結婚は、このためだったのね。
平民上がりの子爵の父と国王が、親密な付き合いをするのを批判する者は多い。でも、これで父は、王女の婚約者の祖父として、堂々と国王の側に立つことができる。
国王は、命を救ってくれた父に、執着しているのだから。
「認めない! 僕の子じゃない! 僕の子のはずがない! そうか、おまえ、浮気したな! おまえたち、そうなのか?! アダム、よくも!!」
陛下が背を向けたとたん、夫がわめきたてた。
私の肩を抱き寄せるアダムと、そして腕の中のパトリックを見て、やっと気が付いたみたいだ。
夫の大声に、客人たちがざわめき合う。
「この、浮気女め! みなさん、違うのです。この赤子は僕の子じゃない! 僕は、この平民女なんかと、子作りをしてない! 僕には、真実の愛が! ひっ」
そこで、夫は口を開けたまま、固まった。
振り向いた陛下が、赤く光る目で、夫をじっと睨んでいたからだ。
「陛下。ジェイムズ殿は、病気で頭をやられたようです。確か、感染症にかかったため、領地で療養していたとか」
「そうか。まだ治っていないようだな。我が娘の婚約者にうつされては大変だ。隔離が必要だな」
「ち、違います! 陛下! 僕は健康です。悪いのは全て、その浮気女で!」
夫はわめきたてるけれど、父は冷酷に告げる。
「侯爵家には、外から鍵をかけられる小屋があるそうですよ。そこで、病が治るまで、隔離させましょう。医者に頼んで、特別な食事を運ぶように手配します」
「うむ。で、その間、侯爵家の執務はどうする?」
「娘の隣にいるアダム殿は、侯爵の弟です。療養中の侯爵に変わって、今まで執務を行っていた優秀な男ですよ」
「なるほど。そうだな。しかし、娘の婚約者の父親が、頭の病にかかっているというのは、外聞が悪い。侯爵夫人、いっそのこと、侯爵と離婚して、その弟のアダムとやらと再婚してはどうかな」
「はい。陛下の仰せのままに」
私は、国王に礼をしてから、アダムと目を合わせて微笑みをかわす。陛下の赤紫の瞳と、アダムの右目は同じように赤く光っている。
「認めない! 僕は、おかしくなんかない! おかしいのはこいつらだ! こいつは僕の子じゃない! 侯爵家の乗っ取りだ!」
夫が大声でわめきだしたので、国王の護衛騎士が取り押さえて、布を噛ませて口を封じた。
その時、会場のドアが大きく開いて、甲高い女性の声が響いた。
「皆さま! 今日は娘のお祝いに集まってくださり、ありがとうございます!」
ピンク色のドレスに着替えたアンナが、赤子を抱いた乳母とともに現れた。
「まあ、国王陛下! 嬉しいです! 陛下も私のティティアの誕生を祝いに来てくださったのですか?!」
空気の読めないアンナは、国王の姿を見つけて、嬉しそうに駆け寄って来た。その横にいる私やアダム、そして、後ろで護衛騎士にとらえられている夫は、全く目に入っていないようだ。
「見てください。ティティアは私に似て、かわいらしいでしょう? あ、もちろん、産んだのはマーガレットさんだけど、産みの親よりも育ての親って言いますよね。だから私に似てるのですよ」
「君は、ただの侍女だろう?」
国王の側に立っていた父に問われて、アンナは急いで悲しそうな顔を作った。
「ええ、子爵様。マーガレットさんは本当に、お気の毒でしたわ。産後、体が弱っている時に感染症にかかってしまうなんて。私、献身的に看病しましたのよ。マーガレットさんの遺言で、私がティティアのお世話を頼まれましたの。私、良い母親になりますわ!」
キンキンした声でしゃべり続けるアンナに、国王は眉をひそめた。父が、国王に提案する。
「この侍女も、頭の病に感染しているようです。侯爵と一緒に、隔離小屋で治療させましょう」
「そうだな。侯爵夫人、離婚と再婚の手続きを、速やかに進めるがよい」
「かしこまりした」
国王の言葉に、私は、頭を下げる。
そして、アンナは、ようやく私に気が付いたようだ。
「あ、あんた、なんで?! なんで 生きてるの?!」
青い目をぎょろりと開いたアンナは、護衛騎士にとらえられている夫にも気が付いた。
「ジェイムズ! どうして?! ちょっと、ジェイムズを放しなさいよ! いや! こないで! 放して」
護衛騎士は、夫とアンナを引きずるようにして、パーティ会場から連れ出した。
彼らは、この後、私が過ごした物置小屋で監禁されるのだ。
毒入りの食事を与えられて、小屋から出て来られるのは、死体になった時だ。
これは正当な復讐。そうでしょう?
でも、二人一緒よ。真実の愛の相手と、一緒に過ごさせてあげるの。孤独に苦しむことはないわ。私って、とっても優しいでしょう?
「うわぁー、うぁーん」
赤子の泣き声が響く。
パトリックの声ではない。彼は、アダムの腕の中で、にこにこ笑っている。私の子は、本当にかわいいわ。
泣き声は、アンナと一緒に来た乳母が抱いている女の子からだ。
この子は、どうしたらいいかしら?
子供に罪は、ないのだけれど……。
「その赤子は、うちの領地の孤児院に連れて行こう。子どもを欲しがっている夫婦が、よく見に来るんだよ。みんな平民だけどね」
父がそう言って、乳母に部屋を出て行くよう指示する。
「私もそろそろ、パトリックのお乳の時間なの」
小声で父に告げると、「後は任せなさい」とうなずかれる。
「僕も一緒にいきます」
アダムが後から付いて来た。
貴族の夫人らしくないけれど、私は、乳母に任せずに、自分の乳でパトリックを育てている。愛するアダムとの子だもの。自分で全部の世話をしたかったの。
でも、アダムは少し不満そうだ。
「貴女の体を味わうのは、私だけの特権なのに」
「もうっ。相手は、赤ちゃんよ。それも、あなたの子なのよ」
ふふふと笑うと、アダムは瞳をきらめかせて、笑顔で見つめ返してくれる。
その右目がまた、赤く光った。
──巻き戻りの力を使ってはダメよ。お父様みたいに、見つかってしまうわ。赤い目の悪魔に、囚われてしまうの──
頭の中で、声が響く。
死の間際に、何度も何度も、うわごとのようにささやいた母の声。
分かってますわ。お母様。
でも、それでも私は、愛を知ってしまったの。
赤い目の悪魔は、私を見つけてくれた。
私だけを愛してくれる。
それに、かわいい赤ちゃんを授けてくれたの。
だから、私は、これからも何度も力を使うわ。
愛する人たちと、幸せになるためなら、何度だって、やり直すわ。
だって、愛のためだもの。
たとえ悪魔に囚われてしまっても。
それが、私の幸せなのよ。
同じように夫に裏切られた妻が主人公の作品、
「赤ちゃんが生まれたら殺されるようです」を連載中です。
こちらの方は、もう少し明るめです。