三 密命
朝。旅装の武士が一人、街道を急いでいる。
武士の名は、滝川小水。人々の間で、『尿漏れ侍』と呼ばれる、藩中きっての達人である。
尿漏れ侍は、今、藩の主席家老から、江戸にいる藩主に宛てた密書を運ぶ旅の途中である。
その密書、滝川小水は、中身までは知らぬが、お家の大事に関わる、ある重大な陰謀をくじくための書であると、この任務を命じる時に、主席家老は言っていた。
この任務、絶対に失敗は許されぬ上、ことは秘密裏に成し遂げられねばならぬ。万一ことが漏れたら、陰謀の黒幕は、この密書を闇に葬ろうと、必ずや追っ手を差し向けて来るだろう。危険極まりない任務である。それゆえに、滝川小水が選ばれたのだ。
「頼んだぞ、尿漏れ」
霧の立ちこめる朝の街道を急ぎながら、滝川小水は、主席家老の真剣な顔を思い出していた。
と、その時――。
(む……)
霧の中、前方の松の陰に、何やら動く者の気配があることに、小水は気付いた。
(三人……)
と思いながら、滝川小水は足を止めた。編み笠を外して放り捨て、いつでも刀を抜けるように足元を固め、両手をだらりと垂らす。
三人の男が松の陰から現れた。いずれも武士のようであった。そのうちの一人が、
「貴公、尿漏れ侍、滝川小水か?」
と、問うてきた。滝川小水は、
「いかにも。それがしが尿漏れ侍、滝川小水でござる」
と答えた。
「貴公が持っている書状を渡してもらおう」
「はて? なんのことでござる?」
「とぼけるな! 貴公が江戸へ届ける密書を隠し持っていることは先刻承知! それを届けられては困るというお方がいるものでな……」
冷ややかな笑みとともに刺客が言う。
「悪いが、ここで死んでもらおう!」
三人の刺客が一斉に刀を抜き、白刃の光が目を射る。その刹那――。
じわあっ。
尿漏れ侍の股間に濃いしみが生じた。三人の刺客は、
「おぬし!」
「出たな!」
「尿漏れ!」
口々にはやし立てる。
「絶体絶命の窮地に臆したか! さてはそれで失禁したというわけか?」
刺客の一人が嘲りの笑みを含んだ声で言う。滝川小水は、
「否!」
「なに?」
「これは」
「なんだ?」
滝川小水の口元に不敵な笑みが浮かぶ。
「武者尿漏れでござる!」
「武者尿漏れ?」
「たわけが!」
「ふざけおって!」
三人の刺客が一斉に襲いかかった。上段から振り下ろされる剣が三方向から迫る。常人にはとても防ぎきれない。たちまち、ぼろ雑巾のように斬り刻まれるだろう。しかし、あいにく、尿漏れ侍は常人ではなかった。
「裏の秘太刀……濁流!」
尿漏れ侍が素早く刀を抜き、右に左に荒々しく歩を運ぶ。刀の光が一閃、また一閃ときらめき、そのたびに「ぐわっ!」「がっ!」「がはっ!」と悲鳴が上がり、血しぶきが上がる。
もはや、立っているのは尿漏れ侍一人であった。
「それがしの剣と尿漏れを、止めることのできる者はござらん!」
不敵に笑いつつ、尿漏れ侍は刀を納めた。編み笠を拾い、かぶる。その足が再び江戸を目指して歩き出した。
江戸に着く頃には、袴のしみもすっかり乾いていることだろうと、尿漏れ侍は内心、思った。
霧は早くも晴れ始めていた。