二 辻斬り
夜。その男は、道の物陰に身を潜め、じっと息を殺していた。
黒い着流しに、黒覆面。右手は、腰に差した刀の柄にかかっている。
男は辻斬りであった。それも、一度や二度の犯行ではない。両手で数え切れないほど、斬ってきた。最初は、単に、刀の試し斬りのつもりだったのが、今は、ある種の愉快犯となっている。
今宵の獲物は誰か。町人か、武士か。背後から斬られた人間がなすすべもなく倒れる光景、その想像に、辻斬りは、覆面の中で、恍惚とした笑みを浮かべた。
その時……。
(む、誰か来る)
静かな足音であった。次いで、ちょうちんの光。道の向こうから、しだいに近付いて来るらしい。
物陰からそっとうかがうと、大小を帯びた一人の武士が、ちょうちんを手に歩いて来る。こちらの存在には気付いていないらしいが、しかし、歩き方に隙がない。
(あれは相当なものだ……)
と辻斬りは思ったが、だが、同時に、いつも通り相手が通り過ぎたのを見計らって、背後から斬りつければ、難なく倒せるとも思った。
辻斬りの目が、異様な光を放つ。
ちょうちんを持った武士が、辻斬りの隠れている場所を通り過ぎた。辻斬りは音もなく物陰から飛び出すと、瞬時に刀を抜き、背後から斬りつけた。
相手はまるで気付いていない……そのはずだった。
ところが、
キィィィン!
次の瞬間、響いたのは、金属の刃と刃がぶつかり合う甲高い音であった。
相手の武士は、背後からの斬撃をとっさに察知し、同時に刀を抜き、防いだのであった。辻斬りの胸中に驚きが走る。恐ろしく早い手並みだった。
両者が跳びさがり、間合いを空ける。
先ほど投げ捨てられたらしいちょうちんの光が、両者の姿を暗闇に浮かび上がらせた。
そして、辻斬りは気付いた。相手の武士が、先ほどの一合で、小便を漏らしていたということに。
瞬時の衝撃。その衝撃が、この武士の敏感すぎるぼうこうを刺激し、このように小便を漏らさせたというのか。遠間で、隙のない中段の構えを取りながら、こちらを凝視する武士の袴は、股のところがぐっしょりと濡れていた。
それを見て、辻斬りは、ひとつ思い当たることがあった。それはひとつの噂である。その噂というのは、
――やたらと尿を漏らすが、滅法腕の立つ侍がいる。
というものであった。
辻斬りが呼びかける。
「貴様、尿漏れ侍か?」
尿漏れ侍と呼ばれた武士は、ニッと笑った。
「いかにも。それがしが尿漏れ侍、滝川小水だ」
尿漏れ侍本人と聞いて、辻斬りの顔に不可解な笑みが浮かんだ。
「尿漏れェ! まさか貴様ほどの相手に出会えるとは! 相手にとって、不足なし!」
その笑みは、剣の邪道に堕ちた剣鬼の笑みであった。
ちょうちんの火が、その形相を、その刀を、照らし、闇の中に浮かび上がらせる。
次の瞬間、辻斬りの上段の剣が、尿漏れ侍に襲いかかった。
ガキィィィィン!
甲高い金属の音が上がり、火花が散る。
辻斬りが三たび斬撃を浴びせ、尿漏れ侍は三たびその剣をはね返し、同時に三たび尿を漏らした。
辻斬りの斬撃の重さはそれほどのものであった。
両者が示し合わせたように、パッと跳びさがり、再び間合いを空けた。
「さすがは、音に聞こえし尿漏れ侍! 俺の剣を三度もはね返すとは! だが、俺にはわかる! わかるぞ、尿漏れェ!」
「……」
「貴様の剣は、まだまだこんなものではない! 貴様、まだ奥の手を隠しているな?」
辻斬りの笑みはいよいよ狂気じみている。これが邪剣に取り憑かれた者の姿か。
「尿漏れェ! 噂に聞く、貴様の秘剣とやら、この俺に遣ってみせるがいい! キエエエエエエッ!」
辻斬りはすさまじい気合いを発した。次の一撃に己のすべてを込めるつもりだ。しかし、
「そこまで申すなら見せてやろう……」
尿漏れ侍が八双に構えた時、辺りの気配が一変した。
「秘太刀……流水!」
尿漏れ侍の体から、すさまじい剣気が放出される。それは荒れ狂う波濤のように、辻斬りの全身を呑み込んだ。
(なんという剣気だ! これは、これは……受け切れぬ!)
そして、
「たあっ!」
流れるようなとらえどころのない動きで振り下ろされた一刀は、辻斬りの左首筋を深々と斬り裂いた。
辻斬りの顔は天を仰ぎ、その全身が硬直する。右手の刀が地面に落ちる。
尿漏れ侍はやはり流れるような動きで辻斬りの脇を通り抜けると、数歩先でぴたりと立ち止まった。
尿漏れ侍は振り向きもしない。
「ぐっ、ぐああああああっ!」
断末魔の叫びを上げて、おびただしい量の鮮血をまき散らしながら、辻斬りは背中から倒れた。
辺りに、鼻をつく血液とアンモニアの臭いが漂った。
尿漏れ侍は刀を振り、鮮血を落とすと、
「たわけが! 身の程を知れ!」
吐き捨てるように言い、懐紙を取り出し、刀を拭った。
雲が裂け、月の光が差した。月光が尿漏れ侍の姿を照らし、股の濡れそぼった袴をあらわにしたが、
「今宵も一人、悪を成敗したか……」
満足げな会心の笑みを漏らす、われらが尿漏れ侍であった。