シント・アーナズ【アウェイク】・4 驚くよりも先にすること
突如として目の前に現れた淑女は、俺の名を呼んだ。
黒いドレスを着て、優しい微笑みを絶やそうとしない。
髪の色は漆黒。瞳もそう。見ていると吸い込まれそうだった。
「どうしたのですか?」
穏やかな声。体に染み入るようだ。
「いえ、その、驚いているんです」
彼女は俺を知っているようだが、俺はこの人を知らない。
驚くのは、なぜか他人の気がしないからだ。
「俺は貴女を知らない。だけど、他人のような気がしない」
聞いた彼女は、小さく笑った。
「他人のような気がしないのは、あなたとずっと一緒にいたからでしょう」
ずっと一緒にいた。
と、いうことは。
まさか。
周りを見てみる。
命より大事な古書が、どこにもない。代わりにいるのは彼女だ。
「えーーーーーーーーーーーーー!?」
そんなことある?
動く本だと思ったら、女の人だったのか?
「驚くのも無理はありません。わたくしもこうしてヒトの姿となったことにびっくりです」
「本、なんですよね?」
「そうですね」
「でも、人でもある?」
「どうでしょうか」
んー?
「本に封印されていた?」
「いいえ、そうではないでしょう」
違うの?
ダメだ。軽く混乱してきた。
そう! まずは名前だ。あと、最初にするべきことを間違っている。
「お名前はなんというのですか?」
「わたくしのことは『ディジア』と呼んでください」
よかった。名前はあるようだ。
そして俺は頭を下げた。
「ディジアさん。ほんとうにありがとうございました」
「シント、どうしたというのです」
「驚くよりもまずお礼を言うべきでした。すみません」
「ですからシント、お話が見えないのです」
古書は俺にとってかけがえのないのもの。
魔法を授けてくれた、なによりも大切なものだ。
つまり、なんの【才能】も持たない俺が魔法を使えるのは彼女のおかげ。
「俺が魔法を使えるのは、ディジアさんのおかげです。これまで生きてこられたのも、なにもかもです」
彼女は少し驚き、そしてまた微笑む。
「それは違いますよ、シント」
「え?」
「確かにわたくしがきっかけとなったのでしょう。ですが、わたくしの『知識』を吸収し、そこから魔法を編み出したのは……あなた自身の力。お礼を言うのはむしろこちらの方」
俺の方はなにもしていない。
「あの時……五年前にわたくしを手に取ってくれて、ほんとうにありがとう」
深々とお辞儀をするディジアさん。
ふわりとした感情が込み上がってきて、視界がぼやけてくる。
もしかして俺は、泣いているのだろうか?
いけない。人前で泣くだなんて……って、違うな。
視界がぼやけているのは、霧のようなもののせいだ。
どこからか霧が出て、部屋に充満しつつある。
そして霧の発生源は――ディジアさんだ。
「ディジアさん! 漏れてます! 体から霧が漏れてますよ!」
「あら?」
しゅーーーーーっと霧が出続けて、ディジアさんが縮み始めた。
さきほどからありえないことばかりが起こって、気が変になりそう。
霧の噴出が止まると、ディジアさんは小さくなっていた。
10歳くらいの女の子に変わってしまう。
「ああ、縮んでしまいました」
なんで!?
「ディジアさん、俺にはなにがなんだか」
彼女は首を横に振った。
今はもう、俺の三分の二くらいしか背丈がない。
「よければ貴女のことを教えていただけませんか?」
「わたくしが知っているのは、自らの名だけ。それ以外はあなたと過ごした五年の日々です」
「記憶がないと?」
ディジアさんは申し訳がなさそうにうなずいた。
「五年前、あなたの手に触れた時に意識が芽生えました。そしてダレンガルトでのことで動けるようになったのです」
「あの時か」
彼女がまだ本の姿であった頃、あの遺跡で発見した隠し部屋にあった奇妙な骨を吸収していた。
「あれはわたくしの力を少しだけ、取り戻させたのです。そしていま、剣をこの身に吸収したことで、ヒトの姿となった」
「他に似たようなものを吸収すれば記憶が戻るのですか?」
「それはわかりません。ただ、今のわたくしには『思い出』と『魔力』が欠けている。それだけは確か」
思い出がないのか。
きっと、想像もできないくらい苦しいはずだ。
彼女が何者なのか。それは彼女自身も知らないという。
助けたいと心から思った。
「ディジアさん、まずはここから出ましょう。俺は家を持っていますし、そこへ」
「シント、わたくしは一緒にいたのですよ?」
「そうか、知ってるんだった」
「ええ、知っています」
慈愛に満ちた笑みだ。
見た目は10歳くらいなのに、優しく包み込まれる感覚がした。
調査団の方々も心配だから、さっさと戻ろう。
もう遠慮はなしだ。
壁に向かって≪透視≫の魔法を使う。
部屋の裏側に空間がある。急に運が向いてきたぞ。
隠し通路なのは明らか。ならば――
「ディジアさん、俺の後ろへ」
「はい」
使うのは≪魔衝撃≫だ。
壁を破壊して、通路を作る。
「さあ、行きましょう」
「ええ」
彼女の手を取り、先へ進んだ。
★★★★★★
隠し通路を抜けて、上へと登る階段を探す。
だいぶ時間がかかったけど、ようやく見つけた。
ディジアさんと会話をしながらだったから、苦痛を感じずにすんだ。
一人よりも二人の方がいいに決まっている。
「ディジアさん、この遺跡のことはなにか知っていますか?」
「いいえ。ですが気の遠くなるほどに昔のものだと思えます」
同感だ。
地下にここまでの施設を作る技術なんて、現代の人間にはないと思う。
だいぶ上ったけど、どこまで続くのか。
やがて、明るい場所に出た。
「陣形を立て直せ! 三人が一組になり確実に仕留めよ!」
「はっ!」
「不浄なる者どもにガラルホルンの剣をもって知らしめよ! 地獄に送り返してやれ!」
「ははー!」
聞き覚えのある声が広間に響く。
号令のもと、騎士たちが隊列を組み、黒い液体に包まれたガイコツを叩き潰していく。
どうやら、戦闘の最中だったようだ。
戦っているのはウルスラの部隊『雷光』と、不死者たちだった。
統率の取れた『雷光』は苦戦することもなく、不死者を全滅させる。
「ん? そこにいるのはシントか?」
見つかったか。
しかたない。
「やはり生きていたか、ふふふ」
「あ、うん」
「……隣にいる女子は誰だ? 調査団のものではないな」
ガラルホルン家の第二公女ウルスラは、ディジアさんを見て顔をしかめる。
いちおう紹介しておくか。
「彼女はディジアさん」
「初めまして。わたくしはディジア。シントのパートナーです」
「な、なに? パートナー……だと? どういう意味だ」
「彼女は俺の大切な女性なんだ」
そう言うと、ウルスラの表情が消えた。
「そのような幼女が大切な女性だと? シント、おまえは幼女趣味だったのか?」
なぜかは知らないけどドン引きされているな。
なんの想像をしているんだ、ウルスラは。
「それよりもウルスラ。調査団の方たちはどうした? ラグナ家の人は?」
「そのようなこと、どうでもいいだろう」
「いいや、聞かせてくれ」
穴に落ちる前、彼女は調査団の方たちを消すと言った。
もしもそうなら――
「上で拘束してある。【神格】を得るために必要かもしれないからな。そんなに心配したのか?」
「それはするさ」
「安心しろ。先に言ったことはただの脅しに過ぎない。おまえを逃がさないためのな。ただし……ラグナ家の者どもは別だ」
ウルスラの目が鋭くなる。
「奴らは我らにしかけてきた後、逃げた。だが、どうせ後ろを尾行しているだろうよ。コソコソと薄汚いネズミのように」
やはり揉めたか。
知りたいことはわかった。
あとはここを出る。
「ウルスラ、ここは危険だ。一度外に出た方がいい」
また来るにせよ、装備を見直した方がいいと考えた。
だが、返答は抜剣。
「シント、逃げようとしてもそうはいかないぞ」
そう来るか。
戦いの気配が足元から忍び寄る――




