第3章 無について
状況の静止が無
「黙想の散歩道」では、無に至る過程について思索を展開してきました。僕は、日常生活では、深い眠りについている時が無にある状態だと考えていて、有と無の狭間には何があるのかについて関心を持っていたのです。
今は、今の状況は2つの前の状況の残像と新しい状況で構成され、前の状況から前の状況の残像と新しい状況の混在した状況への変化が起きると考えていますが、以前はそうではありませんでした。前の状況の残像と新しい状況の重ね合わせが今の状況であり、前の状況から新しい状況への変化が今この時に起きると考えていました。しかし、それでも無に至る過程がどのようなものであるか答えを出すことができました。2つの前の状況の残像が実は一つであり、この状況の残像内部で、前の状況の残像化が起きることから、今の状況を前の状況の残像と新しい状況の重ね合わせとみなしても、問題はなかったのだと思います。今の状況は、前の状況の残像と新しい状況の重ね合わせとも、前の状況の残像と新しい状況と前の状況の残像の混在した状況の重ね合わせともみなせるのです。読者の方にはこのことを踏まえた上で、無に至る過程についての説明にお付き合い願いたいと思います。では、説明に移りたいと思います。
まず、通常は状況の変化が感じられているのが、無に至るということから、状況の変化の性質を考える必要があります。第1章で説明したように、状況は断続的に変化します。そして、状況には変化と静止が交互に起きます。
第2章で先述したように、静止している状況は感じられませんが、この状況が前の状況の残像と新しい状況で構成されていれば、静止中は、前の状況から前の状況の残像と新しい状況の混在した状況への変化が感じられます。状況の体験者が変化した瞬間の状況を感じ取り続けることで、状況は静止中も存在し続けるのだと考えられます。変化を感じることで、状況の静止をやり過ごしていると言えます。
状況内から変化がなくなれば、体験者は状況の静止に直面することになります。
状況の静止では、状況を感じ取れないので、状況を感じ取れないこと自体にも気付くことができません。これは自分の存在を認識できない、すなわち、自分が存在しないことを意味します。今の状況を構成する新しい状況はそれ自体は、静止している状況で前の状況の残像がなければこれは感じられません。しかし、第1章で述べたように、新しい状況のみで構成される状況は存在しません。
このことから、状況に何らかの変化が起きることで生じる、状況の静止が無だと考えられます。
状況の静止に至るには
状況の静止という無に至るには、状況の変化を感じ取ることをやめる、すなわち、状況を感じ取ることをやめることによってしかあり得ません。
状況は感じ取ることはできますが、状況を感じ取ることを感じ取ることはできません。第2章で述べたように、状況を感じ取ることは状況の中の事物ではなく、時間・空間とは無関係に存在します。時間・空間と無関係に存在する「こと」に対して、直接、何らかの働きかけ・作用を及ぼすことはできません。
今の状況では、前の状況の残像と新しい状況が共に、今、出現し、この二つの状況が重ね合わされることで、状況の変化が感じ取られます。これが「状況を感じ取ること」の構造です。この構造を変化させることは、時間・空間と無関係である「状況を感じ取ること」に作用することであり、不可能です。
だから、前の状況のみを感じ取る、新しい状況のみを感じ取る、前の状況の残像と新しい状況の共通部分のみを感じ取るといったことは、確かに状況内の変化を感じ取らないことではありますが、これらのことで状況の静止に至ることは不可能です。状況を感じ取ることをやめることとは、状況に対して働きかけることということになります。
状況の静止では、同じ状況が継続します。だから、1つの状況とその残像の重ね合わせが生じます。この場合、前の状況の残像と新しい状況の重ね合わせによる両者の違いが生じず、変化が感じ取れません。したがって、状況の静止に至るには、新しい状況が前の状況に差し替えられた今の状況を感じ取るか、前の状況の残像が新しい状況の残像に差し替えられた今の状況を感じ取るという二つの場合が考えられます。前者は前の状況の残像と前の状況の重ね合わせ、後者は新しい状況の残像と新しい状況の重ね合わせになります。二つの場合共に、前の状況の残像と新しい状況とに違いが認められないため、この両者の重ね合わせによる変化は存在しません。そして、二つの場合共に、状況に対する働きかけであり、状況を感じ取ることへの働きかけではありません。
前の状況は、前の前の状況の残像と前の新しい状況の重ね合わせで構成されます。前の状況の残像と前の状況の重ね合わせでは、前の状況内の変化、すなわち、前の前の状況から前の新しい状況への変化を感じ取ることになり、状況の静止には直面しません。
したがって、状況を感じ取ることをやめることとは、前の状況の残像が新しい状況の残像に差し替えられた今の状況を感じ取ることということになります。いわば、前の状況の残像を新しい状況の残像と錯覚したまま今の状況を感じ取ることで、状況の静止に至ることになります。
状況の静止に至るには、状況を感じ取ることをやめるだけでなく、そこに至るまでの過程が必要です。通常の状態では、状況を感じ取ることをやめようとしてもできません。前の状況の残像を新しい状況の残像と錯覚するほど、状況をはっきりと感じ取れなくなっていることが必要と考えられます。
では、前の状況の残像を新しい状況の残像と錯覚することは、何によって引き起こされるのか。
僕が考えた中で最も合理的な説明は、状況の半残像化です。
状況の変化を感じ取る時は、前の状況の残像と新しい状況の重ね合わせが起きます。そして、この重ね合わせによって、二つの変化が感じ取られます。一つは、前の状況から新しい状況への変化で、もう一つは、前の状況の残像化です。前の状況の残像と新しい状況の重ね合わせでは、前の状況と新しい状況の比較による状況の違いのみならず、前の状況が残像であることも感じ取られるのです。
状況の半残像化では、前の状況の残像と前の状況の半残像の重ね合わせが起きます。この時、前の状況から前の状況の半残像への変と前の状況の残像から前の状況の半残像への変化が起きます。前者の変化は0.5の残像の増加で、後者は0.5の残像の減少です。残像の変化量の合計は0になります。つまり、残像の変化量の合計からすると、前の状況の半残像化では、前の状況の残像と前の状況が重ね合わされ、前の状況の静止が起きることになります。しかし、実際にあるのは前の状況ではなく、前の状況の半残像であるので、前の状況の残像と前の状況の1残像の差を維持するような錯覚が前の状況の残像に起きます。すなわち、前の状況の残像が半残像化されます。これが前の状況の残像を新しい状況の残像(=前の状況の1.5の残像)と錯覚することです。この錯覚のために、前の状況の1.5の残像と前の状況の半残像の重ね合わせが起き、状況の静止に至ります。
状況の静止は、同じ状況が継続することです。単一の状況の存続では、状況が存在するということにすぎず、状況の継続とは言えません。したがって、状況の継続は、前の状況の残像と新しい状況の重ね合わせという、状況の変化の構造に則った時間経過を持ちます。このため、状況の静止とは、同じ状況が続けて現れ、先に現れた状況の残像が後に現れた状況と重なることと言えます。この状況の残像は、状況内の静止物がそうであるように、感じ取られません。前の状況の半残像化では、錯覚によって前の状況の1.5の残像と前の状況の半残像が重ね合わされ、前の状況の半残像から前の状況の半残像への変化、すなわち、前の状況の半残像の静止が生じます。
前の状況は前の前の状況の残像と前の新しい状況の重ね合わせで、その内部では前の前の状況から前の新しい状況への変化が起きています。だから、前の状況の半残像化は前の前の状況が前の新しい状況へと変化した後で半残像化することです。この変化は、前の前の状況が半残像化した後で前の新しい状況の半残像へと変化することに相当します。この二つの変化の道筋は、いずれも前の前の状況が前の新しい状況の半残像に変化する道筋だからです。このため、前の状況が半残像化することは、前の前の状況の半残像が前の新しい状況の半残像へ変化することを内に含んでいます。だから、前の状況の半残像化の後で前の前の状況の半残像が前の新しい状況の半残像へ変化することはありません。
状況の半残像化では、実際には状況の残像化と半残像化が共に起き、状況の残像と半残像が重ね合わされることになります。両立しないように思われる、この2つの変化が共に起きるとすると、それぞれの変化はそれぞれ異なる条件の下で起きるということになります。2つの変化はいずれも、同じ状況に対して同時に起きるので、異なる条件としては変化の起きる原因が挙げられます。状況の残像化は、状況の変化を感じ取る時に、何もしなくても勝手に起きます。強いて言うなら、状況の残像化はこれを待つことで起きます。ということは、状況の半残像化は、待つ以外の行為によって生じることになります。
状況の半残像化とは何か。状況の半残像化という言葉から、状況の半分が過去であり、半分が今である状態であると考えられます。考えた結果、気づくという行為に僕は行き着きました。
何かに気づくという時、気づきの対象は気づかれた瞬間の姿のままを感じ取られます。気づきの対象が、元々、感じ取られていた事物の場合は、気づく前とは異なる感じ方・解釈の仕方で、その対象を捉え直すということも起きます。ここには対象の客観視が存在します。客観視は、まず先にその対象が存在することで可能になります。これは事物の今の姿を客観視できないということを意味します。客観視できるのは事物の過去なのです。客観視によって、その対象は過去の事物として捉えられるとも言えます。対象が単一の要素で構成されていたら、客観視の対象になるのは、この要素ですが、要素はそれ以上は解釈のしようがないので、この要素が存在することのみが感じ取られます。存在することが感じ取られているのは、今、現れたままを感じ取られている要素ではなく、過去の要素です。ゆえに、単一の要素で構成され、既に現れたままを感じ取られている事物は、気づかれる時は、二つの在り方をします。一つは、現れたままを感じ取られるという、今、存在するという在り方で、一つは、存在を感じ取られるという、過去に存在したという在り方です。要するに、気づきによって、存在することの今と過去が感じ取られるのです。状況の半残像も、言葉から考えると、今でもあり過去でもあるという在り方をします。だから、単一の要素で構成され、既に現れたままを感じ取られている事物に気づくことは、この事物の半残像化になります。
状況に起きるあらゆる変化は、前の状況の残像化と共に起きます。もちろん、状況の半残像化も、半残像化前の状況の残像化と共に起きます。このため、状況の残像化があらゆる状況に起きるのに対し、半残像化はその他の変化と同様、限られた状況にのみ起きると考えられます。
五感の感覚や思考・感情などの内面の現象が存在しないことを無感覚と呼ぶことにすると、無感覚の状況には、無感覚になる前の状況が残像として含まれていて、このために、無感覚は無感覚として感じ取られます。つまり、無感覚が無感覚として感じ取られる時は、無感覚になる前の状況の残像が無感覚と一体になっているのです。これは、無感覚の状況が無感覚という要素のみで構成されていることを意味します。また、無感覚は、半残像化の前には、現れたままを感じ取られています。
以上のことから、状況の半残像化とは、無感覚の状況において無感覚に気づくことということになります。
無感覚の状況は、気づかれる時は、無感覚のままを感じ取られつつ、その存在を感じ取られる、換言すると、無感覚という感覚として感じ取られます。無感覚の状況は、気づきによって、今でもあり一つ前でもあるという在り方をすることになります。
以上は無に至る過程の概観です。以下、その過程についてより詳細に述べていくことにします。
無における状況の構成
無感覚に気づく状況には、出現してから存続する無感覚(=現れたままの無感覚)と気づかれた無感覚が存在します。気づかれた無感覚とはその存在を感じ取られる無感覚です。存在を感じ取られるということはその前に存在していたということです。だから、気づかれた無感覚は出現した時の無感覚です。また、気づかれるということは、その対象に注意が向けられるということなので、気づかれた無感覚とは注意が向けられる無感覚です。無感覚に気づく状況にはこれらの無感覚のほかに無感覚の出現した状況の残像が存在します。
無感覚が無感覚と感じられるためには、その出現前に有感覚の状況が存在していなければなりません。有感覚の状況が存在した事実は無感覚の出現した状況においては、無感覚出現前の状況の残像に含まれます。無感覚出現前の状況の残像は出現時の無感覚の構成に与していると言えます。無感覚に気づく状況では、無感覚の出現した状況の残像には無感覚出現前の状況の残像の残像が含まれます。そして、無感覚が存在します。だから、無感覚の出現した状況の残像は無感覚と無感覚出現前の状況の残像の残像で構成されます。無感覚に気づく時は、無感覚の出現から状況が一つ変化しているので、現れたままの無感覚の構成に与するのも無感覚出現前の状況の残像の残像です。つまり、無感覚の出現した状況の残像と現れたままの無感覚は全く同じです。気づかれた無感覚は出現時の無感覚であるので、これの構成には無感覚出現前の状況の残像が与します。結局の所、 無感覚に気づく状況は、無感覚の出現した状況の残像とこれに等しい現れたままの無感覚と無感覚の出現した状況に等しい、気づかれた無感覚で構成されることになります。厳密には気づかれた無感覚は無感覚の出現した状況ではありません。このことについては後で説明します。
この状況では、無感覚の出現した状況から無感覚の出現した状況とその残像の混在した状況(=無感覚が出現した状況の半残像)への変化が起きます。この状況の変化が起きる時、状況の変化の方向も無感覚の出現した状況の残像から二つの無感覚が混在した状況への方向に決められます。そして、この状況の変化は状況内の残像の変化です。だから、この場合、無感覚の出現した状況の残像から無感覚の出現した状況とその残像の混在した状況(=無感覚が出現した状況の半残像)への変化という、状況内の残像の変化が錯覚によって起きます。無感覚の出現した状況から無感覚に気づく状況への変化では、状況の残像が半残像だけ増える変化と半残像だけ減る変化が起きることになります。これらの二つの変化は真逆であるので、互いに打ち消し合います。このために状況は静止します。
無感覚に気づく状況における前の状況の残像である、無感覚が出現した状況の残像は、無感覚が出現した状況の残像の残像と錯覚されます。無感覚に気づく状況では、前の状況の残像は無感覚の出現した状況の残像でもあり、無感覚の出現した状況の残像の残像でもあるということになります。無感覚の出現した状況の残像とこの状況の残像の残像は残像量が平均されると、無感覚の出現した状況の1.5の残像になります。これが先程説明した、前の状況の1.5の残像です。無感覚に気づく状況では、錯覚のために、前の状況の残像が無感覚の出現した状況の1.5の残像であり、新しい状況が無感覚の出現した状況とその残像が混在した状況(=無感覚が出現した状況の半残像)になります。この状況の重ね合わせでは、無感覚が出現した状況の半残像が継続することになります。
無を呼び込む状況の条件
無感覚の出現した状況の半残像化では、無感覚の出現した状況が状況内の一事物として存在し、これに注意が向けられます。先述したように、状況(=前の状況の残像と新しい状況の重ね合わせ)には注意が向けられます。そして、通常は状況に注意が向けられる時は、この状況以外には事物は存在しません。無感覚の出現した状況が半残像化において一事物になるのは、無感覚がその出現前の状況の残像とセットで一事物として存在し、これが無感覚の出現した状況にもなるからです。
だから、無感覚の構成に無感覚出現前の状況の残像が与していなければ、無感覚に気づくということが起きても、現れたままの無感覚は無感覚の出現した状況の残像にはならないし、出現時の無感覚は無感覚の出現した状況にはなりません。これは状況の半残像化ではありません。
新しい状況を無感覚という一事物で占められるということも無感覚の出現した状況に半残像化が起きるために必要な条件です。無感覚の出現した状況の新しい状況に無感覚のほかにも事物が存在していれば、無感覚の出現した状況が現れたままの無感覚と出現時の無感覚の混在した状況に変化したとしても、これは状況の半残像化にはなりません。この場合も現れたままの無感覚が無感覚の出現した状況の残像にはならないし、出現時の無感覚が無感覚の出現した状況にはならないからです。
以上のことから、無感覚の出現した状況で半残像化が起きるのは、この状況の新しい状況が一事物で占められ、前の状況の残像がこの事物の構成に与するからだと考えられます。このような特徴を持つ状況はほかには存在しません。だから、状況の半残像化は、無感覚の出現した状況にのみ起きるということになります。しかし、無感覚の出現した状況で必ずしも半残像化が起きるわけではありません。
注意の向けられる無感覚
出現時の無感覚が無感覚の出現した状況で、現れたままの無感覚が無感覚の出現した状況の残像ということは、状況としては、出現時の無感覚が今、存在するという在り方をし、現れたままの無感覚が一つ前に存在したという在り方をするということです。しかし、無感覚としては、注意が向けられる、出現時の無感覚が一つ前に存在したという在り方をし、現れたままの無感覚が今、存在するという在り方をします。
出現時の無感覚を無感覚の出現した状況としましたが、この無感覚に無感覚の出現が感じられることはありません。出現時の無感覚に無感覚の出現が感じられ、この無感覚に注意が向けられるとしたら、これは無感覚の出現した状況に注意が向けられるということになります。注意が向けられる限り、状況は存在するので、無感覚の出現した状況も注意が向けられる限りは存在し続けます。つまり、注意の向けられる、出現時の無感覚に無感覚の出現が感じられると、無感覚の出現した状況の継続が起きて、無感覚に気づくということが起きないのです。だから、無感覚に気づく状況では、注意が向けられる、出現時の無感覚には無感覚の出現は感じられません。無感覚の出現した状況は注意によって無感覚とみなされると、無感覚の出現が感じられなくなり、残像化していないにもかかわらず、一つ前に存在したことになると言えます。
無感覚が存続する時に無感覚に気づく
無感覚に気づく状況では、その前の状況で出現した無感覚が存続します。仮に出現した無感覚の存続だけが状況内で起きるとしたら、この状況の前の状況の残像は無感覚の出現した状況の残像、新しい状況は現れたままの無感覚、すなわち、無感覚の出現した状況の残像になります。この状況の重ね合わせは無感覚の出現した状況の残像です。無感覚の出現した状況の残像化は起きません。無感覚の存続が感じられるためには、同じ状況に変化する事物が存在しなければなりませんが、そのような事物は状況に存在しないことになります。この状況では、出現した無感覚の存続は起きません。このように、出現した無感覚の存続のみが状況内で起きると仮定すると、出現した無感覚の存続は起きないということになります。これは明らかな矛盾です。よって、出現した無感覚の存続だけが状況内で起きることはありません。
出現した無感覚が存続する時、この状況の新しい状況に無感覚以外の事物が存在することはありません。無感覚のほかにも事物が存在すれば、それは無感覚ではありません。だから、無感覚の存続は無感覚に関する事象と共に起きることになります。この事象は当然のことながら、無感覚が他の事物に変化することではありません。出現した無感覚の存続と共に起きる事象は、無感覚に対して起きるにもかかわらず無感覚がそのままであるような事象ということになります。そのような事象は無感覚が気づかれること以外にはありません。つまり、出現した無感覚が存続する時に、無感覚は気づかれるのです。
出現した無感覚が次の状況では消える場合、すなわち、出現した無感覚が存続しない場合、出現時の無感覚に注意が向くこと、すなわち、無感覚に気づくことは起こりません。出現した無感覚が消えたその時にこの無感覚に注意が向くとしたら、これは無感覚が存在したことに注意が向くということであって、出現時の無感覚に注意が向くということではないからです。出現した無感覚が存続しなければ、無感覚に気づくことが起こらないということは、無感覚に気づく時には出現した無感覚が存続しているということです。
以上のことをまとめると、出現した無感覚の存続には無感覚に気づくことが付随し、無感覚に気づくことには出現した無感覚の存続が付随するということになります。このことは、無感覚に気づくことと出現した無感覚の存続は必ず共に起きることを意味します。
無感覚に気づく時、状況は無感覚の出現した状況から変化します。注意が向けられる、出現時の無感覚は残像にならず、現れたその時のまま、無感覚に気づく状況の新しい状況に留まります。そして、出現した無感覚の存続と無感覚に気づくことは必ず共に起きます。これらのことから、無感覚に気づく時は、無感覚の出現した状況が現れたままの無感覚と出現時の無感覚に分けられると考えられます。無感覚の出現した状況には、無感覚出現前の状況の残像と無感覚が含まれます。このうち、出現時の無感覚は、無感覚の出現した状況であるので、無感覚と無感覚出現前の状況の残像から構成されます。現れたままの無感覚は無感覚のみで構成されます。無感覚は空間的には分割されないので、無感覚の出現した状況の分割は時間的分割です。これまでも書いてきましたが、無感覚の構成には有感覚の状況が与します。現れたままの無感覚の構成には無感覚出現前の状況の残像の残像が与するとしてきました。現れたままの無感覚の構成に与するのは、無感覚に気づく状況の前の状況の残像(=無感覚の出現した状況の残像)に含まれる、無感覚出現前の状況の残像の残像であるかのように述べてきました。しかし、この無感覚出現前の状況の残像の残像は、出現時の無感覚の構成に与する、無感覚出現前の状況の残像が残像化したものとも考えられます。無感覚出現前の状況の残像は時間的境界を越えて、現れたままの無感覚の構成に与するということになります。時間的境界を越えて現れたままの無感覚の構成に与するということは、無感覚出現前の状況の残像は状況の変化を一つ経て、現れたままの無感覚の構成に与するということです。状況は過去には戻らないことから、状況の変化を一つ経ると、無感覚出現前の状況の残像は残像化します。このように、現れたままの無感覚の構成には、出現時の無感覚に含まれる、無感覚出現前の状況の残像が残像化したものが与するとも言えます。
以上のことから、状況の半残像化では、無感覚の出現した状況の時間的分割が起きると言えます。無感覚の出現した状況は、時間的分割の起きる当該の状況でありつつ、時間的分割が起きた時は残像になります。
これまで、状況の半残像化とは「無感覚の状況において無感覚に気づくこと」だとしてきました。無感覚に気づくことには必ず、出現した無感覚の存続が伴うので、無感覚に気づくことは無感覚の中で起きます。この無感覚と注意が向けられる、出現時の無感覚は無感覚の出現した状況が分割されて生じるものなので、無感覚に気づくことは無感覚の出現した状況で起きます。だから、「無感覚の状況」とは、無感覚の出現した状況です。
無感覚に気づくことは出現した無感覚の存続を表現する
無感覚の出現した状況の残像は無感覚出現前の状況の残像の残像と無感覚で構成されます。出現した無感覚は、有感覚の状況が現れない限り、存続します。無感覚に気づく状況では無感覚は存在するので、無感覚は、無感覚の出現した状況から引き続き、この状況の残像に存在することになります。内部に無感覚を含むことから、無感覚の出現した状況の残像は、無感覚出現前の状況の後に空白が生じ、その後に無感覚が存在することを表します。この空白は状況が存在しなかったこと、すなわち、無感覚が存在したことを示します。だから、無感覚に気づく状況で、無感覚の出現した状況の残像が表現するのは、一つ前に出現した無感覚が存続することです。
無感覚に気づく状況では、出現時の無感覚に注意が向けられますが、このことも無感覚の出現した状況の残像と同じことを表現します。まず、出現時の無感覚に注意が向くこと自体が無感覚の出現が一つ前に存在したことを表します。そして、無感覚は無感覚に気づく状況に存在し、無感覚それ自体は出現してから変化していないので、注意が向けられる出現時の無感覚を構成するのは、無感覚に気づく状況に存在する無感覚です。だから、無感覚に気づく状況において出現時の無感覚に注意が向くことも、一つ前に出現した無感覚が存続することを表現します。
以上のことから、出現時の無感覚に注意が向くことと無感覚の出現した状況の残像が共に、無感覚に気づく状況で同じことを表現することになるのです。無感覚の出現した状況の残像が、出現時の無感覚に注意が向くことと同じことを表現するのは、この状況に注意が向けられる、出現時の無感覚が存在する時だけです。
つまり、無感覚に気づく状況の新しい状況に共存する、無感覚の出現した状況の残像(=現れたままの無感覚)と出現時の無感覚に注意が向けられることは本質的に同じなのです。このことは、無感覚の出現した状況の半残像化が本質的にはこの状況の残像化であることを示します。
状況の半残像化で生じる錯覚
以下、無感覚の出現した状況の半残像化で、無感覚の出現した状況の残像から無感覚の出現した状況の半残像への変化が感じられる理由について説明します。厳密には、出現時の無感覚は無感覚の出現した状況ではありませんが、無感覚の出現した状況とします。また、無感覚の出現した状況の半残像に含まれる、無感覚の出現した状況の残像を無感覚の出現した状況の残像、そうではない無感覚の出現した状況の残像を単身の無感覚の出現した状況の残像と表現します。
無感覚の出現した状況の残像と半残像の重ね合わせに、無感覚の出現した状況から無感覚の出現した状況の半残像への変化が感じられる時、この変化には無感覚の出現した状況から無感覚の出現した状況の残像への変化が含まれます。無感覚の出現した状況から無感覚の出現した状況の残像への変化が感じられる時、半残像化の起きる状況には無感覚の出現した状況とこの状況の残像の重ね合わせが存在します。この重ね合わせは単身の無感覚の出現した状況の残像と無感覚の出現した状況の重ね合わせです。だから、単身の無感覚の出現した状況の残像と無感覚の出現した状況の重ね合わせに無感覚の出現した状況から単身の無感覚の出現した状況の残像への変化が感じられるという錯覚が起きることになります。
無感覚の出現した状況の半残像内で、錯覚による、無感覚の出現した状況からこの状況の残像への変化が起きたとすると、この変化は、単身の無感覚の出現した状況の残像と無感覚の出現した状況の重ね合わせに生じる、無感覚の出現した状況の継続と二段階の変化を形成することになります。この二段階の変化は、単身の無感覚の出現した状況の残像と無感覚の出現した状況の残像の重ね合わせに生じる、無感覚の出現した状況の残像化に相当します。無感覚の出現した状況の継続と錯覚による、無感覚の出現した状況の残像化の二段階の変化と無感覚の出現した状況の残像化は共に、変化の始点と終点が同じです。一方の変化の別パターンがもう一方の変化となります。一方の変化が起きる時、もう一方の変化は起きません。半残像化の起きる状況では、無感覚の出現した状況の残像化が起きるので、無感覚の出現した状況が継続した後、この状況は錯覚による、残像化を受けることはありません。前の状況の残像と新しい状況の重ね合わせには、前の状況から新しい状況への変化が必ず起きることから、単身の無感覚の出現した状況の残像と出現時の無感覚の重ね合わせに、無感覚の出現した状況の継続は必ず起きるので、無感覚の出現した状況の半残像内で、無感覚の出現した状況が錯覚による残像化を受けることはないということになります。また、無感覚の出現した状況の半残像内で、錯覚による、無感覚の出現した状況の脱残像化は起きません。
以上のことから、錯覚による変化が起きる時も、無感覚の出現した状況の半残像内では、何の変化も起きないことになります。このため、錯覚による変化が起きる時も、半残像化の起きる状況は単身の無感覚の出現した状況の残像と無感覚の出現した状況の半残像に分かれることになります。
また、半残像化の起きる状況内に存在する、2つの無感覚の出現した状況の残像には違いがあります。無感覚の出現した状況と混在するか、否かの違いです。2つの無感覚の出現した状況の残像に違いがあるため、無感覚の出現した状況とその残像の重ね合わせに無感覚の出現した状況からこの状況の残像への変化が感じられる時、この2つの無感覚の出現した状況の残像の重ね合わせは、無感覚の出現した状況の残像になることはありません。また、2つの無感覚の出現した状況の残像の重ね合わせで、単身の無感覚の出現した状況の残像から無感覚の出現した状況の残像へと、無感覚の出現した状況の残像が継続することはありません。この状況の残像の継続が起きるとしたら、無感覚の出現した状況と単身の無感覚の出現した状況の残像の重ね合わせに感じられる、無感覚の出現した状況の残像化の後ということになり、この二段階の変化は一つの状況内で完結することではないからです。したがって、錯覚によって無感覚の出現した状況と単身の無感覚の出現した状況の残像の重ね合わせに無感覚の出現した状況の残像化が感じられる時は、2つの無感覚の出現した状況の残像の重ね合わせでは、無感覚の出現した状況の残像から単身の無感覚の出現した状況の残像へと、無感覚の出現した状況の残像が継続することになります。
無感覚の出現した状況の半残像内で無感覚の出現した状況から無感覚の出現した状況の残像への変化が生じることは先述とは別の理由で否定されます。この変化が生じるとしたら、この変化の後に無感覚の出現した状況の残像の継続が起きることになります。この二段階の変化は一つの状況内で完結することではないので、無感覚の出現した状況の半残像内で無感覚の出現した状況から無感覚の出現した状況の残像への変化が生じることはありません。
以上のことから、無感覚の出現した状況の半残像化では無感覚の出現した状況の半残像と単身の無感覚の出現した状況の残像の重ね合わせに、無感覚の出現した状況の半残像から単身の無感覚の出現した状況の残像への変化が感じられるという錯覚が生じることになります。無感覚の出現した状況の半残像から単身の無感覚の出現した状況の残像へと、状況の残像が半残像だけ増加する変化は単身の無感覚の出現した状況の残像から無感覚の出現した状況の半残像へと、状況の残像が半残像だけ減少する変化ともみなせます。無感覚の出現した状況の半残像化では、状況の残像が半残像だけ増加する、無感覚の出現した状況からこの状況の半残像への変化と状況の残像が半残像だけ減少する、単身の無感覚の出現した状況の残像から無感覚の出現した状況の半残像への変化が打ち消し合うことになります。
状況の半残像化の構造
無感覚の出現した状況の残像は無感覚出現前の状況の残像の残像1つと無感覚で構成されます。無感覚の出現した状況の残像と出現時の無感覚の重ね合わせに、無感覚の出現した状況に無感覚の出現が感じられなくなる変化が生じるということは、無感覚の出現した状況の残像には無感覚が出現したという過去の事実が含まれるということです。後に述べることから、無感覚出現前の状況の残像の残像だけでは無感覚が出現したという過去は表現されません。だから、無感覚の出現した状況の残像内における、無感覚出現前の状況の残像の残像と無感覚の重ね合わせに無感覚が出現した過去が生じることになります。この状況の重ね合わせに生じるのは、無感覚出現前の状況の後に無感覚が出現し、これが存続したことです。
無感覚出現前の状況は、半残像化の起きた状況の二つ前の状況なので、無感覚出現前の状況の残像の残像には、半残像化の起きた状況から数えて2個前の新しい状況(の残像)×2と無感覚出現前の前の状況(の残像)×3が含まれます。さらに、無感覚出現前の前の状況(の残像)×3には、3個前の新しい状況(の残像)×3と無感覚出現前の(前の)×2状況(の残像)×4が含まれます。以下、同様のことを繰り返すと、結局の所、無感覚出現前の状況の残像の残像は、…とn個前の新しい状況(の残像)×n(n=4~)と…と3個前の新しい状況(の残像)×3と2個前の新しい状況(の残像)×2で構成されることになります。
第1章では、単身の前の状況の残像に含まれる、(前の)×n新しい状況(の残像)×nと新しい状況の重ね合わせに(前の)×n新しい状況がn-1個の空白を経て、新しい状況へ変化したことが生じると述べました。前の状況の残像と新しい状況の重ね合わせではこのようなことが起きます。半残像化の起きた状況では、一つ前に出現した無感覚がそのまま残るので、無感覚は新しい状況として無感覚出現前の状況の残像の残像に重ね合わされることになります。このため、無感覚出現前の状況の残像の残像に含まれる、n個前の新しい状況(の残像)×n(n=2~)と無感覚の重ね合わせにn個前の新しい状況がn-1個の空白を経て、無感覚へと変化したことが生じます。n個前の新しい状況(の残像)×nがそれぞれ無感覚と重ね合わさって、それぞれ状況の変化が生じ、これらの状況の変化の差し引きによって、…→n個前の新しい状況(n=3~)→…→2個前の新しい状況→空白(=無感覚が存在したこと)→無感覚と状況が変化し続けてきたことが感じられることになります。ここでは、新しい状況が存在しないことが残像化されます。新しい状況が存在しないことは無感覚で、無感覚の残像が空白です。無感覚は次の状況が現れると、残像になります。新しい状況が存在しないことの残像と無感覚の重ね合わせでは、無感覚の存続が生じます。半残像化の起きた状況から数えて2個前の新しい状況(の残像)×2と新しい状況が存在しないことの残像の重ね合わせには、2個前の新しい状況から新しい状況が存在しない状態への変化が1個前に起きたことが生じます。
以上のことから、無感覚出現前の状況の残像の残像と無感覚の重ね合わせには、無感覚が出現後に存続することだけでなく、そこに至るまでの状況の変遷も生じます。無感覚出現前の状況の残像の残像と無感覚の重ね合わせにこのような状況の変遷が生じるのは、無感覚の出現した状況の半残像と重ね合わされる、無感覚の出現した状況の残像(=単身の無感覚の出現した状況の残像)です。単身の無感覚の出現した状況の残像内でn個前の新しい状況(の残像)×nと無感覚の重ね合わせに状況の変化が生じるので、無感覚の出現した状況の残像から単身の無感覚の出現した状況の残像への方向に無感覚の出現した状況の残像化は起きません。この残像化が起きるとしたら、n個前の新しい状況(の残像)×nと無感覚の重ね合わせに生じる変化と二段階の変化を形成することになり、二段階の変化は一つの状況では完結しないからです。
単身の無感覚の出現した状況の残像内ではn個前の新しい状況(n>2)がn-1個の空白を経て、無感覚へと変化したことが生じるのと同様に、m個前の新しい状況(の残像)×m(n>m、m=2~)と無感覚の重ね合わせにはm個前の新しい状況がm-1個の空白を経て、無感覚へと変化したことが生じます。この2つの状況の変化の差し引きでは、n個前の新しい状況がn-m-1個の空白を経て、m個前の新しい状況へと変化したことが生じます。この状況の変化は、n個前の新しい状況のn-m個後にm個前の新しい状況が現れたという、n個前の新しい状況とm個前の新しい状況の関係を表します。
また、状況の半残像化では、単身の無感覚の出現した状況の残像と出現時の無感覚の重ね合わせが起きます。単身の無感覚の出現した状況の残像には、n個前の新しい状況(の残像)×n(n=2~)が含まれ、出現時の無感覚にはn個前の新しい状況(の残像)×(n-1)が含まれます。単身の無感覚の出現した状況の残像に含まれるn個前の新しい状況(の残像)×nと出現時の無感覚に含まれるm個前の新しい状況(の残像)×(m-1)(n>m≧2)の重ね合わせには、起きるとしたら、間にn-m個の空白を挟んだ、n個前の新しい状況(の残像)×(m-1)からm個前の新しい状況(の残像)×(m-1)への変化が状況の半残像化が起きたその時に、起きると考えられます。この変化は、単身の無感覚の出現した状況の残像内で、間にn-m-1個の空白を挟んだ、n個前の新しい状況(の残像)×mからm個前の新しい状況(の残像)×mへの変化が起きた後に、このm個前の新しい状況(の残像)×m由来のm個前の新しい状況(の残像)×(m-1)から出現時の無感覚に含まれるm個前の新しい状況(の残像)×(m-1)への変化が続くという、二段階の変化に相当します。m個前の新しい状況(の残像)×(m-1)の継続は状況の半残像化が起きたその時に起きるので、この二段階の変化は、起きるとしたら、半残像化の起きた状況だけで完結しません。よって、このような二段階の変化が半残像化の起きた状況で生じることはありません。だから、この二段階の変化に相当する変化が状況の半残像化が起きたその時に起きることはありません。よって、単身の無感覚の出現した状況の残像に含まれるn個前の新しい状況(の残像)×nと出現時の無感覚に含まれるm個前の新しい状況(の残像)×(m-1)の重ね合わせに、間にn-m個の空白を挟んだ、n個前の新しい状況(の残像)×(m-1)からm個前の新しい状況(の残像)×(m-1)への変化が、状況の半残像化が起きたその時に起きることはありません。
出現時の無感覚に含まれるn個前の新しい状況(の残像)×(n-1)(n-1>m≧2)と単身の無感覚の出現した状況の残像に含まれるm個前の新しい状況(の残像)×mの重ね合わせには、起きるとしたら、間にn-m-2個の空白を挟んだ、n個前の新しい状況(の残像)×mからm個前の新しい状況(の残像)×mへの変化が起きると考えられます。この変化が起きるとしたら、この変化はn個前の新しい状況(の残像)×(n-1)の継続とm個前の新しい状況(の残像)×(m-1)の継続と共に三段階の変化を形成することになります。三段階の変化は一つの状況だけでは完結しないので、出現時の無感覚に含まれるn個前の新しい状況(の残像)×(n-1)と単身の無感覚の出現した状況の残像に含まれるm個前の新しい状況(の残像)×mの重ね合わせに、間にn-m-2個の空白を挟んだ、n個前の新しい状況(の残像)×mからm個前の新しい状況(の残像)×mへの変化が、状況の半残像化が起きたその時に起きることはありません。以上のことから、単身の無感覚の出現した状況の残像と出現時の無感覚の重ね合わせには、単身の無感覚の出現した状況の残像に含まれる、n個前の新しい状況(の残像)×nと出現時の無感覚に含まれる、n個前の新しい状況(の残像)×(n-1)の重ね合わせにn個前の新しい状況(の残像)×(n-1)の継続が生じることになります。
また、半残像化の起きた状況では、n個前の新しい状況とm個前の新しい状況の関係は単身の無感覚の出現した状況の残像内でのみ成立します。単身の無感覚の出現した状況の残像内で、無感覚出現前の状況の残像の残像と無感覚の重ね合わせに無感覚の出現した過去が生じる時、無感覚出現前の状況の残像の残像と無感覚の関係が半残像化の起きた状況で成立する、無感覚出現前の状況と無感覚の関係になります。この関係が成立する時、他の無感覚出現前の状況と無感覚の関係は成立しません。無感覚出現前の状況の残像と無感覚の重ね合わせ、すなわち、出現時の無感覚には、無感覚出現前の状況と無感覚の関係を表す、無感覚の出現は生じないことになります。無感覚出現前の状況の残像と無感覚の関係も無感覚出現前の状況と無感覚の関係だからです。
2つの無感覚の出現した状況の残像の重ね合わせには無感覚の出現した状況の残像化が起きますが、この残像化は、単身の無感覚の出現した状況の残像から無感覚の出現した状況の残像の方向に起きます。先に述べたように、前の状況の残像化は単身の前の状況の残像から現れたままの前の状況の残像の方向に起きるからです。
第1章で説明したように、2つの前の状況の残像間で 間にn-m-1個(n>m≧1)の空白を挟んだ、(前の)×n新しい状況(の残像)×mから(前の)×m新しい状況(の残像)×mへの変化が起きないことから、無感覚の出現した状況の残像が2つ重ね合わさった状態には、間にn-m-1個(n>m≧2)の空白を挟んだ、n個前の新しい状況(の残像)×mからm個前の新しい状況(の残像)×mへの変化が状況の半残像化が起きたその時に起きることはありません。
半残像化の起きた状況では、無感覚の出現した状況からこの状況の半残像への変化という、順当な変化のほか、錯覚で生じる変化も存在します。単身の無感覚の出現した状況の残像と無感覚の出現した状況の重ね合わせに無感覚の出現した状況から単身の無感覚の出現した状況の残像への変化が錯覚によって起きます。この無感覚の出現した状況は出現時の無感覚であるので、出現時の無感覚が単身の無感覚の出現した状況の残像へ変化するという錯覚が生じることになります。この錯覚は単身の無感覚の出現した状況の残像と出現時の無感覚の重ね合わせに生じます。
単身の無感覚の出現した状況の残像と出現時の無感覚の重ね合わせでは、無感覚の出現した状況に無感覚の出現が感じられなくなる変化が起きます。単身の無感覚の出現した状況の残像には無感覚が一つ前に出現したことが含まれていて、この状況の残像と無感覚の出現が感じられない、無感覚の出現した状況(=出現時の無感覚)が重ね合わされることで、無感覚の出現した状況に無感覚の出現が感じられなくなる変化が起きます。
錯覚による、出現時の無感覚から単身の無感覚の出現した状況の残像への変化では、出現時の無感覚は無感覚の出現を含むと考えられます。ただし、この無感覚の出現は、錯覚で生じる変化についての法則下で生じます。状況の半残像化では、錯覚によって出現時の無感覚と単身の無感覚の出現した状況の残像の重ね合わせに、出現時の無感覚から単身の無感覚の出現した状況の残像への変化が起きます。ここでは、重ね合わせを形成する、状況と状況の残像がそれぞれ変化の始点と終点になっています。これが錯覚で生じる変化についての法則です。
ところで、無感覚の出現は無感覚出現前の状況の残像と無感覚の重ね合わせに生じます。無感覚出現前の状況の残像には半残像化の起きた状況から数えてn個前の新しい状況(の残像)×(n-1)(n=2~)が含まれ、それぞれ無感覚と重なり合い、n個前の新しい状況がn-2個の空白を経て、無感覚に変化したことが生じます。無感覚の出現は、無感覚が現れる前の状況が無感覚に変化したことです。だから、無感覚の出現は、n個前の新しい状況がそれぞれn-2個の空白を経て、無感覚に変化したことの総和です。これまで、無感覚の出現について定義してきませんでしたが、これが無感覚の出現です。
出現時の無感覚は、n個前の新しい状況(の残像)×(n-1)と無感覚の重ね合わせであるので、錯覚で生じる変化についての法則下では、その内部でn個前の新しい状況(の残像)×(n-1)から無感覚への変化が生じることになります。この錯覚で生じる変化の総和が、錯覚で生じる変化についての法則下における、無感覚の出現になります。出現時の無感覚から単身の無感覚の出現した状況の残像への変化では、錯覚による無感覚の出現が感じられなくなる変化が生じることになります。1章では、(前の)×n新しい状況(の残像)×nと(前の)×m新しい状況(の残像)×mの重ね合わせには、(前の)×n新しい状況がn-m-1個の空白を経て(前の)×m新しい状況へ変化したことが生じ、この変化が(前の)×n新しい状況と(前の)×m新しい状況の関係であると述べました。この変化は、状況(の残像)×nに状況がn個前に存在したことが表されるという法則の下で成立します。錯覚による、無感覚の出現では、n個前の新しい状況(の残像)×nは無感覚と重ね合わされると、n個前の新しい状況(の残像)×nが無感覚に変化したことが生じます。単身の無感覚の出現した状況の残像内で成立する、n個前の新しい状況(の残像)×nと無感覚の関係と出現時の無感覚内で成立する、n個前の新しい状況(の残像)×(n-1)と無感覚の関係はいずれも、n個前の新しい状況と無感覚の関係です。単身の無感覚の出現した状況の残像内で成立する、n個前の新しい状況と無感覚の関係は通常の変化の法則下で、出現時の無感覚内で成立する、n個前の新しい状況と無感覚の関係は錯覚による変化の法則下でそれぞれ成立する、唯一のn個前の新しい状況と無感覚の関係です。2つのn個前の新しい状況と無感覚の関係はそれぞれ別々の変化の法則下で成立するので、互いに矛盾しているわけではありません。状況の体験者は通常の変化の法則による、n個前の新しい状況と無感覚の関係と錯覚による変化の法則がもたらす両者の関係を感じることになります。
尚、出現時の無感覚内で、錯覚による、無感覚からn個前の新しい状況(の残像)×(n-1)への変化は起きません。この変化が起きるとしたら、出現時の無感覚から単身の無感覚の出現した状況の残像への変化の前になり、二段階の変化が生じることになります。二段階の変化は一つの状況では起きません。だから、無感覚からn個前の新しい状況(の残像)×(n-1)への変化は起きません。
出現時の無感覚と単身の無感覚の出現した状況の残像の重ね合わせに生じる、無感覚の出現した状況から出現時の無感覚への変化と出現時の無感覚内で錯覚によって生じる、無感覚の出現を合わせると、二段階の変化が起きるように見えます。しかし、これは、二段階の変化ではありません。
A→B→Cという二段階の変化があるとすると、この変化では、AからBへの変化を受けて、BからCへの変化が起きることになります。状況の重ね合わせにどのような変化が生じるかについての法則がAB間とBC間で異なるとすると、AからBへの変化はBC間の法則では変化ではありません。このため、AからBへの変化を受けて、BからCへの変化が起きることはありません。見かけ上は、二段階の変化であっても、一段階目と二段階目で状況の重ね合わせにどのような変化が生じるかについての法則が異なれば、それは二段階の変化ではありません。
無感覚の出現した状況から出現時の無感覚への変化は、ある状況の残像と別の状況の重ね合わせに、ある状況から別の状況への変化が生じるという、通常の変化についての法則に基づいて起きます。これに対して、出現時の無感覚内で生じる、無感覚の出現は、錯覚で生じる変化についての法則に基づくものです。このため、無感覚の出現した状況から出現時の無感覚への変化に続いて、出現時の無感覚内で錯覚による無感覚の出現が起きることはありません。これらの2つの変化は同時に起きることになります。
これまでの説明から、単身の無感覚の出現した状況の残像は、無感覚が一つ前に出現した過去を含むけれども、錯覚による無感覚の出現が一つ前に起きたことは含まず、出現時の無感覚は無感覚の出現は含まないけれども、錯覚による無感覚の出現は含むということになります。
そして、出現時の無感覚内で生じる、錯覚による無感覚の出現と無感覚の出現した状況から出現時の無感覚への変化が同時に起きるということから、錯覚による無感覚の出現は、出現時の無感覚から単身の無感覚の出現した状況の残像への変化が起きた時だけではなく、無感覚の出現した状況から出現時の無感覚への変化という、通常の変化が起きた時も、出現時の無感覚に含まれるということになります。また、無感覚の出現が一つ前に起きたことは、無感覚の出現した状況から出現時の無感覚への変化が起きた時だけでなく、出現時の無感覚から単身の無感覚の出現した状況の残像への変化という、錯覚による変化が起きた時も、単身の無感覚の出現した状況の残像に含まれます。
以上のことから、出現時の無感覚と単身の無感覚の出現した状況の残像の重ね合わせに生じる変化は次の2つと言えます。
一つは、無感覚の出現した状況から出現時の無感覚への変化で、無感覚の出現を含む、無感覚の出現した状況から、錯覚による無感覚の出現を含んだ、無感覚の出現した状況への変化。もう一つは、出現時の無感覚から単身の無感覚の出現した状況の残像への変化で、錯覚による無感覚の出現を含んだ、無感覚の出現した状況から無感覚が一つ前に出現したことを含んだ、単身の無感覚の出現した状況の残像への変化。前者の変化は、錯覚による無感覚の出現が感じられるようになる変化と無感覚の出現が感じられなくなる変化が足し合わされたもので、単身の無感覚の出現した状況の残像から出現時の無感覚の方向に起きます。後者の変化は、錯覚による無感覚の出現が感じられなくなる変化と無感覚の出現が一つ前に起きたことが感じられるようになる変化が足し合わされたもので、出現時の無感覚から単身の無感覚の出現した状況の残像の方向に起きます。無感覚の出現が一つ前に起きたということは、無感覚の出現した状況が残像になったということなので、無感覚の出現が一つ前に起きたことが感じられるようになる変化は、無感覚の出現が感じられるようになる変化と無感覚の出現した状況の残像化が足し合わされたものです。このため、出現時の無感覚から単身の無感覚の出現した状況の残像への変化は、錯覚による無感覚の出現が感じられなくなる変化と無感覚の出現が感じられるようになる変化と無感覚の出現した状況の残像化が足し合わされたものです。無感覚の出現した状況から出現時の無感覚への変化と出現時の無感覚から単身の無感覚の出現した状況の残像への変化が打ち消し合って残るのは、錯覚によって、出現時の無感覚から単身の無感覚の出現した状況の残像の方向に起きる、無感覚の出現した状況の残像化だけです。つまり、単身の無感覚の出現した状況の残像と出現時の無感覚の重ね合わせに生じるのは、錯覚によって、出現時の無感覚から単身の無感覚の出現した状況の残像の方向へ起きる、無感覚の出現した状況の残像化だけです。
半残像化の起きた状況内には、単身の無感覚の出現した状況の残像と無感覚の出現した状況の残像の重ね合わせが存在します。この重ね合わせでは、無感覚の出現した状況から無感覚の出現した状況の残像への変化と錯覚による、無感覚の出現した状況の残像から単身の無感覚の出現した状況の残像への変化が起きます。無感覚の出現した状況の残像は、錯覚で生じる変化の始点であるので、錯覚による無感覚の出現が一つ前に起きたことが含まれます。単身の無感覚の出現した状況の残像と無感覚の出現した状況の残像の重ね合わせに通常の変化と錯覚によって生じる変化のいずれが起きた時も、単身の無感覚の出現した状況の残像は無感覚の出現が一つ前に起きたことを含み、無感覚の出現した状況の残像は錯覚による無感覚の出現が一つ前に起きたことを含みます。これらのことから、無感覚の出現した状況から無感覚の出現した状況の残像への変化は、無感覚の出現が感じられなくなる変化と錯覚による無感覚の出現が一つ前に起きたことが感じられるようになる変化が足し合わされたものです。錯覚による無感覚の出現が一つ前に起きたということは、無感覚の出現した状況が残像になったということなので、錯覚による無感覚の出現が一つ前に起きたことが感じられるようになる変化は、錯覚による無感覚の出現が感じられるようになる変化と無感覚の出現した状況の残像化が足し合わされたものです。これらのことから、無感覚の出現した状況から無感覚の出現した状況の残像への変化は、無感覚の出現が感じられなくなる変化と錯覚による無感覚の出現が感じられるようになる変化と無感覚の出現した状況の残像化が足し合わされたものです。この変化は、単身の無感覚の出現した状況の残像から無感覚の出現した状況の残像の方向に起きます。
錯覚による、無感覚の出現した状況の残像から単身の無感覚の出現した状況の残像への変化は、状況の残像から状況の残像への変化であるので、時制の変化はありません。だから、この変化は無感覚の出現が感じられるようになる変化と錯覚による無感覚の出現が感じられなくなる変化が足し合わされたもので、無感覚の出現した状況の残像から単身の無感覚の出現した状況の残像の方向に起きます。無感覚の出現した状況から無感覚の出現した状況の残像への変化と無感覚の出現した状況の残像から単身の無感覚の出現した状況の残像への変化が打ち消し合って残るのは、単身の無感覚の出現した状況の残像から無感覚の出現した状況の残像の方向に起きる、無感覚の出現した状況の残像化です。つまり、単身の無感覚の出現した状況の残像と無感覚の出現した状況の残像の重ね合わせに生じるのは、単身の無感覚の出現した状況の残像から無感覚の出現した状況の残像の方向に起きる、無感覚の出現した状況の残像化だけです。
先述したように、無感覚の出現した状況の半残像内では、通常の変化も錯覚による変化も起きません。このことから、単身の無感覚の出現した状況の残像と無感覚の出現した状況の半残像の間で、通常の変化と錯覚による変化が起きることになります。無感覚の出現した状況から無感覚の出現した状況の半残像への変化と無感覚の出現した状況の半残像から単身の無感覚の出現した状況の残像への変化では、変化についての法則が異なるので、一方の変化を受けて、もう一方の変化が起きることはなく、この2つの変化は同時に起きます。2つの変化共に、単身の無感覚の出現した状況の残像と無感覚の出現した状況の半残像の間で起きます。この変化の始点・終点の間では、通常の変化の法則も錯覚による変化の法則も認められるので、通常の変化の法則下で生じる、無感覚の出現した状況の残像化とこれとは逆方向であり、錯覚による変化の法則下で生じる、無感覚の出現した状況の残像化は両立します。このため、互いに逆方向に起きる、2つの無感覚の出現した状況の残像化は互いに打ち消し合うことになります。
結果、状況の半残像化では、状況内の全ての変化がそれぞれ真逆の変化によって打ち消されます。これが状況の半残像化によって至る無です。
単身の無感覚の出現した状況の残像には、無感覚の出現が一つ前に起きたことが含まれますが、錯覚による無感覚の出現が一つ前に起きたことは含まれません。出現時の無感覚には、錯覚による無感覚の出現が含まれますが、無感覚の出現は含まれません。このため、無感覚の出現した状況から出現時の無感覚への変化が示すのは、無感覚の出現が起きたのが一つ前であり、今(=状況の半残像化が起きた時)ではないことと錯覚による無感覚の出現が起きたのが今であり、一つ前ではないことです。
錯覚による、出現時の無感覚から単身の無感覚の出現した状況の残像への変化は、無感覚の出現が一つ前に起きたことが感じられるようになる変化と錯覚による無感覚の出現が感じられなくなる変化が足し合わされたものです。無感覚の出現が一つ前に起きたことが感じられるようになる変化は、無感覚の出現した状況の残像化と無感覚の出現が感じられるようになる変化が足し合わされたものです。だから、出現時の無感覚から単身の無感覚の出現した状況の残像への変化が示すのは、無感覚の出現が実際に起きたのが今であり、一つ前ではないことと錯覚による無感覚の出現が起きたのが一つ前であり、今ではないことです。
無感覚の出現した状況から出現時の無感覚への変化と錯覚による、出現時の無感覚から単身の無感覚の出現した状況の残像への変化は互いに打ち消し合います。これら2つの変化は、無感覚の出現と錯覚による無感覚の出現がいつ起きたかについて、互いに矛盾する事実を含みます。だから、この打ち消し合いでは、無感覚の出現した状況から出現時の無感覚への変化に含まれる、無感覚の出現が起きたのが今ではないことと錯覚による無感覚の出現が起きたのが一つ前ではないことが、出現時の無感覚から単身の無感覚の出現した状況の残像への変化に含まれる、無感覚の出現が今起きたことと錯覚による無感覚の出現が一つ前に起きたことを打ち消します。出現時の無感覚から単身の無感覚の出現した状況の残像への変化に含まれる、無感覚の出現が起きたのが一つ前ではないことと錯覚による無感覚の出現が起きたのが今ではないことが、無感覚の出現した状況から出現時の無感覚への変化に含まれる、無感覚の出現が一つ前に起きたことと錯覚による無感覚の出現が今起きたことを打ち消します。このため、単身の無感覚の出現した状況の残像と出現時の無感覚の重ね合わせに生じる、2つの変化の打ち消し合いによって、無感覚の出現と錯覚による無感覚の出現は共に、一つ前に起きなかったし、今も起きないということになります。
半残像化の起きた状況では、無感覚の出現した状況の残像が2つ重ね合わさって、この重ね合わせにも、無感覚の出現と錯覚による無感覚の出現がいつ起きたかについて、互いに矛盾する事実を含んだ、2つの変化が生じます。これら2つの変化の打ち消し合いによっても、無感覚の出現と錯覚による無感覚の出現は共に、一つ前に起きなかったし、今も起きないということになります。
錯覚による無感覚の出現が起きない場合
出現時の無感覚と無感覚の出現した状況の残像にそれぞれ、錯覚による無感覚の出現とこれが一つ前に起きたことが生じると述べましたが、そうではない可能性はもちろんあります。無感覚の出現した状況から出現時の無感覚や無感覚の出現した状況の残像への変化で、変化の始点を提供する、単身の無感覚の出現した状況の残像に無感覚の出現が一つ前に起きたことが含まれることから、錯覚による変化の始点を提供する、出現時の無感覚と無感覚の出現した状況の残像にそれぞれ、錯覚による無感覚の出現とこれが一つ前に起きたことが含まれると考えられるのであって、実際はそうとも限りません。
仮に、錯覚による無感覚の出現とこれが一つ前に起きたことが半残像化の起きた状況に含まれなかったとしても、状況の半残像化によって、無に至ることに変わりはありません。
出現時の無感覚に錯覚による無感覚の出現が含まれないとしたら、出現時の無感覚と単身の無感覚の出現した状況の残像の重ね合わせに生じる、無感覚の出現した状況から出現時の無感覚への変化は無感覚の出現が感じられなくなる変化です。錯覚による、出現時の無感覚から単身の無感覚の出現した状況の残像への変化は無感覚の出現が感じられるようになる変化と無感覚の出現した状況の残像化の足し合わされたものになります。
出現時の無感覚と単身の無感覚の出現した状況の残像の重ね合わせに生じる、これら2つの変化が打ち消し合って残るのは、錯覚によって出現時の無感覚から単身の無感覚の出現した状況の残像の方向に起きる、無感覚の出現した状況の残像化だけです。これは、出現時の無感覚に錯覚による無感覚の出現が含まれる場合と同じです。
同様に、無感覚の出現した状況の残像に錯覚による無感覚の出現が一つ前に起きたことが含まれないとしたら、単身の無感覚の出現した状況の残像と無感覚の出現した状況の残像の重ね合わせに生じる、無感覚の出現した状況から無感覚の出現した状況の残像への変化は、無感覚の出現が感じられなくなる変化と無感覚の出現した状況の残像化が足し合わされたものになります。錯覚による、無感覚の出現した状況の残像から単身の無感覚の出現した状況の残像への変化は無感覚の出現が感じられるようになる変化になります。単身の無感覚の出現した状況の残像と無感覚の出現した状況の残像の重ね合わせに生じる、これら2つの変化が打ち消し合って残るのは、単身の無感覚の出現した状況の残像から無感覚の出現した状況の残像の方向に起きる、無感覚の出現した状況の残像化です。これは、錯覚による無感覚の出現が一つ前に起きたことが無感覚の出現した状況の残像に含まれる場合と同じです。
半残像化の起きた状況で錯覚による無感覚の出現が起きなかったとしても、互いに逆方向の無感覚の出現した状況の残像化が打ち消し合い、無に至ることになります。また、単身の無感覚の出現した状況の残像が出現時の無感覚や無感覚の出現した状況の残像と形成する重ね合わせにそれぞれ生じる、2つの変化は無感覚の出現がいつ起きたかについて互いに矛盾した事実を含んでいます。このため、それぞれの重ね合わせに生じる、2つの変化が互いに打ち消し合うと、無感覚の出現が一つ前に起きなかったし、今も起きないということになります。
出現時の無感覚か無感覚の出現した状況の残像のいずれか一方にのみ、錯覚による無感覚の出現かこれが一つ前に起きたことが含まれる場合も、これらの状況と状況の残像がそれぞれ、単身の無感覚の出現した状況の残像と重ね合わさり、それぞれの重ね合わせに2つの変化が生じます。この場合も、互いに逆方向の無感覚の出現した状況の残像化が打ち消し合い、無に至ります。また、同じ重ね合わせに生じる、2つの変化の打ち消し合いにより、無感覚の出現と錯覚による無感覚の出現が共に、一つ前に起きなかったし、今も起きないということになります。
無においては過去はなかったことになる
これまでの説明から、状況の半残像化による無においては、無感覚の出現は一つ前に起きなかったし、今も起きないということになります。実際は、状況の半残像化の一つ前に無感覚の出現が起きるのですが、これが状況の半残像化で打ち消されるのです。
先に述べたように、無感覚の出現は、無感覚出現前の状況の残像に含まれる、半残像化の起きた状況から数えてn個前の新しい状況(の残像)×(n-1)(n=2~)と無感覚の重ね合わせに生じる、n個前の新しい状況がn-2個の空白を経て、無感覚に変化したことの総和だと定義しました。
無感覚の出現では、n個前の新しい状況がn-2個の空白を経て、無感覚へ変化したことが互いに差し引きされて、…→n個前の新しい状況→…→2個前の新しい状況→無感覚という状況の変遷が生じます。つまり、無感覚の出現には、それまでの過去の出来事が含まれるのです。
だから、状況の半残像化において、無感覚の出現が一つ前に起きなかったし、今も起きないことになるということは、過去が存在しないことになるということです。そして、状況の半残像化では、状況内で起きる変化が全て打ち消されます。状況の静止は感じられないので、状況の半残像化では、今この時が存在しないことになります。過去も今も存在しないということは、一般的な意味で言う自分が元から存在しないということです。つまり、状況の半残像化では、自分が元から存在しないことになるのです。これが状況の半残像化による無です。
自分が過去に体験した辛い出来事や苦しい出来事、あるいは過去のあやまちが無においては全てなかったことになる。状況の半残像化による無が本当に存在するかは分かりませんが、この無は優しいと思います。
無からの解放
半残像化の起きた状況では、実際には状況の変化が起きたのに、これが状況の静止と錯覚されます。主観的には何も感じられない状態です。このため、状況の体験者は半残像化した状況では無にあると言えます。無に新しい状況が重ねられたとしても、この状況には前の状況の残像が存在しないので、状況の変化は感じられません。状況は感じられないままです。だから、半残像化した状況に新しい状況が添加されても、無が終わることはありません。新しい状況が重ねられるという、状況の外部からの作用で無が終わらないということは、半残像化した状況の内部だけで完結する、何らかの変化が起きることで無が終わると考えられます。この変化は、状況の変化と違って、感じることはできません。無の終わりが感じられるとしたら、感じられないはずの無が感じられることになるからです。
先述したように、無感覚に気づく時は、この状況は無感覚の出現した状況の残像と無感覚の出現した状況とその残像の混在した状況の重ね合わせとみなされます。この状況の前の状況の残像が無感覚の出現した状況の残像で、新しい状況が無感覚の出現した状況です。この状況は実のところ、無感覚の出現した状況とその残像で構成されています。だから、無感覚に気づく状況は、無感覚の出現した状況とその残像の重ね合わせともみなせます。これは無感覚の出現した状況の継続です。ただ、この状況の継続は感じられません。同じ状況の継続は状況の静止だからです。無感覚の出現した状況の継続が感じられない代わりに、状況の体験者はこの状況内の前の状況の残像と新しい状況の重ね合わせから状況の変化を感じます。すなわち、無感覚の出現を感じます。
以上のことから、無感覚に気づく状況が無感覚の出現した状況の継続と解釈し直されると、無が終わると考えられます。再び現れた無感覚の出現した状況は感じられる状況であるので、新しい状況が現れると、状況の変化が感じられます。
前の状況の残像と新しい状況の重ね合わせに見出される、前の状況から新しい状況への変化は状況の重ね合わせに対する一つの解釈です。解釈は気づきであり、気づきは注意によりもたらされます。先に、今の状況には注意が向けられると述べましたが、注意は状況の重ね合わせに解釈を与えます。
無感覚の出現した状況の残像と無感覚の出現した状況の半残像の重ね合わせが無感覚の出現した状況の継続とみなされる時は、無感覚に気づく時とは異なる観点でこの状況が捉えられるということが起きます。これは同じ状況にそれまでとは異なる側面が発見されるということです。ここにも注意による気づきがあります。
無から解放される時に起きることとして考えられるのは、出現時の無感覚に無感覚の出現が感じられるようになることです。出現時の無感覚に無感覚の出現が感じられるということは、その内部で半残像化の起きた状況から数えてn個前の新しい状況(の残像)×(n-1)(n=2~)がそれぞれ無感覚と重ね合わさって、n個前の新しい状況がn-2個の空白を経て、無感覚に変化したことが生じるということです。この時、n個前の新しい状況のn-1個後に無感覚が現れるということが無からの解放の起きる状況で唯一成立する、n個前の新しい状況と無感覚の関係です。以下、無感覚の出現が感じられるようになった出現時の無感覚を無感覚の出現した状況と表現します。
無から解放される時、単身の無感覚の出現した状況の残像の内部に含まれる、n個前の新しい状況(の残像)×n(n=2~)と無感覚の重ね合わせにn個前の新しい状況がn-1個の空白を経て、無感覚に変化したことは生じません。この変化は、n個前の新しい状況のn個後に無感覚が現れるという、n個前の新しい状況と無感覚の関係を表し、無からの解放の起きる状況で唯一成立する、n個前の新しい状況と無感覚の関係ではないからです。無から解放される時は、単身の無感覚の出現した状況の残像には、無感覚の出現が一つ前に起きたことが含まれないことになります。
また、状況の半残像化の時と違い、単身の無感覚の出現した状況の残像と無感覚の出現した状況の重ね合わせには、無感覚の出現した状況の継続は感じられません。無感覚の出現した状況の継続が感じられるとしたら、この状況の継続は無感覚の出現した状況内部で起きる、n個前の新しい状況がn-2個の空白を経て、無感覚に変化したことと二段階の変化を形成することになりますが、二段階の変化は、一つの状況内では起きないからです。
さらに、単身の無感覚の出現した状況の残像の内部に含まれる、n個前の新しい状況(の残像)×nと無感覚の出現した状況の重ね合わせに、n個前の新しい状況がn-1個の空白を経て、無感覚の出現した状況に変化したことが生じることはありません。もしもこのようなことが起きるとしたら、n個前の新しい状況が無感覚の出現した状況に変化すると共に、無感覚の出現した状況内部では無感覚にも変化するという矛盾した事態になるからです。
以上のことから、無からの解放が起きた時、単身の無感覚の出現した状況の残像と無感覚の出現した状況の重ね合わせには状況の継続が感じられたり、状況の変化が生じることはないし、単身の無感覚の出現した状況の残像はその内部に無感覚の出現が一つ前に起きたことを含まないことになります。このため、単身の無感覚の出現した状況の残像と無感覚の出現した状況の残像には、何の違いもありません。無からの解放の起きる状況では、無感覚の出現した状況の残像は一つしか存在しないということになります。この無感覚の出現した状況の残像と無感覚の出現した状況の重ね合わせに無感覚の出現した状況の継続が生じることになります。
ところで、事物の変化は、前の事物の残像と今の事物の重ね合わせに感じられます。事物の静止はそれ自体では感じられず、他の事物の変化によって感じられます。他の事物の変化によって感じられることに合わせて、事物の静止も前の事物の残像と今の事物の重ね合わせに生じると考えられます。事物の静止では、前の事物と今の事物が同じなので、事物の静止は事物とその残像の重ね合わせに生じることになります。事物の静止がそれ自体では感じられないということは、事物とその残像の重ね合わせでは、事物しか感じられないということです。
状況にも同じことが言えます。無感覚の出現した状況とその残像の重ね合わせに状況の継続が感じられない時、この重ね合わせには、無感覚の出現した状況のみが感じられると言えます。ということで、無からの解放が起きる時は、無感覚の出現した状況のみが感じられることになります。
これまで何度も述べてきたように、今の状況は前の状況の残像2つと新しい状況1つで構成されます。無からの解放が起きる時、無感覚の出現した状況には、無感覚出現前の状況の残像は状況内に2つ含まれるかどうかが疑問として浮上してきます。
この疑問については、以下のように答えることができます。
前の状況の在り方が今存在するという在り方から一つ前に存在したという在り方に変わるのは、今この時です。前の状況はそのままで今存在するという在り方をしていたのが、今この時に前の状況から前の状況の残像への変化が起きるので、この変化が前の状況の在り方の変化になり、前の状況の残像が前の状況が一つ前に存在したことを表すことになります。このことから、前の状況の残像化は、前の状況の残像と新しい状況の重ね合わせに前の状況から新しい状況への変化が感じられるために必要と言えます。
したがって、前の状況の残像化は前の状況の残像と新しい状況の重ね合わせに前の状況から新しい状況への変化が生じたその時に必ず起きるということになります。前の状況の残像化は前の状況の残像が2つ重ね合わさった状態に生じるので、今のこの状況には前の状況の残像が必ず2つ含まれるということになります。
よって、無からの解放で無感覚の出現した状況が感じられる時、この状況には無感覚出現前の状況の残像は2つ存在し、無感覚出現前の状況の残像化が起きることになります。そして、無感覚の出現が感じられます。無感覚の出現は無感覚出現前の状況が消えて、新しい状況が現れないことです。無感覚出現前の状況が消えることとは、無感覚出現前の状況の残像化であるので、無感覚の出現とは無感覚出現前の状況の残像化それ自体です。だから、無感覚出現前の状況が消えたこと、すなわち、無感覚出現前の状況の残像化に無感覚が含まれることになります。無感覚出現前の状況の残像それ自体に無感覚が存在しているということで、無感覚は無感覚出現前の状況の残像と不可分です。無感覚出現前の状況の残像それ自体に、無感覚の出現した状況における新しい状況が含まれる状態です。無感覚出現前の状況の残像と無感覚が分割されて感じられる場合、無感覚出現前の状況の残像と無感覚の重ね合わせが生じ、この重ね合わせに無感覚の出現が感じられると考えられます。状況の半残像化前の無感覚の出現では、それまでは、無感覚出現前の状況が存在していたということに注意が向けられ、このことが無感覚出現前の状況の残像と無感覚の分離となります。無感覚は無感覚出現前の状況が存在していたことの上に存在するので、無感覚出現前の状況が一つ前に存在していたことを示す、無感覚出現前の状況の残像に注意が向くということが、無感覚出現前の状況が一つ前に存在していたことに注意が向くということになります。そして、このことが無感覚出現前の状況の残像化で起きます。無からの復帰では、無感覚出現前の状況の残像に注意が向くということが起きていると考えられます。
無から解放される時、無感覚の出現した状況が存在しますが、ここに新しい状況が現れると、やはり、残像化します。無感覚は新しい状況が現れると消えて、無感覚出現前の状況の残像のみが残像化します。この状況は無感覚出現前の状況の残像の残像2つと新しい状況1つで構成されることになります。無感覚出現前の状況(の残像)×2は、…n個前の新しい状況(の残像)×n(n=3~)、…2個前の新しい状況(の残像)×2で構成されます。無感覚出現前の状況の残像の残像化が起きた時、無感覚出現前の状況(の残像)×2は無感覚出現前の状況の残像が一つ前に存在していたことを表します。無感覚出現前の状況の残像は、…n個前の新しい状況(の残像)×(n-1)、n-1個前の新しい状況(の残像)×(n-2)…2個前の新しい状況の残像で構成されます。半残像化の解除された後の状況は、2つの無感覚出現前の状況(の残像)×2と新しい状況で構成され、無感覚出現前の状況の残像から無感覚出現前の状況(の残像)×2と新しい状況の混在した状況への変化が生じます。この変化は、新しい状況が存在しない状況から新しい状況が存在する状況への変化です。したがって、新しい状況が存在しないことの残像と新しい状況の重ね合わせでは、新しい状況が存在しない状態から新しい状況への変化が生じます。2個前の新しい状況(の残像)×2と新しい状況が存在しないことの残像の重ね合わせでは、2個前の新しい状況から新しい状況が存在しない状態への変化が1個前に起きたことが生じます。この変化は、単身の無感覚の出現前の状況(の残像)×2内で生じます。そして、無感覚出現前の状況の残像の残像と新しい状況の重ね合わせには、n個前の新しい状況(n=2~)がn-1個の空白を経て、新しい状況に変化したことが生じます。同時にこれらの変化が差し引きされて、…→n個前の新しい状況→…→2個前の新しい状況→空白→新しい状況という、状況の変遷が生じます。空白は無感覚が残像化したもので、無感覚が存在したことを表すので、状況の変遷には無感覚が存在した事実は残ります。しかし、無が存在した痕跡は一切残りません。
先に述べたように、状況の半残像化による無においては、過去はなかったことになります。無感覚の出現にも、そこに至るまでの状況の変遷が含まれるので、無からの解放で無感覚の出現が感じられる時は、無において一旦失われた過去が再び、過去として体験されることになります。
無感覚の出現した状況の外側
第2章では、今の状況の外には、無数の静止している状況で構成される、無限重の外側があると述べました。無限重の外側が前の状況の残像を通して感じられるのが、今の状況に含まれる、新しい状況です。無感覚の出現した状況の新しい状況は無感覚で、この無感覚は無数の静止している状況では構成されません。無感覚は無感覚であり、無感覚ではない、静止している状況が無数に集まったところで、無感覚にはなりません。無感覚の出現した状況では無限重の外側と新しい状況は共に、無感覚です。無感覚は一切の感じられる事物を含んでおらず、無形であるので、無限です。無感覚はそれ自体で無限重の外側の用を為すのです。だから、無感覚の出現した状況に注意が向くことは成立します。このことは、半残像化の起きた状況にも当てはまります。半残像化の起きた状況の新しい状況は、無感覚の出現が感じられない、無感覚の出現した状況(=出現時の無感覚)ですが、無感覚が新しい状況の役割を担います。出現時の無感覚には、無感覚出現前の状況の残像が含まれますが、これは過去に現れた新しい状況が複数回残像化を受けたものの集まりであるので、新しい状況としては扱われないと考えられます。よって、半残像化の起きた状況では、無感覚が新しい状況の役割を担うことになります。もちろん、無限重の外側も無感覚です。