第2章 注意と状況の関係
注意は状況内の全事物に向けられる
注意が引き起こすことは、何かが気になったり、何らかの事実に気づくといったことです。気になる・気づくということは、これらの行為の対象に注意が向いているということでもあります。注意は、注意が向けられている事物とそうでない事物を比較することで、存在を認識されます。この時、状況は注意が向けられている事物とそうでない事物に二分されますが、このような解釈は状況の客観視によって起こります。状況が客観視されるのは、この状況が過去になった時です。つまり、注意が事物に向いていることは、後になって気づかれることなのです。したがって、注意は感じられません。
今の状況では常に、何らかの事物に注意が向けられます。注意の向けられる事物は鮮明に感じられ、注意が向けられない事物はそうではありません。今の状況は鮮明に感じられる事物とそうでない事物に分けられることになります。状況を感じ取ることは、それ自体が、状況内の注意が向けられる事物とそうでない事物のありのままを感じ取るということになるので、注意は状況を感じ取ることに等しいということになります。
事物に注意が向いたその時に、注意によって、状況内の全事物に対して、注意が向けられるか否かが決められるので、注意が向けられない事物にも注意が向けられることになります。注意が対象に向く時、この注意によって、対象以外の事物に注意が向けられないことが決められるので、対象と対象以外の事物に向けられる注意は同一です。今の状況の全事物に同一の注意が向けられることになります。注意はその対象にも対象以外の事物にも向けられるため、注意には対象とそれ以外の事物の区別は存在しないことになります。空間は事物間の位置関係に見出されるので、事物の区別自体が注意にとって存在しないということは、注意にとっては空間は存在しないということです。つまり、注意は空間と無関係に存在するのです。
今の状況内の注意が向けられる事物は鮮明に感じられ、注意の対象以外の事物はそうではないとしましたが、今の状況内の全ての事物に注意が向けられることから、注意が向けられると、鮮明に感じられる事物とそうでない事物が状況内に存在するとも言えます。
注意が状況内の事物のうち、特定の事物に向くことから、注意は状況内の事物から対象を選択しているとも言えます。注意が対象に向くこととは、注意が対象を選択することです。だから、注意が今の状況の全事物に向くこととは今の状況が今この時に注意によって選択されることとも言えます。
しかし、この注意は意思されません。
既に存在する事物に注意が向けられる場合は、対象に注意を向けようと思った時に既に対象に注意が向いています。今この時に現れた対象に注意が向けられる場合は、意思が働く間もなく、対象に注意が向けられます。
これから現れるであろう事物に注意を向けようとする時は、まず現れる前の想像上の事物に注意が向けられます。もちろん、この想像上の事物に向けられる注意は意思されません。この場合、対象が現れるまでの間は、想像上の対象に注意が向けられ、対象が現れたその時にこの対象に注意が向けられることになります。対象に注意を向けようと待ち構えるだけで、対象に注意が向くことが実現するのではありません。対象に注意を向けようと待ち構えていた所に対象が現れることで対象に注意が向くことが実現されます。対象が現れることは対象に注意を向けようとする意思によって引き起こされるのではありません。だから、注意を向ける予定の対象が現れたその時にこの対象に注意を向けることはその意思によっては実現されません。
今の状況に注意が向く時も同様です。今の状況に注意が向くことも意思されません。今の状況は注意が向けられたその時に注意によって選択され、現れるのです。
前の状況の残像は前の状況に注意が向けられなくなった状態
注意が今の状況の全事物に向くということは、今の状況内に存在する、前の状況の残像とこれが表現することにも注意が向けられるということです。
今の状況内には、前の状況の残像が存在し、前の状況の残像内には(前の)×n新しい状況(の残像)×n(n=1~)が含まれます。先述したように、前の状況の残像化によって、それぞれの(前の)×n新しい状況(の残像)×nには(前の)×n新しい状況がn個前に存在したという解釈が与えられます。注意は今の状況の全事物に向けられるので、前の状況の残像だけでなく、この解釈にも注意が向けられることになります。
前の状況は新しい状況が現れる前は注意が向けられ、現れたままを感じられていました。それが新しい状況が現れて、状況が変化すると、残像になります。注意は今の状況の全ての事物に向くので、前の状況が前の状況の残像と新しい状況の混在した状況(=今の状況)へと変化すると、注意の対象は前の状況から今の状況に変わることになります。前の状況は注意が向けられなくなると、残像になると言えます。
前の状況に向けられていた注意と今の状況に向けられる注意が同一であることは、次のようにも説明できます。
前の状況に向けられた注意と今の状況に向けられる注意が異なるとした場合、今の状況に向けられる注意には、突然、前の状況の残像と新しい状況の重ね合わせが現れることになります。今の状況に向けられる注意は残像ではない時の前の状況を知らないので、この注意にしてみると、今の状況が突然現れることになるのです。前の状況の残像は前の状況に注意が向けられなくなった状態ですが、この注意は前の状況に注意が向けられなくなる変化を経験しません。これは、注意が前の状況の残像化を経験しないということです。前の状況の残像は、前の状況の残像化のために、前の状況が一つ前に存在したことを表します。だから、前の状況の残像化が今この時に起きないのであれば、前の状況の残像と新しい状況の重ね合わせに前の状況から新しい状況への変化が生じることはありません。しかし、実際には、今この時にこの変化は起きます。よって、前の状況に向けられた注意と今の状況に向けられる注意が異なるという仮定が誤りとなります。したがって、前の状況に向けられていた注意と今の状況に向けられる注意は同一ということになります。
今の状況の全ての事物に注意が向けられるので、前の状況の残像化と前の状況から新しい状況への変化にも注意が向けられます。前の状況の残像化は前の状況に注意が向けられなくなる変化であり、前の状況から新しい状況への変化は、前の状況に向けられていた注意が新しい状況に向けられる変化です。
前の状況の残像に含まれる、(前の)×n新しい状況(の残像)×nは、(前の)×n新しい状況が注意が向けられなくなる度に消えるということがn回繰り返された状態で、(前の)×n新しい状況(が消えている状態)×nということになります。そして、(前の)×n新しい状況(に注意が向けられなくなった状態)×nです。
注意には時間は存在しない
第1章で述べたように、前の状況の残像と新しい状況の重ね合わせには果てのない過去から続く状況の変遷が生じます。注意はこの状況の変遷にも向けられます。
注意が状況の変化に次の新しい状況の出現を読み取る時には、次の新しい状況の出現に注意が向けられます。次の新しい状況の出現に注意が向くことは、それ自体が次の新しい状況に注意が向くことです。そして、注意の対象は注意が向けられたその時に注意の対象となるので、次の新しい状況は注意が向けられたその時に現れます。だから、次の新しい状況は、注意によって状況の変化から出現が読み取られたその時に、出現するということになります。
状況の重ね合わせに状況の変化という解釈が与えられたその時に、注意は状況の変化に次の新しい状況の出現を見出すのではありません。状況の変化と次の新しい状況の出現という二つの解釈が共に生じるとすると、状況の変化を感じるまさにその時に、次の状況が生じることになるからです。
注意が状況の変化から次の新しい状況の出現を読み取る時、注意が向けられるのは、状況の変化という解釈であって、前の状況の残像と新しい状況の重ね合わせではありません。この状況の重ね合わせは今の状況であり、今の状況に注意が向く限りは、次の状況が現れることはないからです。
状況の変化を感じる時は、もちろん、状況の変化という解釈を含んだ今の状況に注意が向けられます。それが、次の新しい状況が出現する時は、状況の変化という解釈と次の新しい状況に注意が向けられるのです。しかし、前の状況から今の状況への注意の移動には、次の新しい状況へ注意が向けられ、今の状況には注意が向けられなくなるであろうという未来予測が含まれます。この未来予測が消えたその時に次の新しい状況が現れます。
以上のことから、今の状況内では、今の新しい状況のみならず、過去に存在した、(前の)×n新しい状況にも、これから現れるであろう、次の新しい状況にも同一の注意が向けられることになります。これは、注意が過去にも今にも未来にも向けられるということで、注意には時間の区別が存在しないということを意味します。
注意は注意自身にも向けられる
今の状況に注意が向けられる前は、注意は前の状況に向けられていました。それが今この時には、前の状況は残像になり、今の状況内の一事物として注意が向けられることになります。前の状況に向けられる注意と前の状況の残像に向けられる注意は同一ですが、状況は変化しているので、前の状況に注意が向けられることと前の状況の残像に注意が向けられることは異なります。今この時に、現れた時のままの前の状況に注意が向くことはありません。前の状況に向けられていた注意は、前の状況が残像になると共に、消えると言えます。そして、注意は今のこの状況に向けられることになります。つまり、前の状況から今の状況への変化は、前の状況から今の状況へ注意が移動することということになります。前の状況の残像と前の状況の残像と新しい状況の混在した状況(=今の状況)の重ね合わせには、前の状況から今の状況への注意の移動が読み取られることになります。前の状況から今の状況への変化も今の状況内で起きることであり、注意は今の状況内の全事物に向けられるので、前の状況から今の状況への変化が感じられる時、注意は前の状況から今の状況への注意の移動にも向くことになります。ここでは、注意が注意を注意に向けるということが起きます。
前の状況から今の状況に移った注意がこの前の状況から今の状況への注意の移動に向くので、状況間を移動する注意とこれに向けられる注意は同一です。このことから、注意に対する注意の存在は今この時においては感じられないと言えます。また、注意による、対象と対象以外の事物の区別は事後に分かるのであって、対象にまさに注意が向けられている時には感じられません。よって、注意は注意自身に対して存在せず、存在するまさにその時は、状況の中では感じられないことになります。注意は存在する時はどこにも存在しないのです。存在しない事物が存在しなくなることはないので、注意が存在しなくなることはありません。注意は永遠に存在するということになります。注意には時間の区別が存在せず、注意は永遠に存在することから、注意は時間と無関係に存在すると言えます。
今の状況の外側
前の状況の残像と新しい状況の重ね合わせは現れたその時に、前の状況から前の状況の残像と新しい状況の混在した状況への変化という解釈が与えられます。この状況の重ね合わせは現れたその時に客観視されることになります。
今の状況は注意が向けられたその時に客観視されるということです。今の状況が客観視されるということは、今の状況が一事物として取り上げられるということです。このように、今の状況のみが注意によって拾い上げられるためには、この状況下には今の状況以外の状況が存在しなければなりません。そうでなければ、今の状況のみに注意が向くということは起こりません。注意が向けられる状況が出現するので、注意が向けられない、これらの状況が出現することはありません。注意が状況に向く時、この状況は選択されるということになります。注意が状況内の複数の事物のうち、特定の事物に向けられることから考えると、注意が状況を選択するという時は、複数の選択可能な状況の中から一つの状況が選択されるということになります。注意が今のこの状況を選択するということは、選択可能であるけれども選択されない状況が存在することで可能になるのです。
このように、注意が選択する今の状況の外側には、今の注意が選択可能な状況が複数、存在するわけですが、これらの状況群は肉体に帰属されます。例えば、我々は、目をものを見るための器官と考えます。ここには、目は今見ているもの以外のものも見ることができることが含意されます。つまり、我々は、肉体を状況を体験するためのものとみなし、肉体がある状況を体験する時、別の状況も体験し得たと考えるのです。したがって、選択可能な状況が注意に選択されないこととは、これらの状況が肉体に属することということになります。選択可能な状況が選択されないために、注意が今の状況を選択することが可能になるので、選択される可能性のあった状況群が肉体に属する時に、今の状況が注意に提供されるということになります。注意が今の状況を選択し、選択される可能性のあった状況が肉体に属することは、注意が肉体から今の状況の構成に必要な感覚的要素を選択し、残りの感覚的要素が肉体の元に留まることと言い換えることができます。注意が選択する可能性があった状況も、今の状況の構成に与らなかった感覚的要素も、注意が選択する今の状況の外側に存在し、有限だからです。今の状況は注意が向けられたその時に出現するので、今の状況の外側もこの時に生じることになります。つまり、今の状況を構成しない感覚的要素の集まりとしての肉体がこの時に生じることになります。また、肉体は状況の一部でもあります。だから、肉体は今の状況に含まれつつ、今の状況の外側であることで、注意が今の状況に向くことを可能にしていると言えます。
今の状況の外側は有限であるので、今の状況に注意が向く時、今の状況の外側とその外側に境界が作り出されることになります。今の状況の外側の外側が無限であれば、今の状況とその外側が生じることはありません。無限にある事物から有限にある事物を取り出すことはできないからです。したがって、今の状況の外側の外側も有限ということになります。同様に、今の状況の外側の外側の外側も存在し、これも有限ということになります。今の状況の外側の外側の外側にはさらに外側が存在し・・・と考えていくと、結局のところ、今の状況には有限の外側が無限に重ねられるということになります。
この無限重の外側は、今の状況に注意が向けられたその時に生じます。だから、注意が向けられるのは今の状況だけですが、この注意は無限重の外側もまた選択するということになります。
注意は今の状況に向いた時に、この状況に状況の変化という解釈を与えます。この時、注意は今の状況に向くと共に、今の状況に向く注意にも注意を向ける、すなわち、今の状況に向く注意自身を客観視します。この客観視によって、状況の変化という解釈が今の状況に与えられます。注意が対象に向くことは、注意が向けられない事物が存在する時に可能になるので、注意自身が今の状況に注意が向いていることを客観視するには、注意が向けられない、今の状況の外側にも注意が向けられる必要があります。これは、今の状況の外側に注意が向けられないことに注意が向けられるということです。今の状況の外側にはさらに外側がありますが、今の状況とこの外側に注意が向けられることは、今の状況の外側の外側に注意が向けられない時に可能になります。だから、今の状況の外側の外側に注意が向けられないことに注意が向けられることが起きます。以下、同様に考えていくと、結局の所、今の状況に注意が向けられる時、この状況に無限に重ねられる外側に注意が向けられないことに注意が向けられることになります。
先述したように、事物に注意が向くとは、注意が向けられる事物とそうでない事物の区別であり、この区別自体に事物間における、注意が向けられるか否かの違いが含まれます。このため、注意が事物に向くことそれ自体が注意が向けられる事物とそうでない事物が共に存在することの客観視になります。注意はそれ自体で自身の客観視を行うのです。注意が自身の客観視を行うということは、注意は自身にも注意を向けるということで、この時に、注意が向けられない事物にも注意が向けられることになります。注意が向けられない事物に注意が向けられるとは、事物に注意が向けられないことに注意が向けられることです。注意がそれ自体で自身の客観視を行うということから、注意の対象に向けられる注意と注意が向けられない事物に向けられる注意は同一です。
対象に向けられる注意と注意が向けられない事物に向けられる注意が同一ということを突き詰めて考えていくと、今の状況の事物に向けられる注意と今の状況とこれに無限に重ねられる外側に向けられる注意が同一ということになります。このことは、状況の中の事物に向けられる注意が実は、果てのない世界につながっているということを意味します。我々が日常生活を送る上で注意は常に様々な事物に向きますが、そのいずれもが果てのない世界につながっているとしたら、体験する出来事や人のよしあしを評価することには何の意味もないのかもしれません。
今の状況は仮想でできている
今の状況に注意が向けられる際、前の状況は既に選択されているので、注意によって新たに選択されるのは、厳密に言うと、新しい状況です。そして、前の状況に加え、新しい状況に注意が向いたその時に前の状況が残像となり、今の状況の変化が感じられます。
今の状況が注意に選択される時、今の状況の外側にある、新しい状況になる可能性があった状況はそのままでは静止している状況です。先述したように、静止している状況は感じられません。状況の体験者にとっては静止している状況は無です。注意が状況内の複数の事物のうち、特定の事物に向けられることから、静止している状況は今の状況の外側には有限の数、存在することになります。状況内の特定の事物に注意が向けられる時、通常は注意が向けられない事物が複数、存在することから、今の状況の外側には、静止している状況が複数、存在すると考えられます。この静止している状況の集団もまた選択されるので、この状況の集団の選択のために、この外側に状況の集団の集団が存在することになります。同様に考えると、今の状況(の外側)×n(n=1~)には、状況(の集団)×nが存在することになります。注意が向けられない事物は注意が向けられないことで注意が向けられるので、これらの状況(の集団)×nにも注意が向けられるということになります。これが無限重の外側の構造です。だから、静止している状況は無限重の外側の基本的な構成単位です。
それぞれの静止している状況は、前の状況の残像と重ねられれば、それぞれの今の状況を構成します。前の状況の残像と重ねられれば、どのような今の状況を構成するかということが、それぞれの静止している状況の唯一の個性であり、他の状況との違いです。この違いのために、今の状況と無限重の外側に注意が向くということが可能なのです。
では、前の状況の残像と静止している状況が重ね合わさってできる、仮想の今の状況はどこで感じられるのか。仮想の今の状況は静止している状況の個性であるので、これが感じられなければ、静止している状況の間に違いが認められず、結果、注意が不可能になります。僕らが体験できるのは今のこの状況のみであるので、仮想の今の状況という、静止している状況の個性は今の状況内で感じられるということになります。もちろん、静止している状況は無限重の外側にあるので、前の状況の残像と実際に重ね合わされるわけではありません。前の状況の残像と静止している状況の重ね合わせは仮想であり、この仮想が今の状況の一部になるということです。
無限重の外側では静止している状況が静止している状況とのみ関わり合い、共存します。無限重の外側を構成する、静止している状況のうちの一つが仮想の今の状況となって、今の状況の一部を担うのなら、今の状況の残りの全ても仮想の今の状況で構成されるということになります。静止している状況のみが無限重の外側に存在し、これらが互いに関わり合うなら、それぞれの静止している状況に同じ操作をして作られる、仮想の今の状況がほかの何かと関わり合って、今の状況内に存在することはありません。無数の静止している状況がそれぞれ、前の状況の残像と重ね合わさって、仮想の今の状況を構成し、これらが互いに関わり合って存在するのが、今の状況なのです。
ところで、状況内の事物には当然のことながら、違いがあります。事物に何の違いもなければ、何も感じることができないからです。事物に違いがあるということは、事物間に境界があるということです。この境界は、事物を構成する要素についての事物間の違いによって生じます。今の状況にも仮想の今の状況にも事物間の境界があります。
先述したように、それぞれの仮想の今の状況がそれぞれの静止している状況の個性であり、これらの仮想の今の状況が今の状況を構成します。それぞれの仮想の今の状況が今の状況内で感じられることが、この状況を構成する、それぞれの静止している状況の間に違いを生み出し、無限重の外側の存在を可能にします。それぞれの仮想の今の状況が今の状況内で感じられるということは、今の状況を感じることがそのまま、それぞれの仮想の今の状況を感じることになるということです。このためには、今の状況と仮想の今の状況とで何かが一致していることが必要です。各事物とこれの状況内の配置を決定する、各要素についての事物間の境界が仮想の今の状況と今の状況とで異なれば、今の状況を感じることがそのまま仮想の今の状況を感じることにはなりません。各要素についての事物間の境界はいわば、状況の型です。状況内の事物はこの型にはめられた状態で感じられます。だから、仮想の今の状況の型が今の状況のものと異なれば、今の状況の型で仮想の今の状況が感じられない、すなわち、今の状況を感じることがそのまま、仮想の今の状況を感じることにならないということになります。各要素についての事物間の境界が仮想の今の状況と今の状況とで一致していれば、これらの状況の間で、それぞれの事物の内部が異なっていても、今の状況を感じることがそのまま仮想の今の状況を感じることになります。だから、今の状況を感じることがそのまま仮想の今の状況を感じることになるには、各要素についての事物間の境界が仮想の今の状況と今の状況とで一致している必要があります。しかし、事物の内部まで一致していると、仮想の今の状況と今の状況が完全に一致してしまい、仮想の今の状況及び静止している状況の個性がなくなってしまうので、事物の内部は仮想の今の状況と今の状況とで異なり、仮想の今の状況の間でも異なります。
したがって、仮想の今の状況は、各要素についての事物間の境界が今の状況と一致し、事物の内部が今の状況及び他の仮想の今の状況と異なるということになります。このことから、それぞれの仮想の今の状況が今の状況内で感じられることとは、今の状況において、各要素についての事物間の境界が生み出す、事物の輪郭にそれぞれの仮想の今の状況から提供された、事物の内部がはめ込まれることということになります。
仮想の今の状況は無数にあるので、一つ一つの状況をを取り出して、比較し、違いを認めることはできません。しかし、注意はこれらの状況一つ一つに向くことができます。注意にこのようなことが可能なのは、注意が時間・空間と無関係に存在するからです。注意によって無数の仮想の今の状況が区別されるとしても、これらの状況が感じられなければ、すなわち、状況として扱われなければ、静止している状況間の違いは認められません。だから、今の状況を感じることがそのまま、無数の仮想の今の状況を感じることになります。
今の状況を構成する、無数の仮想の今の状況の間で、各要素についての事物間の境界、すなわち、事物の輪郭が一致していない可能性は以下の説明で否定されます。
事物の輪郭が一致していない、多数の仮想の今の状況が集積されて、事物の輪郭が一つに定まった、今の状況ができるとしたら、今の状況と事物の輪郭が同じである、仮想の今の状況に数が偏ると考えられます。そうでなければ、今の状況において事物の輪郭が一つに定まりません。しかし、事物の輪郭が一致していない仮想の今の状況が無数に存在すれば、そのうちの一つに数が偏ることはありません。この場合、事物の輪郭が定まらない今の状況が構成されることになります。事物の輪郭が定まらないということは事物の区別が存在しないということです。もちろん、今の状況はそのような状況ではありません。したがって、事物の輪郭が一致していない、無数の仮想の今の状況が今の状況を構成する可能性はないと考えられます。
今の状況は無数の仮想の今の状況で構成されるので、今の状況に注意が向くことは無数の仮想の今の状況に注意が向くことです。そして、無数の仮想の今の状況に注意が向いた時、これらの状況の間には区別が存在します。だから、無数の静止している状況間の違いは今の状況に注意が向いたその時に認められるということになります。
今の状況の内外の違い
これまで見てきたことから、無数の静止している状況が今の状況内で無数の仮想の今の状況となって存在し、かつ、今の状況の外に存在することになります。
一見、無数の静止している状況が今の状況内で無数の仮想の今の状況となって存在することとこれらの状況が今の状況の外に存在することは矛盾しているように思われます。しかし、無数の静止している状況が前の状況の残像の観点で感じられるか否かで現われ方が異なると考えるとこの矛盾は解消されます。静止している状況は前の状況の残像と重ね合わされると、仮想の今の状況となって今の状況を構成するので、静止している状況は前の状況の残像を通して感じられると言えます。これまで今の状況は前の状況の残像と新しい状況で構成されると何度も書いてきましたが、前の状況の残像に重ねられるということが、前の状況の残像を観点として感じられるということであるとすると、この条件下では無数の静止している状況は新しい状況ということになります。しかし、この観点から離れると、これらの静止している状況は今の状況に無限に重ねられる外側を構成します。今の状況内の新しい状況も今の状況に無限に重ねられる外側も、無数の静止している状況の現われ方であり、どちらか一方のみが存在するということはありません。また、無数の静止している状況が新しい状況を構成していようと、今の状況に無限に重ねられる外側を構成しようと、我々にはその様子は感じられません。我々が感じられるのは今のこの状況のみです。
今の状況を感じるということには、この状況を感じる主体である、状況の体験者と感じ取られる対象の今の状況が存在します。今の状況には無限に外側が重ねられているので、状況の体験者とは今の状況に無限に重ねられる外側ということになります。今の状況のみならず、無限重の外側にも注意が向けられるので、「無限重の外側=状況の体験者」も注意によって選択されるということになります。
前の状況を粘土、無限重の外側を石とすると、粘土に石がめり込んでできた跡が新しい状況で、石がめり込んで形が変わった粘土が前の状況の残像です。無限重の外側は前の状況にめり込んだその時に、前の状況の残像と新しい状況、すなわち、今の状況を感じることになります。
無限重の外側は、その一側面である、新しい状況が今の状況内で感じられるので、時間・空間と関わって存在するということになります。
今の自分=今の状況を感じ取ること=注意
これまでの説明から、無限重の外側が前の状況の残像を通して感じられたものが新しい状況となります。無限重の外側は状況の体験者であるので、状況の体験者が前の状況の残像を通して現れたものが新しい状況ということになります。今の状況を感じ取ることとは状況の体験者が前の状況の残像を通して現れた自分の姿を感じることということになります。前の状況の残像を通して現れる、状況の体験者とこれを感じる状況の体験者は、今この時の自分の全てと言えます。このため、今の状況を感じ取ることとは今の自分そのものということになります。先に書いたように、今の状況と無限重の外側には注意が向けられます。今の状況が注意の対象であるのなら、無限重の外側は対象以外の事物になります。注意は、注意による、その対象と対象以外の事物の区別に現れるので、注意の対象である、今の状況と対象以外の事物である、無限重の外側が存在することそれ自体が注意となります。今の状況と無限重の外側である、状況の体験者が今の自分であるので、注意は今の自分ということになります。また、今の状況と無限重の外側に注意が向けられることがそのまま、今の状況とそれを感じる状況の体験者が存在することになるので、注意が今の状況を感じ取ることということになります。
以上のことから、今の自分=今の状況を感じ取ること=注意ということになります。
この結論は次のようにも導けます。
まず、今の状況を感じ取ることを感じ取ることはできません。我々が感じられるのは、今の状況であって、今の状況を感じ取ることではありません。今の状況が感じられるということは、この状況は時間・空間と関わって存在するということです。対して、今の状況を感じ取ることは感じられないので、時間・空間と無関係に存在します。
特定の事物に注意が向くことも感じることはできません。事物に注意が向いていることは、後になって気づかれることであって、事物にまさに注意が向いている時は、これを感じることはできません。注意もまた時間・空間と無関係に存在することになります。
今の自分も感じることはできません。今の自分を感じ取ろうとする時、感じ取ろうと思った瞬間、今のこの自分は過去の自分になってしまいます。今の自分を感じ取ろうと思った自分と感じ取る対象の今の自分は異なるのです。したがって、今の自分を感じ取ることはできません。今の自分も時間・空間と無関係に存在することになります。
以上のことから、今の状況を感じ取ること、注意、今の自分は、時間・空間と無関係に存在することになります。時間・空間と無関係に存在する三者の関係は三者が等しいという関係以外にはありません。よって、「今の自分=今の状況を感じ取ること=注意」となります。先述したように、注意は永遠に存在するので、今の自分と今の状況を感じ取ることも永遠に存在することになります。このことから、生きることは永遠に続くと言えます。
意思と注意
意思と注意の関係についても述べたいと思います。
行為を意思する、すなわち、行為を実行しようと思う時、この行為とは行為の最終状態を指します。例えば、足を伸ばそうと思う時は、足が伸びた状態の達成を目指すのであって、その途中状態の達成を目指すのではありません。行為を意思する際は、行為の最終状態のみが求められるのです。行為の最終状態の達成を目指すこととは、この最終状態が与えられることを望むことです。なぜなら、最終状態の達成を目指すことはその状態になることを望むことであり、望むことの対象は、求める状態やものが与えられることだからです。つまり、行為を実行しようと思うこととは、行為が実行されることを望むことなのです。行為を実行しようと思う時は、今すぐに実行しようということなので、より厳密には、行為を意思することは、行為が今すぐに実行されることを望むことです。行為が今すぐに実行されることを望むということには、行為はまだ実行されていないという事実が隠れています。行為がまだ実行されていないということは、これから行為を実行する予定であるということです。行為の実行を望むことの中から行為がまだ実行されていないという認識を拾い上げるのは注意です。行為の実行を望んでいる所に、行為がまだ実行されていないことに気づくということなので、ここで予定されるのは、即時の実行です。このことから、行為の実行を望んでいる時に、行為がまだ実行されていないことに気づくことが、行為を意思することということになります。注意は行為への意思の生成に重要な役割をすると言えます。
以上のことから、僕は、行為を意思することとは、「行為がまだ実行されないと思うこと」だと考えます。「行為はまだ実行されていない」は、実行の予定を含んだ現状認識にすぎませんが、これを「行為がまだ実行されない」に変えると、この現状認識に即時の実行を望む思いが加わるのです。
以下、行為がまだ実行されないことを行為の未然と呼ぶことにします。そうすると、「行為への意思=行為の未然を思うこと」になります。
行為への意思が行為の未然を思うことであるならば、行為は行為への意思があるがために実行されないということになります。したがって、行為がまだ実行されないと思うことがなくなる、すなわち、行為の未然を思うことがなくなることで、行為は実行されるということになります。
では、行為への意思は意思によって消されるのか、それとも、ただ消えるだけなのか。
意思が意思によって消されると仮定すると、意思を消す意思が消えることで、意思が消えることになります。意思を消す意思は、意思を消す意思を消す意思が消えることで、消えます。意思を消す意思を消す意思は、意思を消す意思を消す意思を消す意思が消えることで、消えます。つまり、意思が意思によって消されると仮定すると、意思を消す意思を・・・消す意思が消えなければ、意思は消えないことになります。意思はいつまで経っても消えず、行為が実行されないことになります。これは事実に反します。したがって、意思は意思によって消されるのではなく、ただ消えるだけということになります。
以上のことから、行為は「行為への意思=行為の未然を思うこと」が消えることで実行されるということになります。
「行為への意思=行為の未然を思うこと」は、消えずに残ると、今すぐにというニュアンスが失われます。これはもはや行為への意思ではありません。だから、これが消えても行為が実行されることはありません。行為への意思は、生じた次の瞬間に消えなければ、行為は実行されないということになります。
行為への意思は行為の原因でもあり、障害でもあると言えます。
行為への意思は、行為が実行されることを望むことと今すぐに実行することを予定することで構成されています。行為を実行して欲しいという思いは、その望みが叶えられることが決まると、消えます。そして、行為を今すぐに実行する予定は、実行を望むからこそ存在します。だから、行為を実行して欲しいという思いが消えると、実行する予定も消えます。つまり、行為への意思は、行為を今すぐに実行する予定を内部に含んでいるから、消えるのです。
行為の実行には、行為への意思の消滅に注意が向けられていなければなりません。注意が行為への意思から他の事物に移れば、行為の実行に関心がなくなったということであり、行為は実行されません。
以上のことから、注意は行為への意思を生成し、その消滅にも関わるということになります。
自由意思が存在するか否かの議論がありますが、先ほど挙げたように、注意が今の自分で、意思を生み出す・生み出さないの選択をするとしたら、自由意思は存在するということになると思います。
今の自分と一般的に言われる自分の違い
一般的に言われる自分と今の自分は違います。一般的に自分という時は、過去の体験の当事者としての、あるいは、これから行う予定の事柄の主体としての自分です。過去の自分は今の自分の以前の自分として、未来の自分は今の自分がこれからなろうとする自分として、それぞれ今の自分と関わりつつ、今の状況内に現れます。過去の自分は自分の体験した出来事の想起の中に、未来の自分は、これから起きるであろう出来事の想像の中に現れます。
他者から見た自分は、自分の今の状況内に現れる他者によって示唆される自分であり、やはり、状況内の一事物です。他者が自分に関わる時、他者に関わられる自分は今の状況内に現れます。この自分は、状況内の一事物です。
今の自分と違い、一般的に言われる自分は状況の中に存在するのです。