第三話 矢筒あぽろの絶叫は耐えられますか?
緑の絨毯さながらの大草原に抱かれた緑豊かな『ビースト領』。
各地にぽつぽつと家々が点在しているものの、自然が多い牧歌的な土地で矢筒あぽろはせっせと屋根の修繕に励んでいた。
「ふう~、ずいぶんお日様が高くなってきましたねぇ。ちょっと汗ばんできちゃったかも。せっかくだからキリのいいところまで……」
あぽろは額に滲む汗を手の甲で拭うと、勢いよく金槌を振り下ろした。屋根に空いた穴を塞ぐ形で渡した板に、釘を打ち付けていく。
真っ赤な三角屋根が特徴的なこの孤児院はあぽろのお隣さんであり、あぽろにとって実家にも等しい場所だ。冒険者として活動するかたわら孤児院の手伝いに勤しむ。これもまたあぽろの日常の一部である。
「あぽろちゃ~ん、ちょっと降りといでよ」
「あっ、おばさん」
軒下からあぽろに声をかけたのは、孤児院を運営するキツネ型獣人の夫人だった。片手にバスケットを携え、朗らかな笑顔であぽろを手招きしている。
「そろそろ休憩といこうじゃないか。パウンドケーキ焼いたからさ」
「ありがとうございます、今行きますね」
あぽろが立て掛けた脚立を降りる間に、夫人が中庭に椅子と木製のテーブルを用意してくれた。年代物のティーセットと、夫人お手製のドライフルーツ入りのパウンドケーキ。小さなテーブルを埋め尽くす馴染みの品々に、あぽろの口元は自然と綻んだ。
「今日はドライチェリーなんですね。うんうん、美味しそう~」
「あぽろちゃん今日は休みなんだろ。なのに手伝わせちゃったんだからこれぐらいさせとくれよ。ま、こんなもんしか出せないんだけどさ」
「そんなことないですよ。わたし、おばさんのパウンドケーキ大好きです」
「もう嬉しいこと言ってくれるじゃないの。もう一切れ……いやっ、二切れおまけしちゃおうかね」
上機嫌になった夫人がいそいそとパウンドケーキを切り分け、あぽろの皿に運んだ。
「そんな!私ばっかりご馳走になったらみんなの分が無くなっちゃいます!」
「遠慮しないの、足りなかったらまた焼きゃいいんだから」
短く刈り込んだ青い芝生を元気よく駆け回る獣族の子どもたち。追いかけっこでもしているのか、弾けるような笑い声の先を見つめる夫人の眼差しは無償の愛情と優しさに満ち溢れている。
「ふふっ、あんなに走り回っちゃって、今日もみんな元気いっぱいですね」
「元気なのはいいことさ。いいこと、なんだけどねえ……」
ティーカップを持つ夫人の表情がほんのわずかに曇る。いつもはピンと立ったキツネ耳も頭頂部で頼りなく倒れており、孤児院では何らかの異変が起きていることは明らかだった。呑気にティータイムを楽しんでいたあぽろの胸にも不安が広がる。
「おばさん、何かあったなら聞かせてください」
「いやぁね、そんな構えて話すようなことじゃないんだよ」
苦笑いを浮かべた夫人が語りはじめ、あぽろは静かに耳を傾けた。
「そうですか……そんなことが」
夫人が明かした孤児院で起きている異変の正体。それは、ネコ型獣人の男の子からイヌ型獣人の女の子への些細な意地悪だった。追いかけ回すぐらいはかわいいもので、男の子が女の子の髪の毛を引っ張って泣かせてしまったこともあったという。
「そういう年頃だからね、気になっちゃうのはわかるよ。ただ、あたしがいくら注意しても聞きゃしなくってさぁ」
「髪の毛引っ張るって……それは確かにやりすぎかも」
「だろう? あ、そうそう、毛虫を捕まえてきて、無理やり触らせようとしたりもあったね」
「うーん、いかにも男の子って感じですね」
夫人はわざと肩をすくめ、パウンドケーキに手を伸ばした。あぽろも夫人にならい、パウンドケーキを口に運ぶ。ふんわり香るバターと、ドライチェリーの甘酸っぱさ。あぽろが子どもの頃から味わっている素朴なおやつの前では自然と気持ちが緩む。
「いい顔で食べるねぇ」
「美味しくってつい。意地悪しちゃう男の子もおやつのときぐらい仲良くできればいいんですけど」
「ほんとにねぇ。いつかキツーいお灸を据えてやるんだから」
多種多様な種族が生息するビースト領では種族間のいがみ合いは少ない。悩める母親そのものな夫人の口振りからしても、子ども同士のちょっとしたトラブルのようだ。あぽろが孤児院を手伝うようになってからも似たような問題には時おり直面したけれど、生まれたてのヒヨコがやっと歩き出したような微笑ましさを覚える。
「お灸を据えるより先に、まずはお話してみないとですね。ねえおばさん、その子はどこに――」
あぽろが問いかけた矢先、裏庭へと続くアーチ状になったつるばらのトンネルからイヌ耳の女の子が飛び出してきた。
「やあーっ、こっち来ないでー!」
「なんだよー!」
「いやったらいやなのー!」
逃げ惑うイヌ耳の女の子を追いかけ回すネコ耳の男の子。男の子は白いロープのようなものを巻き付けた右手を掲げている。
「ほーら、またはじまった。まったく、いつもいつも懲りないったら……」
「おばさん、ここはわたしに任せてください」
あぽろは椅子から腰を上げる夫人を片手で制し、ネコ耳の男の子へと向かっていく。
「こらー!! やめなさーい!!!」
空気がびりびりと震動し、あぽろを除くその場の全員が一斉に耳を塞いだ。あぽろの声量は桁違いのため、少々声を張り上げただけでもこの有様である。あぽろの声に驚いて二人が立ち止まった隙に、ネコ耳の男の子の前にすかさず回り込んだ。
「あ……あぽろおねえちゃん」
耳から手を離し、顔を上げたイヌ耳の女の子の目元は涙で赤くなっていた。
「おやつの時間だから手を洗っておいで」
「うん」
ととと……と逃げるようにイヌ耳の女の子が去っていく。そっぽを向いたネコ耳の男の子は、あぽろとは目を合わせようとしない。しかしあぽろはそんなことは気にも留めず、ネコ耳の男の子の細い肩にぽんと手を置いた。
「ちょっとお話しようか」
「…………」
「お話、しようね?」
あぽろが膝を曲げて正面から視線を合わせれば、バツが悪そうにしていたネコ耳の男の子もようやく頷いた。
中庭から室内へと場所を移し、いくつもベッドが並ぶ子どもたちの寝室でネコ耳の男の子と並んで座る。細い手首に白いロープのような物体が気になりつつも、あぽろはネコ耳の男の子に穏やかに尋ねた。
「見てたよ、さっきの。どうして意地悪しちゃうのかな?」
「いじわるって……だって、だっておれ……」
「うん、うん」
「だっておれ……ヘンなんだ」
「ヘン? って、どういう風に?」
うつむいたネコ耳の男の子がシャツの上から胸を握り締め、苦し気に顔を歪めた。
「あいつのこと見てると、このへんがなんか、ぎゅーってして……」
喋りながらもネコ耳の男の子の頬が赤らんでいく。生まれて初めての感情の正体が掴めず、戸惑っているのだろう。ネコ耳の男の子よりは年上のあぽろにとってはそれが微笑ましくてならない。
「そっかそっか、胸のとこがぎゅーってしちゃうんだね」
「うん……」
「でも、意地悪はよくないなぁ。嫌がってるのに追いかけたり、髪の毛を引っ張るのはダメ。ぜーったい、ダメ」
ふわふわとしたネコ耳ごとそっと男の子の頭を撫でる。
「仲直りできるよね?」
あぽろが持つ柔和な雰囲気にほだされたのか、ネコ耳の男の子がこくんと頷いた。さっきまでの気まずいような空気もずいぶんと和らいでいる。
「それじゃあおやつにしようか。おばさんがパウンドケーキ焼いてくれたから」
「うんっ」
ぱあっと顔を輝かせ、ネコ耳の男の子は元気よくベッドから立ち上がった。その右手首に巻き付いたままの白いロープ状の物体があぽろの視界を掠める。
「ところで何を持ってるの? さっきからずっと握ってるよね、それ」
「これ、すっげーんだぜ! ほんときれーなんだ」
ネコ耳の男の子が右手首に巻き付いたロープを解く。
「あいつに見せようとおもってたんだけど、あぽろおねえちゃんならいーよ」
得意満面な笑みを浮かべたネコ耳の男の子が、あぽろの膝にロープを乗せた。よく見れば、表面に大小規則的に並んだ輪状のウロコ模様が目立っている。
「これって……」
それは白いロープ──ではなかった。ぱっくりと開いた口から覗く鋭い牙とちろちろと動く細長い舌。真っ赤な目をした白蛇を見た瞬間、あぽろの全身に鳥肌が立った。
「き――……ゃあああ!!!!」
てっきりヒモだとばかり思いこんでいたあぽろは、その場で白蛇を投げ捨てた。真横であぽろの音波を浴びたネコ耳の男の子が無言でベッドに倒れる。
「や、やだ、わたしったらまた……!」
事の大きさに青ざめたあぽろがネコ耳の男の子を助け起こすと、本日二度目の震動に耐え切れずひび割れた窓が開いた。げっそりした顔の夫人が窓の桟に手をつき、身体を支えている。
「あぽろちゃんの絶叫を一日に二度は……ちょっとキツいものがあるね……」
「ご……っ、ごめんなさぁぁい!」
ぺこぺこと頭を下げたあぽろは、日暮れまで窓の補修に追われることになるのだった。