ろ
◇◇◇
「よ! お疲れ」
「お疲れりゅーし! お疲れゆーじ!」
丸いショートヘアの百々は、ふんわりと髪を広げながらこちらに振り向く。
小柄で顔も小さいからか、紺色のリボンタイが大きく見える。
奈海は僕らが寄っても机に伏したままだった。
ん? どうした?
体調でも崩したか?
「おい、どうしたんだ? 奈……じゃなくて、柳士」
反応は無し、か。
ていうか自分の身体に自分の名前で話し掛けるの、一日たっても慣れない。
変な気分になる。
「百々、柳士はどうしたんだ? 体調不良か?」
「ん~。それがね~。ん~、いっていいのかなあ。ん~。でもいわないと解決しないよね~。ん~」
ん~の度に腕を組んだり頭を抱えたりと、百々はポーズを変えていく。
「もったいぶるなよ、何があった?」
「うん! やっぱりいわないとだよね」
百々は自分の手のひらを木づちのように叩いた。
「それがね、二時間目が終わったとき――」
◇◇◇
――6月9日・百々視点――
キーンコーンカーンコーン
「これで授業は終わります。今日やった問題も次の中間テストの範囲に入ってるから、サボらずにちゃんと勉強しておくように」
数人のはーい、という空返事の中、先生は教室を出ていった。
はあ~。
バタン。百々は机に頭を落とした。
「ああ~。数学ほんと無理~。誰か因数の分解を禁止にする法律、作ってよ~」
来週、高校で初のテストを迎える。
中学の時、赤点こそ取らなかったものの、数学は苦手の分野で50点を上回ったことは一度もない。
最初のホームルームの授業で行われた自己紹介では、私の一番嫌いなものはエックスとワイと答えたぐらい数学が嫌だった。
だからこそ晴れやかな高校生活の裏で、中学卒業後に教科書を捨てることで決別したはずのエックスとワイが、今も数学の授業で活躍しているのが許せなかった。
嫌いだから顔も見たくない。
もういっそのこと数学はぜったいに勉強せず卒業してやる~!
数学の授業が終わる度に私はそう思った。
「ねえ百々ちゃん」
「おあ? どうしたのりゅーし」
顔を上げると柳士が立っていた。
正確には、りゅーしの身体に入った奈海ちんだそうだ。
昨日、いろいろあって身体が入れ替わったらしい。
何があったら入れ替わるんだろう?
今はよくわからないけど詳しくは今日の放課後に聞かせてくれるみたいだ。
早く知りたすぎて辛い!
それと、このことは秘密にしたいから私とゆーじには普段通りに接してほしいとのことだった。
なので私は、目の前にいる奈海ちんのことを、身体はりゅーしだからりゅーしと呼んでいる。
「あの、その……」
「うん?」
りゅーしの顔が赤い。
どうしたのかな?
「トイレに行きたいからついて来てほしいな……」
「トイレ……ああっと!?」
いつものようにいいよと返すところだった。
「い、いや、だめなんじゃないかなあ~りゅーし! それはちょっと出来ないよ~!」
「どうして百々ちゃん? 何でも協力してくれるっていったじゃん!」
だめだめ奈海ちん! 今のあなたはりゅーしなのよ?
この状況って、男子が女子をトイレに誘ってるんだよ、奈海ちん……!
「いや! でも、だめだよ、さすがに一緒にトイレにはいけないよ! だって、その、りゅーしの心は女の子でも身体は男の子だから……だから、えっとそれはつまり……トイレって男子トイレのことでしょ? 私は女の子だからね、奈海ちんと一緒にトイレに入ると、その、社会的制裁が待ってるから……。一緒に中には入れないけど、トイレの手前までならいけるよ? それじゃあダメ?」
「それじゃダメなの!」
「ええ!? それは困った……」
数学よりも難しい問題がここにあった。
頭がフルに回っているせいか、百々の顔は熱くなる。
そしてひらめく。
「あっ! 友次! 友次をつれていくのはどう? 友次なら同じ男の子だから、社会的制裁を受けずにトイレに立ち会ってくれるよ!」
「百々ちゃん。百々ちゃんは男の人に見られたくないの、わかるよね?」
「ひぃぃやぁぁあああ! 難問すぎるこの問題~!」
百々は頭を抱えてのけぞった。
◇◇◇
「それで結局りゅーしは独りでトイレにいって、それで帰ってきてからはずっとこの調子なのよね」
なるほど。僕も大変だけど奈海も奈海なりに大変なんだな。
ところで、数学が嫌いな話は必要だったか?
話がそれるから突っ込まないけど絶対にいらなかっただろ。
「それで奈海ちんはどうなの?」
「え?」
「奈海ちんはその、トイレ……大丈夫だったの?」
百々は顔を赤めていた。
「ああ。僕は問題ないよ。一日あれば慣れたよ」
「慣れた……」
「何?」
ぼそっといった奈海の言葉を、僕は聞きとれなかったので聞き返した。
が、返ってきたのは予想外の反応だった。
突然、椅子を吹っ飛ばす程の勢いで柳士は立ち上がった。
何? 何だ?
「ちょっと、ねえ柳士! トイレに慣れたって、いったいそれはどういう意味なの!?」
すごい真っ赤だ。それとものすごい顔だ。
これはかなり怒ってる。
何で怒ってる?
怖ええんだけど!? え? 僕、何かいった?
というか今の僕に柳士呼びはまずいって!
「ちょっと落ちつけって柳士、奈海呼びするんじゃなかったのか!?」
「うるっさいわね! そんなこと今はどうでもいいの! それよりもね! トイレに慣れたってどういうこと? 説明しなさいよね! 私はこんなにも苦労してるのにあんたは慣れたって、いったいどうして……あっ! もしかして……見たの? ねえ、見たの!? そうなの? 答えて柳士!」
「見、見てねえよ! ほ、ほ、ほんとだぞ!」
急激に顔が熱くなる。
気付けば僕は無意識に奈海から目をそらしていた。
「ちょっとこっち見なさいよ! それで、じゃあ何で慣れたのか言いなさいよ柳士!」
「やだよ! 何で言わなきゃいけねえんだよ!」
「ほらやっぱり! 否定しないってことはそういうことなんでしょ! 柳士の変態!」
「へ、変態っていうなよこの馬鹿! トイレぐらいすぐに出来るようになるだろ!? 何がそんなに難しいんだよ? トイレの流し方か?」
「ああも~う! こんの馬鹿っ! 変態! そんなことも分からないなんて……! 柳士ってほんっと馬鹿!!!」
柳士の声が教室中に響いた。
おいおいなんだ、喧嘩か?
柳士と奈海が言い争ってるぜ。
も~よそでやってくれ~
柳士が奈海のことを柳士って呼んでるそ?
そういや、柳士の様子今日変だったよな。
「ゆーじ、奈海ちんが止まらないよ……」
「こりゃまずいな」
友次は頭をかく。
「入れ替わりの学校生活初日でいきなりのこれか。おい、柳士も奈海もちょっとは落ち着けよ」
友次の言葉は僕の耳には届かなかった。
目の前で僕をにらみ続ける奈海のことで頭がいっぱいだからだ。
ああもう! めんどくさい!
奈海は昔っから熱くなるとすぐに冷静さを失う。
僕のことを奈海じゃなく柳士って呼んでるし、このままだと周りにバレるだろうが!
まじで落ち着けよ……いや、こういう時こそ僕が落ち着くべきなんだ。
というか、なぜ奈海は怒ってる? まだ上手く適応できてないからか?
だいたい慣れっていっても、一日ありゃトイレぐらい出来るようになるだろ。
奈海は何をムキになってる?
まさか、トイレのやり方がわからないとかそういう初歩的なことなのか?
うむ……可能性はあるな。
仕方ない、ここは一つアドバイスでもしてやるか。
「いいか柳士、よく聞けよ。別にトイレは難しいことじゃない。寒さで手がかじかんでない限りはスムーズにコトが――」
と、いいきる前に口に手が当てられた。
「あんたね、私の身体で何をいうつもりなの!? ええ!? 頭おかしいんじゃない? 今すぐ病院にいって精密検査でも受けてきたら? おすすめの病院紹介しようか? ええ、こらあ!!!」
柳士の指に圧が掛かる。
「やえおおっえ!」
やめろって! といったつもりだ。
何でこうなるんだ!?
お、柳士が奈海の口を塞いだ。
いつもは奈海がキレ散らかしてるのに今日は珍しいな。
俺的にはいつもとかわらんように見えるなー。
私の身体? 何かの設定か?
「ねえゆーじ……このままだとまずいんじゃない……?」
「せやな。とりあえず力ずくでもつれ出さなあかんな」
友次は柳士の手をとった。
「えっ!? ちょっと、何するの友次!」
「普通こういう時は男の方を引っ張るんやろうけど、外見のせいやろな。違うほうの手をとってもうたわ」
「友次、それってどういう意味?」
「こういう意味や!」
「え!? ちょっと! まだ話は終わってない――」
友次は柳士の手を引っ張りながら教室を後にした。
まじでなんなんだ奈海のやつ。急に怒り出す意味がわからん。
睡眠不足か?
周りはガヤガヤとしていた。
「奈海ちん、とりあえず私たちもいこ」
「そうだな」
◇◇◇
僕は百々と廊下を歩いていた。
「なあ百々、何であいつはいきなりスイッチ入ったのかな?」
「りゅーしにデリカシーがないからだよ」
「デリカシー?」
そんなこと関係あんのか?
百々のいいたいことがよくわからなかった。
作中、主語(柳士と奈海)は頻繁に変わります。
キャラの心情を反映させるための仕様です。
ややこしくてすいません。