第9話 二人きりの水泳大会 春
――それは、奇跡的な出会いだったかもしれないが、海に潮の流れというものがある以上、必然だったかもしれない。
大事なのは、私と君が出会ったという事実。
そして、それを自信を持って言えること。
「君はどこから来ましたか?」
私が訊くと、
「あっちの方から来たのです」
緊張気味に君は言ったね。
「そういうあなたは、出身は?」
君に訊かれて、私が言うのは、
「私は私は、あの岸です」
「あの岸は、よいところですか?」
君の質問は難し過ぎる。良いも悪いも何もかも、すこしも考えやしなかった。
「あの岸よりも、砂浜の方が、よいところです」
なぜならば、ゴツゴツしているところより、サラサラしている方が、体を痛めずに済むからね。
「ねえ、あなた、その砂浜まで競争しましょう。海にいるのはもう飽きたわ」
「なんだって? あんなにあんなに遠くまで、泳いでいこうと言うのかい?」
「当り前でしょ! よーいドン!」
君はズルいことに、フライングしたね。
前を走りだした君には見えなかっただろうけど、私はあの時、あわてふためいていたんだ。
急いで君を追いかけたんだ。
「炭酸の入っていた空きカンをなめるなよ!」
波を割るようにぐるぐると回転しながら空き缶の私は、空き瓶の君に追いつこうと走る。
「なんの! アルコールの入っていたビンである私に勝てるとでも?」
君はそう言ってスピードを上げたね。
砂浜まで、ほんの二百メートルの距離。
だけど、私たちにとって、その距離は、世界で一番広い海を渡り切るようなものだった。
★
ずっとずっと、走り続けて空が赤くなりはじめた。
二人きりの水泳大会も、クライマックス。
「負けるものかぁ!」
私は体を高速回転させた勢いで君を抜き去って、そのまま砂浜に打ち上げられた。
「私の勝ちだな」
勝ち誇ったら、
「ええそうね、あなたの勝ちね」
不満ありげに君は言う。
海水で湿った茶色い砂浜に、半身を埋めながら、私たちは話をしたね。
思えば、私の恋だったかもしれない。
君も、私のことを気に入ってくれていたと思う。
太陽が半分沈んで、すっかり世界はオレンジに。夕陽までの光の道が波に揺れる。
「キレイだな」
「ええ、キレイね、カンくん」
「でもビンちゃん。君の方がキレイだよ」
そう言って目を逸らし、また君の方を向いた時、そこに……君の姿はなかった。
周囲を見渡し、見上げてみると、サンダルを履いて、スカートを穿いた少女が、君を持って立っていた。
「このビン……まさか……」
少女はコルク製の君のフタを開けて、中にあった紙を取り出して広げた。
「『流れてけ! あたしの初恋!』 ってこれ……やっぱりあたしのじゃん……」
少女は、悔しそうで悲しそうな声で言った。
「どういうことよ、これ。やっぱりあたしは、レンジのこと諦められない運命ってこと?」
ひとり呟く少女。
「あー! イライラするっ!」
少女は叫び、私に視点を合わせた。
そして、スカートをなびかせながら、バタバタと走ってきたかと思ったら、サンダルを履いた足で、カンである私を沈みかけの夕陽に向かって蹴り飛ばした。
流れていく視界。回っている世界。
どうやら、もう一度海に行かねばならないらしい。
「いっったぁぁああぁい!」
再び叫ぶ少女の声。しばらくのたうち回っていた。
「おーい、エリカー、そんなとこで何してんだ? いくぞー」
少女の向こうから、男の声。
「あ、お父さん、今行くー」
★
君は少女の手の中に。
ねえ、君は幸せかい?
幸せだったら良いなと思う。
私はもう一度海へ行く。
またいつか、君に会えれば良いなと思う。
潮の流れにもてあそばれて、私の視界から君が、消えてしまった。