第30話 先生の思い出 初美・ユウ篇
タンタラ ランタラ ポンピポペン♪
また、不協和音まみれの音色と再会した。いいかげんで軽い音。
「ほら、違うでしょ。いつになったらできるようになるの!」
また、先生の怒り顔とも再会した。
小学校の第三学年。まだ幼かった初美は、怒られたことに腹を立てた。初美は、ピアノのイスから飛び降りて、先生をにらみつけると、走って、閉じていた重い扉を躊躇無く開く。
「こら初美! どこに行くの! まだレッスン中でしょ! 発表会はもうすぐなのよ? あたしに恥かかせる気なの?」
「もうやだ! やりたくない!」
初美は叫び、閉塞感まみれの地下室から飛び出すと、一直線に玄関へと駆けた。サンダルを素早く履いて外に出ると、セミがとてもうるさくて、むき出しの腕に降り注ぐ焼くような日差しが熱かった。
空を見れば、雲一つ無い真っ青な空であったが、幼い初美の心は少し曇り。
足元を見ると、鉢植えの朝顔が枯れていた。
「ちっくしょう……」
夏休みの宿題の中に、朝顔の観察日記というものがあったが、これではどうしようもない。友達の書いたものを丸写しでいいやと初美は思った。友達のヒロあたりは真面目だからちゃんとやっているだろうし、優しいから見せてくれるはずだ。それを丸写しにでもすれば解決することだ。
初美は、一つ欠伸をして、玄関を振り返った。
いつも彼女が逃げ出すと、ピアノの先生が連れ戻しに来るのだが、どういうわけか今日は追って来ない。
「よし」
初美はレッスンをサボる決意を固めて、お気に入りのサンダルで走り出した。
――今日もあの場所に行こう。
心の中で唱えてみる。
あの場所、というのは空き地だ。
数日前までは、小学生女子としては高いほうの初美の身長よりも遥かに高く草が茂っていたのだが、今では、広い草原が広がっているばかり。テニスコートが二面はできるほどの空き地である。
そして空き地の草原の真ん中にはちょうど良い具合に座りやすい切り株があって、数日前からの初美の特等席となっていた。
いつもスカートを汚して帰っては母親に呆れられるのだが、初美にとっては、そんなのどうでもいいことだ。
当時から、初美は女が嫌いだと言い張っていた。すぐにメソメソ泣いたり、愚痴を言ったりして、弱いからだという。そのため、初美は、自分のことを「おれ」と言うことにしているのだった。
「あーあ。何でおれ、女に生まれちまったんだろう」
彼女が俯きながら呟いた時、
「初美くん」
名前を呼ばれた。人の気配は無かったのに、いつの間にか接近を許していたらしい。
彼はたしか、
「ユウくん、だっけ」
「うん」
名前をおぼえるのは苦手だったが、なんとかおぼえていた。
顔を上げて前を見ると、半袖シャツに短パンの彼が立っていた。
ユウくんと初美が出会ったのは、初美が初めてピアノのレッスンを抜け出して彷徨った日のことだ。ほんの数日前のこと。ちょうど草が刈られ、お気に入りの空き地が誕生した頃だ。
それはまだ、放置していたというのに鉢植えの朝顔も枯れずに生きている頃だった。
鬼の形相で追いかけてくる先生からも必死に逃げて、金網を乗り越えて、この空き地に足を踏み入れた。
そこに居たのがユウくん。すぐに意気投合し、仲良くなって、たくさんの話をした。その時、この空き地の草刈りをしたのはどうやら彼らしいことがわかった。自分と違い、若いのによく頑張ったなと初美は感心していた。
「初美くん、今日のピアノのレッスンは? 毎日あるんでしょう?」
「ああ、サボりだよ。あんなのやってられねえ」
「どうして? 楽しいじゃない、音楽。僕は好きだけどな」
「だって、あの女、他の生徒より難しい曲やらせるんだ。できないって言ってるのにさ。おれには才能なんてないし、ピアノなんて時間の無駄なんだよ。枯れるとわかっているものに水をやるなんて愚かだよ」
「そうなんだ」
「しかも、自分に恥をかかすなとか言ってきてさ、他の生徒の前で恥をかいているのはむしろおれの方だよ、ほんと最悪だ」
「そっか」
「そうだよ。しかもおれピアノなんて女っぽいもの、嫌いなんだ!」
「そうかな。ぜんぜん女っぽくもないと思うけど。男の人だって、弾く人は弾くよ」
「でも嫌なの! もう嫌なの! つまんないの!」
思ったことを全て吐き出して、すっきりしている自分がいた。
「本当に、そうなのかな」
ユウくんは言うと、初美の横、草の上に座り、空を見た。
初美も溜息を一つ吐いてから、空を見る。
はるか上空に、ひとすじの細長い雲が伸びていた。
「飛行機雲だね」とユウくん。
「そうだな」と返す。
初美は気持ちいいくらいの直線を描いて伸びる雲に思いを馳せる。
飛行機雲もすぐに消えてしまうものだ。でも、飛行機雲が周りの雲を集めて、どんどん大きくなって恵みの雨になる可能性だってある。そうなればいいな。そうなってほしい。そうなるべきだ。
そして、再び朝顔のことを思い出し、やるせない気持ちになった。
――よのなかは、儚いものだらけだ。
「人間の一生だって……なんて、小学生の分際で、おれは何を老人みたいなことを考えてるんだろうな」
一人呟いた初美。するとユウくんは、突然こう言った。
「初美くん、僕は、もう帰るよ」
「明日も来るの?」
そしたら彼は小さく首を振り、
「もう来れない」
「どうして?」
「引っ越すんだ」
「どこに?」
「どうか、初美くんには、この場所を忘れないでほしい」
寂しそうにそう言った。
言い残して、彼は駆けた。風のように、彼女の横を通り過ぎる。
「え、ちょっと待――」
振り返った時、もう彼はいなかった。
残されたのは、やかましいセミの声だけ。
――もっと話したいことがあった、他人と違う不思議な空気をもった彼と、もっと仲良くなりたかった。
あまりにもあっさりとした別れが、とても悲しく、見捨てられた気がして、涙が流れてきた。
★
夕方、家に帰った初美を待っていたのは、深刻そうな表情をした先生だった。
「ただいま」
すると先生は、おかえりなさいも言わずに、
「ピアノ、もうやめたい?」
初美は、何十秒か真剣に悩み考えた末に、こくりと首を縦に振った。
「そっか」
母親は悲しそうに、少し涙を浮かべながら、自分の部屋に逃げ込んだ。
――まだ、夏休みは始まったばかりだ。明日からは、枯れた朝顔に水をやり続けて、土に水が染み込むさまを観察して日記しようと思う。そんな形の宿題を提出して学校の先生に何を言われようとも、途中で朝顔が枯れたのは事実なのだから仕方ない。
初美は、そんなことを自分に言い聞かせながら、なんだか胸にぽっかり孔があいたような、寂しい気持ちで廊下を歩いた。
初美が自分の部屋に向かう途中、鍵の閉められた母の部屋から、大人らしくない泣き声なんかが聞こえてしまって、彼女は首を縦に振ったことを大いに後悔した。




