第28話 坂の途中 エーイチ・初美篇
今日、友人がオレの部屋にやって来る。邪魔なものは全て押入れの中に封じ込めた。
四畳半。汚いアパートの汚い部屋であったが、体裁を繕って掃除なんぞしてみたおかげで、生活感の無い寂しい感じの部屋になってしまった。
しかし、そんなオレの努力を嘲笑うかのように、友人はまだ来ない。予定の時間を過ぎたというのにまだ来ない。遅刻というやつだ。
そこで、暇を持て余したオレは、ノートパソコン内の画像フォルダをスライドショーで眺めていることにした。断じていやらしい画像ではない。いや、しかしまあ、世界は広い。そして深い。風景というものに、性的興奮をおぼえてしまう人もどこかにいるだろうから、広い意味ではいやらしい画像のようなものだ。
……なんてことを考えてみたが、それは倒錯しすぎかな。
ま、言いたいのは、好き嫌いは人それぞれで、オレなら見た目がグロテスクという理由で敬遠するような生物を、好んで食す人間がいるくらいで、そういう自由さをオレは愛しているわけだ。
「ん?」
切り替わる画像の中で、ふと目についた写真があったので、オレは画像の流れを止めた。
キレイな石畳の上り坂。
背景は青空。
見慣れない西洋風の建物が両側に並んでいた。
「これ、どこだろうか?」
日本ではないような街並みだった。海外旅行に行った記憶はないのだが……。
この大量の写真たちは、これからやって来る友人がデジカメで撮影したものだ。
一緒に旅行をしたときの写真のはずなので、ならばオレもその風景を見ているはずなのだ。なのに、その写真の場所がどこなのかわからない。ナゾだ。
同じ風景でもほんの少し角度を変えれば違う風景に見えたり、ほんの少し時間を変えれば違う場所に見えたりすることもあるだろうが、友人はプロのカメラマンではないし、オレの記憶力だって胸を張れるくらいだ。
落語の「じゅげむじゅげむナントカカントカ」ってのも最後まで言えるし、円周率だって五十桁くらいは唱えられる。と、そんなことを考えていると、
「おじゃましまーす」
ようやく友人がやって来た。ノックをする必要が無かったのは、扉を開けっ放しにしていたからである。
「遅かったな、初美」
「いやぁ、途中でさ、チャリがパンクしてさ。このボロアパートの前、かなりの坂道だろ? 漕いでのぼれなくてさ。押しながら歩いてきたら遅くなった。すまん」
「まあ、そんなことはどうでも良いんだ。今オレが訊きたいのは、こっちの坂道についてだ」
「こっち? 何だ、それ」
友人は、不思議そうに首を傾げる。
「お前がくれた写真だよ。これ、どこの景色だ?」
オレはノートパソコンの画面を指差してみせた。友人が寄って来て、画面を覗き込む。
「あぁ、これ、グラバーさんちの前の坂道だな」
即答だった。グラバー……どこかで聞いたことはあるが、彼女との思い出の中では全く繋がってこないから、思い出せない。
「……どこだっけ?」
「長崎だよ。有名だろ?」
「いやっ、行ったかな、こんなところ」
「おいおい、一緒に行ったじゃねえか」
そんな記憶は全くないのだ。
長崎には高校の修学旅行で行ったが、彼女と一緒には行っていないはずだ。それに、俺の記憶によると修学旅行での長崎は、ずっと曇り空だったから、あのキレイな青空の坂道を撮る機会もない。
「ほら、おれがさ、グラバーさんちで、ハートの形した石を探そうって言い出してさ、お前は面倒くさがりながらも渋々頷いて、何とか見つけてさ、その後、長崎のオルゴール館でおれと一緒に二人で同じの選んで――」
「ん? どうした? 初美。急に止まっちまって」
「あー勘違いした……」
「ん?」
「元カレと行ったんだ。ごめん。てっきりお前と行ったんだと思って、長崎の写真混ぜちゃったよ」
「そうなのか」
「良い天気だったんだぜ……」
「みたいだな」
写真を先に送ってみると、長崎の風景ばかりで、ときどき初美の自撮り写真が混じっていた。
初美以外の人間を撮った写真が見当たらないのは、元カレが映っているものを怒りに任せて削除してしまったからだろう。
「……で、何のオルゴール選んだんだ?」
「ええと、ネジ巻くと、人形がぐるぐる回転しながら音楽が流れるやつでさ、ピンク色の」
「ピンクッ? 初美らしくないな」
「だろ? だけど、相手の趣味でさ、『女は女らしくピンクを選べ』みたいに言ってきてな」
「そうか、何の曲だ?」
「たしか、なんか強そうな名前だったよ。えっと……キャノン?」
「絶対ちがうだろ。カノンじゃないのか? パッヘルベルの」
「それだ! 好きなんだよな、あのメロディ。子供の頃、よくピアノで弾いたな。タンタラタンタラタララララ♪ってやつ」
弾いたことあるのに曲名が出てこないとは、初美の記憶力はオレよりも、さらに壊滅的なようだ。
「ちょっと待ってろ」
オレはそう言って立ち上がり、押入れを開けると、小さなダンボールの中からさらに小さな箱を取り出した。その箱の中身は、
「ほら、オルゴール」
「え?」
北海道に旅行した時、昔から好きな女の子に連絡をとってプレゼントでもしようかと思って買ったものだ。買ったまでは良いが、渡すタイミングなど全く無く、何より勇気が全く足りなかったので、ここにある。
グランドピアノの形をした黒光りするオルゴールで、フタを開けると音楽が流れ出すという、ちょっと凝った仕掛けになっている。
友人がノートパソコンが置いてあるテーブルの上に置くその姿を、横に座りながら、見ていた。
蓋を開けた。
開いた。
ずいぶん放置してしまっていたから開かずの箱にでもなっているんじゃないかと心配したが、問題なかった。
リンリンと響く、オルゴールの澄んだ音色。
「――うわああああ! ダメだあ!」
突然、友人は頭をかきむしりながら叫んだ。
窓から差し込んだ光に、舞い踊る細かな塵がきらきら光った。
「お、おい、どうした」
「オルゴールの音色って、何か変な気持ちになるんだよ!」
立ち上がりながら、頭を抑えた友人。
オレは音楽を、止めた。
「……変な気持ちって、何だよ」
「なんか、なんか、やらしい感じに」
よくわからん。苦し気にハァハァいってる。しかし世界は広く深い。オルゴールの音色に性的興奮をおぼえる人間がいてもおかしくはない。そこらへんは自由だ。
たとえば親しい誰かがオルゴールにマジで惚れたとしても、オレはその恋を応援してやろうと思うぜ。
「……ちょ、ちょっと出かけてくる!」
「帰るのか? 来たばっかじゃないか」
「いや、すぐ戻るよ。頭冷やすついでに坂の上の自転車屋にパンクを直しに行くだけだから」
「あ、オレも坂の上のコンビニまで行こうと思ってたんだ。一緒に行こうぜ」
「いいけど……」
オレはノートパソコンの電源を切り、再び立ち上がる。
友人は先に外に出た。
オレは扉を閉め、戸締りしてから、今にも崩れそうな階段を駆け下りて、友人を追うように外に出る。
共同玄関のドアに鍵を掛ける。
晴天の下に出た。
オレは手ぶら、友人は自転車を押しながら。
しばらく並んで坂道を上って行く。




