第27話 さようなら日曜日 レンジ篇
俺、レンジと初美が出会ったのは、ある春の日の夜だった。
新入生歓迎の飲み会で、飲み屋に来ていた初美を見たとき……電撃が走ったような感覚をおぼえた。
月並みな表現だが、これに代わる言葉を、俺は知らない。
その頃、たまたま前の彼女と真っ赤な花吹雪のなかで最悪な別れ方をしたばかりだったこともあり、迷うことなく大学生のふりをして紛れ込み、初美を夜の闇に半ば無理矢理に連れ出して、連絡先を交換した。
何度か遊びに誘い、情熱的に告白したら、恥ずかしそうに頷いてくれて、恋人同士になった。
影のない、満月みたいに明るい初美。
本当に大好きだった。
刺激的な日々だった。
今まで、初美以上に好きな人に出会ったことがなかった。
これまた月並みな言葉で言えば、運命を感じた。
だけど、しばらく付き合っているうちに、どうしても気に入らないことが出てきた。最初は気にならなかった……というか、最初こそ女らしかった初美だが、慣れてくるうちに男みたいな面が気になり始めた。
自分のことを「おれ」と自称したり、女っぽいものを嫌ったりしていて、俺はそれが気に入らなかったんだ。
元々、女の子を俺色に染めたがる性質を持つ俺は、どうにかして初美を自分好みの女の子にしようと努力した。
今思えば、それが最悪の選択だったのかもしれない。
★
ある秋の日曜日のことだった。天気はくもり。
要するに、今日のことだ。
「よお、すまんすまん」
俺は、遅刻してしまった。いつもの待ち合わせ場所と違う場所を初美が指定していたことを忘れていて、三時間の大遅刻をやらかした。
俺は待ち合わせ場所に向かう電車の中で大変に反省したのだが、自分の中での反省だけで満足してしまって、初美にその姿勢を見せることを怠った。
初美なら、わかってくれるだろうと思っていた。いつもみたいに、軽いノリで「いいよいいよ」と返ってくるとばかり思っていた。でも、今日は違った。
「なんで?」
怒っていた。当然といえば当然なのだが、いつもと違う雰囲気を感じた。男っぽいいつもの初美じゃない。滅多に見せない、女っぽい初美だった。
「何で遅れたのかって、訊いてるんだけど」
「ええっと――」
「あ、ちょっと待って、メモるから」
初美はそう言うと、俺が買い与えたピンク色の手帳を開いて、右手にピンク色のペンを構えた。
まるで事件を捜査する刑事や探偵のようだ。
その姿勢だけで俺は追い詰められて、二人の現場に緊張が走る。
「で、何時に家を出たの?」
「九時半だが」
「今何時?」
「午後一時」
「約束の時間は何時?」
「十時でした」
「レンジの家からここまで、何分かかる?」
「一時間くらい……かな……」
「九時半に出て間に合う?」
「絶対ムリだな」
「ムリだなぁ……じゃないでしょ……しかも、ここまで遅くなるなんて、何で?」
「あ、電車が遅れて」
嘘を吐いた。
初美が待ち合わせ場所を変えたからだ、なんて言ったら、激怒されると思った。
それだけ初美のことを忘れてしまっていたことになると思ったからだ。
だから、責任逃れに初美のせいにするようなことだけは、言ってはいけないと思った。
「嘘だよね、それ」
見破られた。
「おれ、何度も電車が遅れてないか確認してたんだよ。事故に遭ってないかって、心配にもなったし……ねえレンジ。何で嘘吐いたの?」
「それは……」
「誰かと会ってたの?」
「いや、それはない、それは」
「じゃあ、何で?」
「寝坊したんだ」
「何時の電車に乗って、ここまで来たの?」
「えーっと……」
「何ですぐ答えられないの?」
「何時だったかな……」
「起きた本当の時間は? 家を出た本当の時間は?」
「ええと、十一時半に起きて、急いで十二時に家を出たよ」
嘘だった。つい、嘘が出た。これは初美のためでも何でもない。この期に及んで、少しでも罪を軽くしたがったのだ。
「どこにいたの、ねえ? 十一時四十五分にレンジの家にも電話かけたんだけど」
「ぐぬぬ……」
「レンジ、どうして? どうして嘘ばっかなの?」
「ええと……実は、待ち合わせの場所間違えてて! ごめん!」
「また嘘でしょ?」
「違う! これは本当だ!」
「最後に一つ、訊いて良い?」
「さ、最後?」
「今日、何の日か知ってるか?」
「日曜日だ」
「……おれの誕生日だ」
「あ……」
完全に忘れていた。
「もう、おれ、二度とレンジに会いたくない。サヨナラ」
初美はそう言うと、走り去ろうとした。
「待てよ!」
俺は初美の腕を掴む。逃がしたくなかった。だって、好きだった。
「ふっざけんな! 命令してんじゃねえ! 何が、『女は女らしく』だよ! 言ってるお前のどこが男らしいんだよ! おれはお前のこと好きだけど! おれを自分の思い通りにしようとするところ大嫌いだ! 放せよ!」
初美は、俺の手を振り解くと、俺が買い与えたピンク色の手帳をペンごと地面に叩きつけて、走り去っていった。
手帳は薄汚れ、ペンは壊れてしまった。
目の前が、闇に包まれた気がした。
★
以前もこんなことがあったような気がする。
というか、いっそ、こんなことばかりだ。どうして、一番好きなひとだけ、思い通りになってくれない。
俺は傲慢か。傲慢だろうな。
ああ、もう、何が、いけなかったんだ。
今までの人生全部かな。俺は生まれてから今まで、一秒だって、いいやつじゃなかったんだ。
夜闇の中、ライトに照らされた蠢く俺の影。
バッティングセンターの打席に立つ。
金属バットの快音を響かせる。
――女のくせに自分のこと、おれとか言ってんじゃねえ!
心の中で、叫びながら。
――俺のどこが男らしくないってんだよ!
強烈な打球が、奥のネットに突き刺さる。
――好きなのに! 好きなのに! 好きなのに!
何度も空振りをしながら、
「ちくしょう……」
バッターボックスに敷かれた黒いマットに、汗の雫を垂らしながら。
「初美ぃ!」
金属音。ジャストミート。
どこまでも、飛んでいけばいいと思った。
ネットを越えて、あの黄色い月まで、突き抜けてしまえと思った。
★
肩で息してうずくまった時、店員が来た。
「お客様。閉店ですが」
深夜になって、閉店時間。店員に声をかけられるまで、バットを振り続けていた。
何球打っただろうか。全財産を使い果たしたんじゃないかと思う。汗まみれになっていて、ネット越しに見つめた空には、ぼんやりとした都会の闇だけしかない。
月は、見えなくなっていた。
店を出て、外の自販機で買ったスポーツドリンクを手にとって、キャップを開けて傾けた時、握力がなくなって痺れた手からつるりと滑り落ち、地面にペチャンと落ちた。
トクトクと流れ出す液体を見つめて、激しい虚無感に襲われる。震える手を見ると、手の平にいつの間にかできていたマメが盛大につぶれて、赤く、赤くなっていた。
――痛えな。痛てえよ。
濡れた体に秋の風が異常に寒い。
さようなら、日曜日。時刻は間もなく深夜零時。さようなら、楽しかった日々。
俺は今日、ふられた。




