第24話 再会に関する話 ヒロ篇1
大学の、トイレの個室に響くのは、ヒロの指が奏でるケータイを叩く音だけだった。
ヒロは今、独りぼっちだ。トイレの個室に二人以上いたらあやしげなことこの上ないので、当然といえば当然のこと。
さて、一人で何をしているのかといえば、落ちてくるブロックを積んで消していく単純ゲームをしていた。いわゆる「落ちゲー」という種類のものだ。
ヒロは、この「便所ゲーム」歴はそこそこに長いから、最高難易度の落下スピードでも、エンドレスにプレイし続ける事ができる。ほぼ自慢する機会はないが、ちょっとした自慢だった。
チャイムが鳴った。
さあて、また何の役にも立ちそうにない講義とかいうやつがはじまろうとしているのか。まじ憂鬱。難しい漢字知ってるだろ? 曲がりなりにも文学部だからな。いや待てよ、今のご時世、憂鬱くらいは皆知ってるか。
検索エンジンが発達して、機械で何でも調べられるような時代だ。
じゃあ文学なんてものに価値ってあるのか、なんて考えてはいけないことが思い浮かんだりもするが、文学部を満喫もしていなければ極め切ってもいない自分が語れるテーマではないだろうとも思う。
ケータイをジーパンのポケットにしまうと、個室を出て、手を洗い、鏡で能面みたいな寂しそうな顔を見て、無理矢理に少し笑う。
ありえないくらい虚しい。
人の多い、やかましい廊下をしばらく歩き、開いていた扉から、だだっ広い教室へと入ると、一番後ろの席に座った。
ぼんやりと人々を眺める。視力は良い方だ。だから、黒板まで七十メートルくらいあっても教授の板書が見えないなんてことはない。それに、今日の講義もどうせプロジェクターで映し出される動画を見るだけで、黒板に文字が刻まれることはないだろう。
それよりも気になるのは、教室内に居る全ての人間の顔に、色がないことだ。
――しかしまあ、皆して能面みたいなツラしているように見えるのは、僕が少し病んでいるせいなのかな。
再びチャイムが鳴り、教授が入ってくると、すぐに講義が始まった。
退屈。面白くない。
あまりに退屈すぎて、だだっ広い教室にある蛍光灯の本数を数えてしまったよ。視認できるだけで百三十四本もあった。数え終えると、また暇になってしまったので、天井とか壁のしみを見つめ続けることにした。
なんだかカメの形に似た壁のシミが、妙にかわいくて、ずっと眺めていたら、いつの間にか周りの学生たちが立ち上がり、次々と教室を後にする。
どうやら講義が終了したらしい。
ヒロも立ち上がり、図書館へと向かう。次の講義まで数時間もの空き時間がある。
――ひまつぶしをするには図書館が最適だ。
学生や学校関係者以外を阻むゲートを通り抜け、館内に入る。階段を降りる。一人掛けの窓際デスクでに空席を見つけて、座った。
別に読書をしたいわけじゃない。一人になって、ボーっとしたいだけだ。眠るのも良い。この場所は地下だが、窓の外から明るい日差し。地下まで光が届くように天井が開かれていて、その周りには低い生垣があったりする。まあ、窓の外は晴れているらしいが、外の天気なんてどうでもいい。よほどの異常気象でもない限り、ヒロが驚くことはないだろう。たとえば、こんな暖かい六月の晴れた日に雪とかが降って来ない限りは。
――ああ、ほんとうに虚しい。
――夢でも見ようか。夢は楽しいから。
ヒロは、机に伏して、眠った――。
金縛り。周囲の風景はそのままなのに、自分だけが動けない。手足を動かそうとすると、苦しい。早く抜け出したい。抜け出さないと、どこか違う世界に持っていかれそうな気がする。
――起きないと、早く、起きないと。
「ううぁあ!」
唸りながら起きて、時計を確認すると、十五分しか経っていなかった。幸い、周囲に人はいなくて、誰に迷惑をかけることもなかったようだ。ヒロは溜息を吐く。
金縛りは本当に恐ろしい。睡眠に入る際に眠りが浅いと遭遇するのだという。ストレスが原因になることもあるというが、やっぱり自分ではストレスないと思ってても、体は正直なのかな。なんて、考えた時だった。
ぱらりと、窓の向こうを、緑の草が落ちていくのが見えた。
何だろう、と思い、少し上を見ると、草の吹雪が降り来るのが見えた。
どうやら、誰かが草を刈っているらしい。
しばらく眺めていると、ピンク色の花がいくつも降ってきた。まだピンク色をした生気ある花だ。
――元気な花まで刈り取るとは、人間ってのは悪い奴だ。
ツツジの花が、無残な姿になってコンクリートの上に落ちていく。
ヒロは、腹を立てて、図書館から早歩きで外に出た。背の低いツツジ生垣のある場所を目指した。
――べつにとっ捕まえようとか思うわけじゃない。ただ、犯人の顔を確かめてやりたいだけだ。
そこに居たのは、女性だった。年齢は、ヒロと同じくらいに見える。
ねずみ色の作業着に、帽子をかぶって、鎌を振り回していた。
どう見ても草を刈っているようにしか見えないが、あえて訊く。怒ったような口調で。
「何してるんですか?」
と。すると彼女は、
「え? おれ?」
と言って振り返る。
女の子なのに、「おれ」と自称した。そういう人が最近増えたのだろうか。
――小学校時代、僕が引っ越す前に住んでいた時にも、そんな子が居たっけ。
たしか、名前は……
「ヒロ?」
――ちがう、それは僕の名前だ。
――ん、ちょっとまってくれ、今、この子は僕の名を呼んだということか?
「おまえ、ヒロだよな? ほら、おれだよ、おれ」
女の子は、鎌を持っていない方の手で自分を指差しながら言った。
「まさか、初美くん……あ、いや、初美……さん、か?」
そんなことって、あるのか?
「そう、初美だよ。久しぶりだな! こんな所で会えるなんてすげー!」
「ああ、僕も今、ちょっとした運命的なものを感じているところだ」
彼女の名は初美。十年以上も前、ヒロが東京に引っ越して来る前、遠い街に住んでいた時の友達。
というか、好きだった女の子。初恋の女の子である。
活発で、ひとりぼっちなヒロに話しかけてきてくれて、日々を楽しくしてくれて、大好きだった。だから、ヒロの父親の急な転勤で夏休み中の引越しが決まった時には、ひどくガッカリしたものだ。
結局、気持ちを伝える事も、挨拶すら出来ずじまいだった。
「ヒロ、もしかして、この大学に通ってんのか?」
「ああ」
「まじか。おれもここの学生だぜ」
「そうなのか! 学部は?」
「経営だ」
「僕は文学部」
「おー、文学かぁ。なんか、お前っぽいな!」
「そう、かな……」
「あ、おれ今さ、草刈りのバイト中なんだよ。だから、えっと……」
初美は、作業着の胸ポケットからボールペンと、紙を一枚取り出して、サラサラと書き込み、ヒロに手渡した。
「後で連絡くれ」
紙には、電話番号が書かれていた。
「わかった」
「じゃあ、また後でね!」
走り去る彼女の手には、草刈鎌。妙によく似合っていた。
――なあ初美、お前の手にあるその鎌で、僕の孤独とかいうやつも、ツツジみたいに刈り取ってくれ。
――なんちゃって。
★
その日の全ての授業が終了してから、すぐ外に出て、ヒロは初美に電話を掛けた。
三回ほどのコール音の後、通話。
《もしもし……もしや、ヒロか》
「ああ、あのさ、初美」
最初に訊くことは、決めてあった。
「彼氏、いるのか?」
《いるよ。付き合い始めたばかりなんだ》
即答された。何となく寂しい。
ああ、でも、何だろう、独りぼっちでは、なくなった気がした。
「こ、今度、紹介してくれよ、お前の彼氏ってのがどんなのか、見てみたい」
《それは、なんかやだ》
「いいじゃねえかよ、見せてくれよ」
《やだって言ってんだろ。あ、ねえ、ところで、もしかしてヒロ、まだ学校内に居る?》
「いるよ。今ちょうど五限が終わって、これから帰るところ」
《今さ、友達と居るんだけど、お前も来る? 人数多い方が楽しいからさ》
即答はできなかった。でも、
「……行くよ、どこ?」
《五号館わかる? そこの三階にいるから》
「わかった、向かうよ」
《おう、待ってる》
そして電話は切れた。
――やっぱり、初美はあの頃のように、僕を引き上げてくれる。
さて、初美のところに行く前に、少しトイレに寄っていこう。能面みたいな、しみったれた顔で行くわけにはいかないから。
ヒロは、いつもとは反対に、夕焼けに背を向けて歩き出した。




