第23話 将来の夢 エーイチ篇
エーイチは何度も目を閉じたり開いたりを繰り返し、メガネを外して目をこすった。
今日は、どうにも目の調子が悪い。
愛用のノートパソコンの画面をずっと眺めていたからだろう。たまに視界がぼやける。
大きく天井に向かって手を伸ばすストレッチ。
パソコンを閉じ、再びメガネをかけた。
ボロい四畳半の部屋。風呂なし。坂の途中にあることも手伝って、リアルに少し傾いている。
本当は分厚い本とかも必要な分だけ近くに置いておきたいのだが、そんなことをしたら追い出される可能性が限りなく高い。だから必要なデータや資料を全てパソコンに入れてあるのだ。
持ち運び可能な大書庫みたいなものがいつの間にか生まれていたわけで、この機械文明を称賛せざるをえない、とエーイチは思っていた。
トイレは一階に一つ、二階に一つの共同だったが、二階に住んでいるのはエーイチひとりなので、実質トイレつきみたいなものだ。
その便利さと引きかえに、二階のトイレ掃除を未来永劫、住んでいる限り担当することとなった。
他の十人に掃除の担当区分などはなく、なんだか差別を受けている気分になるが、家賃が安い割に立地の良いこの部屋を手放したくはないから、エーイチは文句を放つ口を持っていないことにしている。
バイトして、勉強して、たまに旅行なんかをして、十分に充実した生活だとエーイチは思う。
何か足りないことがあるとしても、浮わついたことに積極的になるのは自分の人生を固めてからだと自分に言い聞かせていた。
では、自然の摂理に反するかのように、青春謳歌を控えてまでエーイチが叶えたい野望は何か。それは、いつの日か弁護士や行政書士といった、士のつく職業に就いて、社会に多大な貢献をしながら、金持ちになろうというのだ。
つまり彼に漠然とした夢があるとするならば、立身出世、社会貢献、尊敬される立派な人間になり、幸せを掴むことである。
きっと、彼が親友と呼ぶレンジがこのことを聞いたら、「くだらねえ」とか「そんなの夢じゃねえ」とか、「嘘くせえ」とか「それでいいのか楽しいのか」だとか「今を楽しもうぜぇ」といった言葉で、自堕落に遊びまくる生き方に誘ってくるのだろう。
「夢ならあるさ」
自問自答の果てに、ひとりごとを吐き捨てた自分に気付いて、すこし落ち込む。
――たしかに、レンジが見るようなバカみたいに大きな「夢」なんて見れる気すらしないさ。だけどな、人生に必要なのは、堅実で現実的な目標だ。
――アリとキリギリスで言ったら、オレはアリだから冬を越せて、あいつはキリギリスだから野垂れ死ぬだろうよ。
――まかり間違って、ちゃらんぽらんが服着たようなレンジが、このまま常夏の人生を突っ走り続けて、すべてうまくいってしまったとしよう。もしそうなった場合、横に立っても見劣りしない立場でなくてはならない。
――また、いざ大切なキリギリスが困ったとき、立派なアリとして、引っ張り上げてやるくらいのポジションを取っておきたいという狙いもある。
――世の中は金や肩書きじゃないという耳障りの良い言葉はしばしば聞くが、金や肩書きよりも大切なものは、そう多くはない。すくなくとも、金や立場があれば、大切な人を守ったり助けたりできるものだろう。
――でもな、レンジのやつは強運を持ってそうだからな。オレが出る幕も無いか。
――とにかく、長く続いていくであろう人生というレースで、たとえ今は苦しくても、最後に皆で笑えるように、今は勉強こそが最優先なんだよ。わかるだろ、エーイチよ。
いずれにしても、エーイチは、まだ大学に入学したばかり。あと数年は貧乏生活が続きそうだった。
今日の夕食は、だしをとってない、ジャガイモの味噌汁。
――まったく、ここは戦時中なのか? 生きることは戦いだというのは、二つ返事で納得するが、ごくごく平和な法治国家なんだぞ。つまり焼肉くいてえ。
それでも、エーイチは無理やりにでも、ひとり前向きな言葉を放つ。
「計り知れないほどの、伸びしろがあるなあ」
エーイチには、全くと言っていいほど料理のセンスがなかった。
本当は心の底から、ただただクソマズイと思っていた。
当り前のことだが、決してジャガイモを作った人や、味噌を作った人のせいじゃない。ましてや、イモを大量にくれたバイト先の女友達のせいでもない。
汁を飲む。メガネが曇った。それがなんだか切なくて、溜息が出た。
おいしい料理を作ってくれる恋人が欲しい、などと思うこともある。
心惹かれる人が居ないと言えば嘘になる。
自分にイモをくれた女友達の顔が折に触れて思い浮かんで仕方ないが、今はそんな煩悩に鷲掴みされている余裕は無いのだ。
「まあしかし、円滑な職場の人間関係を築くために、連絡先くらいは、彼女に知っておいてもらっても、いいかもしれんな」
エーイチは粗末な食事をとりながら、自問自答を繰り返す。
「――いや、どうだろうな。勉強がな」
「とはいえ、人間関係がうまくいかなければ、結果的に勉強どころではなくなってしまうだろう? だったら、彼女と少しくらい仲良くなっておかないと、かえってマイナスなんじゃあないのか?」
「――まてまて、仮に彼女と友達として仲良くなったとして、この部屋に彼女を呼べるか? リアルに傾いているし、風呂はないし、台所は狭い。トイレだって綺麗になり切れないんだぞ」
「仮に、あの子がこの汚らしい建物を許容するとしたら、むしろそれをオレは許せるのだろうか。悩ましいところだな」
妄想がはかどる。
食べ終わって、溜息を吐いた。すこしの間、何も考えずに天井を見上げ、吊るされた和風の照明を見つめていた。
「がんばれ、エーイチ。負けるな、エーイチ」
吐息まじりに自分の名を呟いて、応援してみる。
――まずは、バストイレ付きの部屋を手に入れるのが、今のオレの夢……いや、違うな。目標だ。
「夢なんぞ見ている場合か」




