第2話 存在する悪意 健一篇
――疲れ切った身心を癒してくれるのは、錯覚だ。友と酒を酌み交わして気持ちをごまかし、ストレスが解消されたと脳みそに錯覚してもらうことこそ、今の自分に必要とされていることではないだろうか。
暑さをおぼえ、ワイシャツのボタンを上から二つまではずした健一は、薄暗く黄色がかった照明の下で、そんなことを考えていた。
この男が酒を飲んでいい気分になった時に口にする言葉の中に、
「情報は武器だからな」
というものがある。しかしその後には決まってこう言うのだ。
「ちがうな。武器というよりも防具って言ったほうがいいかな」
すぐに自分の言葉に確信を持てなくなってしまうのだった。
いずれにしても、彼の職業を考えると、情報が無いと生き残っていけないのだろう。
「お前って、結局どこに行ったんだっけ、就職先」
「探偵社だよ。だから俺は探偵様ってわけだ。どうだいカッコイイだろ。けどな、探偵っていうと、難事件を華麗に解決しまくるってなイメージがあるわけだろうがな、今現在、偉そうに語ってる俺が実際やっていることといえば、事件とは関係の薄い雑用が主だったりするんだなこれが」
すでにかなり酔っ払っているようだ。酒がくれた勢いに乗じて、友人に不満をぶちまけ続けていた。
「初年度にはよくあること? いいや違うな。三年目なんだこれが。でも最年少だからな。下っ端には、よほどのことがない限り事件がまわってくることなんて無いぜ。しかも、女もほとんど居ないから、追い掛け回す尻もない。つまり、上司のためのコーヒーをありえない位に濃くしたりするのが俺の主な仕事さ」
「それ怒られないのか?」
「ところがどうだ、あろうことか、それを上司は、『ふぅむ。贅沢な味だ』とか言って喜んでてね、なんだろうね、喜んでくれているのなら何よりだよ」
友人は、その陰の悪行が出世できない原因なのではないか、という真っ当な意見をぐっと飲み込み、聞き役に徹してくれていた。
そのようにして、日ごろの鬱憤やら何やらをぶつけながら、酒を飲んでいるうちに、飲み過ぎて気を失ってしまった。
そして目覚めた時には、一人暮らしの六畳の和室。着ていたスーツなども脱いでパンツ一枚で寝ていた。自分の酒くささに驚いて、はっと起き上がった。すぐに起きれば、まだ探偵社には遅刻をせずに済む時間だった。
テーブルの上にお湯を捨てる前の伸びきったカップやきそばがあるのは、帰りの途中のコンビニで買ってきて、湯きりする前にベッドに沈んだからである。
頭痛がするようで、頭にとりついた悪魔を払おうとでもするかのように、まだ豊かな頭髪をかきむしる。
それでも、どんなことがあっても、朝には新聞を読むことにしていた。紙の新聞には、ニュースだけではない様々な情報が載っている。紙の新聞が家に届かない日は、テレビやラジオのニュースでもいい。体調によっては、読むことと聴くことを同時にこなす日もある。とにかく情報収集から彼の一日が始まるのだ。たとえ二日酔いで頭がガンガンに痛くてもだ。
ドアの郵便受けに挟まっていた新聞をとってきて、ひとしきり情報の吟味を終えた彼は、ふにゃふにゃになったやきそばにスパイスにこだわった自家製ソースをかけて食し、支度をして外に出た。
四月の青空に異様な眩しさを覚えながら、彼は、今日もいつもと同じように、日がな一日、雑用をするのだろうと思って出勤した。
しかしその日は、いつもと違う一日になった。
★
「おはようございます」
健一が挨拶をしても、誰も声を返さなかった。
今にも崩れそうな、廃墟のような六階建ての建物に、彼の勤める探偵社があった。四階から上の三フロアをこの探偵社が占めており、上階にいくほど扱う物事の重要度と空気中のタバコ成分濃度が高くなっていく。彼は社で最も若かったが、最上階に配属されていた。エレベーターも設置されていないので、毎日階段を駆け上がる日々が続いている。
息を切らしながらの挨拶は、薄汚れた天井に虚しく吸い込まれていった。
様子を見るに、どうやら作戦会議中のようだ。十人ほどが課長のデスクに集まって話を聴いていた。
――なんだこれは、イジメだろうか。会議の予定なんて聞いていないぞ。男ばかりの職場で、ときめく出会いなんてものもありはしない上に、こんな大人の世界にあるまじき陰湿なことをされたのでは、いますぐ休職願でも叩きつけたい気分でいっぱいだ。
ぼうっと突っ立っていた彼であったが、ふと人垣の向こうの課長と目が合った。
いつもよりも威厳と緊張感に満ちた表情だったので、背筋を伸ばした返事をしながら人垣の一部になった。
「健一くん、君も話を聞いておきなさい」
課長が彼の名前を口にした。それで社員たちは一斉に彼に視線を送ったが、すぐにそれぞれ、自分の持つ手帳に目を落とした。
「はぁ……」
気の抜けた返事しか出なかった。怒られるわけでもなく、何がなんだかわからなかった。
課長は、自らの寂しい頭をひとなでして、こう言った。
「標的は、現在隣町。進路はコントロールできている。あとは結界を保ち続け、高台の神社まで誘導するだけだ」
よくわからん、と彼は思った。人の群れの中にいて、ひどい孤立感に襲われた。初めて仲間に入れてもらったというのに、自分だけが疎外されているような気がした。心細かった。
「既に袋のネズミってわけですね」
課長の話を聞いていた社員の一人が言うと、
「そうだ。しかし、破けた袋では困る。しっかりと道を作り、ネズミを檻に放り込む。それを百パーセント確実に成功させるのが、私たちの今回の仕事だ」
課長はそう言うが、やはり何のことだかさっぱりわからない。標的のネズミとは一体、何を指すのだろう。
よくわからないうちに「各自持ち場につけ!」という号令が響き、皆が思い思いの良い返事をして、次々と部屋を出ていった。革靴が階段を踏む音が、だんだんと小さくなっていく。
残されたのは、彼と課長の二人だけであった。
「あ、あの……俺は、その、どうすれば……」
戸惑う彼に向かって、課長は真剣な顔でこう言った。
「そうだな……健一くんも、そろそろ一度見ておくべきかもしれないね」
「え? 何をですか?」
「とりあえずコーヒー」
「あ、はい」
★
課長は濃厚ブラックコーヒーを一杯だけゆっくり味わった後、「付いてきなさい」と言って、歩き出した。
到着したのは、高台にある神社だった。
この小さな街の、小さな神社。
長い坂の上にあって隣は公園である。
「あの……ここに何があるんです」
小さな朱塗りの鳥居をくぐりながら彼が訊くと、
「さっきの話を聞いていなかったのか? 間もなくここに標的が来る。標的をこの場所に連れてくるまでが、私たちの仕事なんだよ」
「標的っていうのは……?」
「悪霊さ」
「あく……りょう……?」
健一は、思わず顔をしかめて首を傾げた。
およそ大人の仕事中に放つ言葉とは思えない言葉が飛び出してきた。二日酔いが高じて悪夢でも見ている気分になりながら、燈篭の下からぼんやりと本殿方面を眺めていた。
「見ておけ。来たぞ」
本殿の前は、そこそこの開けている場所があった。
そこに居たのは、一人の女の人。白い服に、赤い袴。巫女さんの格好だった。あまり若くはない。
不意に、突風が襲った。風は彼を通り過ぎて、中年の女へと向かっていく。
女の人は目を閉じ、背筋を伸ばして、何かを待っていた。
風が女の人の前髪を揺らしたその刹那、何も武器など手にしていなかったはずの彼女は、どこからか銀色に光る日本刀を抜き、
「やぁ!」
抜刀一閃。
すると、今度は先刻よりも生ぬるい突風が彼を襲った。
同時に、何か嫌なものを感じた。
正体はよくわからない。でもそれは確実に嫌なもの、おそろしいものだった。
死というものに対する漠然とした恐怖。それに近い何かを強烈に感じる。
「う……」
風がやんだ時、更におそろしい何かを感じた。
視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚。五感全て。
ついでに第六感もプラスして、その全てが負の感情に飲み込まれ、吐き気がする。
これは、声だ。
まるで、全てを呪い、憎むような……。
怨嗟の声。
こわい。こわかった。震えていた。
錯覚ではないだろう。
二日酔いだからでもないだろう。
「――実体はない。しかし確かに存在する。この世の全てに心があり、良いものもあれば、悪いものもある。そのどうしようもなくなった悪いやつらが、私たちの敵だよ」
課長がそう言ったとき、健一は咳き込んだ。今にも嘔吐しそうな嫌な気分になり、
「やめようかな、この仕事……」
呟いた彼の背中を、課長は優しく二度ほど叩いた。