第1話 悪夢のなかで渦巻く願い
全てのモノに魂が宿るのだという。
これは、古来より広く人類に伝わる教えだった。
――身の回りにあるもの全てが、声をもたないだけで心を持っているのだとしたら。
そう考えるのは頭のおかしなことだろうか。
おかしいと言い放つ人もいるだろう。
しかし、事実、この世界では、万物が意味を持って生まれ、心を持っている。
積み上げられた本にも、いつもの場所にある机にも、打ち捨てられたペットボトルにも、暗い部屋で光る携帯電話にも、優しい旋律を奏でる小さな機械の箱にも、意志や願いや心があるのだ。
けれども、その心が、常に良いものであり続けるかと言われれば、そうとは言い切れない。
悲劇は、小さな箱から始まった。
箱が閉じられたその時に、心地よかった鼓動は止まり、小さな世界が反転した。
世界の一部が色を失った。
あとは、じわりじわりと、砂場に毒水が染み込むように、柔らかく温かかった彼女の本当の心も、闇に溶けて消え去ってしまった。
そうして抜け殻となり、悪意の器に成り下がった彼女は、裏切り者を悪夢に堕とし、狂気の笑いを繰り返す――。
★
俺は一人、悪夢の中。
ずっと、みんなが近くにいることが、当たり前のように思えていた。
けれど、いつの間にかその背中たちは闇に融けていって、見失ってしまった。
真っ赤な薔薇のトンネルを抜けたその先で、微笑む少女の手招く白い手が見えている。
鮮やかな赤い服を着て、けたたましく笑っている。
おそろしい。いや、おそろしかった。
いつしか負の感情は薄れに薄れ、もはや恐怖は無くなっていた。
俺はもう、少女と一緒に旅立とう。
はじめは、みんなのところに戻りたかった。
でも、このまま薔薇の少女に連れて行かれるのも、ひとりで消えるより幸せだ。
消え去れば、俺は「レンジ」という気に入ってる自分の名前も失い、「無」とかいうやつになるのかもしれない。ひょっとしたらもっとヒドイ存在になってしまう可能性もある。だけど、それも仕方ない。
だってさ、最初に彼女を裏切ったのは……俺なのだから。
冷たい手に引かれ、意識が遠のいていく感覚。
世界が形を失って、音もたてずに壊れ始めた。ひび割れる地面、崩れていく建物。次々に視界を通り過ぎる瓦礫たちも、すぐさま砂になって消えていく。
ふと、崩れゆく景色のなかで、いくつもの光の帯が、あちこちに暴れながら駆け巡っていることに気付いた。
まるで、俺に手を差し伸べるかのように。
――いつも私に変われと言ってたでしょう。おかげで私は変われたよ。だから今度は私から言うよ。こんなところに、いつまでも一人でいないでよ。私たちの手を掴みなさいよ。
――オレが今、できることといえば、もはや「願う」ことだけだ。オレたちの前でもう一度笑わなかったら、絶対に許さないからな。
――初めて声をかけてくれた日のことを、憶えているだろうか。あの日、忘れ物を取りに行った日。みんなで教室で、焼き肉なんかやってたよね。ホットプレートなんか持ち込んでさ。あったかい、陽だまりみたいな日常が、そこから始まったんだ。もう一回、やろうよ。無茶すぎる夢を、もう一度話してみせてよ。
――きみが好きだよ。ずいぶん昔にそう言ったことを、ぼろぼろなあなたの姿を見て思い出した。気にかけてほしくて言った言葉だったけど、すぐに引っ越してしまって、返事は聞けずじまいだった。付き合うとか付き合わないとか、今となってはどうでもいいけれど、もう一度、「きみが好きだよ」って言ってみたい。どんな反応するか、興味があるから。
――ちょっとくらい、お前の思い通りになってやってもいいからさ、ちょっとくらい、起きてほしい。また寝坊して遅れたら、今の大事な人が怒るだろう?
――あの頃、喜びも、悲しみも、楽しさも、大げんかも、いつも一緒だったじゃない。また会える日をずっと待っていたのに、こんな再会で終わらせないでよ。
光たちは優しく包み込むようで、それでいて力強く引っ張り上げるようでもあった。
そして光は、俺にもう一度選ばせてくれた。
このまま何もなくなるか、それとも「音」を取り戻すのか――。