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夏のホラー参加作品

ラジオ体操

作者: 榎木ユウ

なろう様、公式夏の企画にひさしぶりに参加しました。宜しくお願いします。関西弁未履修なので本家の方、不具合ありましたら誤字報告などでご指摘いただけますと、大変助かります。

「大気、今日から夏休みやろ! ラジオ体操いっといで!」

 朝も早い時間から、母親のキンキンした甲高い声で大気は目を覚ました。

「はあ、ラジオ体操?」

 ふあっとあくびをしながら、自分の部屋を出て階段を降りていく。

 リビングについて時計を確認すると、まだ朝の六時十五分だった。

「うそん……学校行くよりはやいやん……」

 母親に何か文句を言おうと思ったが、父の弁当作りで台所に立つ母は、いつも通り殺気立っている。七時には家を出る父のために毎朝せっせと母は弁当作りをしなければならないからだ。

 大気はもう一度あくびをしてから確認する。

「ラジオ体操て?」

「今年はコロナも落ち着いたから、子ども会でほな頑張りましょかーってやることにしたらしいわ」

「ええー、去年もやってなかったのにええやん」

「やかましいわ。いいからさっさといってきぃ!」

 ラジオ体操のカードを突きつけられて、大気は渋々玄関から外に出た。

 大気の家は学校から五分というとても近い場所だ。来年は中学生になってしまうので、この学校に近い好条件も覆されてしまうが、それでも他の友達に比べると中学校も近いので助かっている。

「あー、ねみぃ……」

 昨日は寝ると言いながら、こっそり部屋でオンラインゲームを友達としていたので、実は五時間位しか寝ていない。そんなことが母親にバレたらめちゃくちゃ激怒されて、ゲーム機を没収されてしまうことだろう。

「なんなん、ラジオ体操て……」

 今時、古くさくてナンセンスだと思いながら、海までの道を学校の横を通り過ぎて歩いて行く。

 学校は近いのだが、ラジオ体操の場所は確か学校の先の海にある海水浴場の市営駐車場だったはずだ。

 なんて迷惑なんだと大気は思う。

 ミンミンミンと無駄にセミが朝からうるさい。

 少ししか歩いていないのに、じんわりと汗がにじんでくる程度には、朝だというのに暑い。きっと今年の夏も暑くなるのだろう。

「おー、大気、はよー!」

「はよ」

「なんや、眠そうやな」

「お前は朝から元気やね」

 同じ子ども会だという友達と挨拶を交わす。

 駐車場にはこんなに早い時間だというのに、何人か子供たちが集まっていた。

「みんなおはようねー!」

 今日の当番らしい誰かのお母さんがそう声を掛けてきたが、大気は知らない顔だった。きっと下の学年の母親だろう。

 ラジオ体操は六時半かららしい。

 ちょっと大きめの安そうなラジオをおばさんはセットすると、駐車場の端にそれを置いた。

 目の前には海が広がっている。

 今日も嫌になるくらい真っ青で気持ちが良い。

「六年生は、海に背を向けて見本やってくださいねー」

「ええー」

 子ども会の六年生は四人だ。みんな嫌そうな顔をしたし、大気も嫌そうな顔をしたが、おばさんにはそれは通じなかった。

 どうして世のおばさんというのは人の話をきかないのだとしみじみ大気は思う。

「ほらほら、もうすぐはじまるよー!」

 無駄に声のでかいおばさんに促されて、大気たちは渋々前に出た。

『皆さんおはようございます』

 今日も元気ラジオ体操をしましょうなんて、声が聞こえてくる。いつも同じような気がするが、ぶっ通しで第一と第二ラジオ体操が続くのは変わらない。

 深呼吸して、足を曲げて、ジャンプして。

 学校でも体育のときはしていることなので、惰性でダラダラと大気はラジオ体操をする。

 手を地面に三回つけて、四回目に天を仰ぐ体操の時だった。

 まだ身体の柔らかい大気は、手をついたとき、股の間から海を観た。

(おや……?)

 海の波間に、何かが見えた。

 1、2、3。

 黒い何かはわかめだろうか。

 頭をあげて、今度は上体をそらして首を後ろに向ける。

 かなり反った状態でもう一度海の方を見たが、波間には何も見えなかった。

 朝の海はそれほど波も荒くはなかったので、きっとわかめか何かなのだろうと思い、大気はその日の体操を終わらせた。



「大気~、朝よ~!」

 ラジオ体操は平日の五日間。土日は休みでお盆前までが今年のスケジュールらしい。

「もう寝ていたい」

 二日目も大気はそう言ったが、母親は許さない。

 帰ってきたら、朝ご飯を食べてその後は宿題を済ませろと容赦ない。

「もうええやん。僕、頑張ってるわ」

「夏休み二日目で何の頑張りや! 早、行ってきぃ!」

 今日も今日で母親に怒鳴られて、大気は渋々海へと向かう。

 今日もジリジリと日差しは暑い。昨日は午後から友達とプールに行ったので、今日もプールに行こうと思いながら、いつもの駐車場へと大気は向かった。

「大気、今日も眠そうやな」

「もう二日も頑張ったらええんとちゃう?」

 本当にそう思ったのでそう言ったが、今日は今日で別のお母さんがラジオを持ってやってくる。

 今日のおばさんは昨日の声がでかいおばさんと違って朝が弱そうで、何を言っているのか全く聞こえなかった。いつも通りにラジオを置いてチャンネルを合わせる。

 ザザザ……ザザザ……

 昨日は入らなかったノイズが入る。おばさんは少しだけ顔をしかめてから、ぐりぐりとスイッチで調整すると、昨日と同じラジオ体操が聞こえてきた。

 今日もまた、朝から無駄に爽やかな声でラジオ体操をしましょうと言われて、ラジオ体操が始まる。

 大気たちはまた前に立つ。

 すると大気の前の子が、なんだか泣きそうな顔でこちらを見ている。今年一年生になったばかりの子だった。

「どしたん?」

 同じ通学班だということもあって大気がそう尋ねると、女の子は半べそをかきながら、

「なんか海におる」

と小さく言った。

「え」

 大気は海を振り返る。相変わらずとても真っ青で綺麗な海だ。波の白と空の青以外の色がない。

「魚かなんかとちゃうか?」

「うん……」

 女の子は静かに肯いた。

 大気はなんだかすっきりとしない気持ちで体操を始めた。

 今日も相変わらず軽快な音が聞こえて、手を右に左に回して腰をひねる。

 手の先を見つめるついでに海を見て。

(あれ?)

 視界の端に、ポツンと黒い何かが見えた。腕を戻してもう一回、そちらの方を見れば、海の間に黒い何か。

(なんやろ)

 気になって、左に今度は手を振り上げるとき、今度はもっと大きく腰を反らして海を見たが、黒い何かは見えなくなっていた。

「なあ、すーちゃん」

「何?」

 終わった後、隣で体操をしていた須藤に声を掛ける。

「海、なんか浮いてた?」

「は?」

 須藤が海を振り返ったが、海はどこまでも広く、波の音しか聞こえない。

 一瞬見えた黒い何かはもう見えなくなっていた。

「なんにもないよ」

と須藤が言うので、「そやな」と大気も納得するしかなかった。


**


「大気~、朝よ!」

 それから毎日、母親の声で起こされた。

「もう寝ていたい」

「今日行ったら、明日と明後日はないから、頑張りぃ!」

 バシンと背中を叩かれて、さすりながら大気はラジオ体操へと向かった。

「大気くん、おはよう」

 今日は同じ通学班の女の子のお母さんが当番の日だった。一年生のお母さんのせいか、この女の子のお母さんは大気の母親よりずっと若くて綺麗だ。声も馬鹿でかくないので、大気は嫌いではなかった。

「おはようございます」

「大気くん、ちょっとええ?」

 女の子のお母さんが大気に呼びかける。

「何ですか?」

「まなみがね、海に何か浮いているっていうんだけど、大気くん、見た?」

「海ですか?」

 大気は海を振り返り確認する。

 相変わらず嫌みなくらい晴れ渡って綺麗な海だ。海風が気持ちいいくらいで、浮いているものは何もない。

「たしか終業式の前の週に海岸清掃したはずなんやけど」

「そうよねぇ。今見ても何もないんだけどねぇ」

 まなみの母親はそう言うと、言葉を濁してそのままラジオをつけにいく。

 しかし、その瞬間、

『キイイイイイイ――!!』

 ラジオから大音量で甲高い金属音が聞こえた。

「うおっ!」

 大気も須藤も思わず肩をすくめるような大音量だった。

「ご、ごめんなさいね!」

 まなみの母親は慌ててラジオを触ろうとして、

「あら……」

と動作を止めてしまう。

「どうしました?」

 大気が声をかけると、まなみの母親は「ううん、なんでもないよ」と言いながらラジオの電源を入れた。

 それでラジオが着いていなかったのだと大気は気づいたので、きっとまなみの母親もそのことに気づいては居たのだろう。

「ちょっと調子が悪いのかもね」

 そう言いながら、まなみの母親はラジオを置くと、今日は何の調整もせずにラジオ体操のイントロが流れてきた。

 まなみは大気の前でずっと下を向いたまま、体操をしていた。


***


「大気、朝よ~!」

 休み明け、母親がまた同じ言葉で大気を起こした。

 もうそういう声しか出せない目覚ましではないだろうかと大気は思ったが、それは絶対に口にしない。

「今日はお母さんも当番やから一緒に行くわ」

「うえー」

「嫌そうな顔しない!」

 ゴンッと容赦なく頭を叩かれて、そのまま二人でラジオ体操へと向かう。母親とはなるべく距離をとって歩いた。

「おはよう、大気」

「おはよう、すーちゃん」

 須藤に挨拶をして海の方を見て、思わず大気は顔をしかめた。

 いままでなかった物が、海の海水浴場の入り口に置いてあったからだ。

 花だ。しかも仏花。

 そんなもの土日前には置いてなかったのに、ひっそりと駐車場の端に置かれていて、夏休みの朝に随分と相応しくなかった。

「なんや、あれ」

 思わずそう言うと、須藤も分かっていたらしく

「なんかいややね」

と言った。

「お母さん、あれ何」

 大気が母親に尋ねると、「ああ」と母親はなんとも言えない微妙な顔をした。

「県外から土曜に遊びに来た海水浴客の子が、溺れて亡くなったらしいんよ。ああいうの置かれたら商売あがったりやけど、まあ、仕方ないやね。あんたたちも海で泳ぐときは気つけてな!」

「ああ、うん」

 そんなことが一昨日にあったのかと思ったが、まあ、海の事故は例年多いことも確かで、特にこの海水浴場は、ブイはあるが直接外海と真っ直ぐ繋がっているので、どこまでもいけてしまいそうな怖さはあった。

「あ、ブイか」

 そういえば先週見かけた黒いものの正体に、今頃大気は気づいた。

 普段は海開きをしていないのでなかったが、海水浴場になっている間はブイで仕切られる。この前はそれを見間違えたのだと思う。

「ブイがとうしたん?」

「ん、なんでもない」

 須藤に問われたが、見間違いを恥ずかしく思って大気は黙った。

 そのまま母親がラジオをセットすると、今日は変わらずに軽快な音楽が流れ出した。

 いつもと同じようにラジオ体操が始まる。軽快な音楽はずっと流れているはずだった。

 だが――


 ぶつり。


 突然、何の前触れもなく音が切れた。


「あら、どうしたんやろ」

 母が慌ててラジオの元へいき、ラジオに触れるがうんともすんとも言わない。

「あー、ごめん。ちょっと口で言って第一だけやっといて!」

 母にそう頼まれて、大気は嫌そうな顔をしたが、渋々それに従った。

「1、2、3、4。5,6,7、8」

 屈伸して、深呼吸して、全部終わらせて

「おしまい!」

と大気が言っても、ラジオは直らなかったらしい。

「お母さん、終わったで~」

 そう言って母親を振り向いた瞬間、ゾクリとした。

 母親の隣に、真っ黒な何かが立っていたからだ。

「お母さん!」

 思わず叫ぶと、全員が大気の母親に目を向けた。

 その瞬間に、いきなりラジオが大音量で鳴り出す。

『ひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ』

 聞いたこともない低い、男の声。

 ゾクゾクゾクと、一気に寒気が身体を走り抜けた。

 ラジオに目を向けていた一瞬で、母親の側に立っていた黒い何かは消えていた。

「うひゃあ!」

 母親が間抜けな声を上げた。

「なんやこれ!」

 母親が声を上げると、ラジオは

『また明日ー!』

とラジオ体操の終わりを、のんきに告げるいつもの音に変わっていた。

「いややわ、ごめんね、変なとこいじってしもたわ」

 母がそう言ったが、大気は得体の知れない何かを見た気がしてならない。

(見間違いか?)

 一瞬だったのでそうかも知れない。

「なあ、すーちゃん。今の見たか?」

 須藤に問いかけると、須藤は何だか嫌そうな顔をしていた。

「どうした?」

「お前のかーちゃん、スカートの中、みえてんで」

「お母さん、最悪や!!」

 全部吹っ飛んで、慌てて大気は母親の元へと駆け寄った。


****


「大気~、朝よ~!」

 母親の声がする。なんだか行きたくないなと思いながら大気は目を覚ました。

 母親のパンツを友人に見られると言う最低最悪な出来事の翌日だ。須藤には平謝りしたし、須藤も「まあ、別に見てええもんでもないしな……」となんとも言えない微妙な顔をされたので、大気はその前に起きた変なことはすっかり忘れていた。

「あ、なんや今日雨やん」

「それが今はやんでるんよ。当番さん、きてるかもしれへんから行ってきぃ」

「えーー」

 嫌だとは思ったが、渋々大気は海水浴場へと向かった。

 やはり雨だと思ったのか、いつもの三分の一、五人ほどしかそこにはいなかった。今日は須藤もきていない。

「おはようございます。雨降ってきたらやめましょうね」

 当番の誰かのお母さんも、本当は帰りたかったろうに、少ないながらも大気たちが来てしまったからやらざるを得なかったのだろう。

 ラジオをセットする。

 するとラジオからは、

『…………』

 なんだか随分小さい人の声が聞こえた。

「あら、どうしたのかしら」

 おばさんはラジオに耳をつける。だがやがて、気持ちの悪いものでもきいたかのように顔をしかめた。

「どうしたん、おばさん」

「ん? ち、ちょっと待ってね」

 おばさんは焦ったように一度電源を落とすと、また電源をつけた。

 今度は普通のラジオ体操の前振りが聞こえてきた。

「なんかラジオの調子がよくなくて」

「何が聞こえたん?」

 大気が尋ねるとおばさんは口ごもる。

「お母さんに言うとくから教えて」

 大気の母親は子ども会の役員だ。会長ではないがラジオの調子がおかしいと言えば対応はできるはずだった。

 おばさんはなんとも言えない顔で大気に言った。

「お経がね、きこえたんよ……」


*****


「あら、そうですか。なんやろ、今年の海はなんかおかしいわね」

 そう聞こえてきたのは、七月の最後の金曜日だった。

 リビングへと向かった大気は、誰かと電話をしている母親の声を聞く。

「大気にも言っておくわ。ほな、ありがとね」

 電話を切った母親は、大気を見るとちょうど良いと言わんばかりに口を開く。

「大気、今年は海に泳ぎに行かんといて」

「え、なんで?」

「今日も海水浴場で人が死んだらしいんよ。ここにずっと住んでいるけど、こんなん初めてやわ」

 なんてことないように母親は言ったが、その言葉にゾッとした。

「え、なんで死んだん?」

 思わずそう尋ねると、母親も「よお、わからんけど泳いでいたら溺れたらしいわ」と答えてくれた。

「でも毎年海に来はる人やったらしいから、なんや、今年はそう言う巡りの年なのかもしれへんわ」

 サラリと母は言ったが、巡りの年で死んだ人はたまったものではないだろう。

「なんや怖いなあ」

 思わず大気がそうぼやくと、母親は言う。

「まあ、海ちゅうのは色んなものが流れてくるからね。そういう年もあるんよ。せやから大気、今年はプールで我慢しとき」

「分かった」

 大気は素直に肯いた。


******


 八月になった。

 なんとか宿題も半分まで終わったが、読書感想文にはまだ手をつけていない。

 大気は母親に起こされて、ラジオ体操に向かう。

 すると須藤が

「ずっと黙っていたんやけど……」

と恐る恐るといった風に口を開く。

「なんや、体操していて海の方見ると、なんか浮いているん」

「……」

 それは大気も感じていたことだった。一瞬だからすぐに身体を反らすと見えなくなってしまうのだが、確かに何か、黒い、何かが海に浮いている。

「それな、なんだか日に日に近くなってきて、人の顔に見えるん」

「あ、あほなこと言うな」

 思わず声が震えてしまったが、須藤もそう言って貰いたかったのだろう。

「きっと気のせいやろ」

と言ったので、

「そうや」

と強く大気も言い返した。

 相変わらず、たまにラジオの調子は悪くなる。

 きーんと耳をつんざく音が聞こえたり、変なしゃべり声が聞こえるときもあるのだが、家に帰って確認すると、ラジオは普通なのだとお母さん同士が話しているのを大気は聞いた。

「なあ、お母さん」

「なに?」

「今年のラジオ体操、もうやめへん?」

 役員である母なら止められるのではないかと思いそう声を掛けた。

 母親は一瞬言葉を詰まらせたが、ぽんっと大気の頭を叩くと静かに言う。

「明日で最後やから、がんばりい」

 大気はしぶしぶ肯いた。


*******


 ラジオ体操最終日、12日。とは言ってもまだお盆前なので、夏休みは半分ある。

「ご褒美は終わりのころにお母さん、もっていくからね」

 そう母に言われて送り出されたが、外に出た瞬間、うっと大気は顔をしかめた。

 海の匂いが強い。

 いつもは滅多にないのだが、今日はやけに潮の生臭い臭いがあたりに立ちこめていた。魚の腐ったような、むあっとした臭いだ。

 なんだろうと思うと、ずいぶん濃い霧が海の方からあがってきている。

 夏は暑いせいか、たまに朝の気温差でそういう霧が海からあがってくることもある。

「なんで今日」

 嫌だなと大気は思ったが、渋々、海へと向かった。

「今日、気持ち悪いな」

 須藤が大気の顔を見るなりそう言った。ホッとした顔になったのは彼もこの霧の濃さに嫌な予感がするからだろう。

 海の方を見ればいつもの蒼いキラキラとした海はない。灰色に濁った海に白い霧が立ちこめている。

「さあ、今日で最後だからがんばりましょうね~」

 今日の当番は須藤のお母さんだった。今年の子ども会の会長だという須藤のお母さんは、ニコニコとそう言ったが、どこか顔色が青いように思えた。

 みんな、このうっとおしい霧が嫌なのだろう。

 そして身体にまとわりつくような生臭い潮の臭いが。

『さあ、今日も元気にラジオ体操を始めましょう』

 ラジオから流れる軽快な音楽だけがこの場で唯一陽気な音で、子供たちも皆、いつもと違ってシンと静まりかえっていた。


 異変は、すぐに起きた。


 ぱしゃん。

 軽快な音楽。

 ぱしゃん。

 何の音だろうと思った。

 しかし、ゆっくりと右腕を倒して脇の筋肉を伸ばしている大気たちにはその音が何の音か分からない。

 ぱしゃん。


「いやや!」

 叫んだのはまなみだった。

 まなみは顔を真っ青にして、大気の後ろを指さした。

 ラジオ体操の音楽は暢気に次の体操を指示するが、大気たちはまなみのその一声で、身体を強ばらせた。


 ぱしゃん。


 もう気のせいではないと分かっていた。


「圭吾、大気君、こっちきてえ!」

 須藤の母親が悲鳴のような声を上げた。

 全てが異常だった。

 女の子たちが悲鳴を上げる。

 須藤も大気も須藤の母親の元へ、一目散に駆け寄る。

 みんなラジオ体操どころではなかった。


「見ちゃアカン!」

 須藤の母親が叫ぶ。

 ぱしゃん。

 水音が、した。

 大気はゆっくりと振り返る。

 ちょうどラジオ体操では、腕を逸らして後ろを振り向くタイミングだった。


 海から。

 黒い。

 ずるずるとした何かが、這い出てきた。

「ぅぉ……ぁ……」

 声ではないと分かった。

 しかし、それはその黒い何かから聞こえている。白い霧をよりわけるように、ずるっぺた、ぱっしゃん。

 水音と引きずる音が交互に聞こえて。

 うなじが痛いくらいチリチリした。


「うわああああん、おかあさんーーーーん」

 まなみが泣き出す。


 他の子たちも一斉に悲鳴を上げて泣き始める。

 それなのに、恐ろしいくらいみんなの声は霧に吸い込まれて、周りに響かない。

 まるでここだけ閉じ込められた空間のように。


 ずるずる。

 ぺったん。

 ぱっしゃん。


 何かが。何かが。

 何かが、こっちにやってくる。


「来んな! 来るな……!」

 大気も声をあげたが、生臭い潮の臭いが大気たちを包み込んで、声はすぐにかき消される。

 逃げたいのに、身体は馬鹿みたいに強ばって、動けない。

(助けて助けて助けて)

 何が起きているのか分からなかった。

 ただ、海から、何かが這い出てきたことだけは分かった。

 黒いそれは霧に包まれているので全貌は見えない。

 しかし、多分人のような気がした。人であってほしかった。

 だが、大気の本能が、それは人ではないと訴えていた。


 ふと、顔のような部分がこちらを見た。

 顔だと思ったのは、黒の中で唯一そこが灰色で、人の肌のような色をしていたからだ。

 にたあ、と笑われたような気がしたが、目のウロも口の中も真っ黒で、キシキシに軋んだ髪の毛のようなものが、灰色の顔にべったりと貼り付いている。


 ずるり。ぺっしゃん。ぱっしゃん。ぴちゃぅ。


 形容しがたい水音が、大気たちに近づいてくる。

 みんな、どうしようもなく恐くなって、そのままお互いにしがみついて目を閉じた。

(ああ、もうあかん――!)


 そう思った瞬間――



「海へかえれーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」


 ものすごい爆音がラジオから聞こえた。

 男の怒鳴り声だった。聞いたこともない声が、あんな小さなラジオからどうして聞こえてくるのか分からないほどの大きな声が、ラジオから響いた。

 それは誰の声だったのか。

 聞いたことのない声だと大気は思ったし、誰もしらない声だった。

 しかし、その声の圧力が一気に黒い何かに襲いかかると、ぱしゃっ!とあっけない水音ともに、黒い何かは消し飛んでしまった。

 そしてあれだけ濃かった霧が、うそのように沖までひいていく。


 気がつけば、大気たちはその場にみんなで固まって、ぼんやりと座り込んでいた。


「ち、ちょっと、みんなどうしたの?」

 大気の母親がご褒美のお菓子を持って駆け寄ってくる。

 ラジオからはもう男の声はしなくなり、

『それではまた明日――――!』

 と暢気な声が聞こえていた。


 結局、その後、警察も呼んだが、何がおこったわけでもなく、集団ヒステリーのようなものだという扱いになって、大気の小学校では念のため、その年の海水浴は中止するようにと学校から連絡が来た。


 海から来たものがなんだったのか大気には分からない。

 ラジオから流れた声が誰の声だったのかも。


 ただ、海はたまによく分からないことが起こるのだと、子供心に深く感じた夏だった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 軽快な始まりから、徐々に……。 ゾッとさせられますね。 ラジオからのお経や声は、みんなを助けるための声だったのですね!
[一言] 前書きの『関西弁未履修』に笑って読み始めたのですが、段々と絡めとられていくような展開が怖かったです。 はっきり正体を説明できない存在と、海と言う存在の大きさ深さが重なって、夏にふさわしいホラ…
[良い点] コ わ ! ((((;゜Д゜))) [一言] 得体がしれない恐怖! コワ面白かったです!
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