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「モリーナが………。」
王子のもとに教皇から報告があったのは、モリーナが病に倒れたと聞いた数日後だった。王子は己の耳を押さえたい衝動を抑えて、教皇の言葉を聞いた。
「流行り病の症状は落ち着いたのですが、病に体力を奪われたようで……。」
教皇の報告では、他の国民にも何人か流行り病の症状は出ていたものの、比較的軽症ですんでおり、それ以上広まることはないだろうという見解だった。
「そうか……葬儀は、密葬か。」
「はい。国民に不安が広がるのを避けるため、3日後には。また、陛下の指示により次の聖女の選別も進んでおります。」
聖女が亡くなったことは国民には伝えられず、葬儀後にその報告と遺品が親族の元に届けられるのが通例であった。
「……遺体は今は、祈りの塔か。」
声に力がなく、なんとか絞り出す。
「はい。祈りの塔の出入りを制限し、聖堂の奥の一室に棺を安置しております。」
「わかった………一人にしてくれ。」
王子が表情を殺し淡々と告げると、教皇は無言で頭を下げ、王子の執務室から出ていった。更に他の側近をも人払いすると、机の上のインク壺や書類をすべて机から払い落とした。
ガシャンという音がしてガラスのインク壺が割れ、中のインクが絨毯に広がり染みていく。
公人としての立場から、涙一粒流すことも許されない。誓願を果たせず、二度とモリーナに会うこともできない悔しさがつのる。己の不甲斐なさにも、苛立ちがつのる。
何度も何度も机に拳を叩きつけ、気づいたときには側近が呼んだ医師により、手に包帯が巻かれていた。
インクの染みた絨毯は真新しいものに取り替えられ、染みは影も形もない。だが王子の心はインクのシミのように、黒く塗りつぶされたままだった。
王子は翌日、教皇と一緒に、モリーナと共に過ごした祈りの塔を訪れた。最後の別れをする為に。
王子がモリーナの遺骸の入った棺の元へ行こうとすると、モリーナの側仕えにそれを制された。
「いけません。聖女様の身体は生前の姿は見る影もありません。気分を害される恐れがあるかと。」
王子は目の前で両手を広げて止める側仕えの手を払い除けた。
「国の守りとして生きた聖女を前にして、何を害すると言うのだ。どけ。」
王子が鋭い目付きで側仕えをねめつけると、教皇は側仕えに首を振った。側仕えはしばらく迷ったようだが、教皇と王子の双方に視線をやると、頷いてその場を辞した。
「教皇、しばらく2人で話をさせよ。」
教皇は王子の言葉に側仕えと同様に頷くと、王子が一人で向かうのを見送った。
モリーナの棺は、部屋の奥にある祭壇の前に安置されていた。膝までの高さの長机の上に置かれ、漆黒の棺には真っ黒なレースの布がかけられていた。布を取り、どんなに音を立てても目覚めぬ相手を気遣うように、ゆっくりと棺の蓋を取り払う。
「本当は、そのような顔をしていたのだな。そなたは。」
聖女として生きていた時の若い姿は様変わりし、年輪のように深く刻まれたシワ。白いドレスを着たモリーナは、胸元で手を組み、眠っているように穏やかな顔だった。
恐る恐る頬に触れれば、あの暖かかった身体は陶器のように冷たい。不思議と忌避感はなく、その冷たい頬を手の甲で撫でた。改めて、モリーナの本当の姿を見た気がした。
「モリーナ……私の名は、ルーカスという。私の名を呼ぶ者は父か母か弟妹しかおらぬ。二度と会えぬのなら、教えておけばよかったな。」
モリーナが『王子様』と自分を呼ぶ声が、頭の奥で響く。優しく暖かいあの声色は、二度と聞けない。共に過ごした日々はたった束の間だったが、とても穏やかな幸せな日々だった。
「もう一度、呼んでくれ、モリーナ……頼む。」
二度と聞けぬ声を求めるが、モリーナの唇は当然のごとくピクリともせず、ただ静寂がそこにあった。
王子が部屋を出ると、部屋の外には教皇だけではなく見知らぬ女性がおり、王子の姿を垣間見ると跪いて頭をたれた。
王子が女性を見ているのに気づくと、教皇が説明した。
「別の祈りの塔の聖女でございます。聖女は別の聖女の葬儀の時のみ、希望があれば参列の為に塔を出られるのです。」
他の聖女など、なんの興味もない。
王子は聞き流してその場を去ろうとしたが、ふと、モリーナが話していたことを思い出して足を止めた。
「頭をあげろ。そなたは、占術を嗜む者か?」
本当に信じていたわけではない。王子にとって、ただの興味と気休めだった。
聖女はなぜそのことを王子が知っているのかと目をぱちくりしていたが、慌てて答えた。
「は、はい。城下にいたときは、占術で商いしておりました。」
「そなたが………。」
王子は少し思案すると、目の前の聖女に告げた。
「近日中にそちらの塔に参る。話がある。」
「はい、わかりました。」
聖女が頭を下げる。王子は今一度、モリーナのいた部屋の方に向き直り、心の中で最後の別れを告げた。