二百六十三夜、ばあばの洋裁学園生活 65 お母さんの話 7
今日は、ばあばの番です。
眠れないのかい、それは困ったねえ。じゃあ、少しお話をしてあげようかね。どんなことがいいかな。何がいい?
「・・・・・・」
そうだねえ、じゃあ、ばあばが子供の頃のお話をしようかねえ。
まだ、洋裁学園の頃のことだけれど・・・
ばあばのお母さんのことを話していたんだよね。ばあばを生んでくれたお母さんの話はこのくらいかな。次は、三番目のお母さんの話になるのかな。
このお母さんが生まれたのは日本じゃなくて台湾ってところらしいよ。あんまり詳しく教えてくれなかったのだけれどね。
まだその頃は台湾ってところが日本の一部だったらしい。いろんな事情で日本が統治していたらしいのだけれど、その中心になっていたところが総督府って呼ばれていたらしいよ。お母さんのお父さんがそこに勤めていたってことだよね。
お母さんはそこで生まれたらしいけれど、女学校までの間も不自由なことはなかったって言っていたよ。そこに勤めていた人たちがたくさん暮らしていた官舎(公営アパートみたいなもの)で大きくなったって言っていたね。
そこにはたくさんの日本人がいたので特に変わったことを感じていなかったって言っていたかな。女学校でゆくゆくは先生になりたかったので頑張って勉強していたそうだ。
そこでの話なんだけど、先生になるのには実地研修が必要だったみたいで、住んでいたところよりまだ南の島の学校に研修に行っていた時のことらしい。
飛行機が飛んできてバリバリバリって機銃掃射されて、研修先の学校の屋根から火が出たことがあった。その時にばあばのお母さんはその火を消そうと火ハタキ(お掃除に使う、埃を叩いて落とすハタキのような形の、火を叩いて消すためのハタキ)をもって梯子で屋根に上ろうとしたんだって。途中まで上がったところで兵隊さんが駆けつけてきて火を消してくれた。
その時お母さんはまだ何もしていなかったのだけれど、勇気ある女学校生とのことで表彰されてしまったとのこと。その頃結構話題になってたみたいでね、ただ残念なのは記念品がなかったことと、いろんな引越しや引き上げなどでせっかくもらった表彰状はどこかに行ってしまったらしいよ。残っていればお話のネタにくらいはなったのに惜しかったねって笑っていたさ。
ばあばはその話を聞いて、本当の話なのか作り話なのか分からなかったよ。
おや、眠たくなってきたかい、それじゃあ、おやすみ、いい夢を見てね。
いろんなことが起きますね。




