第85話 眠り姫の目覚め
「叶、遊びに…」
「ごめんね、裕子ちゃん。今日は約束があるの。」
放課後を迎えた直後、勇気を振り絞って寄りを戻すためにチャレンジした裕子を叶は悪意なく一蹴して早足に教室を出ていってしまった。
「…八重花ー。」
もう2人に声をかけるがそこはすでにもぬけの殻で声が通り過ぎていくだけだった。
「…ぐすん。」
裕子はべそをかいて立ち尽くしてしまった。
芳賀と久美は頑張った裕子を慰めようと近づいた。
「ゆうちん、泣かないで。」
「東條はともかく作倉は脈ありだろ。次頑張ればいいじゃないか。」
涙腺が緩んだところに2人の優しさが染みて裕子の目にブワッと涙が溢れた。
「芳賀ぁ!」
裕子は芳賀の胸に抱きついて泣き出してしまった。
まさかの展開に帰り支度をしていたクラスメイトが驚いて動きを止めていたが一番驚いていたのは当然抱きつかれた芳賀である。
「えと、あ、く、久住さん!?」
しどろもどろで手を所在なげにさ迷わせ、顔を真っ赤にした少年の胸に裕子はさらに抱きつく。
芳賀は湯気が出そうなほど顔を赤くしながらも
「く、久住。」
優しくというかおっかなびっくりといった様子で裕子の肩を抱いた。
さすがにクラスメイトも茶化せる状況ではなく羨ましげだったり微笑ましげだったりしながら静かに教室を去っていく。
久美もその中にいた。
「にゃはは。1人になっちゃった。」
久美は困ったように笑う。
経緯はどうであれ裕子と芳賀が惹かれあっていたのは一番近くにいた久美にはわかっていた。
友人として2人のことを祝福している。
「にゃはは。」
久美は空を見上げて笑う。
それでも、いつも一緒だった5人から真奈美が入院して八重花と叶が離れてしまい、最後に裕子もいなくなってしまうことが悲しくないわけがなかった。
「にゃは、は…は…」
久美は、笑うしかない。
みんな久美が笑うと喜んでくれたから。
バカで何の取り柄もない自分を受け入れてくれたみんなが笑ってくれたから。
だから久美は笑っていた。
それが自分にできる唯一のことだったから。
「おめでと、ゆうちん。」
校門から見上げた教室に祝福の言葉を投げ掛けて久美は去っていった。
胸にこびりついた哀しみを笑顔で覆い隠して。
教室で悲喜こもごもの青春ドラマみたいなことが起こっていたなどつゆ知らず、叶は今日も太宮神社を訪れていた。
ここ最近は結構な頻度で通っているため近所のお婆さんに顔を覚えられて世間話をするくらいになっていた。
神社の本殿で真奈美の祈願を行ってから社務所に向かう。
おみくじや破魔矢を売っている売店の裏側に回って戸を叩くと
「いらっしゃいませ、叶さん。」
「こんにちは、琴先輩。」
今日も急ぎ足の叶よりも早く帰りついた巫女装束の太宮院琴が出迎えてくれた。
もはや琴はそういうものだと納得している叶は驚くこともなく招かれるままに奥の座敷に腰を下ろした。
琴の振る舞うお茶と和菓子に舌堤を打った叶は一息ついたところで本題を切り出した。
「琴先輩。"太宮様"の予言が当たりました。」
「それは何よりです。半場陸さんはどうでしたか?」
叶は瞳を閉じて昨晩のことを思い出す。
一瞬だったといえ服は土にまみれていたし擦り傷も見えた。
そして驚きに染まった顔と煙のように消えたこと、それらすべてをまとめた叶は
「半場君は忍者になってました。」
きっぱりとそう結論付けた。
「…はい?忍者、ですか?」
自分の耳がおかしくなったんじゃないかと耳を軽く叩いた琴がもう一度尋ねたが
「はい。ドロンって消えましたから。」
叶は自信満々に頷いた。
「…そうですか。」
琴が叶に可哀想な子を見る目を向けた。
「なんだかすごく失礼なことを考えてませんか?」
琴は本音をお茶で飲み下して気を落ち着けた。
「叶さんはとても夢見がちな乙女なのですね。」
「琴先輩は私を変な子だと思ってるんですね?」
琴はクスクスと笑って首肯した。
「叶さんは変な子ですよ。何故なら、この太宮院琴のお友達ですから。」
叶も思い当たる節があってアッと驚いた。
学校で2年のクラスに行くとちょっと避けられてると感じたり、同学年でも琴の名前を出すと戸惑う人もいる。
「何をしたんですか?」
確かに琴はいつも巫女装束だし"太宮様"の未来視という特殊な力を持ってはいるがそれは避けられる理由には繋がらない。
特に未来視は占い好きの女子なら集まっていてもおかしくないはずだ。
つまり琴が人から避けられる何かをしでかしたということになる。
叶がジト目で見ても琴はクスクスと笑うだけだった。
「琴先輩。お友達、ですよね?」
友達という言葉を引き合いに出すと琴は一瞬停止した。
微妙に固まった笑顔で困ったように頬に手を当てた。
どうやら本格的に友達がいないようだ。
「叶さんも存外強かですね。大したことではありませんよ。占いで心ばかりの謝礼を頂き、たまたま皆さんの結果が芳しくなかったのです。」
「それで喧嘩になったんですか?」
喧嘩すれば人はあまり近づきたがらなくなる。
由良などがいい例で暴力沙汰を起こすと背ビレや尾ヒレがついて怖がられるものだ。
尤も由良の場合は目付きが怖いのでやっぱり怖がられるが。
しかし琴は手を横に振った。
「いえ、少しばかり口論になりましたがすぐに収まりましたよ。」
琴は視線を外しフッと口の端をつり上げた。
その姿はどう見ても悪どい笑みであった。
「わたくしの発した言葉が現実になっただけです。」
叶は初めその言葉の意味をうまく理解できなかった。
その顔色が理解を示す度に青ざめていく。
「まさか、死んで…」
「ませんよ。ちょっと机に足を引っかけて尻餅をつき、手をついた場所に誰かが捨てたガムが落ちていて手に張り付き、慌てて立ち上がろうとしたら足を滑らせて机に顔から激突して鼻血を吹いただけです。」
「それは…ちょっとじゃないです。」
「それ以来、わたくしが話したことは現実になると噂が広まり怖がられているのです。」
話し終えた琴がお茶を淹れ直すと言って席を立った。
叶は琴の後ろ姿を見送ってため息をついた。
琴はわざと戸を閉めないで出ていった。
そこを出れば社務所の裏口であり出口だ。
つまり
「こんなわたくしと関わりたくなければお帰りなさい。」
と言っているのだった。
叶は立ち上がり障子に手をかけ
「琴先輩が障子を閉めないで行っちゃうなんて珍しい。いつも行儀良いのに。」
まったく琴の真意に気付かずに障子を閉めた。
いつもの朗らかな微笑みを浮かべて待っていた叶を見た琴は珍しく目を見開いて驚いていた。
温かいお茶を飲んでまったりとする。
琴も叶が自然に受け入れてくれたことを理解して穏やかな様子になっていた。
「それで、次はいつ頃半場君に会って話ができるんでしょうか?」
ようやく帰ってきた本題に琴は首を傾げた。
「"太宮様"に伺わなければ分かりませんがしばらくは予定が詰まっていまして。」
「そうですか。」
残念だが仕方がないと叶は納得した。
寂しげに笑う叶を見て
「叶さんにとって半場陸さんはどのような方なのですか?」
琴は"友達"として尋ねた。
探すための材料としてではなく一個人の関心事として。
「ええっ!?半場君ですか?」
叶の明らかな狼狽を見て琴はにやりと笑う。
ファーストコンタクトの時のように生来の琴はわりと強引なのだ。
渋る叶を見逃すわけがない。
「失踪した相手を探し続けるのは大変でしょう。それだけの強い思いを持っているのなら当然…」
「少し、違います。」
噂好きの女の子モードに入りかけていた琴の言葉を遮るように叶は口を挟んだ。
「私は一度半場君に失望したんです。琴先輩に会う少し前までは絶対に顔も見たくないと思っていました。」
「そうなのですか?」
琴は意外そうな顔をした。
少なくとも叶が陸の話をするときに憎しみや怒りを見せたことはなかったから。
叶は儚く微笑んでお茶を啜った。
「だけど、私はもう一度半場君に会って本当のことを教えてほしいと思ったんです。もしも半場君が未来を見る力があって、仕方がなくあんなことをしたのだとしたら、私はちゃんと聞いてあげたいんです。」
叶の瞳はまっすぐで、琴はその瞳に見惚れてしまった。
軽く首を振り雑念を払う。
「あんなことというのは一月ほど前噂になっていた『とある男子生徒が深夜の公園で女子生徒を襲った挙げ句目玉をくりぬいて食べて奇声をあげていた』というあれですか?」
気が付けば陸の噂は尾ヒレ背ビレどころか突然変異して怪獣になっていた。
さすがにそこまで残忍じゃなかったかなと叶は苦笑した。
「…その噂です。どうして真奈美ちゃんをあの公園に連れていったのか、なんで左目を潰すような大怪我をさせたのか、考えてもわからなかったんです。」
叶は誰にも話さなかった陸が真奈美を傷つけた犯人だということを打ち明けていた。
それは琴が叶を友達だと言ったように、叶もまた幾度もの交流で信頼に値する人だと見極めていたから。
琴は陸を非難することも叶を疑うこともなく、しかし真剣に話を聞いていた。
またお茶が冷めてきてしまったが琴は席を立たなかった。
「叶さんは半場陸さんを信じたいのですか?」
「…はい。」
叶は迷いながらも嘘偽りない思いを打ち明けた。
琴は優しく微笑み、スッと右手を水平に持ち上げて明後日の方向を指し示した。
「琴先輩?」
「そこまでの覚悟がおありなら、本人ではなく当事者に尋ねてみると良いでしょう。」
それは指針であり予言。
琴の言霊と指の先が示す意味に気付いたのと同時に叶の携帯が鳴り出した。
震える手で携帯を耳に当てた叶の前にはまるで予言者のようにすべてを知る神々しい雰囲気の巫女が声を出さずに口を動かした。
『芦屋真奈美さんが目覚めました。』
それは電話の向こうの声と同じ内容だった。
八重花が放課後、ヴァルハラに出向いて適当に時間を潰しているときに電話が鳴った。
一応周囲に頭を下げて電話に出ると徐々に表情に変化が表れた。
「はい。わかりました。ありがとうございます。」
八重花はわずかな笑みを浮かべながら対応していた。
「それでは失礼します。」
終話ボタンを押すと目の前に座っていた良子が身を乗り出して尋ねた。
「何かあった?」
「真奈美が目を覚ましたそうです。」
八重花にとっての吉報に、ヴァルキリーは一瞬硬直した。
「へ、へぇ。それはよかったね。」
良子が微妙な相づちを打っている間に他の面々は体裁を取り繕う。
撫子も一瞬駆け抜けた寒気に身を震わせた。
それは八重花への恐怖。
(まさか芦屋真奈美さんがジュエルになってインヴィと戦ったことを教えるわけにはいきませんね。)
八重花にとってはどちらも大切な人だ。
その2人を戦うように仕向け、究極的には八重花の前から陸を去らせた要因を作ったのがヴァルキリーだと知られれば八重花がどう動くかまったく予想できなかった。
「?」
幸い皆の挙動不審な様子に疑問はあったようだが情報が少なすぎるため原因の究明には至らなかったようだ。
皆が見えないところで胸を撫で下ろす。
(真奈美が目覚めた。)
その時、八重花は
(真奈美の不可解な行動とりくの失踪には何か関係があるに違いないわ。)
すでに解決の糸口を掴み始めていた。
ただし真奈美がジュエルだったことまではわからない。
(りくが理由もなく真奈美を傷つけるわけがないもの。絶対に何かあったはずよ。真奈美に聞いてみるしかないわ。)
だから知ろうとする。
少しでも陸を知るために、陸に近づくために。
そして撫子もまた考えていた。
(東條さんは強力なソーサリス。その彼女が真実を知って最悪の場合ヴァルキリーの敵に回るのは避けなければなりません。芦屋真奈美さんと話をさせるのは危険ですね。)
八重花とは真逆の真実から遠ざけるための思索を。
撫子は窓の外、その向こうに微かに見える病院を見て
「流れが、変わりそうですね。」
ポツリと呟いた。
その意味は撫子本人でさえ理解できていなかった。