第75話 覚醒せし炎の魔剣
食事が終わる頃にはだいぶ八重花も打ち解けた様子になっていた。
共通の話題はほとんど無いものの良子がしきりに話題を振って仲良くなる努力をした結果だろう。
「はぁ、お腹一杯になった。」
「食べ過ぎです。」
午前中に比べれば口調は柔らかいし嗜める言葉は良子を気遣ってとも取れる。
そして良子もはしゃぐことはなく自然に笑った。
どちらも気負わなくなり、今誰かが2人の姿を見れば自然と仲が良い女友達として写ることだろう。
「…あれ?」
次に入る店を考えながら歩いていたとき、八重花が突然驚いた様子で足を止めた。
「どうかした?」
「いえ、今そこに明夜がいたような気がしたんですけど。」
良子はギョッとして駆け出し八重花が指した曲がり角の先を睨み付けた。
「わっ!?」
向こうから来ていた男性が驚いて通りすぎていったがそれ以外には誰の姿もない。
そこは休憩所らしく奥まった場所にあるため人気はなく、誰もいない。
奥で縮こまっている黒の犬がいるだけだった。
まさか明夜が犬になったとは考えづらい。
単に見間違いだったと八重花は納得した。
「迷子でしょうか?」
犬は2人に背を向けたまま壁を見詰めてじっとしている。
八重花が心配そうに近づこうとするのを
「…」
良子はまっすぐに犬を睨み付けたまま手を横に突き出して止めた。
さっきまで笑っていた良子の雰囲気の変化を八重花は敏感に感じ取って数歩後退った。
(この表情は、あの夜と同じ。)
「出てきなよ、ジェム。」
良子に呼ばれた闇色の犬はグルリと首を巡らせ、真っ赤な瞳に良子の姿を映した。
それは正規の生物ではあり得ないおぞましい真紅の瞳だった。
「きゃあ!」
「ガアアア!」
八重花の悲鳴に呼応するように漆黒の獣も雄叫びを上げた。
チワワ程度だった大きさがみるみる膨れ上がり、咆哮は大気を揺らして近くの店の窓ガラスを砕いた。
ショッピングモールの方が騒がしくなり、怒号と悲鳴とサイレンの音が響く。
犬のようだった獣はとうとう人の背丈を超えるまでに巨大化し、爪と牙と触手のような尻尾を持つ化け物へと変容した。
「これが…」
「ジェム!」
良子は横目で怯える八重花を見て歯噛みし
「ラトナラジュ!」
自らの相棒を呼び出した。
良子の左目が朱に輝き左手に真紅の鉾槍が顕現する。
八重花が息を飲む気配を背中に感じながら
「行くよ!」
良子はジェムに躍りかかった。
「ガアアア!」
サイレンにも負けない咆哮とともにジェムが動いた。
背中から伸びた触手が鞭のようにしなり良子を襲う。
良子は打ち下ろされる打撃を斜め前に跳んでかわし、振り上げられた腕のさらに内側へと駆け込む。
狙いは地面に体を支えている足。
「おおォ!」
一回転の遠心力を加えた一撃が足に直撃し、
ギギン
金属のこすれ合うような音を立てて鋼のような剛毛に阻まれた。
「何!?」
驚いている間も無く押し潰すように迫ってきた剛腕を地面に転がるように飛び込んでかわし、距離を取った。
「…厄介な体してるね。」
硬くて柔軟な毛が斬撃を肌まで通さないのだ。
(本当に厄介だね。)
口には出さず良子はわずかに目を細める。
斬撃が効かないということは実質的に良子の攻撃手段が奪われた事を意味する。
ルビヌスの全力ならあるいは通すこともできるがその場合ショッピングモールに甚大な被害を与えてしまう。
1人で相手をしているならそれでも構わないと思っただろうが間の悪いことに今日は八重花がいる。
下手を打って被害に合わせるわけにはいかなかった。
そうなると美保の光刃か由良の超音振のような非物質による攻撃しかない。
その判断を一瞬の内に下した良子はポケットから携帯を取り出して八重花に投げ渡した。
「えっ?…あ。」
バキンと嫌な音がした。
突然投げられた携帯を八重花が受け止められるわけもなく床に落としてしまっていた。
「わあぁ!」
「急に投げないで下さいよ。あ、死んでる。」
「くぅ!」
やるせない怒りをジェムに向けつつ良子は叫ぶ。
「こうなったら仕方がない。君はヴァルハラに、乙女会にこの事を知らせに行ってほしい。あたしだけじゃ手に負えないかもしれない。」
八重花はジェムと良子を見比べ、先程のやり取りを鑑みてすぐに頷いた。
恐怖に駆られて悲鳴を上げながら逃げ出してもおかしくない状況で冷静に状況判断を下した八重花を見て良子は苦笑する。
「いいね。ますます君が欲しくなった。」
「そういうことを言わないでください。」
八重花は笑いながら反論して淀みない足取りで走り去っていった。
(たった一度現場に遭遇しただけでこの順応性。あたしの目に狂いはなかった。)
八重花を信頼できることに喜び、良子はラトナラジュをジェムに向けた。
「さて、しばらく相手をしてもらうよ。」
確かに良子の判断は正しかった。
だが、間違いでもあったことをすぐに知ることになる。
「ガアアア!」
離れた場所からジェムの咆哮が轟いた。
八重花は窓ガラスが砕け散った廊下を駆けていた。
「急がないと。」
良子の強さを目の当たりにはしていたが本人が弱音を吐いた以上厳しいのだろう。
戦えない以上助けを呼びに行くのが最善だと判断した。
だがようやくエントランスが見えてきた所で
「ガアアア!」
「きゃー!」
脇からジェムが飛び出してきた。
さっきは良子がいたことで無意識の安心を得ていたが今は1人、人外の化け物を前に八重花の足は震えて動かなくなってしまった。
(早く行かないと。でも、怖い。)
意思に反して体が動いてくれない。
ジェムはジリジリと獲物を追い詰めるようにゆっくりと迫ってくる。
ウサギを狩るのに全力を尽くす獅子のごとくジェムは剛腕を振り上げた。
八重花はギュッと目を瞑った。
(助けて、りく!)
そして決死の拳が振り下ろされた。
「八重花。」
それは疾風に乗って聞こえた声。
求めたものではなかったが同時に探していた人物でもある。
「…明、夜?」
「ん。」
明夜は両の刃を交差させてジェムの拳を受け止めていた。
「なんで明夜が…」
疑問の言葉は明夜の手にある美しき2つの刃を見て消えていき、代わりに不可解だった様々な事象が一本の道筋に集約されていく。
(等々力先輩と明夜があの武器を持っている。だけどさっき明夜の名前を出したときの等々力先輩の反応は仲間を見掛けたというよりも敵に向かうものみたいだった。)
明夜の振るう刃も剛毛に止められて中まで通らない。
それでも明夜の表情は変わらない。
地を蹴り、壁を駆け、縦横無尽にジェムへと攻撃を仕掛けている。
(だから2人は違う組織。等々力先輩の乙女会が多分その組織。)
与えられた情報から八重花は真実へと自ら進んでいく。
明夜の2つの刃が触手を切り落としたがすぐに再生した。
明夜はそれでも引き下がる様子はなくジェムに向かっていく。
(等々力先輩はりくの情報を持っている。だけど仲間だとは一言も言っていない。そして明夜はりくが消えた日に一緒にいなくなった。)
明夜が殴り飛ばされて壁に叩きつけられた。
口の端から血が流れ、ふらついているにも拘わらず明夜は愚かしいほどにまっすぐジェムに向かっていく。
八重花はすべての答えのために1つだけ明夜に問うた。
「どうして私を守ってくれるの?」
「陸に頼まれたから。」
明夜は突撃した。
繰り出された拳を避けて飛び、壁を蹴って加速して弾丸のような速度で刃を突き立てた。
線ではなく点で打ち出された刺突には鋼の剛毛も防ぎきれず肌を突き破ってジェムに傷を与えた。
怯むことなく戦い続ける明夜を見て八重花は答えを出した。
(やっぱり、明夜はりくと一緒にいる。そして、りくは"こちら側"にいる。)
答えにたどり着いた八重花の胸に点ったのは喜びではなく寂しさと、嫉妬。
(りくは私を連れていってくれなかった。りくは明夜を連れていった。明夜はりくと一緒にいる。)
心の内から沸き上がるのは黒く醜い嫉妬の炎。
眼前で自分を守るために戦っている明夜を憎いと強く感じた。
「よくたどり着いたわ。」
瞬間、世界が停止した。
すべての音が消え失せ、すべての色が褪せた。
そして目の前に白髪の少女が突然現れた。
何が起こったのかをまるで理解できない八重花を置いて少女は不敵な笑みを浮かべている。
「あなたには2つの道があるわ。1つはここから逃げ出して現実に戻ること。その時あなたは余計なことは忘れているわ。そしてもうひとつは…」
「私に力をちょうだい。りくと同じ世界にいられるなら、私は何だってするわ。」
白き少女はわずかに驚き、ニヤリと壮絶な笑みを浮かべた。
少女の左手に朱色の光が浮かび上がる。
「よく言ったわ。さあ、受け取りなさい。」
少女の手から放たれた光は明夜の額から中へと消えていった。
「あああああ!」
突如襲ってきた全身の震える衝動に八重花は叫ぶ。
左目が眩しいほどの朱色の輝きを放った。
「ようこそ、新しき同胞よ。共に絶望の道を歩もう!」
少女の笑いが遠ざかっていき、それが完全に聞こえなくなったとき、
八重花は世界に帰ってきた。
「ガアアア!」
右腕からどす黒い赤の血を流しながら吼えるジェムと両の刃を突きの構えに変えて突撃する明夜。
八重花はその戦いを冷たい目で見つめ、スッと左手を前に突き出した。
「来なさい、私の剣。ジオード!」
八重花の左目の輝きと共に紫の片刃の剣が炎と共に顕現した。
明夜もジェムも、
「なんで君がソルシエールを!?」
そしてジェムと戦いながらエントランスに飛び出してきた良子も驚き、動きを止めた。
八重花は皆の驚きに気を配ることもなく近くにいた明夜と戦っているジェムに斬りかかった。
素早い一撃はやはり剛毛に阻まれる。
だが
「グアアア!」
ジェムは悲鳴にも似た叫びを上げた。
その正体は熱。
八重花のジオードから立ち上る炎が追随する斬撃となってジェムの腕を薙いだのである。
八重花はジオードを振り回す。
それは技術のない拙い攻撃だったが炎の刃は確実にジェムを切り刻んでいた。
さすがに硬さを誇った毛も炎に晒されては燃えてしまう。
ジェムの防御が剥がされた。
「八重花。あっちを。」
「…わかった。」
最小限の会話だけを交わして2人は逆方向へ跳んだ。
明夜はジェム、八重花は良子のもとに。
良子と戦うジェムはまだ決定打を受けた様子もなかったが良子自身も大きな傷を負った様子はなかった。
ジェムの背後から駆け寄る八重花は右手に赤い炎を纏わせたジオードを水平に掲げた。
そして左手を真横に突き出す。
「ドルーズ!」
心に浮かんだ言葉を叫ぶと左腕に巻き付くように青白い炎が噴出した。
飛び上がった八重花はジェムを標的と定めたまま両腕を後ろに引いた。
良子から見たその姿は赤と青の翼を広げたようだった。
「燃やし尽くせ!」
振るわれた両手から赤と青の炎の奔流が渦巻いてジェムへと襲い掛かる。
「ガアアア!」
振り返ったジェムが腕を振り上げて防ごうとするが二色の炎は防御に使った腕ごと焼き付くしてジェムを飲み込んだ。
「グアアア!」
のたうち回るジェムに向けて八重花はジオードを大上段から振り下ろした。
火線一閃。
火柱が断ち切られた時、ジェムは咆哮すら残さず灰塵と帰した。
明夜の方もほぼ同時に防御を失ったジェムを打ち倒していた。
明夜が、良子が、中央に佇む姿を見た。
赤と青、2つの炎をまるで彼女を守る蛇のように燻らせて東條八重花は虚空を見つめていた。
「東條。」
「八重花。」
両側から声がかかる。
中央にある八重花がどちらに寄るか、それは今後の戦いにおいて大きな変化を投じる可能性を秘めていた。
八重花はゆっくりと明夜の方を向く。
良子が何かを言おうとして思い止まり俯いて、明夜は表情を変えない。
八重花は明夜へと近づき
「明夜!」
ジオードを真横から振り抜いた。
ガギンと激しい音を立てて明夜の刃と激突する。
その一撃に一番驚いていたのは良子だった。
「なんで、柚木明夜を君が?」
「明夜はりくに選ばれた。私は、選ばれなかった。」
それが今までソルシエールの存在を知らなかったからだという単純な答えは激情に支配された八重花には至れない。
あるのは愛しい人の側にいる相手への嫉妬だけ。
明夜は微塵も揺るがない。
八重花に向ける瞳に一片の憐憫も悔いも見られない。
それがまた八重花の心を逆撫でする。
距離を取った八重花はジオードを突きつけた。
「私はりくを手に入れる。そのために明夜とりくに近づく者をみんな排除するわ。」
八重花は最後まで明夜を睨み付けたまま振り返り、展開の早さについていけずに呆然としていた良子に手を差し出した。
「過程は少し変わりましたけど私を迎えてくれますか?」
「あ、ああ!喜んで。」
ようやく笑みを浮かべた良子と八重花が握手を交わす姿を見ることもなく明夜は踵を返し、サイレンの近づいてきたショッピングモールを後にした。
警察や野次馬で俄に騒がしくなってきたショッピングモールを明夜は振り返った。
「また1人、選ばれなかった。」
明夜は顔を逸らせ、人混みに消えていった。