第7話 現実との対決
夢を見なかった。
もしかしたら何か見ていたのかもしれないが少なくともInnocent Visionの見せる夢は現れなかった。
気まぐれな夢というだけあって神出鬼没だ。
…もしかしたら大いなる意志が僕に試練を与えるために一つずつ試練を与えているのかもしれない。
そんな妄想を寝起きにして意識を適当に覚醒させつつ伸びをして眠気を飛ばす。
「んーっ!」
今日はたぶん本番、僕の行動によって高梨コーチの命運が左右される。
緊張していたのかあまり寝た気はしないが時刻は…8時。
「わー、また遅刻寸前だー!」
こうして運命の朝は慌ただしく始まった。
「今日もギリギリだったな。」
「半年も引きこもりしてれば早起きの習慣なんてつくわけないんだよね。」
息を切らしながら机に突っ伏したのは予鈴の5分前だった。
芳賀君や席に着いていたはずなのにわざわざ労いに来てくれた作倉さんに礼を言って起き上がる。
(策はある。だけど、賭けになるな。)
高梨コーチを助けつつヴァルキリーとあの剣について知る機会を作るのは非常に危ない綱渡りのようなものだ。
失敗すればコーチは夢のように無惨な姿となり僕自身にも危険が及ぶ。
なのに保身よりも究明に気を向けている。
(僕は、知りたいんだ。)
Innocent Visionで見て現実でも見た、恐ろしく、恐ろしく美しいあの武器に魅入られたから。
愚かしいと思いながらもその衝動に抗うつもりは欠片もない。
結局集約すれば僕はバカなのだ。
高梨は朝から妙に機嫌がよかった。
もともとバレー部のコーチとして招かれているのだから午後からくればいいのに朝から張り切った様子で準備運動していたり軽くバレーの練習をしていた。
午前で授業が終わり、昼食後部活が始まってからも漲ったやる気は衰えを見せず珍しくまともな指導で部員たちの見る目を見直させた。
等々力も真面目にやっている分には突っかかってくることもなくこうやって信頼を築くのも悪くないかもしれないと思い始めていた。
尤も真面目に指導している理由が下沢にいい格好するためという理由なのだからどうしようもない男である。
待ち合わせは夕方4時なので少し早めに部活を切り上げ、汗をかいたままの方が頑張ってた感じかと思ったが汗臭いと言われるのが嫌でシャワーを浴びた。
帰っていく部員たちの見送りまでして誰もいなくなったことを確認したあと、約束の場所である体育館の2階に向かった。
そこには既に窓から夕日を眺めている下沢の美しい横顔があった。
高梨は胸に手を当てて落ち着けながら近づいていく。
等々力の知り合いらしくよく体育館に訪ねてきた下沢は体育系ばかりの女関係だった高梨にとってまさに理想の女の子だった。
たまに見掛けると会釈するくらいの関係だったのに突然昨日
「明日の午後4時にこの場所で会っていただけませんか?」
下沢の方から声をかけられたのだ。
もちろん二つ返事で承諾し、人気のない場所での話と言ったらやっぱり…と胸を高鳴らせていた。
「ごめん、待たせたかな?」
精一杯爽やかに見える笑みで手をあげると下沢は振り向いて薄く笑みを浮かべた。
「来てくださって嬉しいです。」
下沢の頬が赤く染まって見えるのは夕日のせいだろうかと否応なしに期待は高まる。
踊り出しそうな期待感を自制してあくまで大人の男らしい余裕を見せる。
「それで、何かな?」
「はい。高梨コーチのことは良子さんから聞いて、ずっと興味を持っていました。」
等々力からという所に引っ掛かったがそれどころではなく
「その興味っていうのはつまり…」
もはやオーケーだろうと手を伸ばした高梨は
ザクッ
「…へ?」
「つまり、こういうことです。」
腹を突き破って背中にまで貫通した剣を見た。
剣を伝って夕日に照り輝く赤い雫が落ちて水溜まりを作っていく。
「うわあああ!」
刺された、それを自覚すると同時に襲ってきた痛みと恐怖に顔を上げた高梨は見た。
優しげな笑みを浮かべ、痛みに歪む高梨の顔を恍惚とした表情で見つめる下沢を。
ズッと無慈悲に下沢が剣を引き抜くと傷口から血が溢れだし高梨は地面に踞る。
もはや何処から剣が出てきたのかなどどうでもよかった。
「なん、で…」
「いいですよ、その表情。そそられます。」
ゾクゾクとした快感に下沢が身を震わせる。
「私、あなたみたいな人間のくずに自分がいかに救いようがないかを教えて差し上げるのが好きなんです。」
罪悪感の欠片もなく笑う下沢の左目は赤く染まっていた。
下沢が逆手で剣を振り上げると高梨は尻餅をつき、傷口を押さえながら必死に後退った。
「ひっ、やめ…」
ザシュ
問答無用で振るわれた刃が太股に突き刺さり
「ぎああ!」
高梨は意識が飛びそうなほどの痛みに悲鳴をあげるが下沢が刃を動かして傷口を広げる痛みに気を失うこともできない。
「部員が嫌がっているのを知りながら手を出していたあなたの言葉には説得力がありませんね。」
高梨の悲鳴を聞いて下沢が色っぽいため息をつく。
頬は上気していて興奮しているのがわかる。
「だからコーチにも教えて差し上げます。安心してください。死なない程度に傷つけるにはどこを刺せばいいか、ちゃんと分かっていますから。」
「ひぃっ!」
ザシュ、ガシュ、下沢は仰向けに倒れた高梨の上から正確に狙った箇所を突いていく。
その度に鮮血が吹き上がり悲鳴が響くが下沢は楽しそうに一ヶ所ずつ攻めていく。
無慈悲に、無邪気に、嗜虐的に。
それでも高梨は気を失えない。
絶え間なく続く痛みに嫌でも意識が覚醒する。
「や…め…」
「人でなしが人と同じ言語を話せるわけがありませんよね。」
血の海に倒れる高梨の胸に剣の切っ先が添えられる。
「良子さんからコーチの悪評は常々聞いていました。そんなあなたがどんな風に鳴いてくれるのか、ずっと待ち望んでいました。さあ、もっと鳴いてください。」
下沢はわざと急所を外して高梨を追い詰めていく。
憧れが粉々に砕けた失望と失血でもはや反射的に呻くだけになっている高梨に下沢は不満げな顔をした。
「もうおしまいですか?では最後にあなたの命の声を聞かせてください。」
下沢はゆっくりと逆手に持った剣を振り上げて狙いを高梨の心臓に合わせる。
「や…め…」
「さようなら、高梨コーチ。」
無慈悲な刃が高梨に向けて振り下ろされた。
ジリリリリリ
けたたましいサイレンに手元が狂い剣は高梨の脇に突き立った。
「何事でしょうか?」
窓の外を見ると煙がモウモウと立ち上っていた。
遠くから消防車のサイレンの音が聞こえてきたことで火事だと気付いた下沢に焦りが生まれた。
「良くない、ですよね。」
計画ではここで高梨を殺しても月曜までは人が来ないから適当に処理するつもりだった。
だが火事となれば消防隊か救急隊が入ってしまいすぐにでも見つかってしまう。
さらにこのまま逃げたところで高梨が助かってしまえばそこから情報が漏れてしまい最終的には追い詰められるかもしれない。
「…やはり、ここは…」
しばしの逡巡の後、下沢は剣を握り直して虫の息の高梨に向き直った。
「死人に口無しと言いますし、すべてが焼けてしまえば何も残りません。」
だが、下沢の浮かべた嗜虐の笑みは降ってきた水に流された。
「スプリンクラーまで!?」
降りしきる水に地面の血だまりが薄く広がっていく。
こうなると焼死体にするのは困難になりびしょ濡れでいることは現場にいた証拠になってしまう。
消防署はあいにくすぐそばで渋滞するような道はなく学内にも人は少ないからすぐにでも到着する。
ここにきて初めて下沢は不安げに顔を歪めた。
「仕方ありません。あなたの処分は後日にします。」
言うが早いか下沢は階段を駆け降りて出口から飛び出す。
幸い学内に人が少ないのか野次馬は集まっておらず消防車もまだ来ていなかった。
下沢は濡れて重くなった制服の気持ち悪さを押し込めて校舎に向かって駆ける。
「なんなのでしょう?」
計画が完全に狂わされた偶然に下沢は首をかしげる。
とにかく見つからないうちにヴァルハラに行かなければと急ぐ。
昇降口を抜ければゴールはすぐそこ、綻びかけた下沢の顔は…開けようとしたドアの向こうから出てこようとした男子と鉢合わせになって微妙な笑顔のまま固まった。
僕は下沢と一緒に保健室に来ていた。
びしょ濡れのままだと風邪を引くからと連れてきたのは割りと本心だったりする。
下沢は警戒というよりは困惑した様子でついてきた。
少し探すと見つかったタオルを手渡して暖房を入れて部屋を暖かくする。
「脱いだ方が早く乾くと思いますけどどうします?」
「さすがにそれは…。連絡して迎えに来てもらいます。」
「あ、そうですね。」
下沢は小さく首を横に振ると携帯を操作して何処かに連絡をしていた。
会話の内容からして普通に家族に連絡しているのかもしれない。
「こんな時間まで部活ですか?」
「ええ、そのようなものです。あなたは?」
「僕は勉強が遅れているので先生に教えてもらっていたんです。」
ちなみに方便ではなく本当に進行状態を確認したり説明してもらったりしていたのだが、なんか先生が涙流して喜んでいた。
(とりあえず会話は成立した。)
ここからが勝負。
「さっき体育館の方から煙が上がっていたみたいですけど何かあったんですか?」
下沢は窓の外に目を向けるようにして顔を背ける。
表情に少しだけ焦りが見られた。
「…そう、みたいですね。」
「あ、そう言えば体育の時にハンカチ忘れたかもしれないんだった。ちょっとこれから探してきますね。」
僕が出ていこうとすると下沢は慌てた様子で立ち上がり腕を掴んできた。
僕はなに食わぬ、そして不思議そうな顔で振り返る。
「どうしたんですか?」
下沢は息を飲んだ。
自分の行動がいかに不自然だったかを理解し必死に自然な理由を探しているのが窺える。
「へくちっ。」
「やっぱり脱いだ方がいいですよ。風邪引きますから。僕は出てます…」
「だ、大丈夫です!」
珍しく声を張り上げた下沢はより一層行かせるまいと腕を強く握ってくる。
窓の外からサイレンの音が聞こえる。
ビクッと下沢の体が震えた。
「どうしました?顔色が悪いみたいですが?」
消防か救急がボヤを鎮火したあと突入して高梨を発見してしまうことを想像したのだろう。
凶器が絶対に見つからないとしても容疑者としてあげられれば良家のお嬢様だろうと社会的に迫害を受けることになる。
(これで詰みだ。)
高梨の証言に加えて学校にいたことは僕という証人もいる。
もう逃げ場はない。
「いやー、危なかった。」
勝利を確信し、それを盾にあの武器について問い詰めようとした矢先に保健室のドアが開いて等々力良子が入ってきた。
「等々力先輩。来ていただけましたか。」
(しまった!さっきの連絡はヴァルキリーの方だったか。)
等々力の手には下沢の代えの服があった。
等々力は一緒にいて、しかも下沢が引き留めようとしている僕を見て不思議そうに首をかしげた。
「あれ、もしかしてお邪魔だった?」
「いえ、助かりました。」
僕本人がいる前でそれはどうかと思っていたら等々力も同じらしく苦笑していた。
「それじゃあ、あとはあたしがやるから君は気をつけて帰りな。」
潮時だと判断して特に逆らうことなくドアに手をかけた。
背後から2人の視線を感じる。
「本当に、気をつけてくださいね。」
「どんな危険があるか分からないからね。」
その発言は危ない目に会うという予言めいていて背筋にうすら寒いものが走った。
「はい、ありがとうございます。」
あくまでもただの高校生として僕は退出した。
ドアを閉めて一呼吸、足が震えた。
(思った以上に危険な相手だ。)
さっきの視線だけで寿命が縮んだ思いがした。
結局高梨コーチの安否も不明だしあの武器のことも聞けなかった。
勝負にしたら僕の負けである。
(まあ、命があっただけ良しとしよう。)
その後帰るまでビクビクして帰ったが彼女らのいう気を付けないといけないことは起こらなかった。
「ふーん、あれが。」
「なかなか興味深いですね。」
陸を見送った2人は不気味に笑っていた。
「さて、どうしてあげましょうか。インヴィ。」