第68話 ジェム警戒網を展開せよ
夜、ヴァルキリーと深夜に差し掛かろうという町の裏側は俄に騒がしかった。
ヴァルハラを作戦司令部として葵衣が各所から上がってくる情報を統合、逐次報告する。
「渋谷第一班、ジェムとの交戦状態に入りました。新宿第七班、状況終了。直後新たに現れたジェムの襲撃を受けた模様。」
「くぅ。アオイ、新宿の二班を応援に回すのです。」
「了解致しました。壱葉、建川にもジェムが出現。壱葉には美保様が、建川には良子様が率いる部隊が対応しています。」
「ミホとリョーコなら大丈夫ですわ。余剰戦力を他に回しなさい。」
「他地域でもジェム出現。」
「キー!何なんですの!?」
ヘレナがヒステリックな悲鳴を上げた。
だがそれも仕方がない。
何故ならジェムが前代未聞の大攻勢をかけてきたからだ。
これまで散発的だったジェムの活動の活性化、予想を大幅に上回る広範囲かつ高頻度の出現にさすがのヴァルキリーも総出で事に当たっていた。
家の事情で不在の撫子以外は。
「この一大事にナデシコは。もう!アオイ、ワタクシも出ます。総合指揮は任せますわ!」
「はい。御武運を。」
葵衣の指示速度が跳ね上がる。
指示伝達と情報入力をほぼ同時に行うのだから当然だがヘレナは邪魔をしていたのではないかと落ち込み
「セレナイト!」
三日月の鎌と黒衣を備えた戦闘形態へと変わって飛び出していった。
「…ヴァルキリーのソーサリスがいれば、被己戦力差は埋められます。」
パソコンの画面にはジェムの出現ポイントとヴァルキリーの勢力図が映し出されている。
赤が増えていく現状を前に、誰もいない居室で葵衣の口の端に微かな笑みが浮かんでいた。
ヘレナは手薄な地区へと救援に向かうべく闇夜の道をかけていた。
ハンドフリーの無線機で葵衣と連絡を取る。
「アオイ。」
『新橋方面に向かってください。既に5小隊を配備していますが…』
途中から葵衣の言葉はヘレナの耳に入らなくなった。
照明の壊れた暗いガード下の道で幽鬼のように立ち塞がる3つの影があった。
ヘレナは靴の裏を滑らせて制動をかける。
「足止めですの?馬鹿にされたものですわね。」
「ガアア!」
人の物とは思えない咆哮を上げて闇に浮かび上がるシルエットが不自然に膨れ上がっていく。
「悪鬼、いえ、鬼ですか。」
闇の向こうで2倍以上の体積に変化したジェムの6つの瞳が禍々しい赤に輝き、そのすべてがヘレナに向けられる。
恐怖を誘う赤い瞳を前にヘレナは
「東欧の黄ザルが赤鬼に変わりましたわね。ワタクシ、黄色はまだ許せるのですが、赤は我慢なりませんの!」
それを凌駕する朱色に左の瞳を光らせて吠えた。
圧倒的な威圧感に震える大気にジェムオーガが脅えるように怯んだ。
「遅いっ、ですわ!」
ジェムオーガが声に反応したときには既に弧を描く刃が首筋に触れていた。
恐怖に目を見開く間も無く鬼の首が胴体から撥ね飛ばされた。
あまりの早さに胴体が倒れるよりも先に血が噴水のように吹き上がった。
ヘレナは血の雨が降る中で文字通り鬼の首を取ったように尊大に微笑んだ。
「ああ、赤い。嫌ですわ。このままでは…」
ペロリと頬についた血を舐めて
「止まれなくなりますわ。」
盛大に笑う。
理性を失ったジェムにすら生物の根幹にある恐怖を与えるほどに壮絶に。
「アハハハ!」
高笑いを上げ、血飛沫を巻き上げながら鎌を振るう姿を見たものがいれば思ったであろう。
あれこそが死へと誘う死神だろうと。
下沢悠莉は東京駅の上にいた。
風に靡く髪を押さえながら風のさざめきでも聞くかのように穏やかに瞳を閉ざしている。
彼女の回りには青い結晶体がユラユラと漂いながらゆっくりと回っていた。
悠莉には合計8個のコランダムに封じ込めたジェムとジュエルが戦いを繰り広げている姿が多元中継のように脳裏に浮かび上がって見えていた。
そのどれもがジェムに苦戦してはいたが悠莉のサポートでどうにか優勢に事を進められていた。
突然耳につけた無線機が鳴り
『悠莉様、応答願います。』
司令部の葵衣から連絡が入った。
(しばらく虚無の闇の中で大人しくしていてください。コラン-ダム。)
すべての映像で同時に闇の侵食が始まり、ジェムと一緒に閉じ込められていたジュエルが飲み込まれていった。
「ふぅ。」
一息ついて目を開けた悠莉は無線機を手に取り、
「これでしょうか?」
通信ボタンらしきものを押してみた。
『悠莉様。』
「はい、何でしょうか?」
『そちらの反応は検出されません。戦況の報告をお願いします。』
コランダムは小さな世界を作り出すグラマリー、外部からの干渉を受けないシェルターとしても働くため情報が出ていくこともないのである。
「8体のジェムを確保してコランダム内でジュエルが応戦しています。」
『引き続き東京周辺の警護をお願いします。』
「あ、葵衣様。」
通信を切ろうとした葵衣を悠莉は呼び止めた。
手を伸ばしてしまうのはご愛嬌だ。
『はい。なんでしょう?』
「今日は"Innocent Vision"は現れていないんですか?」
『そのような報告は入っていません。』
「そうですか。」
悠莉の呟きで会話は終了したと判断したらしく葵衣は通信を切った。
「ジェムの大発生と現れない"Innocent Vision"、もしかして半場さんたちは…」
悠莉は物憂げな視線を空に向ける。
それは何かを期待するように頼りなく揺れていた。
そして、コランダムの中でジュエルが心にトラウマを植え付けられるまで悠莉はその事をすっかり忘れてしまったのであった。
「エスメラルダ!」
夜の闇を翠の光が照らしあげる。
その光にジェムが魅了されて動きを止めた瞬間にジュエルの突撃が炸裂しジェムが断末魔の叫び声を上げながら事切れた。
美保は無造作に髪をかきあげてガシガシ頭をかく。
「まったく次から次に、焦れったいわね。出てくるならまとめてきなさいよ!」
そうは言ってもジュエルは連戦で動きが鈍ってきており戦闘終了と同時に座り込んでしまう者も少なくなかった。
美保は小さく舌打ちする。
(使えるようになるには時間がかかりそうね。"Innocent Vision"はどうしたのよ?)
共闘条約は助け合うではなく互いに邪魔をしない程度の約束なのだが美保は構わず現れない"Innocent Vision"に悪態をついた。
突然イヤホンに着信音が響いて美保は顔をしかめる。
「こちら神峰。鎮圧終りょ…」
『緊急事態。美保様の付近に大量のジェム反応あり。数は…』
「…必要ないわ。」
ギリと奥歯を噛んで美保は前方を睨み付ける。
今まで相手にしていたよりも一回り大きなジェムオーガが前後の道から3体ずつ、計6体近づいてきていた。
放たれる強い威圧感にジュエルが怯えた悲鳴を上げた。
チッと美保は何に対してか舌打ちしてスマラグドを構えた。
「あんたたちは後ろをやりなさい。あたしは前を相手にする!」
刀身に翠の光を宿して美保は空を薙いだ。
刀身から飛び出した光刃がジェムオーガの腕を弾き飛ばす。
(いける。羽佐間由良なんかよりずっとやりやすいわ。)
いまだに以前の戦いを根に持っておりその怒りを糧に美保の力が膨れ上がる。
眼前の敵をどう切り刻んでやろうかと暗い殺意が頭をもたげてきた。
「きゃー!」
だから、背後でバキバキと何かが砕ける音がするまで気付かなかった。
「しまった。」
ジュエルがソーサリスに比べて弱いことを。
そしてジェムオーガが普段の敵よりも強いことを。
振り返って見たのは地に倒れ伏したジュエルと鬼の剛腕に腕を握りつぶされてぐったりしている1人のジュエルだった。
カッと美保の頭が熱くなり
「このぉ!」
怒りに任せて翠の光刃を飛ばした。
その攻撃に対して、ジェムオーガは掴んだままのジュエルを突き出した。
「なっ!?」
ジェムオーガの顔が嫌らしい笑みを浮かべたように見えた。
光刃はまっすぐにジュエルに向かい、
空中で霧散した。
「え?」
「!?」
美保とジェムオーガの双方が理解できずに固まった。
次の瞬間、ジェムオーガの腕がごとりと地面に落ちてジュエルが助け出される。
さらに一太刀、ジェムオーガは真っ二つに割れて死に絶えた。
「あんた…」
美保は忌々しげに顔を歪めて一連の動きでそれらすべてをやってのけた人物を睨み付けた。
「柚木明夜!」
明夜は呼ばれて振り向くと今度は美保に向かって跳んだ。
「やる気?」
スマラグドを構えた美保だったが明夜はその脇をすり抜けて美保の背後に迫っていたジェムオーガを斬り倒した。
背後での戦闘音に美保がプルプルと体を震わせる。
「柚木明夜に、助けられた?このあたしが?ふふ、ふふふ。」
美保は顔を上げた。
前方に2体のジェムオーガがいた。
すべての怒りがそこに向けられ
「殺す!」
美保は踊りかかっていった。
海原緑里のジュエル部隊も強力なジェムオーガに苦戦していた。
「きゃあ!」
ジュエルの1人が薙ぎ払われて壁に叩きつけられた。
「くっ、ベリル!」
緑里がソルシエール・ベリルを振るうと闇の中を這うように何かが駆けてジェムオーガの腕をはね上げた。
苦悶の呻き声をあげるがまだ倒れずその背後にはまだ何体も残っている。
「守りながらじゃ戦いづらい。」
「だったら守らなければいい。」
ザクンとジェムオーガの背中に角が生え、そこから血が吹き出す。
角はまるで水晶のようで血を浴びても曇らない。
「あれはクリスタロス!?」
ハッと上に顔を向けるとそこには羽佐間由良の姿があった。
地上2階程度の高さから軽々と跳ぶとジェムオーガの背中に飛び乗り掴んだ玻璃を背骨に沿って走らせた。
周囲に濁った血を撒き散らしながらジェムオーガは絶命した。
由良は無造作に血払いをしてジェムオーガの群れを睨み付けると首だけ緑里の方に振り返った。
「さっさと避難しろ。俺のは優しくないぞ。」
その意味に気付いた緑里が悔しそうに顔を歪めて
「動ける人はすぐに逃げて!」
ジュエルに叫ぶと自分も距離を取るべく走った。
(手柄を持っていかれた!撫子様ぁ!)
心で泣く緑里の背後で空気の激震が発生した。
「あら、これはちょっと厳しいですね。」
悠莉は慌てた様子もなく言ったが状況は言葉通りだった。
コランダム内で8体のジェムをジュエルに倒させ解放した直後、ジェムオーガが襲ってきたのだ。
コランダム内でトラウマを植え付けられたジュエルは使い物にならず残っていたジュエルだけではジェムオーガに対抗するのは難しかった。
悠莉は負傷したジュエルを守る盾として青い壁を展開するのに精一杯であり、内側に入る人数は刻一刻と増えていく。
司令部の葵衣に救援を問い合わせたが
『努力はしてみますが…』
と色好い返事は貰えない始末。
(あまり直接戦うのは得意ではないですが、やるしか…)
戦いを決意してコランダムを解除しようとした悠莉は
「止めた方がいいよ。」
そんな声を聞き、直後戦場を目映い光が包み込んだ。
「何でしょうか、これは?」
光が収まって目を開いた悠莉はポカンと口を開けるほど驚いてしまった。
ジュエルが異常に怯え、ジェムオーガが互いに血みどろになりながら殴り合っている。
「その生物の抱く一番怖いものが見えてるの。人間は怖がり、化け物は排除するために戦う。それが幻覚だと気付かずにね。」
コランダムの外側にはいつの間にか江戸川蘭がいた。
彼女のソルシエール・オブシディアンを中心に空間が歪んでいるように見えた。
「江戸川先輩。」
「助けに来たよ。悠莉ちゃん。」
悠莉はその笑顔と言葉に頬をひきつらせた。
「…ありがとうございます。蘭様。」
言い直すと蘭は満足そうに頷いて同士討ちをしているジェムオーガを見た。
その横顔に浮かぶ酷薄な笑みに悠莉は身を震わせた。
「みんな、踊って。死ぬまでずっとね。あはは。」
化け物の狂宴は本当に命尽きるまで続けられ、最後の1体も蘭の手により一撃で葬られた。
コランダムの中でその様子を見ていた悠莉とジュエルもその後、蘭様と呼ぶようになったのであった。
「"Innocent Vision"の参入を確認。各地で次々にジェムが鎮圧されています。」
葵衣は誰にともなく呟いてタイピングの手を止めた。
画面を感情の灯らない目で見つめる。
「"Innocent Vision"。味方としては頼もしく、敵としてはジェム以上に厄介な相手です。」




