第54話 傷ついたものたち
僕が壱葉に到着したのはもう夕方だった。
帰宅する会社員たちの間をすり抜けるように走りながら教えられた病院を目指した。
運動不足もあるがそれ以上に胸を締め付けるような感覚に呼吸が苦しくなる。
(タクシーにすればよかったかな?)
病院を黙視できる所まで来てからそんなことを思ったがすでに遅い。
病院前の信号がなかなか青に変わらないことが無性に不安を煽る。
青になった瞬間再び駆け出して病院に駆け込んだ。
「半場くん!」
入り口まで迎えに出てきてくれたのは久住さんだった。
「こっち。」
用件は決まっているからどちらもそんな言葉を交わすことはなく早足に歩き出した久住さんの後に続いた。
「作倉さんは?」
「半場くんに電話した後はずっと泣きっぱなしね。今は八重花があやしてる。」
芦屋さんが病院に運ばれたと口にしたあと作倉さんは泣き出してしまった。
その電話を引き継いだのは八重花で、八重花から病院の場所や芦屋さんの状態を聞いた。
「真奈美はピッチャーだったの。今日はすごく調子が良さそうで。それで最終回、真奈美も無理してたのね、バッターギリギリの暴投をしたわ。バッターもカウントで追い詰められてて無理やり振りに行って。すっぽ抜けたバットが真奈美の左足の膝を直撃した。」
そう教えられたが余りにも辛そうな声だったため詳しい状態を聞く気にはなれなかった。
久住さんに運び込まれたときの様子を聞いてみる。
「芦屋さん、どんなだった?」
久住さんは顔を俯かせながら訥々と語る。
「膝がね、変な方向に曲がっちゃってた。真奈美はすぐに気を失って運ばれてきて、今は治療室よ。」
廊下を曲がると赤ランプのついた手術室が見えた。
その部屋の前に置かれた長椅子に八重花に抱き締められて啜り泣く作倉さんと沈痛な面持ちの中山さん、そして恐らくは芦屋さんの家族だろう中年の男女がいた。
八重花が僕に気付いて力ない笑みを見せた。
作倉さんも中山さんも顔を上げた。
こちらを見ていた芦屋夫妻に
「芦屋さんの友達の半場陸です。」
と簡単に挨拶をしてみんなの前に立つ。
「りくりく、まなちぃが…」
「うん、聞いたよ。」
ポンポンと優しく頭を撫でるように叩いてあげると
「ふぇ…」
それまで堪えていた涙を溢れさせて中山さんが泣きついてきた。
「えええーん!」
あいにく抱き締めてあげるだけの度胸はないので胸を貸してあげるだけだが中山さんは僕の服をぎゅっと握って赤ん坊のように泣き続けた。
みんなももらい泣きし始めたので僕は無理に少しだけ元気よく声を出す。
「大丈夫だよ。芦屋さんはみんなを置いていったりしないって。」
その言葉でさらに泣き出して抱きついてくる女の子たちに囲まれながら僕は願った。
(Innocent Vision、どうか芦屋さんが無事な夢を見せて。)
願ったときには気まぐれな夢は答えてくれず、この場を離れるわけにもいかないからスタンIVを使うこともできずに1時間ほどの時間が過ぎた。
何かを待つことしかできない時の時間の進み方ほど遅く感じるものはなく、無言で啜り泣く声だけが響くこの場所は下沢のコランダムに匹敵するほど居たたまれない気分になった。
不意に赤いランプが消灯した。
中から出てきた医者の服についていた血に作倉さんが貧血を起こしたようにふらつくのを支える。
「大丈夫?」
「は、はい。」
「先生、真奈美は、真奈美は無事なんですか!?」
僕たちよりもずっと不安だったのだろう。
芦屋夫妻は医者の肩を揺すって大声で問い詰めていた。
別の医者が引き剥がして落ち着けさせる。
担当医はわずかに目を伏せて告げた。
「命に別状はありません。」
その言葉に場の空気が柔らかくなる。
だけど僕は気が重くなった。
本当に辛い事実を打ち明ける時ほどささやかな幸運にすがりたくなるものだから。
「ですが…」
担当医は呟くように続けた。
「膝の骨が完全に砕けて血脈と健を傷めていました。もはや壊死を待つしかなかったためこちらの判断で切断しました。」
瞬間、その場から音が消えた。
誰もが呼吸すらも害悪のように止めて信じがたい現実を受け入れられずにいた。
「うあああー!」
泣き崩れたのは作倉さんだった。
膝を折ってペタンと女の子座りになって泣き出した。
久住さんも中山さんも八重花も作倉さんに抱きつくように、すがるように涙を流す。
芦屋夫人も旦那さんに泣きついて静かに泣いていた。
悲痛の面持ちで去っていく医者に会釈をして僕は天を仰いだ。
(この世界は本当に優しくない。)
芦屋さんは面会謝絶ということで僕たちは悲嘆に暮れながら帰り道を歩いていた。
「真奈美ちゃん、真奈美ちゃんっ!」
作倉さんはもう涙が渇れるんじゃないかというほど泣き続けていて久住さんと中山さんが懐抱している。
僕の隣を歩く八重花も俯いて話しかけるのは躊躇われた。
そうして誰もが無言のままそれぞれの家へと別れる交差点にたどり着いた。
「半場くん、私たちは叶を送ってくから八重花をお願いしていい?」
「うん、わかった。」
久住さんたちは作倉さんを支えるようにしてゆっくりと帰っていった。
それを見送っていた僕の手が突然握られてそのまま引っ張られる。
「や、八重花?」
八重花は俯いたままずんずんと早い足取りで表通りから少し裏手に入った場所を進んでいく。
僕は真意が分からず連れられるままに八重花の後に続いた。
「…。」
八重花が足を止めた。
それは1つの建物の前、「Hotel」。
八重花が一瞬止まっていた足を再び進めようとしたので僕は慌てて掴まれたままの手を引いた。
「ちょっと、八重花…」
八重花は人形のように抵抗せず引っ張った僕の胸に倒れ込んできた。
背中に回された手、細い肩、そして触れ合う体が小刻みに震えていた。
「八重花…」
僕はようやく八重花が泣いていることに気が付いた。
見上げてくる八重花の濡れた瞳に胸が締め付けられる。
「りく、慰めてよ。悲しくて胸が痛いの。」
すがり付いてくる八重花の肩を控え目に抱き締める。
八重花だって不安で泣きたかったはずだ。
それでも作倉さんを安心させるために泣かないように、普段通りの冷静な姿を必死に繕っていた。
なら、僕は本当の八重花を受け止めてあげないと可哀想だと思った。
「うう、りく、りくっ。」
圧し殺したように泣く八重花の頭を胸に抱き締める。
何事かとあまり多くない通行人が見ているが気にしない。
今は八重花の気がすむまで泣かせてあげたかった。
「りく…」
少しだけ泣き止んだ八重花が僕を見上げてきた。
「駄目だよ。」
何が言いたいかはわかる。
だからこそ僕は先に否定の言葉を返した。
「悲しいのはわかるよ。でも僕はこんなことで八重花を傷つけたくないんだ。」
きっとここに入れば一時は今感じている悲しみから逃げることはできるだろう。
でもそれは僕と八重花に取り戻せない傷と後悔を作る。
「八重花を傷つけたくないんだ。」
「りく…」
八重花は泣きそうな顔で小さく笑うと僕の胸にコテンと額をぶつけた。
「うん、ありがとう。」
今更ながら私服の僕と制服姿の八重花がこんな場所の前で抱き合っているととんでもない誤解を与えるんじゃないかと思えてきて、慌ててこの場を離れようと思った。
「八重花、そろそろ帰ろうか。送っていくよ。」
「…ここまで来てなにもしないなんて、りくの意気地無し。」
口調が柔らかくなって八重花がいつもの調子でフフと笑みを浮かべていた。
今のセリフは是非とも八重花の冗談であってほしいものだ。
実際に据え膳に手を出さなかった僕には苦笑を返すより他ない。
「ん。」
僕の顔を下から覗き込んでいた八重花が瞳を閉じて顎を上げた。
「いっ!?八重花!?」
八重花は答えずジッと待っている。
みずみずしい唇がネオンライトに照らされてとても魅力的に映る。
僕は引き込まれるように顔を寄せて…八重花のおでこに軽くキスをした。
それだけでも恥ずかしくなって慌てて体を離す。
「これで、勘弁して。」
心臓が痛いくらい激しく動いている。
ちらりと横目で見ると八重花は呆然と自分の額に手を当てていた。
僕の視線に気が付いて照れたような笑みを浮かべる。
「…仕方がないからこれで我慢してあげる。」
八重花は僕の腕に抱きつきながら笑う。
「送ってくれるんでしょ?行きましょ。」
「分かったから抱きつかないで。誰かに見られたらなんだかとんでもない噂を流されそうな気がするから。」
「…私は、それでいいよ。」
八重花は悪戯な笑みを浮かべてより強く腕を抱き締めた。
もはや何を言っても無駄だと悟り抵抗を諦めた。
隣を歩く八重花に目を向ける。
「何?」
一時的かもしれない、仮初めかもしれない。
それでも今だけだとしても八重花に笑顔が戻ってよかったと思う。
「何でもないよ。」
それを告げるのは恥ずかしいから誤魔化して視線を前に戻す。
ふと浮かんだのはずっと泣き続けていた作倉さんの姿だった。
(作倉さん、大丈夫だといいんだけど。)
「む、りくが他の女の事を考えてる。」
無駄に鋭い八重花につねられながら僕たちは笑い合う。
迫る夜の闇の中で不安に押し潰されないように。
八重花を自宅まで送り届け、両親に紹介されそうになったのをどうにか辞退して家に帰る途中、誰もいない住宅街の真ん中で僕は足を止めた。
「僕は…泣けなかった。」
他のみんなよりも僕は付き合いが短いし、芦屋さんも足の切断という大怪我を負ったものの一命は取り止めた。
でも、そんな前提条件を考慮しても僕は泣かなかっただろう。
海に友達が出来たと報告したばかりだというのに僕にとって友達の大怪我とは涙も出ないほど軽々しいものだったということか。
「"化け物"の僕に"人"としての感情は分不相応ってことか。はは。」
ポケットに入れていた携帯が振動した。
僕は画面を確認せずに通話ボタンを押す。
「はい。」
『陸か?話がある。ちょっと学校まで来てくれ。』
電話の相手は由良さんだった。
一方的に用件だけを告げると一方的に電話を切ってしまった。
僕の反論の余地は微塵もなかった。
「まあ、いいけどね。」
意識を切り換える。
ここから先は"Innocent Vision"の半場陸だ。
荷物に紛れ込ませておいたスタンガンをポケットにしまい込む。
感傷を捨て、僕は顔を上げて夜の町を歩き出すのだった。
陸が学校の前で明夜と由良、"Innocent Vision"と合流して何処かに向かっていく。
その光景を江戸川蘭は屋上の縁に腰掛けて足をプラプラさせながら眺めていた。
「ヴァルキリーと"Innocent Vision"、いよいよ本格的に動き出すみたいだね。さてと、ランはどうしようかな?」
顔を上げれば所々に光を散りばめた闇色の町が映る。
高いビルの屋上で明滅する赤い光を蘭はジッと見つめながらポツリと呟いた。
「どうすれば…面白くなるかな?」
蘭は酷く冷たく、恐ろしいほどに強い笑みを浮かべていた。
視線を校舎の壁面を見るように下へと向ける。
覗き込む形になってかなり不安定な体勢だったが蘭が恐れる様子はなかった。
1階の角部屋、分厚いカーテンに仕切られた部屋からはわずかに光が漏れている。
「撫子ちゃんたちはなんだか面白いことを始めようとしてるみたいだし、もうちょっとこっち側で遊んでようっと。」
蘭はぴょんと飛び上がって縁の上に立ち上がった。
冷たい風が吹き抜けて髪とスカートを揺らす。
「りっくんはヴァルキリーの計画を止められるのかな?」
蘭はくるりと回る。
フェンスの向こうには長い白髪を無造作に風に靡かせた少女が立っているように見えた。
蘭は口の端をつり上げて笑う。
「それとも、抗えない?楽しませてね、りっくん。」
蘭と白の少女は互いにフッと笑い合った。
少女は幻のように去り、
「んしょ、んしょ。」
蘭は必死にフェンスを乗り越えるのだった。