第53話 過去の終わりと未来の始まり
目を覚ますとすっかり夜になっていた。
鮮血の惨状を思い出して身を震わせたがしばらくしても体の震えは続いた。
何事かと考えたら窓を開けっ放しにしていたせいか少々肌寒い。
起き上がって窓を閉めようとした僕は
「何でなの!?」
人の叫ぶ声が聞こえてその手を止めた。
声は下から。
「海?」
それはどう考えても海の声だったがその怒気はまるで別人のように苛烈だった。
窓を閉めても家の中からくぐもった怒声が聞こえてきたので海で間違いないようだった。
「どうしたんだ?」
暗がりの中を歩いて部屋を出る。
ドアを開けると部屋の前にはまだ温かそうな夕食の乗ったお盆が置かれていた。
その脇を通ってゆっくりと階段を降りる。
「海、落ち着きなさい。」
「落ち着けるわけがないでしょ!酷いよ!」
リビングのドアは開いているらしく蛍光灯の白い光が暗い階段を仄かに照らし、海の声が隔たりなく聞こえてきた。
僕はここまで感情を剥き出しにして怒る海の声を聞いたことがない。
好奇心とわずかな恐怖を胸にリビングに足を踏み入れた。
「どうして、お兄ちゃんを除け者にしようとするのよ!?」
僕の目の前で海は肩を震わせて叫んでいた。
「…。」
「…。」
両親は海の質問にも僕の姿を認めても何も言わない。
近づいていくと海は瞳にいっぱいの涙を溜めていた。
僕に気が付くと海の表情に笑顔が戻る。
目元の涙をゴシゴシと拭った。
「お兄ちゃん、起きてきたんだ。一緒にご飯食べよ。」
海の言動と部屋の前に置かれていた夕食から海が何を怒っていたのか理解した。
理解して、僕は憤りを覚えた。
なんで海は僕なんかに優しくしようとするのか。
僕を放っておけば海は両親と仲良くできる。
愛情を一身に注がれて健やかに過ごせるはずだ。
人は誰しも自分を優先させる。
両親が僕を避けてあまり外に出したがらないのも他人からの害意を少しでも減らしたいという一種の自衛行動だ。
それに対して僕は何の感慨も抱いていない。
だけど海の行動は僕を恐れさせた。
海の行動は海自身を追い詰めることになるというのになぜ僕を構うのか理解ができず、理解ができないから余計に海が怖かった。
僕は何も答えず今入ってきたリビングのドアから出ていこうとした。
「待って!」
海が叫びながら僕の手を取った。
今は海の顔を見たくなかったが乱暴に手を振るっても海が離してくれないので仕方なく振り返った。
「何?」
酷く冷たい声だった。
海がビクリと震えた。
「ご飯はみんなで食べた方が楽しいよ。だから…」
無理に浮かべた笑顔が、無邪気な言葉が今の僕には腹立たしくて仕方がなかった。
乱暴に腕を振るって手を離させ、僕は海を睨み付けた。
「お兄、ちゃん…」
怯えた海に僕は
「僕は一度だってみんなと食事をして楽しかったなんて思ったことはない。」
言ってはならない言葉を口にした。
海が呆然とし、やがてその顔が絶望に染まる。
瞳からは涙が止めどなく伝う。
「お兄ちゃんのバカー!」
海は僕を突き飛ばすと乱暴な足音を立てて階段をかけ上がって行ってしまった。
バンと壊れそうなほど乱暴に海の部屋のドアが閉められた音がした。
両親は何か言いたげだったが結局何も言わなかった。
僕もこの場にいる必要はなくなり自室に戻る。
部屋の前にあった夕食はすっかり冷めきっていた。
それから海は僕を避けるようになった。
朝は起こしに来なくなったし鉢合わせてもそそくさと去っていく。
僕がInnocent Visionの内容を適当に掲示板に書き込んだり眠っていたりと部屋から出ないので、もともと会う機会が少なかったということもあるが。
そして、僕と海に溝が出来たまま、運命の日が訪れた。
それは重たい雲が空の青を灰色に塗り潰した気分まで重くなるような日だった。
何とはなしに早く目が覚めてしまった僕はもう一度眠ろうとしたがどういうわけか寝付けなかった。
仕方がないのでベッドから出てリビングに向かった。
「あっ…」
食卓ではちょうど海が朝食を摂っている所だった。
パンをくわえたまま小さく驚きの声を上げた海は目をそらしてもそもそとパンを食べる。
僕は冷蔵庫を開けて牛乳をコップに注ぐと煽った。
横目で見ると海が変な顔をしていた。
海に言わせると牛乳は温めて飲むものらしく冷たいまま一気飲みなど考えられないらしい。
僕は牛乳を朝食代わりにして流しに置くと席につく事もなく部屋へと戻る。
リビングを出るときに見た海の表情は何か言いたそうだったがその時の僕にはたとえ双子であっても何を言いたいのかはわからなかった。
僕たちは言葉を交わさぬままドアによって互いを阻み
これが僕の見た海の最後の姿だった。
微睡みながらゆっくりと目を開けると辺りは暗くなっていた。
気まぐれな夢を見なかったが何か夢を見ていた気がする。
何だったかはよく思い出せない。
普段はどんな夢でも覚えているだけに不確かなのは気持ちが悪い。
ブウウウウ
机の充電器の上で長らく眠ったままだった携帯電話が突然振動した。
中学の終わり頃、海が携帯を買ってもらうついでに買い与えられたものの使う機会がついぞ無く、結局家族の分しか登録されていない。
億劫だったが唸り続ける携帯が煩くて手に取った。
液晶には数字の羅列が並んでいる。
僕の携帯番号を知っているのは両親だが電話をかけてくる理由は無い。
ならば相手はもう1人の家族、海に違いない。
僕はギッと奥歯を噛んだ。
もう夕方から夜に変わるような時間だ。
海は部屋かリビングにいるだろう。
用件は何だかわからないが僕に用があるなら直接来ればいいのだ。
それを電話で済ませようとするのが腹立たしかった。
僕は携帯を枕元に放り投げてベッドに横たわる。
延々と唸り続けていた携帯はやがて止まり、着信ありの表示だけを残して沈黙した。
「何なんだよ?」
少し待っても海が部屋に来ることはない。
それが何だかまた苛立たしくて僕は布団にくるまっていた。
それからしばらくして階下が騒がしくなった。
口論をしているのか声を荒らげているようだったがその内容までは分からない。
突然鳴り出した電話に声は止み、電話との一方的な会話の声だけが聞こえた。
いつ電話が終わったのかもわからないほど静まり返った家の中、闇に包まれた僕の部屋のドアが力無くノックされて静かにドアが開いた。
そこに立っていたのは闇の中でさえ蒼白だと分かる両親。
言い知れぬ不安感に心臓を締め上げられるような感覚に教われた。
両親は起き上がった僕に静かに告げた。
海が、遺体で発見された、と。
長い長い後悔の根源を思い返していると結構な時間が経っていた。
額はジットリと汗をかいていて吹いてくる潮風は来たときよりも暖かい。
あのあと遺体を確認に行くという両親に僕はついていけなかった。
かかってきた電話の意味を今更ながら気付いてしまい海の顔を見ることができなかったからだ。
「海がいなくなって、父さんも母さんも少し僕に優しくなったよ。腫れ物を扱うみたいなのは変わらないけど、それでも僕は2人の子供だから、大事にされてると思う。海に注がれなくなった愛情を僕が受けることになったんだね。」
僕はグッと奥歯を噛み締める。
海に抱いていた苛立ちとは逆の、自分に対する憤りを覚えた。
「でもそれは独り占めできたのに嬉しくないんだ。海は、分かってたんだね。」
失って初めて海の優しさに気付いた僕は大馬鹿者だ。
人生において「もし」は意味が無いけれどそれでもあの時僕が電話に出ていれば海は助かったかもしれないとずっと後悔していた。
「海。最近、僕は学校に通い出して友達ができたよ。もっと早くにこうなれたなら海にも紹介したかったな。」
海ならきっと久住さんや中山さんと気が合いそうだ。
そんなあり得ない未来を少しだけ夢想して苦笑を漏らす。
「やっと海と向き合えるようになったんだ。僕は頑張ってみるよ。」
僕は立ち上がって視線を前に向けた。
空の青さを写し取ったような広大な海の青はどこまでも続いていて、陽光を反射する様は綺麗だった。
頭を撫でるように墓石の上に手を置いて軽く撫でる。
「それじゃあ、また来るよ。」
海が僕をどう思っていたのかはもうわからない。
でも僕はもう海を避けるようなことはしない。
ちゃんと海の死と向き合って生きていこうと思えた。
最後に墓地を出る前に振り返る。
「ありがとう、海。」
当然返事はなく、木々の葉が擦れる音がしただけだ。
それを海がわらってくれたと勝手に解釈して僕は晴れやかな気分で墓地を後にした。
「やっぱり、来てよかった。」
帰りもゴトンゴトンと揺れる電車に乗ったが4時前という半端な時間帯のせいか乗客数は皆無だった。
「芦屋さんの試合はもうやってる頃かな?」
ここから家まで2時間近くかかってしまうからどんなに急いでも応援には行けないだろう。
友達の頑張りを応援できないのは心苦しい。
特に人の好意のありがたみを再認識した後だと。
「後で芦屋さんに謝っておかないと。」
もし勝っていたならお祝いを上げるのもいいかなと考えるだけで楽しくなる。
「みんなを守りたいな。」
楽しいと、大切だと思える人たちだから海の時のように失いたくはない。
僕自身には力はないけど今は明夜と由良さんという仲間がいる。
だからきっと守れるはずだ。僕の、“半場陸”の日常を。
ブウウとポケットに入れていた携帯が振動した。
作倉さんからの電話だった。
一瞬どうしようか迷ったが乗客は誰もいないから車掌さんに心の中で謝って通話ボタンを押した。
「もし…」
「半場君!?半場君!」
電話が繋がった瞬間、作倉さんの慌てた声が響いた。
その涙声で切羽詰まった様子に嫌な予感がした。
僕はすぐに気を引き締めると一呼吸置く。
「作倉さん、落ち着いて。ゆっくりでいいから何があったか話して。」
「は、はい。あ、あのね。」
少しは落ち着いたようだったがしどろもどろでなかなか用件に入らない。
それでも急かしたところでどうしようもないので辛抱強く待った。
「あ、ま、真奈美ちゃんが、真奈美ちゃんが、今日試合があって…」
作倉さんの向こう側の雑音の中にサイレンの音が聞こえる。
(まさか。)
頭を振って悪い予想を振り払うが残念なことに僕は理解してしまっていた。
嫌な予感ほど真実に近しいということを。
そして嗚咽を交えた作倉さんから
「真奈美ちゃんが、大怪我して、救急車で病院に…」
守りたかった日常が歪む音を聞いた。
ヴァルキリーの面々は外の喧騒を気に止めながらもヴァルハラに集っていた。
江戸川蘭もその一員のはずだが例によってその姿はない。
花鳳撫子はその一点に不満を抱きながらも笑みを隠しきれない様子で立ち上がった。
「ナデシコ、何があるというのかしら?」
最優先事項だと召集されたため予定をキャンセルさせられたヘレナ・ディオンは不機嫌そうに腕を組んで撫子に目を向けた。
他のメンバーも用件を知らないようで撫子に注目していた。
「ようやくわたくしたちの悲願を成就するための準備が整いました。」
その言葉に皆の間に動揺が走った。
インヴィの敵対に伴い急ピッチで進めていた計画はヴァルキリーの全精力を注ぎ込み人材と資金と時間をかけてきた。
インヴィへの攻勢の手が少なかったのもその為だ。
だがそれも終わりを迎えた。
計画が軌道に乗れば“Innocent Vision”などものの数では無くなるのだ。
先週痛手を被った等々力たち“RGB”の顔にも不敵な笑みが浮かぶ。
撫子は豪奢な宝石箱を取り出して皆に見えるように蓋を開いた。
そこには小指の先程の大きさの透明な正八面体の結晶が収められていた。
「これが…」
緑里が魅入られたようにふらりと近づいていく。
透明なその宝石はどんな色にも染まっておらず、ゆえにどんな色にも染まりそうな神秘性を秘めていた。
撫子は皆の顔を見て大きく頷く。
「お嬢様、それでは…。」
「ええ。」
撫子は宝石箱を高々と掲げて力強く宣言した。
「これよりわたくしたちヴァルキリーは『プロジェクト・ジュエル』を開始致します。」