第50話 終わった後に始まる戦い
『それでは続いてのニュースです。**県壱葉市の廃ビルが昨晩倒壊しました。周囲への被害はなく、事故と事件両面での捜査が進められています。』
「聞いた?ビルが倒れたって?」
「不良の溜まり場だったんだろ?やつらが爆弾でも使ったのか?」
「怖いね。」
テレビでも登校中でも聞こえてくるのはどれも同じ話題だった。
「廃ビル倒壊。」
それも仕方がない。
最近猟奇殺人が付近で起こっているところに今度は大規模な倒壊、テロ組織の暗躍説も浮かんできているらしい。
僕は人の噂に耳を傾けつつ小さく嘆息した。
分かっていたこととはいえ気が重くなる。
噂の最後はこう締め括られるのだから。
死傷者はいなかった、と。
噂が広まっているのだから当然クラスもその話題で持ちきりだった。
そんな中でも噂や騒ぎ、面白いことに目がない人が黙っているわけがなかった。
「おはよ…」
僕が教室のドアを開けた瞬間
「大ニュースよ!」
人間弾頭と化した久住さんが僕の鳩尾に突撃してきた。
「う゛!?」
タックルの要領で僕の腰辺りをがっちりと抱え込む久住さんだがすでに初撃のダメージで虫の息の僕には抗う術も密着した体の感触を喜ぶこともできない。
せめてもの情けで喉からせり上がってきたものを強引に飲み込んだ。
酸っぱい味が喉に広がってちょっと泣ける。
「裕子、りくが困ってるわ。やるなら代わって。」
八重花が久住さんをたしなめつつ本音も告げてくる。
だけど助けてくれようとはしない。
ニヤニヤとした目が語っているのだ。
(助けてほしいならどうすればいいか分かるでしょ?)
僕はグッと拳を握りしめた。
痛みが引いてきて落ち着いてくると今度は感触の方で警戒警報、場所も悪いので久住さんに気付かれるとさらに面倒なことになる。
「助けて、八重花!」
僕の叫びにクラスは一瞬静まり返り
「了解。」
嬉しそうに微笑んだ八重花は一瞬にして久住さんを引き剥がしてくれた。
だがもういろいろと遅い。
「おい、半場が東條を名前で呼んでたぞ?」
「作倉が相手だと思ってたけどこの前の事故がやっぱり2人を結びつけたのか?」
「きゃー、きゃー!」
疑念は瞬く間に確信に代わり怨嗟と歓声の声が上がる。
前者は男子で後者は女子が主だ。
なぜか黒原君は女子の側で手を叩いていたが。
八重花はさも当然のように僕の隣に立って微笑みかけてくる。
「みんなが祝福してくれているわ。幸せになりましょうね。」
それはまるで結婚式のような台詞、その光景を一瞬想像してしまった僕は恥ずかしくて俯くしかなかった。
さらに囃し立てるクラスの女子。
穴があったら入りたい気分だ。
「八重花、半場君を苛めたらダメだよ。」
クラスの空気を全く読んでいないのか作倉さんが僕を助けに来てくれた。
だが僕にとっては救いの女神、ぜひともこの窮地を救っていただきたい。
「いじめてなんていないわ。からかっているだけよ。」
悪びれもせずに言ってのける八重花に対して作倉さんは唸る。
「むー、屁理屈だよ、それ。」
珍しくむきになっている作倉さんとあくまで余裕の態度を崩さない八重花の睨み合いは
「そんなことより大ニュースなのよ!」
放置されて不機嫌になった久住さんの叫びでお開きとなった。
周囲も僕たちよりも久住さんへの関心が高まってほっと安心しつつ久住さんの話を聞く体勢をとる。
「大ニュースって、あのビルの倒壊のこと?」
そんなのは今の壱葉で知らない者はいないほどの事件なのだから当然だ。
だが久住さんは得意気に指をチッチと振った。
「私がそんなネタで満足するわけがないじゃない。まあ、ビル倒壊に関係することなんだけどね。あれ、事故か事件かわからないって話でしょ?」
「そうらしいね。」
久住さんは僕の返答に満足そうに何度も頷いた。
思わせ振りながらも何かを知っていそうな雰囲気にクラスメイトも久住さんに注目する。
「でもあれは間違いなく事件よ。」
断言する久住さんにクラスがどよめく。
ちゃっかりまた僕の隣を陣取った八重花は冷静にしていて質問をする。
「その根拠は?」
「なんかね、ビルが崩れ始めたときとか警察が帰った後にビルの敷地から出てくる人を見たって情報がちらほら出てるらしいのよ。」
僕はギクリとしたが顔に出さないように努めた。
人気がない場所とはいえ皆無ではない。
しかも僕たちが撤退したときは慌てていたから周囲に気を配るような余裕はなかった。
見られていたとしてもおかしくはない。
クラスメイトは久住さんが持ち込んだまだ誰も知らない情報に飛び付いて根掘り葉掘り聞き出そうと殺到した。
大混乱になりそうなものだがさすが久住さん、はぐらかしたり物品を要求したりとうまくやり過ごしていた。
そこに僕の後ろから中山さんと芦屋さんが入ってきた。
人だかりを見て中山さんは興味を示し芦屋さんはギョッとしていた。
「にゃはは、なになに?」
中山さんは楽しそうに笑いながら人垣に突っ込んでいった。
芦屋さんが首をかしげていたのを見て作倉さんが説明してあげている。
自然と八重花と2人で残された。
ちらりと見ると八重花は難しい顔をしていた。
「裕子の言う通り犯人がいるのならいったい何が目的なのかしら?」
僕は肩を竦めるだけだ。
真実を知る者は少なからず危険に巻き込まれてしまうだろう。
だから僕は席に向かいながら早くこの噂が立ち消えてくれることを願うのだった。
今日は学校中が浮わついた雰囲気だった。
近所で大規模な事件が起きたのだから変な興奮を覚えるのも無理からぬことだと思う。
だが集中力を欠いて困るのは当人の理解力…だけではない。
心ここにあらずの生徒に勉強を教える教師である。
「この問題はこの公式を使って…」
(ねえ、後で事故の現場見に行ってみようよ。)
(あー、行く行く。)
「ここに代入することでここが分かります。」
(早く授業終わんねえかな?)
(むしろさぼっちまうか?)
学生たちの囁きは小さく、それでも辛うじて耳に届いてしまう。
小さな私語も重なれば大きな音となり不協和音となる。
バキッと黒板を書きなぐるように式を書いていた数学教師の袴田先生の指が不自然に止まりチョークが砕けた。
「いい加減、私語は慎みなさい!」
ヒステリックに叫ぶ30代中盤の根暗そうな教師の声にクラスメイトは一瞬静まった。
だがそれは袴田先生の威厳ではなく滑稽すぎて唖然としてしまったといった感じだった。
だけど先生は満足げに微笑むと授業を再開した。
自分の一声で生徒が言うことを聞いたと思ったのだろう。
一方の生徒は先生の話なんてろくに聞いていない。
社会に出たって加減乗除は使っても因数分解はまず使わない。
難しい計算はパソコンの演算を利用した方が早くて確実だ。
つまり数学はあまり将来の役に立たない。
だから余計に数学の授業に身が入らない生徒が多かった。
最初は声を潜めていた生徒も誰かが喋り出すとまた別の誰かが新しく口を開き、皆が話しているからとまた1人。
そして雑音が大きくなると相手の声が聞き取りづらくなるため話す声は大きくなる。
教室が再び静かな喧騒に包まれるまで10分と掛からなかった。
ガツガツと力任せに書き殴っていた袴田先生は
「今日はここまで!」
まだ授業時間が半分近く残っているのに荷物をまとめて教室を出ていってしまった。
去り際に見えた顔は怒りと屈辱と涙に歪んでいた。
僕は本格的に騒がしくなった教室の角でため息をついた。
(そういうことか。)
今この瞬間、1つの未来が確定した。
来週頭のテスト、数学が難しくなる。
僕は悪あがきと知りつつも記憶にある出題にあたる部分を勉強することにした。
「袴田のやつ、どうしたんだ?…って、陸、勉強なんかしてどうしたんだ!?」
振り返った芳賀君は僕を見るなり驚きの声を上げた。
皆の視線が一瞬僕に向けられ、そして可哀想な人を見るような目をしてそらしていく。
八重花たちは席を立って僕のところにやって来た。
作倉さんは真面目なので授業中に立ち歩いていいのか迷ってオロオロしていたが結局こっちに来た。
「りく、授業は終わったのよ?」
「自由時間なら勉強しててもいいんじゃないかな?テストも近いし。」
テストという単語に久住さんと中山さんが顔をひきつらせた。
「半場君は偉いですね。」
「真面目だな。」
作倉さんと芦屋さんは感心していた。
「初テストだからね。悲惨な点数は見たくないし。」
「…何を隠してる?」
ドキリとした。
八重花は僕の言動に左右されず行動が示す真実を見抜こうとしていた。
僕は怪しい言動や行動を何1つしていない。
だから今の発言は八重花にこそ奇異の目が向けられこそすれ僕に対して疑う様子を見せる人は誰もいなかった。
八重花の鋭すぎる洞察力に慄きつつ考える。
(黙っているべきか教えるべきか。)
テストまであと数日、今さら足掻いたところで付け焼き刃にしかなりはしない。
それならいっそ知らない方が幸せではないだろうかと思う。
だけど八重花に見つめられると教えないことが罪のように思えてきた。
それとなく仄めかしておけば、それを信じて勉強するもよし、そんなわけないと切り捨てるもよし、わからないと投げ出すもよし。
「隠してることはないよ。ただ…」
僕が言葉を切るとなぜか皆の注目を浴びることになった。
「ただ、今日の袴田先生の様子だと嫌がらせに難しい問題を出してきそうだなって。」
クラスの反応は僕の予想通り、心当たりがあるらしく顔をひきつらせる者、そんなわけないと高をくくる者、どのみち数学なんて分からないからいいやという顔をした者に分かれた。
「いくらなんでもそれはねえだろ?」
「袴田先生がそんなことをするとは思えないな。」
芳賀君と芦屋さんは否定派、
「今の範囲でもいっぱいいっぱいなのにこれ以上難しくなったら…うん、諦めよう。」
「にゃはぁ、むりむり。」
予想通り久住さんと中山さんは諦念派、
「なるほど、一理あるわ。」
「半場君が頑張るなら私も頑張ります。」
そして八重花と作倉さんが賛成派だった。
やる気のないメンバーが散っていく中で僕たちは近くの席を借りてきて作戦会議。
応用問題と少し先の予習を重点的に解き進めていくことにした。
一応どの問題が出るかを知っているがあからさまに教えるとInnocent Visionがバレる心配があるため基本的には僕は皆の意見に合わせることにしていた。
「ねえ、どのあたりが出るかわかる?」
しばらくすると賛成派の人が1人、また1人と増えていった。
そこで授業時間は終わったが僕たちは席を立たなかった。
「えー、ここまで出すの?」
「でも袴田、しょっちゅう予習復習しろって言うだろ?出しそうじゃないか?」
「うわーん、東條さんここの解き方教えて。」
授業の合間の休み時間はあっという間に過ぎ去り、別の授業もきちんと受ける。
そうして賛成派が真面目にやっている光景が続くと否定派だった生徒も危機感を募らせて声をかけてきた。
僕たちは快く受け入れ、最後に諦念派を説得してクラスみんなで勉強した。
そして月曜日、テスト週間が始まった。
初日の数学。
絶望感が漂っていた。
目の前の文字の羅列が異世界の文書のように思える。
ある意味数学という違う世界の文字だが。
僕はカンニングと間違われないよう注意しながら顔を上げる。
僕だけじゃなくクラス全体でどんよりとした雰囲気を背中に感じた。
そんな中、数学教師だけがしてやったりといった風ないやらしい笑みを浮かべていた。
だけど、それはできないからじゃない。
本当にやったという袴田先生の大人げなさに対する失望だ。
クラスを覆う悲壮感はない。
人によっては手を止めてしまっているがそれでも絶望ではなくやりきった感が滲み出ていた。
僕も勉強してもわからなかったところや忘れてしまったところもあるが解けている。
そして時が経ち、数学のテストが終了した。
袴田先生は何度も答案用紙を確認して泣きそうな顔で去っていった。
完全に先生がいなくなったあと
「いえーい!」
クラスが沸いた。
友と健闘を讃え合い、中には涙を流す者もいた。
「やったな、陸。」
「そうだね。この調子で他の教科も頑張ろう。」
僕が鼓舞するように声をかけたが
「あ…」
クラスの大半が虚を突かれたように呆然とした。
嫌な予感がする。
「もしかして…数学のことしか頭になかった?」
コクンと頷くクラスメイトにはありありと絶望感が漂っている。
もはや僕には何もできない。
「が、頑張ってね。」
もはやそれしか言えない僕にクラスメイトは力なく手を挙げて幽鬼のようにフラフラと席に戻っていった。
結局Innocent Visionを覆せたのかはよく分からないまま高校生として初のテストをどうにか乗りきったのであった。