第49話 ルチル
ピシッ、ピシン
凝った空気の満ちた部屋に鞭を打ち付ける音が響く。
「あっ!うう!」
「江戸川先輩の悩ましい声、素敵ですよ。もっと聞かせてください。」
天井から吊るされたロープに手を縛られた蘭は悠莉の振るう鞭を受けていた。
オブシディアンを出してロープを切ろうとしたが鋼糸で編まれたように切り裂けなかった。
そして抵抗すればするほど悠莉は穏やかな笑みの奥に狂喜を宿して振るう鞭を強めていく。
肌も服もボロボロのはずだが受けたはしから直っていくため見た目は変わりなく、痛みだけが蓄積していく。
「くっ、イタッ、悠莉ちゃん、やめ、て!」
蘭の悲鳴も悠莉の快楽にしかならずむしろ鞭に力が込められていく。
「それなら私に半場さんと戦うことを譲ってくださいますか?」
すっかり悠莉の拷問ショーと化しているが元を辿ればどちらが陸と戦うかを決める戦い、負けを認めさえすればすぐにでも拷問からは解放される。
「…」
だが蘭は頑なに負けを認めることも陸への挑戦権を譲ることもしなかった。
「そうですか、残念です。」
本当に残念そうな口調とは裏腹に悠莉の口の端がつり上がった。
たとえ認めたとしても理由をつけて拷問を続け、絶望した顔を見るつもりでいたが。
(その強情な心を少しずつ剥いで上げますからね。)
コランダムの中は理論上一秒を無限に引き延ばせる世界。
いくらここで長い時間拷問したとしても外ではほとんど時間が経っていないことになる。
つまり、心行くまで責め放題なのだ。
悠莉がサフェイロスを翳すとこれまで蘭がどれだけ足掻いても切れなかったロープがスルリとほどけ、急に支えを無くした蘭は床に尻餅をついた。
「もう終わり?」
怯えと期待が入り交じった幼げな娘の上目遣いに悠莉の背中を電流が駆け巡った。
「まだです!」
乱暴に蘭を立たせて張り付け台に寝かせると悠莉は再度テーブルで蝋を溶かしながら燃える蝋燭を手に取った。
「もっと、もっと見せてください。その可愛らしい顔が苦痛に歪み、絶望に染まる姿を。」
「やだ!来ないで!」
近づいてくる蝋燭から滴る蝋を見て何をしようとしているのか気付いた蘭は逃げようとするが手足を固定されてしまって満足に動くこともできない。
ポタリ
「ッ!」
体の上に持ってこられた蝋燭からとうとう一滴の蝋が滴り落ちて蘭は痛みを覚悟してギュッと目を瞑った。
だが痛みは来ず、恐る恐る目を開くと蝋は服の上で固まっていた。
「蝋はすぐに冷めてしまいますからね。これは拷問というよりはSMプレイです。」
わずかに安堵のため息をついた蘭の素足に悠莉は蝋を落とした。
「あう!」
無防備だった蘭は驚きと痛みに体をビクンと弾ませるが固定されているため不自然なブリッジの形で止められ、戻った時には荒い息をしながら涙目で悠莉を睨み付けた。
悠莉は噛みつきそうな蘭を恐れることもなく涙に濡れた頬を拭った。
「江戸川先輩、可愛いですよ。」
蘭はいやいやをするように乱暴に首を横に振るが悠莉はそれを追いかけて頬を撫で続ける。
「やめてよぅ!」
泣きそうな声で弱々しく叫ぶが悠莉は聞こえていないように蘭を撫で回すのをやめようとしない。
(ああ、もっと、もっとその可愛らしい顔を歪ませてください。)
蘭が拒めば拒むほど悠莉の歪んだ欲望は満たされ、さらなる痛苦を与える欲求を生み出していく。
ここは下沢悠莉が作り出した己の欲望を満たすための部屋。
悠莉は創造主であり神であった。
この部屋に扉は必要ない。
無限とも呼べる一瞬の中で絶え間なく生まれては消えていく感情、欲望に果てはないからだ。
対象の精神が崩壊するその時まで開くことのない無限の欲望を満たす部屋。
サフェイロスのスペリオルグラマリー「ルチル」は対人用としては最強最悪、囚われたら最後、難攻不落の攻撃だった。
狂喜と狂気を胸に熱くたぎらせながらあくまで笑みを絶やさずに悠莉は脇に置かれた棚の上の器具を手に取って確かめていく。
鞭で打たれ、蝋燭で責められ、撫で回された蘭はぐったりとして半開きになった瞳からは弱々しい光しか感じられない。
悠莉はそれを横目に見ながら次の道具を吟味する。
(次はどれにしましょうか。)
釘、ハンマー、万力と大工道具みたいな道具があるかと思えば羽箒や無数の大小様々な針、そして直接的に痛みを与える刃物類が並んでいる。
そこから少し離されたところには所謂大人の拷問に使われる道具も置かれていた。
自分の妄想で生み出した産物だと言うのに悠莉はポッと頬を赤く染めて慌てて目を逸らす。
(さ、さすがにあれを使うのは…とても魅力的ですけどやめておきましょう。)
陸を捕まえたら試してみようと心踊らせる悠莉は結局ハンマーを選択した。
本当に日曜大工に使われるような普通の金槌でよほど力を入れなければ殺してしまうこともない、加減しやすい道具。
「さあ、インヴィとの戦いを私に譲ってください。」
「…」
蘭は生気のない瞳で悠莉を見上げるだけで何も返事を返さない。
「仕方ありませんね。」
口調は残念そうに、口はニヤリと笑みを浮かべて悠莉はハンマーを振り上げた。
狙いは腕の尺骨および撓骨。
ゴッと鈍い音が部屋に響いて悠莉の手に衝撃が響いた。
狂喜に胸が躍る。
蘭はもはや叫ぶ力もないのか反応はない。
なぜかツーと涙が零れた。
なぜか可笑しくて笑い声が漏れた。
涙は止まらない。
「はは、ははは。」
ゴッ、ゴッ
悠莉は取りつかれたようにハンマーで目の前に横たわるモノを殴り続ける。
涙は止まらなかった。
視界がぼやける。
悠莉は笑い泣きのまま空いた左手で目元を拭った。
ハンマーを振り下ろしながらクリアな視界で標的を見ると
そこには下沢悠莉が横たわっていた。
「!?」
混乱するが振り下ろした手は止まらない。
ゴッと右肩を打ち付けた瞬間
「イタッ!」
まるで骨が砕けるような痛みが右肩に襲ってきて悠莉はギュッと目を閉じた。
次に目を開いたとき、悠莉は張り付け台に繋がれていた。
悠莉はこの部屋と言う世界の神である。
「何で、私が…っ!」
悠莉は慌てて顔を横に向けた。
張り付け台の再度テーブルの脇に人が立っていた。
だがそれはおかしい。
(その場所にいたのは私のはず?)
だがその記憶も繋がれた現状では正しかったのか疑わしくなっていく。
さっきのはすべて夢で自分は最初からここに繋がれていたのではないかと思えてきた。
だが、もしも神をも騙す者がいるのなら、この世界は必ずしも絶対たり得ない。
悠莉の心にようやく恐怖が芽生えた。
「外れない。外れない。なんで?」
自らが作り出した世界の拘束具が主を縛り付けて離さない。
そして、道具を漁っていた人物はゆっくりと悠莉の脇に立った。
悠莉が息を飲んだ。
そこにいたのは知っているはずなのに、さっきまで痛め付けていたはずなのに、まるで見知らぬ存在だった。
細められた瞳は冷たい光を湛え、小柄なはずの外見が何倍も大きく見える。
「あなたは…誰ですか?」
「フッ。」
それは嘲笑か失笑か、
「何言ってるの、悠莉ちゃん?見ての通りわたしは江戸川蘭だよ?」
少女、江戸川蘭は普段の明るく無邪気な姿とは似ても似つかない冷たい笑いを作った。
その手には悠莉が意識的に避けた器具が握られていた。
「ヒッ!いや!」
必死に逃げ出そうと暴れるが拘束が解かれる様子はない。
蘭は暴れる小動物でも見るような見下した目で悠莉をねめつけて口の端を三日月のように釣り上げた。
「大丈夫だよ。」
「え?」
あり得ないと思っていた救いの言葉に悠莉は一瞬恐怖を忘れた。
蘭は裂けたように笑う口のまま目を細めた。
「だってここは精神世界だもん。何度だって再生するよ。」
暗喩されたこれから自らに行われる行為に気付いてしまい悠莉の顔は完全に血の気を失い蒼白となった。
「いやー!やめて、やめてください!」
どんなに暴れたところで拘束は解かれない。
目の前の“江戸川蘭”の姿をした悪魔がゆっくりと悠莉に近づき、そして…
「アアアァーーー!!」
魂を震わせて絞り出したような絶叫は誰の耳にも届かない。
パキンと青い宝玉に罅が入り砕けると中から悠莉と蘭が飛び出してきた。
「は、はは…」
悠莉は埃まみれの床に無造作に身を投げ出したまま起き上がろうともせず壊れたような笑いを漏らしていた。
蘭はその姿を見下ろしてフッと鼻で笑うと振り返った。
「さぁて、ランのビクトリー!りっくんに挑戦するのはランだよ!」
そこには明るく無邪気なちびっこの江戸川蘭がいた。
楽しそうに手を振り上げて宣言したのだがどこからも返事がない。
「あれ?」
首をかしげて周囲を見渡してみる。
大した時間ではなかったはずなのだがソルシエールがぶつかり合う音や怒号、悲鳴といった声は聞こえず暗闇と静寂だけが満ちていた。
徐々に慣れてきた夜目でもう一度周囲を見回すと
「良子ちゃん、美保ちゃん!?」
床の上には気を失って倒れた良子と美保の姿があった。
慌てて周囲を警戒するが陸たち“Innocent Vision”の姿はない。
「どこに行ったんだろう?」
目の前に倒すべき敵を残して去っていく理由が蘭には分からなかった。
グラグラ
突然ビルが揺れた。
「地震かな!?」
楽観的な口調とは裏腹に蘭の直感が警戒を促していた。
ビルの振動は収まることなくむしろ大きくなっていた。
パラパラと天井や壁から細かい破片が落ち、その数は多くなっていく。
「やっぱり地震じゃない。」
ゴガン
ビルの主幹たる何かが壊滅的な損傷を受けた音と共にビルが沈んだ。
「く、崩れるの!?」
僕たち“Innocent Vision”は神峰と等々力を打ち負かすとビルの外にまで出ていた。
本当は由良さんが殺そうとしていたのだが本当に厄介な2人が出てこないうちにかたをつけたいと説得したのだ。
「このビルをぶっこわして生き埋めにすればいいんだな?」
「うん。コランダムから出てきた時にそこが瓦礫の下なら生き埋めか場合によっては圧死。これで一網打尽だよ。」
本当はこの手で人を殺してしまうことに抵抗があるのだが今はそれは隠しておく。
何であれヴァルキリーの戦力の半数を潰す好機なのだから。
「下沢に防がれると確かに厄介だ。急ぐぞ、明夜。」
「うん。」
2人は対角線上の外柱の前に立ち全力を持ってソルシエールを叩き込んだ。
ゴガン
と凄まじい音を立てて柱が中程から弾け飛んだ。
ビルの中柱はすでに破壊してあるから後は内側に向かって崩れていくはずだ。
周辺に建物はないから二次被害はほとんどない。
「総員、撤退!」
僕は号令と共に崩落を始めたビルから退避した。
由良さんと明夜も追い付いてきてかなり離れたところで振り返った。
「やったか?」
「…だといいけどね。」
実を言えば僕はこれで全員を倒せたとは思っていない。
少なくとも蘭さんとは先の未来で一緒にいる夢を見ている。
だからせめて戦闘不能になっていてほしいと願うだけだ。
僕たちは明日のニュースが大変な事になりそうだと笑いながら帰路についた。
長い時間と労力をかけて作られたビルはガラガラと音を立てて数分で原型を留めないほどに崩れ落ちた。
野次馬や警察、消防が駆けつけ軽く現場検証を行ったあと明日から本格的に調査するとして帰っていった。
今は誰もいなくなった倒壊ビル跡。
ガコンと瓦礫の一部が揺れ、下から噴き上げるような力でその周辺の瓦礫がすべて粉々になった。
その下から突き出したのは真紅の鉾槍、続いて良子、美保、蘭と穴から這い出してきて最後に悠莉が恐る恐る出てきた。
「また悠莉に助けられたね。くそ、“Innocent Vision”め。」
良子は悠莉に感謝を述べると顔を歪ませて悪態をついた。
美保は怒り心頭で吠えている。
悠莉はひきつったような笑みを浮かべるだけだった。
それは悠莉の背後からくる重圧。
(これからもよろしく頼むね、悠莉ちゃん。)
(は、はい。蘭様。)
ヴァルキリーの面々は上ろうとしている朝日から逃げるようにその場を後にした。
小さくて大きな変化には当事者以外誰にも気付かれることなく、決闘の幕は閉じたのだった。




