第44話 一撃の代償
僕は以前不良集団『壊愚是』に捕まった廃ビルの1階フロアに1人で立っていた。
包帯や絆創膏だらけの手で携帯を取り出して時間を見れば16時50分、約束の時間までもうすぐだった。
僕は携帯を強く握って恐怖心を押さえ込む。
戦う前から震えていては勝てるわけがない。
震える体を意思で押さえ込んで顔を上げた。
夕暮れに染まる世界が窓ガラスのない入り口から見えた。
そこに3つの人影があった。
僕は携帯をしまい込んで近づいてくる人影を観察する。
(神峰美保、下沢悠莉、それと等々力良子。蘭さんはいないようだな。)
Innocent Visionの見せた夢のままに実現しようとしている戦いに複雑な思いを抱きながら、今は策を練る時間が与えられたことを素直に喜ぶことにした。
3人は警戒した様子で念入りに周囲を見回した後ゆっくりと屋内へと入ってきた。
僕は恭しく礼をする。
「本日はご足労いただきありがとうございます。」
あまりにも演技的だったせいか神峰が顔をしかめた。
「こっちこそ君が怪我をしたと聞いたから延期しようとしたのに呼び出されて驚いたよ。」
(分かりやすい嘘だな。)
僕を殺したがっている彼女らがこんな好機を逃すわけがない。
だからこそ僕の方から今日を指定したのだ。
等々力たちは会話をしながらも僕の様子を観察している。
見た目だけじゃなくわずかな動きで僕が負っている怪我の度合いを測るように。
「うちら3人の前だっていうのに随分と余裕ね、インヴィ。」
「3人が来ることは下沢さんから聞いていたので。」
これも心理戦の1つ、すぐにバレるとはいえ今この瞬間動揺を与えられる。
予定通りに神峰と等々力は怒りと困惑をない交ぜにしたような顔で下沢に振り返った。
下沢は困ったような笑顔を浮かべる。
「私は相手が私たち3人のソーサリスだと教えることでいつ襲われるか戦々恐々とする日々を送るインヴィを観察したかっただけなのですが…ふふ、本当に面白い人ですね。」
決して優しくはない視線の中でも下沢は揺らぐことなく事実を述べて微笑みを浮かべた。
(強いな、下沢悠莉。)
普通、いかに仲間とはいえ疑惑を向けられれば平静ではいられないだろうに下沢は動じる素振りを見せなかった。
精神攻撃を得意とするだけではなく下沢自身も強い心を持っているようだ。
下沢が揺らがなかったため等々力と神峰もまた落ち着いたようだった。
良くない兆候だ。
「残念だったわね、インヴィ。悠莉をダシにあたしらの結束を崩そうとしたのは失敗ね。」
勢いをつけたいのか神峰が挑発してくる。
「いや、僕は事実を言っただけで作戦じゃないよ。ねえ、下沢さん?」
「はい、そうですね。」
僕たちが表面上にこやかに笑い合うと
「やっぱり仲良さそうじゃない!」
神峰はヒステリックに頭をかきむしった。
下沢は恍惚の表情で混乱する神峰を見ていた。
(下沢は神峰が慌てる様が好きなのか。)
学生生活の時はおもしろそうで済ませるがこれから戦いなのに仲間割れしていいのかと思わずツッコミそうになった。
「インヴィ。」
それを止めたのは等々力だった。
彼女は後ろの2人のやり取りに何の反応もせずただ僕だけを見ていた。
自然、身が引き締まる。
「覚悟は出来たみたいだね?」
「そうですね。…あなたたちを倒してヴァルキリーを本気にさせてしまう覚悟なら。」
僕の冗談のような本音に等々力は笑みを強めて頷いた。
「それでいい。殺す覚悟があるのならこっちも全力で行けるからね。」
等々力はスッと左手を前に突き出して
「ラトナラジュ!」
己が感情の権化の名を呼んだ。
左目が朱に光を宿し左手から血のように赤い光が上下に伸びる。
輪郭を成した光が弾けると等々力の手には真紅の鉾槍、ラトナラジュが現れた。
「スマラグド!」
「サフェイロス!」
神峰と下沢も同様に負の感情を糧とし殺害という手段を是とする魔剣を呼び出した。
神峰のスマラグド、下沢のサフェイロス、そして等々力のラトナラジュが一同に会すると敵である僕から見てもその姿は神秘的で見惚れてしまうほどだった。
「うちらに見惚れるのはいいけどボケッとしてると殺しちゃうわよ?」
神峰は上機嫌にスマラグドをペロリと舌で舐める。
「いや、スマラグドは綺麗だけど本人はちょっと。」
「自意識過剰ですね、美保さん。」
「ムカーッ!カチンと来た!ついでに味方からもバカにされた気がするわ。」
神峰を左目が本人の怒りや尊厳を踏みにじられた憎しみで輝きを増す。
どうも余計なところでパワーアップさせてしまったようだ。
目の前に立つ乙女たちから放たれる見えざる闘志にジリジリと足が後退る。
等々力は肩にラトナラジュを担ぎ上げて僕を指差した。
「さあ、こっちの準備は済んだ。そっちの仲間を呼びなよ。」
「焦らないでくださいよ。見たいテレビでもあるんですか?」
僕は真剣な様子の等々力には取り合わず適当な応対をする。
直後、風切り音とほぼ同時に床のコンクリートが炸裂した。
大きな裂傷の末端にラトナラジュが埋まっていた。
等々力の目が怒りと侮蔑の意を込めて細められる。
「インヴィがどう考えていようがこれは決闘だ。あまり下らないことを言わないで欲しいな。」
朱色が濃くなった等々力の左目に呼応するようにラトナラジュからは溢れ出した力が湯気のように立ち上っているように見えた。
僕はもう一歩後退しつつ軽く頭を下げる。
「すみません。追い詰められた緊張を紛らわしたくて。」
怯えた素振りを見せると今度は下沢が食いついてきた。
「いい表情です。でもそれはまだ絶望には程遠い。ゆっくりと自信を剥いであげますね。そして見せてください。インヴィの最期の顔を。」
普段抑圧されている嗜虐心が全開まで高まったらしく下沢は左目だけじゃなく右目まで怪しい光を宿して僕に視線を注いでいた。
「ッ!」
目の前にいる敵に対するものとは別種の恐怖に体が震えてもう一歩下がった。
僕の後ろには2階に上がる階段があるが背中を見せれば間違いなく上りきる前に殺られてしまうだろう。
「君が何を狙っているのか分からないけど私たちは負けないよ。」
等々力たちは強気な言動とは裏腹に警戒しているらしくなかなか近づいてこない。
僕は小さくため息をついて真っ直ぐに顔を上げた。
3人の気配が戦闘者のそれに変わっていく。
「時間稼ぎも限界みたいですね。それじゃあ僕の仲間を紹介します。」
僕はエンターテイナーのように大仰な振りで入り口を指した。
3人はやはり馬鹿ではないらしく等々力だけが振り返り神峰は横、下沢は僕を見たままだった。
「由良さんっ!」
僕の叫びにヴァルキリーの戦乙女たちは臨戦態勢の構えを取ろうと動き
それよりも早くドゴンと天井をぶち抜いて由良さんは玻璃を突き下ろしながら飛び出してきた。
上からの奇襲に3人は完全に意表をつかれたようで身動きが取れずにいるようだった。
下沢が困惑した様子で僕を見ていたので笑い返した。
「超音振!」
そして、世界が揺れた。
粉塵が消えぬ1階フロアは異常なほどの静けさに包まれていた。
羽佐間由良の常識外れな奇襲による爪痕は大きく2階フロアの半分近くが瓦礫として1階に降り注いだ。
その乱雑に積み上がった瓦礫の上から小石がカツンと音を立てて転がり落ちた。
それを追うようにさらに小石が落ちる。
グラグラと揺れる瓦礫はとうとう大きく振動し、最後には内部からの爆発のように吹き飛んだ。
「やってくれたね、インヴィ。」
残された瓦礫に手をついて這い出てきたのは等々力良子だった。
体に傷は見られないものの表情は怒りと悔恨に充ち満ちている。
良子は振り返ると一閃、上に覆い被さるように乗っかっていた瓦礫をラトナラジュの一撃で粉々に粉砕した。
その下には神峰美保と彼女に支えられるようにぐったりしている下沢悠莉がいた。
良子は苦虫を噛み潰したような顔で手を添えていた瓦礫を殴り付けた。
叩きつけられた拳から蜘蛛の巣のように亀裂が生じる。
「悠莉が気付いて咄嗟に私たちをコラン-ダムに匿ってくれてなければさっきの超音振で全滅だった。」
2人を守るためにグラマリー・コラン-ダムを発動させた悠莉だったが自身を中に入れることは出来ず超音振の直撃を受けて昏睡してしまった。
良子同様美保も怒りを露にして周囲を睨み付ける。
周りに敵の姿はない。
「羽佐間由良もバラバラにしないと気が済まないわ。この間の借りも含めてなぶり殺す。」
2人はもう一度悠莉を見る。
深い眠りにあるようで身動ぎもせず浅い呼吸だけが静かな空間にわずかに響く。
以前建川で昏睡事件があったとき、被害者は数日間目を覚まさなかった。
それを考えると戦闘中に悠莉が目覚める可能性は低かった。
良子はしっかりとラトナラジュを握り締めて立ち上がった。
「美保、悠莉は置いていくよ。」
「!…はい。」
美保は非情な言葉を告げた良子を睨み付けようとしたが顔を上げたところで止めた。
良子が今にも泣きそうな顔をしていたからだ。
美保は悠莉の体を抱き上げるとフロアの角の崩落の心配がなさそうな場所に寝かせた。
「インヴィたちがここに戻ってきたら悠莉はアウトですね。」
美保はわざと軽い口調で言ったが現実的な意味ではアウト=死である。
もちろん2人はそのことを重々承知しているからふとした瞬間に不安が顔に出る。
これは弱者をソルシエールの力を使って一方的に狩っていたゲームではなく同等の力を持つ者同士が命を掛けた戦闘なのだという事実が改めて肩にのし掛かってきた。
良子は首を振ることで不安を強引に振り払って2階へと続く階段に目を向けた。
「だけどこの戦い、こっちに勝機がある。」
その声は確信に満ちていた。
不思議そうな顔で首をかしげる美保に良子は不敵な笑みを浮かべながら言った。
「インヴィも今は行動不能だろうからね。」
羽佐間由良はこのビルの最上階、5階にある一室の粗末なベッドの上でぐったりと横たわる陸を見て苦虫を噛み潰したような顔をした。
「失敗か。」
今回の作戦は相手を完全に油断させたところであり得ない方法で奇襲をかけて一網打尽にするというものだった。
そのためにはヴァルキリーと同等の力を持つ由良や柚木明夜があの場にいるわけにはいかなかった。
戦闘力が皆無の陸が1人で立っていたからこそ相手は油断し、陸の口車に乗せられて怒り、冷静さを欠いた。
怒りで陸に注意しすぎていた状態であり得ない上からの攻撃はかわせるはずがなかった。
下沢悠莉の機転がなければ。
「コランダム、あんな使い方があったのか。」
由良が陸から聞いていたのは精神攻撃のために対象を空間に閉じ込めることだけだった。
まさかそれを盾として使うとは考えなかった。
由良はぎりと奥歯を噛み締めた。
「陸を囮にして巻き込んで1人じゃ割りに合わないな。」
愚痴を漏らしたところで陸が目覚めるわけでもない。
今こうしている間にも残った2人は悠莉の雪辱を誓って陸を殺すために向かってきているだろう。
「…やらせない。」
由良は玻璃を握り締めて立ち上がる。
振り返った由良は慈しむような目をベッドに眠る陸に向けた。
「行ってくる。陸はInnocent Visionであいつらを倒す方法でも見ていてくれ。」
希望的な言葉に苦笑しながら由良は部屋を後にした。
右手をポケットに突っ込んで折り畳まれた紙を取り出す。
開いたルーズリーフには奇襲が失敗した場合の作戦が書いてあった。
「これは…。陸のやつ、奇襲が失敗することを知っていたのか?」
そうとしか思えないほど細かい作戦が立てられている。
「敵に回さなくて正解だったな。」
本心からそう思いながら由良は駆ける。
「陸はやらせない。」
もう一度誓いを口にする。
魔女から与えられた忌々しい力の結晶である玻璃を今は仲間のために振るい、由良は陸の立てた作戦にしたがって行動を開始した。