第37話 グラマリー
鏡の世界が砕け散ると僕は無人の生徒指導室で立ち尽くしていた。
時間にすればこの部屋に来てから10分程度しか経っていない。
どうやら蘭さんの力は下沢とよく似た力のようだった。
僕は口を手で覆う。
頬がひきつっていた。
窓に映る姿は、まるで別人のような笑みを浮かべていた。
僕は両頬を手のひらで叩いて笑みを消す。
ヒリヒリと痛むがあの顔のまま外に出るのは躊躇われた。
「幻覚、か。」
いったいどこからが幻覚だったのだろう?
ソルシエールが出たとき?話している最中?部屋に入ったとき?それとも、もっとずっと前?
「考えないようにしよう。」
遡れば僕の送ってきた人生のどれが現実かわからなくなってしまいそうだ。
下沢のコランダムもきつかったが蘭さんの自己認識の崩壊は危なかった。
僕はポケットに手を伸ばす。
中にはスタンガンが納められていた。
「僕はInnocent Visionじゃない。」
それを認めるということは自分を“化け物”だと認めることになる。
スタンガンを押し込めて部屋の出口に向かう。
呼び出し主がいなくなった以上ここにいても仕方がない。
僕はもう一度顔に手を当てて歪んでいないか確認してから生徒指導室を出た。
「陸、用事は終わったか?」
「由良さん?」
部屋の前には由良さんが壁に背を預けて待っていた。
何故だか、それが涙が出そうなほど嬉しかった。
「なんで、ここに?」
「…ソルシエールの気配がした。」
それは嘘だと思った。
本当に気配を感じたのなら由良さんは間違いなく飛び込んでくるはずだから。
ならばこの由良さんも幻覚なのかもしれない。
(それでもいいや。)
僕はゆっくりと近づいてそのまま歩みを止めず由良さんに抱きついた。
「何をやっている?」
由良さんは騒ぎこそしないが怒っているのがよくわかる。
本当に、本人そっくりな幻覚だ。
「僕は…誰なんだろう。半場陸?それともInnocent Vision?わかんないよ。」
胸の内からジワジワと忍び寄る恐怖に体が震える。
僕はその震えを止めたい一心で由良さんにしがみついた。
職員室のすぐ前だとか誰かが来るかもしれないだとかそんなことは考えられなかった。
ただ由良さんの温もりを必死に求めて抱きつく腕を強めた。
由良さんは拳を振り上げることも、抱き締めることをしなかった。
それは僕の知る羽佐間由良という強い女性の姿。
「俺は陸と付き合いが長いわけじゃないからお前が何者かなんて知らない。」
由良さんの手が僕の頭に触れ、見上げれば由良さんは慈しむような優しい顔をしていた。
「だから俺が知ってるのは目の前にいるお前だけだ。」
「由良、さん。」
我慢なんてできなかった。
瞳が熱くなり涙が頬を伝う。
「う、うう。」
「…。」
由良さんは何も言わず僕の頭を抱き寄せてくれた。
土曜日の静まった廊下で僕は涙が枯れるまで由良さんの温もりに包まれていた。
半場陸と羽佐間由良が校門を出ていく姿をヘレナ・ディオンはヴァルハラの窓から眺めていた。
花鳳撫子はそれを見ることもなく、ただティーカップを置いて微笑んだ。
「インヴィは『ゲシュタルト』に打ち勝ったようですね。」
「…。」
ヘレナは部屋のすみに目を向けた。
「あたし、誰?あたしは…けけけ。」
「美保さん、気を確かに。」
「美保、君は神峰美保だ。」
「美保、しっかり!」
部屋の隅っこで膝を抱えながら壊れた笑い声を上げる神峰美保を下沢悠莉や等々力良子、海原緑里が正気に戻そうと躍起になっていた。
“入会審査”の後遺症である。
「ソルシエール・オブシディアンのグラマリー、ゲシュタルトの威力は美保さんが身を持って証明して下さいました。それを破るインヴィがやはり驚異ということでしょう。」
ヘレナは美保があんな状態に陥っているのに冷静でいる撫子に恐怖を感じ、その感情を抱いたことを唇を噛み締めて悔やむ。
癖である金色のロール髪を手で弄びながら視線を室内に戻した。
ヴァルハラに訪れた新たな戦乙女を睨み付けるように観察する。
撫子が脇に立つ海原葵衣に目配せすると何も言わなくても葵衣はカーテンの裏へと消えていき数分後ティーセットを持って戻ってきた。
葵衣が紅茶を淹れている間に撫子は豪奢な作りのティーカップをテーブルの向かいに差し出した。
「貴女の実力は拝見させていただきました。我々は貴女のヴァルキリーへの参加を歓迎致します。共に世界の平和のために尽力しましょう。」
置かれたカップが温められそこに最上級の紅茶が注がれた。
これがヴァルキリー入会の儀式だった。
紅茶を一口飲んだときから客ではなくヴァルキリーの一員となるのである。
8人目のソーサリスは最上級の紅茶に口をつけた瞬間
「苦ーい!葵衣ちゃんミルクちょうだい。」
格式も何もなく舌を出して喚いた。
美保を介抱していた面々が動きを止め、ヘレナのこめかみがひくつき、撫子でさえため息を漏らすことを止められなかった。
葵衣だけが淡々とミルクポットと砂糖を持ってきた。
「ありがとー。」
溢れ返りそうなほどなみなみと注がれたミルクにもう一度嘆息しながら撫子は長としてけじめの挨拶を交わす。
「それでは、これからもよろしくお願いします、江戸川蘭さん。」
「よろしくね。」
蘭はミルクティーの味に満足そうに頷くとくすりと笑みを溢した。
「りっくん、これから楽しくなるよ。」
僕は由良さんと一緒に帰りながらさっきの幻覚について説明していた。
話を聞き終わると由良さんは顔をしかめて舌打ちをした。
「幻覚による精神攻撃か。嫌なグラマリーを使うな。」
「グラマリー?」
由良さんは僕の知る中ではグラマーだと思うが関係あるまい。
口に出すと叩かれそうなので言葉を飲み込んだ。
「ヴァルキリーのやつらが自分たちの力をそう呼ぶみたいだ。俺の超音振や神峰のエスメラルダ、下沢のコランダムのことだな。」
「ソーサリスの持つソルシエール固有の必殺技がグラマリーってことか。あの人たちが好きそうなネーミングだね。」
「まったくだ。」
僕たちは名称に拘りそうな戦乙女の長を思い浮かべて笑った。
今頃くしゃみでもしているのではないだろうか。
ふと、由良さんが僕を見て笑っているのに気が付いた。
「どうかした?」
「いや、思ったよりも立ち直りが早いと思っただけだ。陸は見た目よりもずっと強い男だな。」
これも僕を気遣ってなのだろうが由良さんに褒められると嬉しさと恥ずかしさで背中がムズムズする。
「そんなことないよ。戦いになったら役に立たないし。」
僕はヴァルキリーに攻撃された時、逃げるかせいぜい退けることしかできない。
RPGでいえば未来予知のアビリティはあるが攻撃力は0なのだ。
これでは戦闘には使えない。
だけど由良さんははっきりと首を横に振った。
「確かに陸は戦力としては弱い。だがお前は別の強さを持っている。逆境でも諦めない胆力、特に精神攻撃に打ち勝つ強い精神力がある。それは戦う力とは違ってなかなか身に付くものじゃない。」
今日は由良さんが優しい。
「うう、惚れちゃいそうです、アニキ。」
ゴツンと脳天にげんこつが落ちてきて目の前に星が見えた。
「俺をアニキと呼ぶな!」
由良さんは肩を怒らせてそっぽを向いてしまった。
それでいい。
でないと僕は、本当に甘えてしまいそうだったから。
由良さんに頼りきってしまうから。
由良さんとの関係に溝を作ったまま三叉路に来た。
由良さんは建川の方らしいのでここで別れることになる。
「江戸川や他のヴァルキリーについて対策を練るか?」
どう別れを切り出そうかと思っていたら由良さんがそう提案してきてくれた。
年齢ではなく精神的な“大人”を感じた。
返事をするため振り向こうとした時、ウーウーと携帯のバイブレーションが動いた。
タイミングを外されてばつが悪くなりながら携帯を取り出すとメールの着信があった。
『明日のことを2人で話したい。八重花』
送信者は東條さんだった。
買い物なのかデートなのかわからないがとにかく明日は東條さんと出かける。
予定もなくぶらぶらと、というのは付き合って互いを知り合った男女がやるものだから初めての僕たちは計画を立てるべきだろう。
しかし由良さんをこのままにしていいものか?
関係を修復しておかないと後々死亡フラグだったとかは非常に嫌だ。
「明日のデートのことか?」
「!?何で知ってるの?」
「明夜に聞いた。」
携帯を振って見せる由良さん。
「お前が半場陸なら日常を大切にしろ。」
ニッと笑う由良さんには何でもお見通しで、僕は何も言うことができずただ深く頭を下げて駆け出した。
(由良さんみたいな大きい漢になりたいな。)
僕の中でついに由良さんが漢にランクアップしていた。
尊敬する由良さんを今は背に僕は“日常”を生きるために東條さんのもとへと向かうのであった。
メールで指定されたのはファーストフード店だった。
店に入ってすぐに座席に向かうと店員が睨んでいたが気にしないようにして東條さんを探す。
「りく、こっちよ。」
奥まった座席に東條さんは1人で座っていた。
2人で話したいと連絡してきたのだから1人なのは当然か。
「お待たせ。」
「待ちわびたわ。」
「…。」
ある意味東條さんらしいがわりと傷付いた。
「冗談よ。」
「だと嬉しいよ。」
会話一合にしてすでに疲れたが明日は1日中一緒なのだ。
今からいきなり不安になってきた。
「それで、明日の買い物は何を買うつもりなの?」
もともとは明夜を勉強会に誘うお礼に買い物に付き合うことになったのだから明日は買い物なのだ。
「明日のデートは…」
東條さんはどうしてもデートにしたいらしいのでツッコまない。
しばらく悩んだあと
「下着と水着とパジャマを買いたいわ。」
公共の場でとんでもないものを要求してきた。
周囲の一部男性もむせたり吹き出したりしている。
それほどまでに男にとっては鬼門となる商品群なのだ。
東條さんはにんまりと笑っているので冗談だと思うけど東條さんだからこそ冗談を現実にしそうで怖い。
「ごめんなさい。この話は無かったことに…」
お見合いのお断りみたいに席を立ちあがるが東條さんの足が僕の左足を器用に捕えていた。
「冗談よ。」
「…冗談で呼ばれたなら帰っていい?」
「ダメ。」
結局いつまでも立っているわけにも行かず席につくと目の前に置かれたのは電化製品のカタログだった。
「うちのパソコンが古くなってきたから買い換えるの。りくはパソコンに詳しい?」
どうやらこれが本題らしい。
ここまでの道のりを考えると少しやるせなくなる。
「まあ、多少は…」
クラッと視界が揺れた。
そのまま体は力を失ってテーブルに倒れ込む。
(Innocent Vision、タイミングが悪いな。)
「りく、いつもの?」
僕は返事をできたのかよく分からない。
ただ東條さんなら冷静に対処してくれそうだと思うと安心して意識を手放せた。
作倉さんが泣いている。
僕は涙の理由を聞くこともなくただ立っているだけだった。
夜の闇の中で僕は作倉さんの嗚咽を聞き続ける。
でも僕は何も思わない。ただそこにいるだけだった。
やがて、僕の背後に誰かがやって来た。
作倉さんはしゃくりあげながら息を飲んだ。
僕は一言もかけないまま作倉さんに背を向けた。
「待って、待って!」
作倉さんの懇願に僕は体を斜めに向けたまま首だけを回して振り返った。
作倉さんは告げるべき言葉を探しているようだったがいくら探しても答えは出ないことが分かっている。
だから僕は口を開いた。
「作倉さん…僕は…」
冷たい風が吹き抜けた。
作倉さんは地面にペタリと座り込み涙も出ないほど呆然と僕を見上げている。
僕は最後にその姿を一瞥すると完全に背を向けて歩き出した。
作倉さんだけを残して僕たちは去る。
「半場君…半場君、半場君!」
はじめは弱々しく、次第に涙声になりながらも僕の名前を呼ぶ作倉さんの声を聞きながらも僕はもう振り返ることはなく闇に消えていった。
「半場くーん!」
夜のしじまに作倉さんの悲壮な叫びだけが響いていた。