第36話 ゲシュタルト
「ふう、疲れた。」
東條さんと作倉さんの猛追を振り切った僕は部屋に戻るなりベッドに倒れ込んだ。
それは別に下校中追い回されたというわけじゃない。
それは言い換えれば糾弾や尋問と呼ばれる、肉体ではなく精神を追い詰めるものだった。
東條さんの
「少なくとも学生の間にハーレムを作るのはやめた方がいいわ。どんなに人望があってもお金がいるから。」
という遠回しな優柔不断の指摘や
「何を話していたのか、教えてくれないんですか?私には、教えられないんですか?」
と泣きべそをかきながら問い詰めてきた作倉さんには心が痛かったがそれらを振り切って僕は逃げ出してきたのだ。
「話せないよ。」
僕はポケットから携帯を取り出して目の前に翳す。
新しく作った“IV”フォルダに明夜と由良さんのアドレスを移した。
それが特別な繋がりのようで僕は気づけば微笑んでいた。
「"Innocent Vision"、か。」
ずっと忌み嫌っていた名前だというのに今は少しだけ誇らしく思えた。
それでもInnocent Visionを嫌う僕もまた存在する。
「とにかく僕は1人じゃない。無力じゃないんだ。」
これまでのヴァルキリーとの戦いは「如何にして生き長らえるか」だったがこれからはこちらから攻めることもできるのだ。
僕自身は無力だとしても明夜と由良さんがいる。
僕は2人の足りない部分を補う努力をしようと思った。
ネットを閲覧していたがめぼしい情報はなく日付を跨ぐ頃、僕は眠りについた。
夢を見ることもなく久々に清々しい気分で目を覚ました。
「今日も頑張るか。」
僕にしては非常に前向きに起き出すのだった。
だけど、その気概も教室に到着してすぐに萎んでいた。
「りく、明日はどうする?」
僕の目の前には涼やかな表情に喜色を隠しきれない瞳をした東條さんが芳賀君を押しのけて座っていた。
もちろん明日の“買い物”のことを話しているのだが
「デートには…」
を意図的につけるため周囲からの視線が物凄く痛い。
少し離れた席で
「八重花、かなり本気ね。」
「あわわ、八重花がライバルだなんて。」
「にゃはは、修羅場。」
「八重花、見た目クールなのに意外と情熱的だね。」
「うおーん、陸ー!」
「…。」
作倉さんたちの集団が好き勝手に話している。
明夜が無言で睨んでいるのが怖い。
「東條さん、明日は買い物…」
事の真実を口にしようとしたが東條さんのしなやかな指が僕の唇に触れたことに驚いてしまい言葉が止まる。
「目的が何でも男女が出掛ければそれはデートよ。」
フフと笑う東條さんはとても大人っぽくて僕はドキドキしてしまった。
固まっている僕を残して東條さんは僕に触れた指を自分の口に近づけていく。
「「あー!!」」
作倉さんたちが大声を上げて駆け寄ってきた。
それを眺める東條さんはいたずらっ子の表情を浮かべていた。
(どこまで本気なんだか。)
疑うわけではないが楽しそうにみんなをからかってじゃれているところを見ると東條さんの真意が分からなくなる。
(楽しそうだからいいか。)
納得しようとした僕は
「…。」
ずっと無言で僕を見詰めたままの明夜に恐怖を感じて授業開始まで机に突っ伏すことになったのであった。
そして土曜日なので授業は昼までで終了、僕の目の前には3つの道が用意されていた。
「半場くーん、お姉さんたちとお話ししましょ?」
久住さんが似合わないお姉さんキャラで誘う東條さんを除いた4人と過ごす道。
「明日のことを話そう、りくお兄ちゃん。」
悪のりした東條さんの妹キャラと明日の予定を話す道。
ちなみに東條さん、髪をツインテールにして幼さを表そうとするなど芸が細かい。
そして、何かを期待するような視線を送ってくる芳賀君…の向こう、教室の入り口で事の推移を見守っている明夜と由良さんについていく道。
「おぉい、陸。今、俺を候補から外しただろ!?」
「ハハハ、ソンナワケナイヨ。」
「片言の返事が物凄く嘘くせぇ!」
芳賀君が頭を抱えてのたうち回っているのを見ながら心の中で謝罪する。
(ごめん、芳賀君。僕は、僕は…男色扱いされるのだけは耐えられないんだ!)
ただでさえ一夫多妻制だ側室は何人だと陰で悪い噂を立てられているというのにさらにバイだなんて言われたら僕はまた引きこもりになってしまう。
(それにもし仮に、万が一僕が芳賀君を選んだと仮定したとして…)
もう一度周囲を見渡す。
そこには圧倒的な女性優位社会の縮図があった。
(勝ち目ないし。)
よって一応芳賀君と遊びに行くという選択肢もなくはないがそれは優先順位が低いのであった。
「半場君。」
「りく。」
「…。」
作倉さんか東條さんか明夜か、先日もこの3人がお見舞いで残ってくれて一波乱あったから誰を選んでも怖いのだがそろそろ決めないとみんなに悪い。
僕は…
『1年6組半場陸さん、至急生徒指導室まで来てください。繰り返します。…』
無理矢理にでも答えを出そうとした矢先にかかった校内放送。
クラスメイトはいよいよ不純異性交遊への厳重注意かと憐れむような嘲るような顔をしていたが
「呼ばれてるから行ってくるよ。どれくらいかかるか分からないから悪いけどみんな帰ってて。」
僕にとっては地獄に垂らされた1本の蜘蛛の糸、必死に掴んでこの場から去る口実とする。
ドアの脇に立っていた由良さんに会釈をして通りすぎる際
「気をつけろ。」
「…わかってる。」
一瞬だけ僕は“Innocent Vision”の裏の顔で答えて教室を飛び出した。
僕は生徒指導室に向かいながら考えていた。
(誰だ、僕を呼び出したのは?)
もちろん先生の誰かという可能性もあるがそれ以上にヴァルキリーである線が強かった。
ただ、誰の呼び出しかは分からない。
(下沢だとまたコランダムに囚われたら厄介だな。神峰にしろ等々力にしろ相手にするのは危険すぎる。)
なのに僕は迷わず生徒指導室に向かっていた。
1階の職員室の隣にある生徒指導室に到着すると部屋の前で1度深呼吸をする。
コンコンとノックをして
「失礼します。」
ゆっくりとドアを開けるとそこには
「やっほー、待ってたよ、りっくん。」
「蘭さん!?」
ある意味予想通りでまったくの予想外な人物、江戸川蘭がパイプ椅子に腰掛けていた。
一瞬、先日のヴァルキリー側に付いた蘭さんの映像が頭をよぎり意識が警戒を強めた。
僕は後ろ手にドアを閉めながら周囲を警戒する。
蘭さん以外部屋の中には誰もいなかった。
「蘭さん、校内放送を私的に利用したらダメじゃないですか。」
「そうだっけ?」
蘭さんはあっけらかんとした様子で首をかしげた。
それらの仕草にも不可解な行動はない。
僕は蘭さんの向かい側に座った。
「それで、校内放送で僕を呼び出すような用事は何ですか?」
誘いを断られた時点で僕と蘭さんに接点はなくなったはずだ。
今になってやっぱり一緒に戦ってくれるというならありがたいがそれもあの夢を見る限りあり得ないか罠でしかない。
蘭さんはニヤニヤと笑いながら
「その前にりっくんはランに言うことがあるんじゃないかな?」
そんな事を言ってきた。
「?」
僕には身に覚えがない。
縁日で財布にされたり由良さんとの密談を邪魔されたりと酷い目にあわされた記憶しかない。
「あ、前にヴァルキリーの花鳳先輩達から助けてくれたことですか?あの時はありがとうございました。」
確かに思い出してみればその時の礼を忘れていた。
だけど蘭さんは首を横に振った。
「違うよ。だけどランも忘れてた。いっぱい感謝してよ。」
「忘れてたんですか?」
「忘れてたんです。えへん。」
なぜか胸を張る蘭さん。
とにかく違うらしいので別件を考えるが他に言うことなんて
(実年齢はとか牛乳飲んでますかとか…)
「りっくん、失礼なこと考えてる?」
「そんなこと、ないです!です!」
的確な冷たいツッコミに体が硬直した。
必死に首を横に振って否定する。
「ふーん?まあ、いいや。それよりもさっきのこと。」
蘭さんはニヤリと笑い
「放送で呼び出されて助かったでしょ?」
別人のような冷たさを孕む声で告げた。
「なんで、それを?」
僕は驚きすぎてまともな応答が出来なかった。
だってあれは授業が終わってそう時間が経っていない。
由良さんのように教室に訪ねてこない限り僕がみんなに追い詰められた状況を知る術はないはずだった。
それを知る者が目の前にいる。
(何者だ、この人は?)
蘭さんは背もたれに身を預けて足を組んだ。
…本人的には格好つけているつもりだろうが蘭さんの体格ではあまり威厳は見られない。
「それでね、りっくん。」
「…何ですか?」
自然に声色が固くなり警戒心を隠せなくなっていた。
江戸川蘭という未知の存在に対する恐れが背中にべったりと張り付いている感じだった。
「ランはりっくんのプロポーズを断ったからフリーだったでしょ?」
「はい。彼氏でも出来ましたか?」
蘭さんはプッと吹き出して笑った。
こんなやり取りですら背筋がゾクゾクする。
ただの世間話であるはずがないと僕の直感が告げていた。
「りっくんはやっぱり面白いね。残念、彼氏じゃないんだ。あ、りっくんにとっては嬉しい話かな?」
スタンガンによるInnocent Vision、スタンIVで近い未来を見られるかもしれないが何が起こるか分からない現状では危険すぎた。
「そう、ですね。」
「りっくんは女好きだからね。夜の建川で明夜ちゃんを追いかけるくらい。」
「!?」
もはや言葉もでない。
いったいこの人は何を見て何を聞き何を知っているのだろう?
目の前で足を組み直した小柄な先輩がまるで見知らぬ化け物のように思えた。
「だけどランはりっくんのものにはなれないの。だって…」
蘭さんの左目が朱に輝き左腕に漆黒の円い盾が現れた。
「ランはヴァルキリーの1人だから。」
蘭さんが宣言した瞬間、漆黒の盾に映し出された僕がニヤリと笑った。
「ひっ!」
僕のはずなのに僕とは違う僕。
鏡の中の僕は僕に問いかけてくる。
『お前は誰だ?』
「…僕は半場陸だ。」
鏡の中の僕は笑う。
可笑しそうに笑う。
『お前は半場陸じゃない。僕が半場陸だ。』
「そんなはずはない!君は鏡に映った僕じゃないか!」
僕じゃない僕は不敵な笑みを浮かべてスッと指を向けてきた。
『なぜそう言いきれる?もしかしたらお前は僕が鏡の前に立ったから生まれた半場陸かもしれないじゃないか?』
僕はそれに答えられなかった。
そうじゃないと言うことはできるがそれを示すことができない。
次第に僕の中で確固としていた半場陸がぶれていることに気づいて猛烈な恐怖に見舞われた。
『お前は半場陸じゃない。なら、お前は誰だ?』
「僕は…誰?」
ふと顔を上げると目の前には漆黒の部屋に置かれた大きな鏡があった。
右にも左にもどの方向にも鏡があり、どの方向にも僕がいた。
こんなにもたくさんの僕がいるはずがない。
それなら彼らは誰だ?僕は誰だ?
自己が揺らぎ今まで生きてきた半場陸が本当に自分のことだったのか自信が持てなくなった。
鏡の向こうにいる僕に似た誰かが尋ねてくる。
『お前は誰だ?』
「僕は…」
もはやそこに僕はない。
僕は答えるべき解を持たない。
僕は固めていた拳を力なく垂らし、
カツン
ポケットにある固い感触に触れた。
「ふ、ふふ…」
その瞬間、何かのスイッチが入ったように僕の口から圧し殺したような笑い声が漏れた。
それは次第に大きくなり
「ははははは!」
とうとう大口を開けての大笑いになった。
鏡の向こうの誰かは訳が分からない様子で困惑していた。
それが堪らなくおかしくて僕は笑う。
「どうした、半場陸?僕なら今の僕が誰なのか分かっているだろう?」
鏡の中で僕たちは顔を見合わせている。
ただ1人、半場陸は口を吊り上げて笑った。
「僕が分からないのか?長年、それこそ生まれたときからずっと一緒に生きてきた僕を。」
僕は目に手を当てて世界を閉ざす。
ここには何もない。
僕しかいない。
そう、どんな世界であってもこの僕はただ1人しか存在する訳がない。
再び見た世界にはもう僕に似た誰かが怯えた様子を見せているだけだった。
僕はバンと脇の鏡を拳で殴り付ける。
簡単に崩れ去る鏡の世界で僕は自分の名を告げた。
「僕は…Innocent Visionだ。」